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銀盤に翔ぶ

作者:toshi9

「よし成功だ! 真帆、いいぞ」

 トリプルルッツとトリプルトゥループの連続ジャンプを成功させ、スケートリンクの上で真帆が小さくガッツポーズをする。そして、白い衣装に身を包んで華麗に舞う妹の演技に、俺も観客席で大きなガッツポーズをしていた。
 俺の名前は深田篤志。名古屋の私立大学に通う20歳の大学生だ。そして今リンクで舞っているのは妹の真帆。
 妹は俺と同じ系列の高校の2年生ながら次のオリンピック出場が確実視されている、女子フィギュアスケート界のアイドルだ。
 実はかく言う俺もフィギュアスケートをやっているが、真帆と違って競技会への出場はおろか大学のスケート部の中でさえ代表選手になれない、平凡で目立たない存在だ。そんな俺にとって妹の真帆は眩しく、そして誇らしい存在だった。

 やがて真帆のショートプログラムの演技が終わり、スコアボードに真帆の得点とRANK1という文字が映し出され、順位表の一番上に「MAHO FUKATA」という名前が躍り出る。

「やった、真帆がトップだ!! こりゃあ明日のフリーが楽しみだぜ」

 リンクの中央で嬉しそうに観客に手を振る真帆。その姿は白い妖精という言葉が相応しい。そんな氷上の妹を俺はある種の羨ましさと、少し甘酸っぱい思いを抱いて見詰めていた。

 真帆はスケート協会の理事を務める親父が再婚した相手、フィギュアスケートのコーチでもある新しい母さんが我が家につれて来た。つまり妹と言っても真帆と俺とは血が繋がっていない。
 一人っ子だった彼女は俺のことを「おにいちゃん」と呼んで慕ってくれているが、俺のほうは彼女がなついてくればくるほど、複雑な思いを抱いていた。

「よお篤志、相変わらずのシスコン振りだな」
「え? ああ、なんだ緑川か」

 振り返ると、そこには同じ男子スケート部員の緑川悠太が立っていた。部員と言っても、部活中も練習そっちのけで女子部員が練習する様子ばかり眺めている。普段は目立たないが、女子部員とのコンパになると元気になるような奴だ。

「なんだはないだろう。いやあ、それにしても『女子フィギュアスケート界のエース』と呼ばれるうちのアネキをショートプログラムとは言え2位に蹴落とすとは、全くあんな妹を持って羨ましい奴だな」
「ま、まあな」
「でも篤志、お前は彼女をただの妹だとは思ってないんだろう」
「……どういうことだ?」
 どきりとしつつ、俺は緑川に問い返した。
「彼女を追うお前の目を見てればわかるぜ、真帆ちゃんのことが好きなんだろう、兄弟としてではなく男として……」

 がつっ!

 緑川が言い終える前に、俺の拳は奴の顎を捉えていた。
「貴様、変なことを言うと承知しないぞ!」
「ぺっ、よく話を聞け。どうだ篤志、お前の思いを俺が叶えてやろうじゃないか」
 取り出したハンカチで血の滲んだ口を押さえながら、緑川は言った。
「俺の思いを叶えるだと?」
「ああそうだ、これを使ってな」
 そう言いながら、緑川はバッグから小さなペットボトルに入った青い色の飲み物を取り出した。
「それがどうしたんだ」
「ふふん、これを使えば真帆ちゃんのほうからお前に『好き』って言い寄ってくるんだよ」
「よくわからんな。それにそもそも俺が真帆のことをそんな目で見る訳がないだろう」
「へへっ、物欲しそうに真帆ちゃんをじっと見ていたお前の目、あれは兄が妹を見る目じゃなかったな。俺にはお前が何を考えていたのかわかるんだよ。美人のアネキがいる俺にはな。それに、そもそもお前たちは血が繋がってないんだろう。それなのにあんなかわいい子と一つ屋根の下で暮らしているんだもんな。いやあ、たまらないよな」
「お前、何か勘違いしてないか?」
「どうだ、俺がその思いを叶えてやるから、その代わり、明日俺に付き合わないか?」
「明日お前に付き合う?」
「ああ、どうしてもやってみたいことがあるんだ。そしてお前にも一緒に付き合ってもらいたいって思ってな」
「いやだ」
「おい、まだ話は終ってないぞ」
「お前に付き合う気はないよ、明日は真帆を応援しなくちゃいけないしな」
「駄目か?」
「断る」
「どうしてもか?」
「くどい!」
「そうか、わかったよ。でも……そうだな、それじゃあ、もし今日ここで真帆ちゃんがお前のことを『好き』と言ったら、明日俺と付き合うっていうのはどうだ?」
「お前、何がやりたいんだ?」
「ふふっ、いいな、真帆ちゃんがお前に向かって『好き』って言ったら、明日は俺に付き合うんだぞ」
「わかったわかった、でも真帆が急にそんなことを言い出す訳ないよ」
「それはどうかな? まあ楽しみにしてるんだな。じゃあまた後で会おうぜ」

 からかうような口調でそういい残すと、緑川はすたすたと歩み去っていった。

「前から変な奴だとは思っていたけど、あいつ何を考えてるんだ。……まあいいや、それよりも真帆を迎えにいくとするか」

 俺は観客席から階下の選手控え室のあるフロアに降りると、控え室の前で真帆が戻ってくるのを待った。そして数分後、真帆のコーチでもある母さんと一緒にスケートシューズを履いたまま真帆がやってきた。勿論さっき滑っていた時に着ていた白い衣装のままだ。

「あ、おにいちゃん」
「よお真帆、やったな、1位おめでとう!」
「うん、でも本番はフリーだから。明日は絶対失敗できないよ」
「そうね、真帆、明日もがんばるのよ」
「うん、お母さん」

 俺は二人の会話を眩しく聞いていた。三流スケーターの俺には表彰台やエキシビジョンのスポットライトは全く縁がない。

「それじゃあたしは協会の方たちとお話があるから、二人で帰っててちょうだい。篤志さん、真帆のことを頼みましたよ」
「ああ」

 昨今のフィギュアスケート人気で、真帆は街中を歩いているとすぐに声をかけられ、ファンに囲まれてしまう。ましてや大勢のファンが押し寄せる競技会の会場から出るのは一苦労だ。俺はそんな妹のボディガードも兼ねていた。

