第9日目 矢野氏の大冒険(点滴の上手下手 点滴キャスターとトイレへ)
小林さん、点滴が落ちていませんよ。
看護婦さんを呼んで直してもらった方がいいですよ。
それはきっと、針が血管の中で内側に触っているんです。点滴しながらウツラウツラしてたでしょう、それで腕が動いたんですよ。すると、時々なるんですよ。
ここの看護婦さんは皆、点滴が上手ですよ。入院生活で何が一番イヤだって、点滴ぐらい嫌なものはありませんよねえ。病院は儲かるから欠かさないけど‥‥。これの下手なのが揃っている病院なんかだと、その時間が来るたびに逃げ出したくなりますよ。
上手い看護婦さんはねえ、狙いが正確なんですよ。血管の真ん中に正確に入れてくれるんです。それと針を深く入れるんです。深く入れれば、少しぐらい腕が動いたところで漏れませんよ。
患者の方がね、看護婦を選べられるわけではないでしょう。そこで私は、こっちが出来る限りのことをするように努めているんですよ。
そう、点滴中は、腕だけでなく、身体全体も出来るだけ動かさないようにしているとかね。
一番大事なのは針を差すときなんですよ。そのときは、看護婦がひたすら針を差す作業に集中できるように、こっちも気を配ることにしているんです。看護婦だって人の子なんだから、他人の身体に傷を付けるときには緊張しているんですよ。ですから、絶対に話し掛けちゃあいけません。親しい看護婦だと、刺される方は恨み半分でつい憎まれ口を叩きたくもなるでしょう。相手も応戦して喋りながらやると、手元が狂いますよ。杉原さんや江藤さんがときどき失敗するのはこれではないですかねえ。
それとね、針を刺すところを、『される』側の患者は覗き込まない方がいいですよ。観客がおれば敵は緊張が増すでしょう。また私はね、さりげなく読書灯を点灯して明るくしてやることにしていますよ。
若い看護婦というのは、大体、左からするのが得手なんです。左腕の同じところばかり針を打っていると硬くなってくるでしょう。それでよく「今日は右にしてくれ」って頼むんですけど、これはベテランに限った方がいいですよ。
それから、終わって針を抜いたあとは、ちゃんと押さえること。もしこれを怠ると、内出血を起こして回りが紫色になりますよ。押さえるには、脱脂綿を付けたままで腕を曲げろと言いますけど、私は親指でね、針の入った範囲を30秒ほど押さえるようにしているんですよ。
これで、今度の入院から今まで、一度もトラブルがないんですよ。
昨日の点滴の最中にねえ、こともあろうにトイレに行きたくなりましてねえ。『小』じゃあないんですよ。そっちはね、いつも用心して点滴の始まる前に済ましておくことに決めてるんです。昨日は、間の悪いことに『大』の方なんですよ。
腹が痛くなってきたんで、最初の内は腰の牽引用のバンドを締め過ぎてるのかなあとも思ったんです。それで、緩めてみたんですけどね、直らないんですよ。牽引というのは、ほら、ベッドの足元で鉄のウエイトをぶら下げているでしょう。このロープがね、滑車で腰に巻いたバンドを足の方に引っ張っているんですよ。「午前と午後に二時間づつやれ」といわれているんで、いつも点滴中にやることにしているんですがね、重りは両方で六キロですから大したことはありませんよ。
そのうちに痛い感覚が『出口』の方に移ってきたんです。それで事態を悟りまして、観念しましたよ。廊下に点滴キャスターがあったのを思い出してね、意を決して点滴のビンを外して掲げて持って行ったんです。よく洗面所でね、点滴ビンをぶら下げたキャスターを引きずって、一服やりながら話し込んでいる爺さんがいるでしょう。あれが出来るんだからと思ったんですよ。
首尾よくあったキャスターにビンを掛けるとね、途中の滴が落ちるのが見れるところがあるでしょう。このね、滴下の調子が遅くなっているんです。
「これは針がどうかなって、漏れたか詰まったかしたか」
と一瞬、ギクリとしたんですけど、腰を屈めてビンとの落差を取ってやると、落ちるピッチが元に戻ったので一安心しましたよ。
ガラガラと押して車椅子用のトイレに行くと、何と、前の奴の『うん○』が残っているんですよ。こっちはもう我慢の限界ですしね、咄嗟に、「これが詰まっているんで、私が流して溢れちゃったらどうしよう」って、考えてね、そのまま、したんですよ。気持ちは悪かったけど、気分はスッキリしましたよ。
そのあと、「トイレが詰まった」と看護婦に説明するのは決まりが悪いなあと思いながら、レバーを押して流すとね、流れてくれてホッとしましたよ。
あの車椅子用のトイレはね、身体の不自由な連中が使うから、どうしても汚れちゃうんですよ。しかしそれを我慢すれば、洗面台もあって便利ですよ。
病室に帰って、また点滴のビンを元に戻してベッドに寝ころんだんですが、なんともなくてね、これもまたホッとしましたよ。この時ばかりは点滴のセットをしてくれた看護婦の腕に感謝しましたよ。
この間、10分ぐらいだったけど、ほんと長く感じましたねえ。
しかしね、トイレに行くのが一大冒険で、話のネタになるようじゃあ、本当に情けないですねえ。
1992-02-29