41:終幕へ向かうために
窓を開ける間もなく入り込んできた三人に……もとい三体の亡霊に、メイドが甲高い悲鳴を上げた。
騎士たちも警戒より驚愕を顕にし、事前にカティナから墓地の話を聞いていたレナードでさえも顔を青ざめさせ息を呑む。
だが当人達は周囲の恐怖も畏怖も気にかけることなく、カティナの元へと向かうとその顔を窺うように覗き込んだ。
カティナもまた彼等を見つめる……が、視点が定まらず、元より霧のように灯る彼等の体が今はよりその明確さを失って見える。ぼんやりと、すべての輪郭がはっきりとしない。
「ごめんね……失敗、しちゃった……」
「いいのよカティナ、無理に喋らないで」
落ち着いて呼吸をして、とシンシアが穏やかな声色で宥め、そっとカティナの頬に手を添えてきた。
普段であれば赤い瞳を細めてそれを受け入れるカティナだが、今はその余裕もない。彼女の冷たさも感じることなく、声も徐々に遠下がっていくように聞こえる。
意識が引っ張られるようで、心臓が痛いくらいに跳ねる。荒い呼吸に合わせるように全身が脈打つが、それでいて指一本自分の意志では動いてくれない。掠れる声でシンシアを呼ぶのがやっとだ。
「カティナ、貴女を死なせたりしないわ。……たとえ冬の湖に沈んでも、必ず私が掬い上げてあげる」
そう穏やかに、それでいてはっきりと断言し、シンシアがカティナの額にキスをするように顔を寄せた。彼女の唇とカティナの額が触れようとし……その寸前でふわりとシンシアが透ける。
その瞬間、カティナの全身に冷気が伝った。
体も手足も指先さえも凍てつきかねない、頭から冷水をかけられたような寒さ。いや、冷水など生ぬるい、これはまるで氷が張る真冬の湖に突き落とされたかのよう……。
「シンシア……」
「カティナ、寒い?」
「寒くて、冷たくて……なんだか、目の前が、真っ暗で……」
真冬の湖は冷たく、底は光一筋射し込むことなく暗い。月明かりさえも届かない深い闇に沈む感覚に、カティナか恐怖を覚えて再びシンシアを呼んだ。
暗闇の中で縋るように手を動かすも、ほんの少し指先が揺れる程度だ。だがそれでもシンシアは気付いたのか、カティナの指先により一層の冷たさが伝う。
「真っ暗が怖いの? でも大丈夫、それは夜の暗さよ」
「……よる、の」
「えぇそう、いつも迎える夜の暗さよ。ほらもうこんな真夜中。だから起きて、お寝坊さん」
子供をあやすような優しい声色で告げられ、カティナが引きつる喉を震わせて息を吐いた。
真冬の湖に沈むようなこの闇は、あの墓地で迎える夜の暗さ。ならば真冬の湖に突き落とされたかのようなこの寒さも、あの墓地に住まう亡霊達の冷たさか……。
そう考えればカティナの胸に湧いていた恐怖が薄れ、緩やかになる心音と共に深く息を吐いた。呼吸が次第に楽になる。ゆっくりと、まるで眠りにつくかのような緩慢な呼吸。
「カティナ」
と、アルフレッドの声が聞こえ、次いで寒さを覚えていたカティナの手に何かが触れた。
亡霊達と触れ合う時の冷気とは違う、確かな感触。それでいて人肌のような暖かさは無い。
きっと彼が手を握ってくれているのだ。握り返したいのに……そうカティナか心の中で呟く。既に手は殆ど動かず、薄れゆく意識の中で彼の声を拾うのが精一杯だ。
「教えてくれカティナ、倒れる前に俺に何を言おうとしたんだ? 姉さんがどうしたんだ?」
「あの時……そう、ジルの手が……」
倒れる直前にアルフレッドに伝えようとした言葉。
それを掠れる声でカティナが口にすれば、アルフレッドが息を呑む音が聞こえてきた。「そうか……」と呟かれる彼の声は随分と低い。
「カティナ、少しだけ待っててくれ」
「アルフレッド……どこか、行っちゃうの…?」
「あぁ、だけど大丈夫だ。必ず戻ってくる。たとえ全て失敗に終わったとしても、俺はカティナから離れない」
「……でも」
縋るようにカティナがアルフレッドを呼ぶ。
だが急速に冷えていく体は相変わらず動いてくれず、喉も薄く空気を通すだけだ。
心臓が凍り、血管さえも凍りついてしまったようで、もはや彼に手を握られているのかさえ分からない。だからこそ側に居て、手を握り続けていて欲しいと願う。
このまま意識が薄らいで死ぬのなら、最後まで彼の声を聞いていたい。
そうカティナが訴えるも、アルフレッドは僅かに躊躇うように小さく息を吐くだけだ。
肯定はしてくれない。それどころか、言い聞かせるように「行かなきゃいけない」と呟いた。