「じゃあ真帆、一緒に帰ろう。早く着替えてきな」
「うん、おにいちゃん」

 真帆はにこっと笑うと控え室に入った。だがしばらくすると「きゃっ」と真帆の小さな悲鳴が中から上がった。

「真帆、どうした!」
 慌てて中に飛び込むと、スケート靴を脱いだ真帆が床に倒れている。気絶している真帆を抱き起こしたが、目を覚まさない。
「驚かせちゃったみたいだね」
 ロッカーの陰から、突然男の声が聞こえてきた。
「だ、誰だ!?」
「俺だよ、篤志」
「おまえ、み、緑川なのか? だがお前、その姿はいったい!?」
 ロッカーの陰から出てきたのは空中に浮かんだ服、いや、体が半ば透き通った緑川だった。だがその姿は見る間に薄れ、どんどん透明になりつつあった。

「どうしたんだ、お前、体が透き通ってるぞ」
「ああ。ここに忍び込んであの青いジュースを飲んだのさ。アレを飲むと透明な体になれるんだ。いや、効果はそれだけじゃないんだがな。とにかく真帆ちゃんが入ってくる前に完全に透明になって待っているつもりだったんだが、思ったより戻ってくるのが早かったな。透明になる前に見つかってしまったよ」
「貴様、真帆に何をした!」
「何もしてないさ。俺の姿を見て勝手に驚いて気絶したんだ。でも丁度よかったよ。さて……と」

 そう言いながら、ほとんど透明人間と化した緑川は服を脱ぎだした。Tシャツと一緒に着ているグレーのセーターをくるりと捲くり上げ、ズボンのベルトを外しトランクスと一緒に一気に下ろして服を脱ぎ捨てると、もうそこには薄ぼんやりとした青い影が浮かんでいるだけだった。

「どうだい、もう俺の姿は見えないだろう」

 姿がほとんど見えなくなってしまった緑川の声だけが控え室の中に響いている。
 現実離れしたその光景に、俺は目眩を覚えた。

「信じられん。ほんとにさっきの飲み物のせいなのか?」
「ああそうさ。でも言ったようにアレの効果はそれだけじゃないんだぜ。ここからが面白いんだ」

 そう言うと、緑川の青い影は倒れている真帆に近づいていく。

「お、おい、緑川」
「心配するな、今から真帆ちゃんにお前のことを『好き』って言わせてやるよ」

 真帆の傍らに立つ緑川の影に、俺は慌てた。

「お、お前なにをする気だ」
「ふふふ……何が起きるか、まあそこで見てな」

 緑川の声が唖然と見ている俺の耳に響く。
 奴が何をしようとしいてるのか、さっぱり見当がつかない。だが、透明と化した緑川がそこに立っているという現実を見せ付けられ、俺の背中にぞくりとしたものが通り抜けていった。

「やめろ! 真帆に手を出すな!!」

 だが緑川の青い影は俺の声に構わず、真帆の横にしゃがみ込んだ。
 真帆は気絶したまま、すーすーと静かな寝息を立てている。
 影から細長い影が伸びていく。どうやら腕を伸ばしているらしいが、その先端が真帆の腕に触れると、すっと一体化していく。その瞬間、真帆はぴくっとかすかに身体を振るわせた。

「うん、入れるぞ。ふふふ、どうやら本当にできそうだな」

 そう言うと、緑川の青い影は、真帆の足元から体に覆いかぶさっていった。真帆の体と青い影が重なる。と同時にその青い塊りは真帆の身体と一体化していく。

「なっ!」

 絶句する俺の目の前で、緑川の青い影はずぶずぶと真帆の腕に、脚に、体に、真帆の体全体に入り込み、やがて真帆の身体を覆っていた青い影は完全に見えなくなってしまった。
 だが、真帆はさっきまでと同じく、すーすーと寝息を立てている。

「真帆、真帆!」

 俺はひくひくと顔を引きつらせながら、静かに寝息を立てている真帆の身体を揺すった。
 揺すられた真帆の寝息が止まる。そしてパチリと目を開いた。

「真帆、おい、大丈夫か? しっかりしろ」

 俺は、ぼーっとした表情で上半身を起こした真帆の肩を掴んだ。 
 真帆はゆっくりした動作で目を落とし、自分の両手を見詰めている。そしていきなり顔だけを俺のほうに向けた。

「ま、まほ!?」

 ぼーっとしていた真帆の表情が、いきなりニヤ~っと歪む。
 ぞくっと嫌な予感が俺の頭を駆け抜けた。

「おにいちゃん」
「ま、まほ、大丈夫か」
「ふふっ、おにいちゃんか、いい響きだね。全く俺がお前に向かっておにいちゃんか、くふふ」

 俺は頭がとろけそうだった。

「まほ……いや、お前は」
「そうだ、俺だよ、緑川悠太だよ。あっははは、成功だ、成功したんだ。俺は真帆ちゃんに、お前の妹になったんだ。ということでよろしくね、おにいちゃん」

 そう言いながら、真帆は立ち上がると、白いコスチュームのスカートを両手でばたばたとはたいた。

「こんなことって……ほんとに緑川が真帆の中に? 信じられん」
「あの飲料を飲むと、体が透明なゼリー状になって他人の体に潜り込むことができるんだ。だから今の俺は見かけは真帆ちゃんだけど、中身は俺って訳だ」
「ま、真帆はどうなったんだ」
「俺が中にいる間は、意識はあっても何もできないみたいだな。だからこの体は俺の思うがままさ、今はこの俺が深田真帆、フィギュアスケート界の白い妖精って訳だ」

 真帆は控え室の姿見の前に立つと、己の姿をじっとみつめた。

「この姿、まさに『白い妖精』という言葉がぴったりだ。あどけない顔。身体はほっそりと華奢だけど、しっかりと膨らんだ胸、そしてこの腰のくびれ、これが俺の体なんてな」

 そう言いながら、真帆は自分の体を姿見の前でくるりと回した。
「や、やめろ!」
 俺は思わず叫んで真帆の体を掴んでいた。そんな俺を真帆がじっと見詰める。
「そうだ、約束だったね」
 そう言うと、真帆がにやっと笑った。
「あたし、おにいちゃんのことが好きだったんだ。おにいちゃん大好き!」
 そう言いながら真帆は俺に抱きついた。
「や、やめろ!」
 俺は胸に抱きついた真帆の腕を払いのけた。

