第三十三話 四畳の世界
――1995年 12月10日、ロシア北部。パンジー・ガーベラ七歳。
彼女は虐待を受けていた。雪の街で彼女に用意された衣服は長袖のTシャツ一枚とパンツ一枚のみ。だから彼女は部屋の隅にあった薄い毛布を纏っていた。
パンジーの世界は四畳しかない、彼女は小さな部屋にロクに食事も与えられず閉じ込められていた。一応、水道は付いているので水分に困りはしなかったが食料はほとんど入ってこなかった。
母親は町一番の風俗嬢で家に帰ってくることは珍しく、父親は意地の悪い金持ちでパンジーが震える姿を見れば大笑いしていた。
彼女がこんな扱いをされるようになったのは半年前のことだ。なにか理由があったわけじゃない、パンジーはよくできた子供で悪さもしなければ親の言いつけも守っていた。両親もそんなパンジーを愛し、甘やかしていた。ではなぜ両親は急にパンジーを虐待するようになったのか? 強いて理由を上げるのであれば…
育児に飽きたのだ。
ただそれだけのこと。可愛い娘の面倒を見ることに楽しみを見いだせなくなっていた。逆に、甘やかすのではなく、虐めることにスパイスを感じた両親はパンジーを虐待するようになった。
母親も父親も何かストレスを抱えるとパンジーにぶつけ、最後にある言葉を投げかける。
『お前はいつ死ぬんだ?』
二人は驚いたのだ。彼女の生命力に。食事を与えず、ロクな防寒着も与えていないのに生き延びる彼女が不思議でしょうがなかった。この時パンジーにはすでに“裏世界”に適応する者“適正者”の器が出来つつあり、周囲の魂を察知して家に侵入してきた動物や益虫を見つけ口にすることは容易になっていた。
ただ生物が毎日家に入ってくるわけでもなく、運の悪い日が続いたある日、ついにパンジーは己の死を予感した。
「あ、死ぬわアタシ…」
パンジーの家は森の中にぽっつり建てられた一軒家だ。その一室に彼女は閉じ込められている。
彼女はさすがにやばいと感じ、部屋を脱出して両親に頼ることにした。ボロボロになっていた部屋の錠を壊し、家の居間に足を進める。
…そこで彼女が見たものは、腹にナイフを突き刺し床に倒れる母親と思しき骸骨と、拳銃を握ってソファーに座っている父親と思しき骸骨だった。
あとでわかったことだが、父親は信頼していた部下に裏切られ全財産を失い、妻に助けを求めたものの断られ怒りから妻の腹を突き刺したらしい。そして、妻の亡骸を前に、どういった心境かは定かではないが、自分の頭を拳銃で撃ちぬいたそうだ。
パンジーはこの時初めて涙を流した。こんな屑共死んだところで何の問題もない。むしろ好都合なはずなのに、彼女は両親を失った悲しさのあまり貴重な水分を瞳から垂れ流したのだ。
そして彼女は決心した。“私も後を追おう”と。
どうせ生きたところでやることなどない。自分に価値を見出していたのはこの屑な両親二人だけ…もう、自分に価値などない。
そう思い、母親に刺さっていた錆びたナイフで喉を掻き切ろうとした時――
「危ないッ‼」
救世主が現れた。
白髪のロシア人。この地域の警官だ、彼こそが日本で後に保護施設を開く“アラン・シャネル”氏である。彼はパンジーの手からナイフを奪い取り、ナイフをソファーの方へ投げ飛ばした。
「なにをやってるんだ君は!」
シャネル氏は少女の肩を抱いてそのあまりの弱弱しさに驚愕した。
――骨と皮しかない…!
ブルブルと震える体。それは寒さからくるものなのか、それとも痩せた足で体重を支えられなくなっているのか、…わからない。それほどに酷い。シャネル氏はすぐに防寒着を脱いで、パンジーの体を包み込んだ。
「シャネルさん! 現場は私たちに任せて彼女の保護を!」
「わかってる! あとは任せたぞ!」
シャネル氏がパンジーを抱きかかえようと背中に手を回すと、パンジーは最後の力を振り絞ってそれを拒否した。
「嫌…嫌だ!」
パンジーは必死の抵抗を見せる。シャネル氏は予想外の抵抗に対し、冷静に対処する。温かい面持ちで彼女と向き合う。
「どうしてだい? このままだと君、命を落としてしまうかもしれないんだよ?」
「いいの…だって、あたしにはもう価値ないから…ママもパパも死んじゃったから、私が生きる意味なんてないから…」
彼女の世界は悪い意味で両親しかいなかった。
…生きがいだったのだ。彼女には両親が全てだった。呪いのように、死んでなお、彼女を縛る両親の闇。そんなどす黒い闇に対して目の前の男は怯えもせず、突っ込む。
「どうして君に君の命の価値がわかる?」
「…え?」
「いいかい? 人生の値打ちなんて死ぬまで誰にだってわかりやしないんだ。今君が死ねば、君の人生の価値はゼロで終わってしまうかもしれない。だけど、この先必死に生きていけば、君の人生の価値は間違いなく上がっていく」
「上がらないよ…あたしなんて、誰にも必要にされない…」
「私じゃダメかい?」
パンジーは暖かなシャネル氏の声を聴いている内に、いつの間にか体の震えが止まっていることに気づいた。
「私は、君に生きて欲しいと願っている。君が生きていると私は嬉しい。私は…君を必要としている」
「う、れしい…? 必、要…?」
何度も両親に言われた『お前はいつ死ぬんだ?』という言葉。自分は死ぬべきだとパンジーはずっと心の隅で思っていた。
だけど目の前の男は真逆のことを言う。彼女の世界を、男は否定していく。
…甘えてもいいのだろうか。子供のように笑ってもいいのだろうか。パンジーの疑問にシャネル氏は温かい笑顔で答える。
「いいんだよ。世界は、君が思ってるよりずっと温かいんだ」
「あ、たし、は――」
気づくと涙がポタポタと流れていた。先ほど両親の亡骸を見て流した涙とは違い、すごく、すごく温かい涙が。
シャネル氏はパンジーを抱きしめ、言い放つ。
「ほら。君の命の値打ちは今、上がったよ」
この時、パンジーは四畳の世界から外へ出ることができた。
それからパンジーはこのアラン・シャネル氏と妻であるシルキー・シャネル氏に育てられ、現在に至るまで多く迷惑をかけた。
…数えきれないほどの恩がある。表現できないほどの愛情がある。だから、例え自分の命を犠牲にしても、彼らのことは絶対に守る―—
暗い話が続く…だけどストレスは一気に解放されるので今暫しお待ちください。




