70話:天秤の剣
災難。
それは別名、正義と呼ぶ。
グラトニスにとって、正義とは大義名分を掲げたただの殺人鬼だ。魔王という、世界の紛争を鎮める為に全てを支配した者よりも、正義は厄介だ。
目の前には、その正義がいる。
「‥‥あなた、その剣」
グラトニスはマルスが手に持っている剣を見て、そう呟いた。
その剣は柄が天秤の形をしている一見異様な形をした剣。
グラトニスはその剣を知っている。
「‥‥天秤の剣」
溜息と共に吐かれた剣の名は、”天秤の剣”。
それは、勇者の剣と同じ神器の一つ。
互いの正義を測り、敗れた方を絶対服従させる、悪を滅ぼす為の剣だ。
かつて、魔王はグラトニスにその存在を教えていた。
『天秤の剣‥‥?』
『そうだ。お前と同じ四魔将がその天秤の剣を持っているやつに敗れた』
『それは‥‥どういう意味ですか? 魔王様』
『‥‥お前は死ぬな』
当時、グラトニスは魔王が言うことを理解できなかった。
ただ、一つだけ気付いたのは、その時、”あの方”が魔王の傍にはいなかったということだ。
(あの時、魔王様はそれしか言わなかった。俺は少し察しが悪い。でも、それが意味していることはこちら側の誰かが死んだということだ。俺と同じような奴がいて、そいつが死んだのか。それとも‥‥‥)
ある時、グラトニスは勇者パーティと遭遇したが、そこに天秤の剣を持っている者はいなかった。
「あなた、元勇者パーティの方ですか?」
真相を確かめる。いや、ただ気になって、そう聞いた。
「違う」
マルスは短く答えた。
「では、あなたは‥‥‥」
「質疑応答はここまでだ。貴様は処刑する」
「そうですか」
その時、マルスの背中から――――
バサッ!!
六枚の翼が展開される。
(やはり、天使。それも熾天使)
「貴様を、<秩序>の天使マルシエルの名の下、正義を執行する」
マルスは天秤の剣をグラトニスに向け、同時に貫くような視線を向けた。
「‥‥そうですか。それは構いません。‥‥とはいえ、残念ですが俺は多くの魔物を守る為、あなたに抵抗しなくてはいけません」
グラトニスは強く決心した。
何が彼をそんなに突き動かしたのか。
既に魔王は死んでいる。もう争う必要なんてない。それでもグラトニスはまだやり遂げていないことがある。
『グラトニス。お前は人間であり、魔物でもある。お前なら、両者の気持ちが分かるお前なら、きっと‥‥この無駄な紛争に終止符を打てる』
* * *
そうだ。
もう終わっている。戦いは既に終わっているんだ。
きっと、このマルシエルという名の天使の狙いは、俺じゃない。彼女たちだ。
名前も知らない。
そういえば、教えて貰っていない。‥‥いや、必要ない。
あの姿。
あの力。
あの心。
そして、隣にいる彼女。
きっと、偶然じゃない。その全てが魔王様と似ていて、また俺を救ってくれた。
かつての、親に捨てられて、オークに育てられた俺を、あの時住んでいた森の争いを止めてくれたように救ってくれた。
そのせいで、今でもずーっと本人だと思っている。でも‥‥‥
そうやって他人の振りをするのは、きっともう魔王様じゃないからだ。
見知らぬ少女。きっと彼女は、魔王様じゃない。でも、似すぎているせいで、また不幸になってしまう。
どうして魔王様がそんな思いをしなきゃならない。
愛する恋人の為に、誰よりも平和を願っただけなのに。
それで最期が死なんて。勇者に殺されて、それで世界が平和になったなんて‥‥そんなの、間違っている。
* * *
「それで‥‥最期の言葉は終わりか?」
「はい」
そうか、とマルスは一歩踏み込む。
一歩。たった一歩で、グラトニスとの間にあった距離を一気に詰める。
キンッ!!!
「ん‥‥?」
天秤の剣がグラトニスに振り抜かれる。しかし、剣は途中で静止した。
剣はグラトニスの首を吹き飛ばす勢いで振り抜かれたが、その首で剣は静止したのだ。
マルスは一歩後退し、グラトニスから距離を取る。
「トカゲの鱗。それも特に硬い鱗を持つ種のものです」
グラトニスの首は一瞬で硬い鱗に変化しており、それが剣を止めた。
「‥‥‥」
「まさか、そんな簡単に俺を殺せると思っていましたか? 残念ながら、そんな簡単に、それも熾天使一人に一瞬で殺されているようなら、四魔将なんて呼ばれていませんよ」
グラトニスはそう言って、全身に力を入れる。
ダンジョンに捧げていた魔石はミリアの元に渡ったことで、その力の多くを失った。しかし、それでも彼は四魔将だ。
人間の姿が段々と歪になっていき、巨大化する。
強靭な筋肉と爪を持ち、大岩を簡単に砕くライオンの腕。
巨大な相手ですら一瞬で麻痺させてしまう毒を持つ蛇の頭。
一度仰ぐだけで突風を巻き起こすコウモリの翼。
圧倒的な硬度を有し、何をも通さぬトカゲの鱗と尻尾。
長い時の中で、魔物同士は生存競争に生き抜いていくために進化してきた。そんな魔物たちの長所ばかりを集めたキメラの化物。
グラトニスは、そんな異形の化物になる。
「‥‥偽りの龍」
マルスはグラトニスのその姿を見て、そう零した。
魔王から力を与えられ、人間たちとの紛争の中で犠牲になっていった魔物たちから魔石を回収し、体内に取り込む。そうして、グラトニスはいつからか、”偽龍”の形態を持つ、四魔将<魔人>として人間たちから恐れられるようになった。
グラトニスは、様々な魔物の声が混ざり合った咆哮でマルスを威嚇する。
「――――はぁ」
グラトニスはその巨体でマルスに突進する。
ずいずいと押し寄せる巨体はダンジョンを激しく揺らしながら、突き進んでいく。そして、グラトニスはその蛇の口を開き、強力な麻痺毒を持った牙を向ける。
「面倒だ」
グラトニスは飛び掛かる。ライオンの爪を突き立てて、襲い掛かる。
「お前に時間を掛けている暇はない」
そう言って、マルスは天秤の剣を地面に突き刺す。
柄の天秤が揺れる。
=天秤の剣=
「己が正義を証明しろ」
その時、天秤の剣が輝き出す。すると、場が完全に静止した。
(な、何だ!?)