「ふふっ、ところでおにいちゃん、あたしとの約束覚えているよね」
「や、約束って……」
「もう、いやね、あたしがおにいちゃんを『好き』って言ったら、おにいちゃんは明日緑川さんと付き合うって約束でしょう」
「お、おい、わかった、わかったよ、付き合うよ。だから早く真帆の体から出て行ってくれ」
「ありがとう、おにいちゃん」
「真帆の真似はやめろって。で、何をしたいんだ」

 真帆はどかっと脚を広げて椅子に座ると、腕を組んで俺をじっと見詰めた。フィギュア用のコスチュームとは言え、白いスカートの奥が丸見えとなり、思わず目を逸らしてしまう。

「そのことだが、明日、お前に真帆ちゃんになってもらいたいんだ」
「は!?」
「お前、真帆ちゃんが羨ましいと思わないか? 日本中から注目を浴びて、こんなかわいい衣装を着てリンクで華麗に舞う真帆ちゃんのことが」

 真帆がぴろりとスカートをまくり上げる。

「そ、それは……」
「俺はアネキのことが羨ましくて仕方なかったんだ。俺だって競技会に出て優勝したい。スポットライトを浴びたい。でもそれは叶わぬ夢さ。何せ競技会にも出られない三流スケーターだからな。でもアネキになれば競技会に出られる、優勝することだってできるんだ。お前も真帆ちゃんになれば好きな妹の体になるだけじゃなく、そんな夢も叶えられるんだぜ。おまけにアネキや真帆ちゃんは人気抜群のアイドルスケーターだ。大観衆の中で華やかな衣装をまとって滑るってさぞ気持ち良いだろうよ。明日は俺たちがその気分を味わってやるんだ。アネキとして、真帆ちゃんとして」
「ま、まさか」
「そうだよ、明日のフリーで俺がアネキに、お前が真帆ちゃんになって最終組で滑るんだ!」
「そんなことできるのか? いや、今のお前を見れば、他人の体の中に潜り込めることはわかったよ。でもたとえ真帆や麗美さんの体になったとしても 俺たちの腕前じゃ二人のように滑るなんてとても無理だろう」
「いや、そうでもないんだ。潜り込んだ身体の持ち主の記憶も経験も自分のものとして感じられるんだ。だから今の俺はアネキになりきって演技のプログラムをこなすことができるんだよ。お前だって真帆ちゃんになりきれるんだ」
「そ、そうなのか?」

 俺はごくりとつばを飲んだ。最終組で滑る。妹として、『白い妖精』深田真帆として。あのスポットライトの中を。

「そうさ。それに万が一失敗しても、今ならまだオリンピックには間があるからな。二人に迷惑はかからんだろうよ」

 俺は目の前で喋り続ける真帆をじっと見詰めた。そんな俺の心の内を見透かしたかのように、真帆はにやりと笑い返した。

「決まりだな。じゃあ行こうか」
「行こうかって、何処に?」
「あの飲料はさっきの1本しかないんだ。だから今から明日の分を買いに行こう。売ってる店って結構近いんだぜ。……ということで、あたしは着替えるから、おにいちゃんは外で待ってて頂戴」
「だから真帆の真似するんじゃない。それにいい加減真帆の体から離れろよ」
「もう少しいいじゃないか。折角真帆ちゃんになったんだから、アイドルの気分を少し味あわせてくれよ。ほらおにいちゃん早く出て行って! あ、おにいちゃんったらあたしの着替えが見たいんだ」

 くすくすと笑いながら、真帆は背中のファスナーに手をかけた。
「へ、変なことするんじゃないぞ」
 俺は仕方なく、控え室の外に出た。



 時間がやたら長く感じる。
 俺がじりじりしながら扉の外で待っていると、制服に着替えた真帆がキャスターバックを片手に出てきた。

「お待たせ、さ、行こう、おにいちゃん」
「真帆の真似をするのはやめてくれよ」
「いいじゃない、今のあたしは誰が見てもあたしなんだから」

 真帆はそう言うと、俺の腕をぎゅっと掴む。

「お、おい」
「さ、おにいちゃん、いこっ」

 二人で会場の外に出ると、数十人のファンが真帆を待っていた。

「真帆ちゃんが出てきたぞ!」
「真帆ちゃん、サインくださ~い」
「応援してるからね~」
「明日がんばってね、絶対優勝するんだよ」

 ファンが一斉に真帆に声援をかける。

「うん、ありがとう。明日も一生懸命滑るから応援してね」

 真帆がファンににこやかに笑いかける。いや、今俺の隣にいるのは、真帆になりすました緑川悠太だ。
 だが緑川は真帆になりきってごく自然にファンが差し出した色紙にサインペンを滑らせていく。
 驚いたことに、色紙に書き込まれいくのは真帆そのもののサインだった。

「それ真帆のサイン……どうして!?」
「何言っているの、おにいちゃん。あたしがあたしのサインをするんだから当たり前じゃない」

 一通りサインを書き終えた真帆は、俺の手を引っ張る。

「さあ、おにいちゃん、早く行こう」

 その仕草はいつもの真帆そのものだった。

「あなた、真帆ちゃんのお兄さんなんですか?」
「いいな~、真帆ちゃんと一つ屋根の下か」

 そんなファンたちを強引に振り切って人ごみに紛れ込んだ真帆は、俺を会場から数駅離れた古びたビルに連れていくと、怪しげな店に俺を引っ張り込んだ。

「お、お前、どこでこんな店を」
「ネット仲間に教えてもらったんだ」

 店に入った俺たちを女性店員が迎える。

「いらっしゃいませ」
「ねえお姉さん、アレが欲しいんだけど」

 真帆は冷蔵ショーケースに入った2本の飲料を指差した。

「あらあなた、これが何なのか知ってるの?」
「うん。あたしとおにいちゃんの分が欲しいんだ」

 女性店員は俺のほうをちらっと見た。

「在庫は丁度2本残ってるからお売りできまけど、少々高くなりますよ。あなた、お支払いは大丈夫? それに……」
「うん、それに取り扱いに注意するんでしょう。わかってるわかってる。それじゃおにいちゃん、代金払っといてね」
「あ、ああ……ってなんで俺が真帆の分まで払うんだよ」
「こんな良いものがあるって事をおにいちゃんに教えてあげたんだから、当然でしょう」

