スージーX
受験勉強に疲れた僕は、いつも通りまた放課後の屋上で空を眺めることにした。やはりあそこが一番落ち着く。
キィっと錆びついた鉄製のドアとともに目下にオレンジ色の夕焼けが飛び込んできた。
「ん?」
誰かいる・・・先客か・・参ったなあ、僕は独りの時間を楽しみたいのに。
僕は恐る恐る先客を横目で見ながら屋上の隅っこの指定席を目指した。
女だった。制服の紺色のブレザーを着ている。見かけない顔だな・・下級生か?・・ん?
・・・・・ありえない。そこにはありえない光景が広がっていた。浮いているのだ。女は夕焼けをじっと見つめながら1センチほど宙に浮いていた。革靴のつま先がゆらゆらと揺れ、女性用の靴特有のリボンの模様が黒い蝶の様に羽ばたいていた。
「夕焼けは不思議だよ。なぜこんなにも残酷な色彩に満ちているのに、引き込まれてしまうのだろう。」
・・・喋った。僕に話しかけているのか?僕は恐る恐る返答した。
「・・・そうだね!君は何組?もしかして2年生かな?」
「・・・僕の名前はスージーX。まあ、言ってしまえば生ける有機体といった所かな。」
・・・ん?なんだこいつ。・・・・僕はとりあえず適当に返事をした。
「生ける有機体・・・?ああ、まあ、なんか大変だね。」
そもそも人間は全員生ける有機体じゃないのか?そんな疑問を抱きながら彼女の顔を覗きこんだ。・・・結構かわいい。思わずぼおっとしていると彼女はまた喋りだした。
「大変・・君達の概念からすればそういった表現になるのかもしれないね。でも実際に汗をかいているのは僕じゃない。君達なんだよ。君達は日々自らのパーソナルスペースの許せる範囲で他を受容し、時には排斥しているね。僕はその中で発生した「歪み」の様なものを取り除くために出てきたんだ。その「歪み」はほおっておくと非常に厄介でね。世界を滅ぼす恐れがあるんだ。世界が滅亡すると、人はこの世界に住めなくなってしまう。毎日の朝食をとることすらままならなくなってしまうんだよ。」
朝食の心配をする必要性には疑問を挟む余地があったが、僕は一番気になっていることを質問することにした。
「君は・・・空を飛んでいるの?なんか浮いている様だけど。」
「・・・空を飛ぶということは世界との接触を断つということだ。ここでいう世界とは僕と君の関係性からなるあくまで相対的な世界だけどね。しかしながら空から見たら僕は飛んでいるのではなく「溶け込んでいる」という風に見えるだろう。そういった調和とか均衡の様なものを僕は守っていかなければならないんだ。その気になれば君だって空を飛べるよ。君は自分と空を切り離す衝立を自分で作っているに過ぎないんだ。その衝立は元はなかったはずなんだ。そう、幼き頃に見たノスタルジックな景色の様に。このオレンジ色の様に暴力的で出鱈目な世界の中ではね。」
長々と話している割には結局質問に答えくれないことに苛立ちを覚えながら僕は聞き返した。
「君は世界が滅亡するって言ってるけど具体的にはいつ滅亡するの?どうしたら止められるの?」
「・・・それは難しい質問だね。でも僕は君達には結構期待しているんだ。僕は今まで沢山の「歪み」を直しててきた。今回の「歪み」は言ってしまえばそんなに大きな「歪み」じゃない。だけれども人間は進歩しすぎた様なんだ。自ら「歪み」のレプリカを作ってはそれを解消し喜ぶということを始めてしまった。だから本物の「歪み」と偽物の「歪み」の違いが分からなくなってしまった。まあもっともそれでいいのかもしれないけどね。「歪み」を「歪み」とはっきり認識できなくなってしまった世界はそれはそれで幸せなのかもしれない。だけれどもね、僕は君達がいつか本当の「歪み」を認識して自らの手でそれは無に還すことが可能なんじゃないかと考えている。時には5月に雪が降ることもある。あり得ないことなんて、何一つないんだよ。」
僕は幼少期、新潟の山奥で育った。5月の雪なんて別に珍しいことじゃない。何気取ってんだこいつ。
「さっきから「歪み」とか言ってるけど「歪み」って何?」
「うん、それなんだよ。「歪み」とは何か。それを考え始めることから「歪み」は発生し始めるんだ。「歪み」は君の中にある。言ってしまえば、君が存在しなければ君という認識そのものがなくなってしまうから、「歪み」は発生しない。「歪み」は君そのものなんだ。だからね、君は常日頃このことについて考えを張り巡らせおく必要があるんだ。もし君が放課後の帰り道、犬を助けたとする。その犬の瞳に映った君はどんな表情をしているだろう?安堵、自信、疲労、自惚れ、虚栄心、達成感。様々なものが絡み合って君を形成しているんだ。そういった自らを許容をすることが他を許容する第一歩になる。パーソナルスペースの拡充、それが僕の第一の任務。それにつきるね。」
「いや、さっき「歪み」を取り除くために来たって言ってたけど、話変わってない?」
「・・・・太陽が沈んでいく。君と僕の関係性もこの様に繰り返しの中に発生するごくごく一義的な現象に過ぎないのかもしれないな。あの地平線の向こう側にはまた別の地平線が続いているんだ。僕達はその連続性を繋ぐメッセンジャーでしかない。どこから来てどこへ消えていくのか。それは誰にも分からないんだよ。例えそれが君達の世界で神と呼ばれる共同幻想に乗っとった文化的抑圧装置であってもね。」
「・・・・話聞いてる?」
「さあ、そろそろ僕は行かなくてはいけないよ。夕闇が暗闇に変わる時、それはこの世界に「夜」が訪れるということだ。そして、空には星が瞬き、いずれは暗闇の向こうに朝日が昇る。朝は必ずやってくるんだよ。」
「・・・結構当たり前じゃないそれ?」
「もし世界が終焉する様な事があったら僕のことを思い浮かべてくれ、君と僕は他人の様でいて、この時間、この世界、この時刻にすれ違った、家族兄弟知人それ以外の何かであることは間違ないからね。」
「ほぼ他人だよそれ。この時間、この時刻、って二回言う意味無いと思うし。」
「懐かしいな。かつて君の様に僕に質問を投げかけ続けた男がいた。彼は人類は努力すれば「歪み」の向こう側へたどり着けるんじゃないかと信じてやまなかった。だけれども彼は「歪み」に取り込まれしまって「歪み」を発生させる装置として奴らに利用されてしまったんだ。彼は未だ歪みの向こう側で悶え苦しくんでいる。だから君も自らの「歪み」を認めて自我と「歪み」の共生する社会を作っていかなければいけないんだ。」
「・・・・好きなカレーの辛さは?」
「・・・中辛かな。」
「そこは答えてくれるんだ・・・。」
「さあ、そろそろ行くよ。とても楽しい時間だった。僕は奴らと戦わなくてはならない。「解放人民同盟」との休戦協定ももう少しでタイムリミットだからね。第三次世界は目と鼻の先だ。」
「最後の最後で結構大きい設定入れてくるんだね。」
彼女は革靴をつかつかと屋上に響かせて階下へと続く鉄製の扉の中に吸い込まれていった。
「・・・・飛んで帰らないんだ・・・・」