時が止まった? 違う、正義の時間だ。
「今は無駄な争いをする時間ではない」
「‥‥何を」
「天秤の剣は、互いの正義を掛ける力を持つ。そこには武力が存在せず、必要なのは互いの正義だけだ」
その言葉だけでは理解できない。が、それが神が創り出した神器の力だと思うと、納得せざるを得ない。
しかし、グラトニスは気付いた。確かに自分は今、マルスに攻撃が出来ない。それは相手も同じだ。
先ほどマルスが言った通り、今は武力で解決する時間ではなく、正義で解決する時間なのだ。
「まず、貴様の正義を証明しろ」
直感的にグラトニスはその言葉に従った。
「守る為」
「それだけでは足りない」
「俺は、魔王様が託してくださったこの力を使って、全ての魔物を人間から守る」
グラトニスの真意だ。
「意義あり」
マルスがその真意に口を挟む。
「貴様は四魔将<魔人>。最も人間を殺した大罪人だ。そんな奴が守る為というのは、根本的に破綻している」
マルスの発言によって、天秤が少し傾く。
(察するに、あの天秤が完全にあちらに傾いたら俺の負け)
そう察して、グラトニスは慎重に言葉を選ぶ。
「先に攻撃を仕掛けてきたのは人間の方です。攻撃を仕掛けなければ、俺は誰も殺さずに済んでいる。それを選択したのは、人間の方でしょう」
天秤はグラトニスの方に少し傾く。
「ちっ」
「更に付け加えると、今も人間のせいでダンジョンの中の魔物が犠牲になっている。そのせいで生態系が乱れてしまった。やはり悪いのは、そちら側では?」
天秤が更にグラトニスの方に傾く。
それを見て、マルスは苛立ちが隠せていない。
(この天使、熾天使ではありますが、恐らく最近なったばかり。まだまだ未熟。初めは天秤の剣の能力に焦りましたが、これなら問題ない)
暫く審議が続いていく。グラトニスは自身の正当性を証明し続け、天秤は更にグラトニスの方へ傾いていった。
それを見て、ついにマルスが最後の一手を出す。
「――――魔王は、勇者を殺した」
その一言で、天秤が一気に傾く。
「何を言って‥‥」
「勇者は、世界の救世主だ。その命は他の何よりも重い。にも関わらず、魔王は勇者を殺した。そして、それに加担した貴様も同罪だ」
横暴にすら思えるその発言は、天秤を強く傾かせている。
「貴様は、知らぬうちにその罪に加担していたのだ。知らないで済まされるのなら、むしろそれが貴様の罪だ」
「魔王様が誰かを殺すなんてありえません」
「ありえる。天秤の剣は真実にしか耳を傾けない」
形勢が逆転する。
「貴様は、そんな魔王の肩を持っているのだと、気付け」
「嘘を言うな‥‥それ以上魔王様を愚弄すると、”殺すぞ”」
その言葉が発せられた瞬間、天秤が一気に傾く。
「ギルティーだ」
天秤がマルスの方へ完全に傾いた。
「判決」
天秤の剣いよって判決が下される。
――――死刑
マルスは天秤の剣を握り直し、グラトニスに振り抜く。
先ほどとはまるで威力が違う。正義の力は絶対だった。
グラトニスの体が切り刻まれる。その勢いのまま、グラトニスは偽龍の姿を保てなくなると、人間の姿に戻り、そのまま壁の方まで吹き飛ばされる。
ドォン!!
強い衝撃と共に、吐血する。その時――――パリンッ!
グラトニスは自分の中で響くその音を聞いて、直感的に体内にある魔石が壊れたことを察する。
(あぁ‥‥どうしましょう。これを失ったら‥‥俺は、もう‥‥)
「まだ生きているのか。腐っても四魔将ということだ」
そう言いながら、マルスは足音を響かせながらゆっくりとグラトニスに近づく。
「‥‥はぁ‥‥はぁ」
「最期に言い残すことはあるか?」
そう言われて、グラトニスはぼやける頭で少しだけ思考する。だが、深く考えることができず、心のままに口を開いた。
「もし‥‥これから先、魔王様と出会うことがあれば‥‥”ありがとうございます”と、お伝えください」
「‥‥そうか」
――――剣を振りかぶる。しかし、マルスは手を止めた。
「もう、死んでるか」
グラトニスの体内にある魔石が壊れた。それによって、グラトニスはもう<魔人>ではなくなった。
それは、ただの人間だ。だからもう、長い時を生きられない。本来生きるべきじゃなかったのに、グラトニスは500を超える時を生きていた。
だが、それが元に戻った。
残ったのは、ただの老人の死体だった。