 こ、こいつ、すっかり真帆になりきってやがる。
 真帆として振舞い続ける緑川に、俺はつい真帆と話をしているような錯覚に陥ってしまった。
 俺は仕方なく2本分の代金を支払った。

「ありがとうございました」



 女性店員の声を背に店を出た俺たちは、まっすぐ家に戻った。

「じゃあおにいちゃん、明日の試合前に会場でこれを飲んでね、そして身体が透明になったらあたしの体に被さるんだよ」

 真帆が2本のうちの1本を俺に渡す。

「そしたらお前みたいに俺も真帆になれるのか?」
「そうよ、で、あたしは……ってそろそろ芝居は終わりにするか。俺は明日はアネキになるんだ。アネキと真帆ちゃんはライバルだけど、明日のフリーは俺とお前がライバルとして対決するという訳だ。あはっ、何か楽しみだな」

 緑川は真帆の仕草そのままに口に手を当て、楽しそうに笑っている。

「それにしても、ほんとにそんなことをして大丈夫なのか?」
「言っただろう、心配するなって。身体に潜り込んだ瞬間にその人間の記憶や経験が理解できるから、アネキになろうが真帆ちゃんになろうが、二人が今まで練習してきたフリーのプログラムを自分が練習してきたように感じられるんだよ。真帆ちゃんやアネキになるだけで、俺たちは何の苦労もなく二人と同じように滑れるんだからこんな楽なことはないだろう」
「ほんとにそうなのか?」
「それを確かめる為に、俺は真帆ちゃんになりすましてみたんだ。『おにいちゃん大好き』って言う約束は、まあおまけみたいなものさ」
「くそ、そうだったのか……でも、実際どうなんだ?」

 俺は真帆の体を実験台として使った緑川に怒りを覚えつつも、その返事に興味深々になっていた。

「ああ、真帆ちゃんの記憶、仕草、今なら何でも自分のことのようにわかるぜ。俺がファンにサインしたのを見ただろう。今の俺は完全に夏帆ちゃんとして行動できる」
「確かにあれは真帆のサインそのものだったな。それにしてもすごいな!」
「ああ、そして今の俺は間違いなく真帆ちゃんとして滑れる。わかるんだ。今ここで思い浮かべるだけで真帆ちゃんがフリーでどんな演技をするのか理解できるんだ。体が動くんだ。こんな風にね」

 真帆がその場でくるりと回り演技する。それは確かに真帆が練習していたフリーの演技の動きだ。

「でも俺のほんとの狙いはアネキさ。俺はアネキになって滑りたいんだ。そしてお前と俺が優勝を争う。明日のヒロインは俺たちってわけだ」
「うーん、何かぞくぞくしてくるな」
「だろう、それじゃ明日を楽しみにしているぜ」
「ところでお前、どうして俺を誘ったんだ?」
「一人より二人のほうが楽しいじゃんか。お前と俺って何となく立場が似てるなって思ってたしな。それに明日もしヤバくなったら、お互いにフォローし合えるし」
「そういうことか。わかったよ」
「それじゃあ今日は帰るとするか。おい、トイレ貸してくれよ」
「お前、真帆の体で……」
「女の子のおしっこか、いったいどんな感じなんだろうな」
「おい、これ以上真帆に変なことをしたら承知しないぞ」
「一度他人の体の中に潜り込んだら、飲んだアレをトイレで排泄しないと自分の意思では出られないんだよ。だから仕方ないだろう。じゃあトイレを借りるぜ」

 そう言ってトイレの中に入る真帆。そしてしばらくの後、中から裸の緑川が出てきた。

「真帆ちゃんはトイレの中で寝ているから、目を覚ましたらうまくごまかしといてくれよ。ああそうだ、彼女の意識は俺が真帆ちゃんとして行動している間も残っていたかもしれないから、もしかしたら何か覚えているかもしれないぞ、まあその時は夢だと言ってごまかすんだな」

 控え室で入れてきたのだろう。真帆のキャスターバックから自分の服を取り出して着込んだ緑川は、そう言い残して出て行った。
 残されたのはテーブルに置かれた1本の不思議な飲料。

「これを飲んで真帆の中に入ったら、俺が真帆になれるんだ。明日は俺が真帆の衣装を着て、真帆としてリンクを滑る。そして翔ぶ……」

 テーブルの上の飲料をじっと見ながら、俺はどきどきと胸を高鳴らせていた。だがその時、真帆が目をこすりながらトイレから出てきた。

「おにいちゃん……」
「真帆、どうしたんだ?」
「あたし、トイレで寝ちゃったのかな?」
「お前、なかなか出てこないと思ったら、寝てたのか?」
 緑川に体を乗っ取られていたとも言えず、俺はそう言ってごまかした。
「うん。でも何か変。控え室でお化けを見て、それから後の記憶がおぼろげなんだ。何だかあたしがあたしじゃなかったみたいなの」
「お化け? 夢でも見てたんじゃないのか?」
「夢? あれって夢だったのか……でもあたし、おにいちゃんに……」
 突然真帆がカッと顔を赤らめた。
「どうした? 真帆」
「え? ううん? なんでもない」
「ここのところ毎週のように競技会に出てるから疲れてるんだよ。今日はゆっくり休んで、明日のフリーもがんばるんだぞ」
「うん、そうだね。ありがとう、おにいちゃん」

 自分の部屋に戻っていく真帆の後姿を見ながら、俺はそっと呟いていた。

「ごめんな真帆、1回だけでいい、俺はお前みたいなトリプルアクセルを跳んでみたいんだ。そうさ、明日のフリーでがんばるのは真帆じゃない、俺なんだ。明日は俺が真帆なんだ、深田真帆としてリンクで翔ぶんだ」

 俺はテーブルの上の飲料に手を伸ばしてぎゅっと握り締めた。



 そして翌日、真帆を競技会場のスケートリンクに送った俺は、真帆と別れてトイレの個室に入ると、どきどきしながら緑川と一緒に買った飲み物のキャップを開けた。
 ごくっごくっ
 一気に飲み干して、昨日の緑川のように服を脱ごうとすると、セーターにかけた手が早くも透き通り始めているのに気がついた。