「カティナ、君は以前いまの俺を『死んでるけどまた動いているだけ』と言っていた。正直に言えば、俺はまだその感覚が理解出来ていない。だけどもし俺が君より先に死んでいるというのなら、その先で必ず君を待つ。もしも君が先に死ぬことになるのなら、必ず追いつく。ようやくカティナの隣に来れたんだ、何度死んだってもう離さない」
だから、と告げるアルフレッドの声は何かを決意したかのようで、立ち上がったのだろうか眼前より少し離れて聞こえてきた。
だがそれを確認することも出来ないのは、カティナの体がより一層の冷気に包まれ体温を奪われたからだ。もう喋ることも出来ず、夢と現を彷徨うように意識が朦朧とする。
「シンシア、カティナを頼む。俺が死ぬまで時間を稼いでくれ」
「任せて。さぁカティナ、もう少し体を冷やしましょうね。私に抱きしめられているみたいでしょう?」
生気を失った白い肌、瞳を閉じ、薄い呼吸を繰り返す。今この瞬間にも事切れておかしくないカティナに、シンシアが優しく話しかけて頬に触れた。
だが実体の無い彼女には直接触れることは出来ず、手を透けさせてカティナの体を冷やすだけだ。だが今はそれで良い。
「カティナ、眠っちゃ駄目よ。ねぇお話しましょう。墓地の連中は私の話を聞き流すのよ。美しいドレスの話も、毎夜呼ばれたパーティーの話も、私も囲んで褒めそやしてきた男達の話も、ちゃんと聞いてくれるのはカティナだけなんだから」
ねぇ、と優しい声でシンシアがカティナを呼ぶ。
それを横目にアルフレッドは最後に一度カティナの手を強く握り、惜しむように放すと共に立ち上がった。
カティナのそばに居たいと思う、だからこそ今は行かなければならないのだ。
だが当然周囲はそれを良しとせず、亡霊達の出現に圧倒されていた騎士達がアルフレッドが立ち上がった事で我にかえるや剣を抜き出した。
レナードがそれを制止しようとするが、この状況下、詳しく話すことの出来ない彼の制止で事態が収まるわけがない。それどころか刻一刻と騎士が増え、アルフレッドが一歩でも動き出せば切りかからんと構えている。
だが次の瞬間、警戒と敵意を顕にしていた騎士達の顔が一瞬にして青ざめ、そして怯えの色を宿した。
アルフレッドの隣に、ふわりと浮かび上がる騎士の姿を見たからだ。
「……ヘンドリック卿」
アルフレッドが彼の名を呼ぶ。
だがヘンドリックはその呼びかけに応えることはなく、立ち塞がる騎士達を睨みつけている。
その眼光の鋭さ、全身から漂わす気迫。そこにカティナをパンプキンと呼び纏わりつく普段の面影はなく、視線だけで相手を貫き殺せそうな程だ。憎悪を訴える瞳。
その迫力に気圧され、騎士達が僅かにたじろぐ。
「いいか貴様ら、この男の行く手を阻んでみろ、俺が一人残らず胴を掻っ捌いてやる」
唸るように告げ、ヘンドリックが青白く灯る体を揺らして腰の剣に手を掛けた。
ゆっくりと引き抜かれるのは実体の無い剣。だがまるで今まさに誰かを斬り殺したと言わんばかりに真っ赤に染まり、騎士達の中で小さな悲鳴が上がる。
それを聞き、ヘンドリックの瞳に憎悪の色がより濃くなっていく。まるでかつて己を討った同胞を……同胞だと信じた挙句に謂れのない罪を被せてきた者達を前にしているかのようではないか。
青白い炎が足元に灯り、彼の体を這うようにせり上がり腹の周りに纏わりつく。さながら腹を捌かれ青い血を流すように……。
それがまたヘンドリックの姿をより恐ろしいものとさせ、メイドか恐怖に崩折れ、騎士達が身を震わせ後ずさる。
だがそれでもヘンドリックは眼光を和らげることなく、それどころかより一層の憎悪を宿して彼等を睨みつけた。
「何が名誉だ、何が騎士だ! 誰か一人でもこの子を守ろうとしたか!? 誰か一人でもこの子の名前を呼んでやったか!? 可愛い可愛い、俺達のカティナ! この子の名前を口にするたび、のうのうと生きるお前達の腹を掻っ捌いてやりたくなる!!」
吼えるようにヘンドリックが声を荒らげれば、周囲で灯っていた炎が呼応して勢いを増す。
「行け、アルフレッド」
「ヘンドリック卿……」
「カティナは必ずこの俺が守る。どんな不名誉の果てに殺されようと、俺はこの子の騎士だ。何があろうと指一本触れさせないと誓おう。だからお前も、必ずカティナより先に死ぬと誓え」
「……あぁ、必ず」
顔を見合わせることなく眼前に立ち塞がる騎士達を見据え、それでも互いに誓い合う。
次の瞬間ヘンドリックの剣を赤く染めていた血が一瞬にして炎に変わり、彼が剣を振るうとまるで焼き尽くさんばかりの勢いで騎士達へと向かった。
誰もが恐怖に慄き道を開ける。
真っ赤な炎はまるで絨毯のように床を這い周囲を退け、アルフレッドがその上を駆け出した。




