08 ワインを水にする男
「アールさん! ちょっと聞いて下さいよ!」
大柄な男が、細い男の襟首をつかんで入店してきた。若い。10代だろう。
ケーキを選んでいた女性がぎょっとしている。
大柄な方は、たしかクランという名前だった。ステータスボード、いや素ボードを出すスキルのクラン。
「お客様。当店ではそのような行為は……」
僕が言うと、クランは、自分に向いている視線に気づいた。店内の空気が緊張感を持っていることも感じたようだ。
「あ、すいませんすいません出直します」
彼が出ていくと、女性客の、力が入った肩がゆっくりと降りてきた。
「昼間はすいませんでした!」
夜、お客さんが減った閉店間際、またクランが、若い男を連れてやってきた。
連れてこられた男がテーブル席につかされ、クランに肩を上から、がっしりとつかまれた。
「何事ですか?」
「こいつ、工事現場の同僚なんですけどね」
魔法具を使う工事現場が終わっても、まだ関連の仕事をしているらしい。
「仲間にケチな嫌がらせしてやがって。ガツンと言ってやってくださいよ兄貴!」
「相談ならなんでも聞くわけじゃないんですけれども」
「お願いしやす!」
「……なにがありましたか?」
「こいつがね、飲み会でふざけたことをしてたんですよ! おい」
クランが彼の体を揺らした。
「……ワインを、水にしただけっすよ」
「まず自分の名前を言え」
「おれは、スエイです。ちょっとしたイタズラじゃないですか……」
「んだと!」
「暴れるなら帰ってもらいますよ」
クランは、渋々、といった様子で椅子に座り直す。
「確認ですが、飲み会でワインを水にした?」
「そういうスキルがあるんで」
スエイ、はふてくされたようにそっぽを向いた。
「お酒を水にするスキルですか?」
「ワインだけっす」
「おい!」
クランが彼の肩を押す。
「わかりましたよ。じゃあ、現場辞めればいいんすね? はいはい辞めますよ!」
「お前!」
「あのね、世の中、クランさんみたいに、ちゃんとしたスキルを持った、ちゃんとしたやつばっかりじゃないんすよ!」
スエイがそっぽを向いたまま怒鳴ったが……。
「ちゃんとしたやつ……?」
僕の視線に、クランは目をそらす。
「おれみたいに、体を張るしか脳のないやつのことは、クランさんみたいな、誰にもできない仕事をしっかりできてる人はわかんないんすよ!」
僕の視線に、視線をもどしかけたクランはまた目をそらす。
「おれだって、こんなくだらないスキルじゃなかったら、もっとちゃんとやってんすよ! なんすかこれ!」
「バカ野郎! おれだって、もともとはちゃんとした人間じゃなかったんだよ! つまんねえ犯罪者になる一歩手前だったのを、この人に助けてもらったんだ!」
「え……?」
「このアールさんは、つまんねえスキルを魔法のように、ピカピカ輝くスキルに変える天才なんだ! アールさん、お願いします! こいつも悪いやつじゃないんです! おら、頭下げろ!」
「お、お願いっす!」
「店長。お茶、いいですか」
「あいよ」
僕はため息をついた。
「すいません」
二人はお茶を飲んで時間をおいたら、おとなしくなった。
「相談には乗ります。ただ、なんでもやるような噂を流すのはやめてください。いいですね」
「はい!」
クランは背筋を伸ばした。
大丈夫だろうか。
「それで、ワインを水にする?」
スエイがうなずいた。
「はい。嫌いなやつが飲む瞬間に水にしてやったんす。本当にむかつくんすよ。教えてやってんのになんでちゃんとできないんだって、教えてないのに! 最悪っしょ!?」
「ワインを水にする。それは、なにか距離や、容器の制限というか、そういうものはありますか?」
「ないっすね。やり放題っすよ。ワインあります?」
「ある」
店長が、まってましたとばかりに、ラベルの貼られていないビンを持ってきた。
「なんか試飲用らしい。飲まないってのに」
そう言って紫色の液体をグラスに注ぐ。柑橘系の香りがした。入ってもいないものの香りが複雑にからみあうから不思議だ。
「ほいっす」
なんの前触れもなく、透明なビンに入っていた紫色の液体が、透明に変わった。
「色が消えた」
「消えただけかもしれない」
僕はにおいをかいでみた。
それから口に入れてみる。
「水だ」
もう一口、今度はすぐ飲まずに口の中にとどまらせてみる。
刺激もない。香りもない。
「ただの水です」
「でしょ?」
スエイは嬉しそうに言った。
「距離は」
僕は水を飲み干し、ワインを注いで入口近くまで移動した。
透明になった。
「これだけ離れても可能なんですね」
「すごいっしょ」
「ワイン以外は無理なんですか?」
僕は席にもどった。
「そっす」
そのようだ。アルコール類とか、ブドウの種類とか、そういうものでもない。
ワインを水にする。
「それ以外もできるなら、良い使い方がありそうですけど」
「たとえばなんすか?」
「泥水を浄化できれば、水不足に悩んでいる人たちを救えます」
「うわ、やべこの人」
「すごいだろう?」
クランがなぜか誇らしげにしている。