「うひゃ! ほんとに体が透けている。……これ、本物だよ」

 飲み終えた瞬間に透き通り始めた俺の体は、服を全部脱ぎ捨てた頃にはすっかり透明になっていた。目をこらさないと、自分でも自分自身の姿が見えない。

「こりゃあ透明人間にでもなった気分だな。よし、ちょっと恥ずかしいけど、行くか」

 裸になった俺は掃除用具置き場に服を隠すと、真帆のいる選手控え室に向かった。
 身体が透明なので人とすれ違っても誰も気が付かないが、通路を裸で歩くというのはちょっと恥ずかしい。
 それでも人の間を縫って控え室の前にたどり着くと、恐る恐る扉を開けようとした。だが扉には内側から鍵がかけられていた。

「今日は鍵をかけているんだ。真帆が出てくるまで待つしかないか」

 そう思った矢先、突然扉が開いた。
 中から出てきたのはよく知った顔の、赤と黒の華麗な衣装に身を包んだグラマラスな美女だ。

「麗美さん!?」

 それは緑川麗美だった。
 緑川の姉さんで、24歳の女子フィギュアスケート界のエースだ。
 麗美さんはきょろきょろと辺りを見回して意味有りげににやりと笑うと、再び扉を閉めてしまった。
 だがその扉はきちんと閉じられずに少しだけ開いている。

「あの笑い方、緑川の野郎と同じだな。……ってことは、今の麗美さんの中には既に緑川が潜りこんでいるってことか」

 俺は鍵の開いた扉をそっと開くと、素早く控え室の中に入り込んだ。
 昨日は真帆一人しか残っていなかった部屋の中では、各々の衣装に着替え終えた女子選手たちが、ストレッチやお化粧をしながら出場の時間を待っていた。
 彼女たちにぶつからないよう注意しながら、俺は真帆の姿を探した。
 それにしても、裸で女の子たちの間を動き回るというのは、こっちの姿が見えないとわかっていても緊張するぜ。

「あ、いたいた」

 最終組に入っている真帆は時間に余裕があるのか、まだ演技用の衣装に着替え終えていなかった。
 髪はポニーテールに結び直していたものの、白いスポーツブラとショーツの上から光沢のある白いタイツをはいただけの姿で、ハンガーに掛けられたレースをあしらった白い衣装を手にとっていた。
 それは同じ白色でも昨日の清楚でシンプルなデザインのショートプログラム用の衣装とは違う、可憐で華やかなデザインのフリー用の衣装だ。

「今日だけでいいんだ、俺は『白い妖精』深田真帆としてリンクに出たい、ジャンプしてみたい。ごめんよ真帆」

 念じるように呟くと、俺は隣の女子選手を避けながら真帆に近づき、背中からそっと両手を回して抱きついた。

「ひっ」

 真帆が一瞬小さな悲鳴を上げ、体をびくんと震わせる。俺の体は、ずぶずぶと真帆の中に染み込み始めていた。

「は、入る!」

 それは何とも奇妙な感覚だった。俺の体は、あっという間に真帆の中に溶け込んでいった。そして頭が真帆の中に入った瞬間、一瞬視界が暗転したかと思うと、俺は自分が真帆の白い衣装を手に持って立っていることに気が付いた。

「真帆ちゃん、どうしたの?」

 隣から大学生と思しき女子選手が怪訝そうに俺を覗き込む。
 ロッカーの鏡には、真帆と真帆の顔を覗き込む彼女の姿が映っていた。
 そう、覗き込まれているのは俺ではなく、衣装を持ったままぼーっとして立っている下着姿の真帆だった。

「やった、成功したんだ。俺、真帆に……」
「え? 俺?」
「ううん、何でもありません」

 俺は慌てて答えた。

「真帆ちゃん、もしかして緊張してるの? 優勝がかかってるんだから当然よね。あたしが言うのもなんだけど、がんばってね」
「あ、ありがとうございます」

 俺の口からかわいい女の子の声が出てくる。
 俺は姿も声も真帆になっていた。

「俺が……真帆」

 改めて呟いてみる。
 俺の口からは再び女の子の声が、真帆の声が出てくる。
 一方で、心の奥で戸惑いのような感情が蠢くのを感じる。恐らくそれは真帆の意識なのだろう。
 だが自分の中の戸惑い押さえつけるようにイメージしてみると、心の奥の蠢きが止んだ。
 と、同時に真帆の記憶が俺の中に流れ込んでくる。

「そうだ、俺は、いいえあたしは真帆」

 俺は手に持った真帆の為にデザインされた白い可憐なデザインのフリー用のコスチュームを広げた。

「これを着ていいんだ、俺がこれを着て滑るんだ」

 俺はジャンプするのも1回転半がやっとの三流スケーターだ。でも真帆は軽々とトリプルアクセル、つまり3回転半のジャンプをしてしまう。
 真帆が、この衣装で妖精のように翔ぶ真帆が、競技会で難度の高い技を軽々とこなしていく真帆が羨ましかった。
 真帆のように滑ってみたい、いや真帆になってみたい。
 それが叶えられない願いだとわかっていても、真帆が滑るのを応援しながら俺はいつしかそんな思いにとらわれていた。
 でも今や俺の願いは叶えられた。
 俺は真帆になっている。
 これは俺の、いいえ、あたしの衣装なんだ。
 そうだ、あたしが着てもいいんだ。

 頭の中で、リンクを滑る真帆の姿に俺の姿が重なっていく。
 俺はどきどきと心臓の鼓動を高まらせながら、白い衣装を体に当てた。
 鏡の中からは、衣装を身体に当てた真帆が恥ずかしそうな上目遣いで俺を見ていた。

「ねえ真帆ちゃん、着替えたら付き合ってくれない?」

 突然誰かが肩をポンと叩く。
 驚いて振り返ると、そこには麗美さんが立っていた。そして俺のことを見透かしたように、その形の良い唇をにやっと歪ませている。

(間違いない。麗美さんじゃない。これは緑川悠太だ)

「最終組って言ってもあんまり時間が無いんだから、早く着替えちゃいなさい。試合が始まる前に一緒にウォーミングアップしましょう」
「は、はい」

 辺りでひそひそと声が漏れる。

「麗美さまのほうからお声をかけるなんて」
「なんかむかつくな」

 部屋の中に不穏な空気が流れる。女子選手たちにとって、世界選手権で金メダルを取った緑川麗美は雲の上の存在なのだろう。
 いつまでもここにいちゃいけない。
 俺は慌てて手に持った衣装に足を通すと、くいっと上半身に引き上げていった。そして腕をその袖に入れて、滑らかな生地の衣装を身体全体にフィットさせると、背中のファスナーを真帆の慣れた手つきで引き上げた。
 ミニのフレアスカートがついた白い衣装が、真帆になった俺の華奢な体にぴたりと密着する。
 鏡には、白い可憐な衣装に身を包んだ、人形のような真帆が映っていた。

「これが今の俺」

 まさに『白い妖精』と呼ぶに相応しいフィギュアスケートの衣装に身を包んだこのかわいい真帆が俺……。
 鏡に映る姿をじっと見詰めていると、胸の奥がどきどきしてくる。
 息が自然と荒くなってくる。
 俺が鏡に向かって笑うと、鏡の中の真帆がはにかむように笑った。

「真帆ちゃん、シューズも履いたら?」
「あ! は、はい」

 そうだ、シューズを履かなくっちゃ。
 麗美さんに促されて、シューズケースからエッジカバーのついた真帆の白いスケートシューズを取り出すと、俺は椅子に座って真帆の小さな足をシューズに差し込み、靴紐をぎゅっと縛った。
 ひやりとした椅子の感触に、今の自分がいつもと違う女子用の衣装を着ているんだということを実感させられる。
 そして靴紐を結びながら目に飛び込むのは光沢のあるタイツに包まれた真帆の太もも。
 どきどきと胸の鼓動が高くなる。

「これが、俺の……」
「真帆ちゃん、もういいの? ほら行くわよ」

 靴を履いて立ち上がった麗美さんがこっちを向いて笑っている。

「は、はい」

 かろうじて胸の奥のもやもやとした衝動を抑えて立ち上がると、俺は麗美さんの後について控え室を出た。だが麗美さんが向かったのは、リンクではなくシャワールームだった。

「真帆ちゃん、入って」

 麗美さんの後について俺が中に入るなり、麗美さんは後ろ手にドア鍵を閉めると、にやっと笑った。

「どうだ篤志、妹の真帆ちゃんになった気分は」

 麗美さんが急に男言葉になって話しかける。

「お前やっぱり緑川、緑川悠太なんだな」
「そうさ、俺さ。会場に行くのが待ちきれなくて、家でアネキの体に入り込んでここに来たんだ」
「家から? アレの効果ってそんなに長く持つのか?」
「今のところ体調は何ともないし、まあ大丈夫だろう。それよりお前のほうはどうなんだ? お前が中に入れなくて困ってるんじゃないかと思ってドアの鍵を開けたんだ。そしたら着替えていた真帆ちゃんの様子が急におかしくなったんで、あの時お前が真帆ちゃんの中に入ったんだなって直感したのさ」
「扉を開けてもらって助かったよ。おかげでこうして真帆になれたぜ。まだ信じられないけど、今の俺は間違いなく真帆として、真帆の衣装を着て、真帆のシューズを履いているんだ。こんなことができるなんて、未だに信じられないよ」

 そう言いながら、俺はピラっとスカートを捲り上げた。

「ふふふ、これは間違いなく現実さ。まあせいぜい堪能するんだな」

 麗美さんは再び妖艶に笑うと、一人シャワールームを出て行った。
 残された俺は、膨らんだ自分の胸をそっと押さえながら、心の中で真帆に謝っていた。

(真帆、今日だけでいいんだ、許してくれ)

 シャワールームを出て急ぎ足でリンクに向かう。と、俺の姿を見つけた母さんが駆け寄ってきた。

(か、かあさん!)

「真帆、どこに行ってたの? もうすぐ最終組の順番になるわよ」
「あ、あの、何だか緊張して、急にトイレに行きたくなっちゃったの」
「まあ、今までそんなことなかったのに」

 そう言いながら、母さんは俺の肩をポンポンと叩く。

「真帆、大丈夫?」

 こくりと頷く。

「よし、じゃあ行きましょう」

 そう言うと、母さんは俺をリンクのエプロンに引っ張っていった。まさか中身が俺だとも知らずに。

 競技会は既に始まっていて、下位の組から一人、また一人と演技が行われていた。そして最終組が近づくと、リンク上の女子選手は難度の高い技を次々に決めていた。彼女たち演技を見ているうちに、俺の体はぶるぶると震えていた。
 ほんとにこれでよかったんだろうか……
 こんな大観衆の前で、俺は演技できるんだろうか……

「真帆、どうしたの? いつも通りに滑ればどうってことないわよ。あたしが育てたあなたが一番上手なんだから」

 震える俺の小さい手を、母さんが隣からぎゅっと握る。

「う、うん」

 確かに真帆なら今まで演技したどの選手よりも、難しい技を軽々と決めてしまうだろう。
 でも俺にそれができるのか?
 いや、俺は真帆なんだ。真帆にできることは、今の俺ならできる筈だ。大丈夫だ。そう信じるんだ。
 俺は不安を払拭するかのように目を閉じて自分に言い聞かせた。



 やがて競技会も最終組6人を残すのみとなった。全員がリンクに滑り出て、演技前の最後の練習が始まる。
 俺もエッジカバーを外すと、氷上に躍り出た。すーっと自然に足が動く。

 いける!

 俺の滑りは普段のぎこちない自分のものではなく、真帆の滑りそのものだった。

「真帆ちゃ~ん」
「麗美さま~」

 俺と麗美さんが同時にリンクに上がると、会場は一段と大きな歓声に包まれる。
 そう、俺たち二人は間違いなく今日の主役だ。
 でもまさか中身が別人だなんて、今ここで滑っているのが実は俺と緑川悠太だなんて、誰も信じないだろうな。
 スピードを上げるにつれてさわさわと脚に触れるスカートの裾の感触を感じながら、俺はくすっと笑いを漏らした。

「真帆ちゃん、かわいい~」

 笑顔を見せる俺に、観客の声援がさらに大きくなる。

「真帆ちゃん、勝負よ」
 横を滑りぬける麗美さんの声が通り過ぎていく。

 あいつ、すっかりなりきってるな。よし、俺だって!