「ワインだけ、か」
「だめか」
スエイはテーブルに突っ伏した。
「ワインを飲めない人間からしたら、ワインが水になったところで生活になんの問題もないが」
店長が言うと、スエイが起きた。
「それめっちゃわかるっす! ワインとか全然興味ないんで、酔っ払ってるやつとかムカつくんすよ。なんかさんざんうるせえこと言った翌日に、酒が入ってたからしょうがねえ、みたいな雰囲気でごまかされるの、マジ最悪っすよね」
「わかるな」
「っすよね!」
僕は二人の会話を聞いていた。
スエイは酒が飲めないようだ。とすると、無理やり酒をすすめてくる相手がいたとしても、ワインだったら回避できたのだろう。しかし、酔っぱらいの相手は別だ。
「いままでも、ワインを無理やり飲まされそうになったらそのスキルを使ってた?」
「うす」
「悪用はしていない?」
「う……」
「いや、イタズラのようなものではなく、たとえば、ワイン農場のムカつく小金持ちなやつがいたからその家のワイン樽をすべて水に変えてやって復讐した、とか」
「えっ」
「えっ」
クランとスエイが、絶句している。
「そんなに悪いことしないっすよ……」
「……そう」
僕の顔を見て、スエイが首を振った。
「あ、ち、ちがいますよ! アールさんがおかしいっていうんじゃなくて、本当にただ、そこまで悪いことはしないっていうだけです!」
クランが慌てて言う。
「そうっすよ!」
僕の機嫌を損ねないようにしているのが、ありありとわかり、僕はさらに傷ついた。
「さっきあんなに褒めてくれたのに。僕は頭のイカレた犯罪者だったのか……?」
「ち、ちがいますって! それは本当に! ただ、人とはちがう考え方ができるってだけで!」
「そうっす! おれらだけじゃ、一生かかってもそんな犯罪計画できないすから!」
「ふつうの人が一生かかってもできない犯罪計画を、瞬時に、か」
僕が言うと、いよいよ二人は困ったように、席を立っては座ったり、うろうろ店内を歩いたりし始めた。
だんだん気にならなくなってくる。
自分が緊張していても、それ以上に緊張していると気にならなくなるような感覚というか。
彼らもきっと、人とはちがう考え方ができるから、相談をする意味があるというものだろう。たぶんそういうことが言いたかったのだろう。
ただ、ちょっと、なんか、傷ついたけど。
「そうだ。ワインを水にするのは、ワインが見えなくてもできますか?」
急に声をかけられ、スエイは、びくり、と体を震わせた。
「え、はいっす」
「なら、たとえば店長が飲んだあとに水にすることはできますか?」
「飲んだあと、っすか? できるんじゃないかと思うんすけど」
「飲んだら酔っ払うだろう。だめに決まってる」
店長は言う。
「酒って口で吸収して酔っ払うんですかね? だったら、口に入れてるだけでも酔う?」
「喉じゃないか?」
「誰か、知ってます?」
クランとスエイは首を振った。
「お酒は、胃や腸で吸収されるそうです……」
翌日。
本棚に向かって歩きながら、司書さんは言った。
「じゃあ、飲み込んだとしても、食道の早いうちにワインが水に変わった場合、胃に届かなければ酔わなくなる?」
「え」
司書さんは立ち止まった。
「そう、思いますけど……」
歩きだした。
「なるほど。では、それが実現できた場合、体質的にお酒を受け付けない人でも、お酒を楽しむことができるようになる、かもしれないということですね」
「わたしは、専門家ではないので……」
「あ、もちろんそうです。僕が考えたのは、そうやって飲めない人に楽しんでもらう以外に、たとえば、病気でもうお酒が禁止された人や、仕事柄たくさんのお酒を飲まなければならない人など、お酒が喉までしか楽しめなくても、需要はあるのかもしれないと」
言ってから、ちょっとしゃべりすぎたかと思った。
「……おもしろいと、思います」
「あ、そうですか。よかった」
身近な知識人に同意してもらえると、安心できる。
病院に行って医者に相談してみよう。入院患者の中には、隠れて酒を飲む人がいる、といった話を聞いたことがある。そういう人にとっても、まあ、完全に満足はしてもらえないだろうが、まったく飲めないよりも、ほんのすこしだけ楽しめたほうがいいはずだ。
「すみません。本を読むのはやめて、ちょっと、病院で相談してみようと思います」
「そうですか……」
僕は、はっとした。司書さんに書棚へ案内させておいて、本を使わず情報を言わせて終わりというのは、非常に失礼だったのではないか。
「お時間取らせて申し訳ない」
僕は深く頭を下げた。
「いえ……。あの」
「はい?」
「おにぎり、おいしかったです……。大変、参考になりました……。物語の中に出てくる架空の食べ物が、具現化したような満足感を得られました……」
司書さんは頭を下げた。
「今度、お米の炊き方のレシピをいただけたら、幸いです……」
「僕が炊いたわけではないので、今度時間があったら聞いてきます。ということでよろしいでしょうか」
「はい、大変うれしいです……」
「それじゃあ」
「はい……」