 いよいよ最終組のプログラムがスタートした。一人、また一人と演技を終え、その得点が電光掲示板に掲示されていく。そして残るはショートプログラム2位と1位の緑川麗美と深田真帆、つまり俺たち二人の演技を残すだけになった。

 『女子フィギュア界のエース・緑川麗美』と『白い妖精・深田真帆』のどちらが高得点を挙げるのか。
 先にリンクに出てきたのは緑川麗美。
 観客は固唾を呑んで、エッジを立ててリンクの中央に静止した緑川麗美の演技が始まるのを待つ。
 ストラビンスキーの「火の鳥」のメロディーが場内に流れ始める。
 麗美さんがゆっくりと滑り出し徐々にスピードを上げていく。
 そしてジャンプ。
 最初にプログラムされたトリプルアクセルだ。
 だが回りきれずに転倒。
 余裕のあった麗美さんの表情が戸惑いに変わる。
 その後のコンビネーションジャンプもスパイラルもうまくいかない。
 その滑りは、全く麗美さんらしくないものだった。
 かといって悠太の滑りとも違う。
 麗美さんの顔に焦りの表情が浮かぶ。

「緑川の奴どうしたんだ、麗美さんになりきって演技できるんじゃなかったのか?」

 やがて4分の演技時間が過ぎ、麗美さんは再びリンク上で静止した。
 しかしその顔はうな垂れ、会場内にも唖然とした空気が漂う。

「篤志、失敗だ、俺は逃げる」

 リンクから上がった麗美さんはすれ違い様にそう言うと、得点が出るのを待たずに控え室に飛び込んでいった。

「お、おい、緑川、待て! 俺はどうなるんだよ!」

 あいつどうして失敗したんだ。これじゃあ何がなんだかわからないじゃないか。

「深田さん、お願いします」

 混乱する俺に向かって、係員がリンクに上がるように促す。

 落ち着け、今の俺は真帆、そうだ、あたしは真帆、真帆なんだ。

 今から演じる真帆のフリーのプログラムに集中した。
 演技構成の流れが頭の中に描き出される。

「よし!」

 俺はリンクに滑り出た。
 場内が大歓声に包まれる。
 緑川麗美の無残な演技に、深田真帆の優勝を確信した観衆の声援だ。
 俺は真帆になりきってスタートのポーズを取ると、音楽が始まるのを待った。
 ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」が場内に流れ始まる。
 その軽快なリズムに乗ってエッジを蹴り滑り始めた俺は、滑走のスピードを上げる。
 そしてくるりと回転して体勢を整えると、そこからトリプルサルコとトリプルルッツの3回転の連続ジャンプ。
 それは普段の俺にはとてもできない技だが、真帆は軽々とこなしている。だから真帆になった今の俺にとっても、さほど難しい技ではない筈だ。
 真帆の記憶に従ってジャンプする。
 軽やかに飛び上がる。

 よし、いける!

 空中で回転しながら俺はそう思った。
 だが着地のタイミングが合わない。
 バランスを崩した俺は、大きく尻餅をついていた。

 ああ~

 観客から大きなため息がこぼれる。

「焦るな、落ち着け、落ち着け」

 そう呟きながら起き上がった俺は、再び滑り出す。
 だがその後もタイミングを修正することができない。
 乱れるスピン、揺れるスパイラル、どの技もうまく演じることができない
 プログラム中盤に入っている真帆得意のトリプルアクセルも再び着地に失敗し、尻もちをついてしまった。
 普段の真帆では考えられない演技に、観客からどよめきともため息ともとれない声が上がる。

 どうしたんだ!?

 真帆の演技構成はしっかり覚えているのに、頭ではわかっているのにタイミングが微妙に合わない。

 いけない、これじゃあ。

 だが焦れば焦るほど、演技はばらばらになっていった。
 そしてようやく4分が終了する。
 ジャンプもスピンもいつもの真帆からは考えられない出来だった。

 惨めだ。

 観客はしーんと静まり返っていた。

 くっ!

 俺は逃げるようにリンクから上がると、控え室に逃げ込もうとした。
 だが俺の腕はリンクのエプロンで誰かの手にしっかりと掴まれ、静止させられていた。

「真帆!」

 腕を掴んだのは母さんだった。
 母さんは俺をじっと見詰める。

「いったいどうしたの?」
「ご、ごめんなさい」
「真帆、あたしに謝ってどうするの。上手く演技できなかった自分を恥じなさい。応援してくれた観客に謝りなさい。いくら出来が悪かったからって逃げるのは最低よ。ちゃんと自分の得点を自分の目に焼き付けなさい」
「う、うん」

 結局、俺は母さんと共に、得点が掲示されるのを待った。
 そして表示された得点は当然ながら技術点、構成点ともにひどいものだった。

「こういう時もあるわよ。でもこのくやしさを忘れないこと。もう二度とこんな思いをしないようにね」

 母さんは怒るでもなく、俺をこんこんと諭した。
 俺は呆然とその言葉を聞いていた。
 心の中からすすり泣きが聞こえる。
 真帆が泣いていた。

 ごめん、真帆……

 ショートプログラムで1位と2位だった真帆と麗美さんは、結局7位と9位に沈んでいた。



 俺は母さんと別れると、控え室に飛び込んだ。

「おい緑川、どういうことだ!」

 既に紺色のパンツスーツに着替え終えて椅子にしゃがみ込んだまま呆けている麗美さんに向かって俺は怒鳴った。

「……わからない」

 ぼーっと麗美さんが答える。

「わからないって、おい!」
「完璧に演技できるつもりだった。だけどタイミングが合わないんだ」
「俺もそうだった。何故なんだ? おかげで真帆は優勝し損なった。満足な演技をしてあげられなくって真帆に申し訳ないんだ。これって結局俺が下手だったからなのか?」
「違うよ。俺は2回目だから体を動かすコツはわかったし、アネキの動きだって完全にトレースできた。それなのに演技は失敗してしまったんだ。考えられるとしたら、多分……二人分だからだろう」
「二人分?」
「今の俺の身体はアネキの体と俺の体が重なっている状態、つまり二人分なんだ。お前もそうさ。だからアネキや真帆ちゃんの感覚で滑っても、タイミングが合わないんだろう。滑り込んで修正すれば、もう少し何とかなったなもしれないが、ほとんど練習できなかったからな。くそ、うっかりしてたぜ」
「二人分……ねえ」

 わかったような、わからないような説明だったが、とにかく練習で鍛えた精密機械のような真帆の演技を今の俺がやろうとしても無理だということだけはわかった。

「で、これからどうするんだ?」
「早いとこ元に戻ろう。昨日の俺みたいにトイレで用を足せば元に戻れる。でもここじゃまずい」
「まずいって?」
「馬鹿! この体から抜け出たら俺たちは裸だぞ! 裸のまま女子トイレから出るつもりかよ!!」
「あ! そりゃあまずいな」
「とにかくお前は真帆ちゃんに成りすましたまま家に戻るんだ。そして家のトイレを使うんだな」
「俺の服が男子トイレに隠してあるんだが」
「今日はあきらめろ。もよおさないうちに、早く帰ったほうがいい」
「このままトイレに入るのか?」
「女の子としておしっこするのもいい経験だろう」
「おしっこ……ねえ」

 真帆や麗美さんがしゃがんでおしっこする姿を想像して、俺は顔を赤らめた。

「明日部活で会おう。ぐずぐずしてるとマスコミの取材攻めに遭いそうだから、俺は逃げる。お前も急いだほうがいいぞ。じゃあな」

 麗美さんは立ち上がってそう言い残すと、そのまま控え室から出て行った。
 残った俺は、真帆の服に着替えると、出口で待ち構えていたマスコミを何とか振り切って家に帰った。

「ふう~、何とかたどり着いたぜ」

 家の玄関を閉め、安堵のため息を漏らした俺は それと同時にぶるっと下半身が震わせた。
 緊張感が解けたせいか、急にもよおしてきたのだ。
 早速トイレに入る。
 女の子のおしっこのやり方は真帆の記憶から戸惑うことはなかったが、それでも真帆としておしっこするというのは、何とも気恥ずかしい。
 ミニスカートの中に手を入れ、ストッキングと一緒にショーツを下ろして便座にしゃがみ込むと、力む間もなく俺の股間からしゃーっとおしっこがほとばしり出てきた。

「ふぅ~いい気持ちだ」

 排泄の開放感は男も女も同じだ。
 膀胱に溜まっていたおしっこが全て出終わると、トイレットペーパーを引き出して、濡れた股間を拭く。
 程なく全身がむすむすしてくる。
 そして気が付くと、狭いトイレの中で、俺は便座に座ったまま眠っている真帆の前に立っていた。
 慌ててトイレから出て服を着る。
 その後しばらくすると、真帆がトイレから出てきた。

「おにいちゃん、あたし今日もトイレで寝ちゃったの?」
「お、お前、また寝てたのか。ま、まあやっと競技会も終わったし、緊張が解けたんだな。しばらく練習を休んだほうがいいんじゃないのか?」
「ううん、休んでなんかいられない。なんで今日はあんな演技しかできなかったんだろう……くやしい」
「お前、今日の演技のことを覚えて、いや気にしてるのか?」
「うん。控え室で着替えてたら急に訳が分からなくなっちゃって。おにいちゃんの言うとおり、本当はすっごく緊張しちゃってたのかも。自分で何をしゃべっているのかもわかんなくなって、体も思うように動かなくなって、挙句にあんな演技しかできなかったなんて」

 ぽたっと、真帆の目から涙がこぼれる。

「ま、真帆……俺……」
「あたし、スケートが好きなの。この気持ちだけは誰にも負けないと思ってた。なのに……ほんとあたしって最低。でも大丈夫、もう二度とあんな演技はしない。もっともっとがんばらなくっちゃね」

 涙目を手でこすりながら笑う真帆。
 めげてない真帆に俺はほっと安堵のため息を漏らした。

(真帆、ほんとにごめんよ)

 俺は心の中でただ謝るしかなかった。
 真帆になって最終組で滑れたらどんなに良いだろうとずっと心の中で思ってた。
 でもそれは間違ってたのかもしれない。
 あの不思議な飲み物のおかげで願いを叶えることはできたけれど、もう2度と真帆になりたいなどと願うまい。
 俺は固く誓っていた。



 翌日の部活、リンクで練習を始めた俺は、今まで何度チャレンジしてもできなかったダブルアクセルや高速スピンが楽々とできるようになっていた。
 何の躊躇もなく体が動く。
 ジャンプやスピンをする自分のイメージが描ける。そしてそのイメージ通りに体が動くのだ。

「これって真帆になったおかげなのか!?」

 ダブルアクセルを再びピタリと決めることができた時、言いようのない爽快感が体を包む。
 と同時に、親父に言われるまま惰性で続けていたフィギュアスケートを好きになっている自分に気が付いた。

「この気持ち、これって真帆と同じ気持ちだ。そうだ、俺だってフィギュアスケートが好きなんだ。真帆、俺ももう少しがんばってみるよ」

 今更オリンピックを目指すなんて無理かもしれない。
 でももっと上手くなって、せめて大学選手権の最終組で滑れるようになってやる。
 俺は心の中でそう決心していた。



「おい、篤志」
「緑川か」

 エプロンで休憩している俺に、緑川がにこにこと笑いながら近寄ってきた。
 だがその左目の下は、殴られたように青く腫れている。

「昨日はすまなかったな」
「俺は大丈夫だ。でも真帆に悪いことしたよ。ところでお前、その顔どうしたんだ?」
「これか?」

 緑川が腫れた目元をさする。

「家に帰ってトイレの中でアネキから抜け出たんだが、俺がトイレから出る前にアネキが目覚めちまって、ぼこぼこにぶん殴られちまった」
「トイレの中で麗美さんと二人……お前は裸で……」

 そりゃそうだよなあ。
 苦笑する俺の前で、緑川はカバンから何やら取り出した。

「それより篤志、アレが新入荷したって聞いて早速買ってきたんだが、どうだ、今度はあいつらになってみないか?」

 リンクで滑る女子部員を目で追う緑川の手には、あの飲料が握られていた。


「懲りないやつ」


(終わり)

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