30:雨の庭園と薔薇の宝箱
ポツポツと雨粒が窓を叩く。大粒なあたり次第に雨量を増していくのだろう。日を覗かせていた空も今は色濃い雲に覆われ、湿気を帯びた生暖かい空気が肌にまとわりつく。
そんな中を、カティナは呆然としながら歩いていた。雨粒が容赦なく頭上から降り注ぐ。雨量を増した雨に晒され全身が塗れていくが、それも今はどこか別の世界のように思える。
ワンピースが雨を吸うが重いとも思わず、体温が奪われていっても寒いとも思わない。
そうしてふらふらと彷徨うように歩き、庭園へと辿り着いた。
美しいはずのそこは悪天候で影を落とし、雨粒に叩かれた花達がどこか重たげにその花弁を揺らしている。赤い薔薇は濡れてより色を濃くし、まるで雨に怯えているかのようだ。
カティナが牽かれるように薔薇へと手を伸ばし……触れた瞬間にピリと走った痛みに反射的に手を引いた。雨に濡れた指先にうっすらと血が滲む。
薔薇の棘を刺してしまったのだろう。
だが滲んだ血も溢れるほどではなく、雨に負けて溶けるように消えていった。傷跡も無く、服で拭えばどこを痛めたのかもう分からない。
だがその痛みはいまだ響いているようで、それどころか指先から体中に浸食し心までも締め付けてくる。あまりの息苦しさに、耐えきれずカティナが小さく息を吐いた。
薔薇には毒でもあったか。そんな事を考えてしまうくらいに胸が苦しい。
「カルティア様!」
声がかけられたのは丁度その時だ。
見れば傘を差したメイドがこちらに駆け寄ってくる。それを見て「傘……」とカティナが小さく呟いた。
そうだ、雨が降ったら普通は傘を差すものだ。そんな当たり前のことも忘れていた。
墓石を磨く以外に墓守の仕事は無く、雨が降れば当然休業である。あの墓地では雨が降ったらカティナは小屋に籠り、亡霊達が来てくれた。外に出ることなく、雨粒が墓石を叩くのを皆で小屋の中から眺めていたのだ。
時にシンシアやヘンドリックが雨量を見にいくかのように外に出たが、濡れることなく飄々と「酷い雨だ」と帰ってきた。実体のない彼等に雨は関係なく、豪雨だろうが雷雨だろうが青白く灯る体は透かしてしまうのだ。
『雨の日に外に出るなら傘をさす』あの墓地ではそんな当たり前のことさえ風化していた。
「カルティア様、こんなに雨に降られては風邪をひいてしまいます」
「でも、朝食が……」
「ジル様もすでに屋内に戻っています。食事でしたら、先程ジル様から改めて昼食にお招きしたいと申し出がありました」
「……そう」
「仰ってくだされば、カルティア様自ら出ずとも私達が出ましたのに。それかせめて、傘を持ってくるよう命じてください。さぁカルティア様、はやく屋内へ」
メイドに促され、カティナが王宮内へと戻る。
体が冷えているとメイドが労ってくるが、ならばとカティナが己の腕に触れても冷えている実感はない。暖かくない、その程度だ。
カティナにとって冷たいというのはもっとひんやりとしていて、体が震えあがるほどのものだ。生気の感じない冷たさ、それが常である。
だがそれはあくまでカティナの感覚、あの墓地での話。この王宮でその冷たさを……『死んだ人間の冷たさ』を知っている者はそう居ないだろう。居たとしても、すり抜けられて全身で冷気を味わうような経験は決してないはずだ。
「今着替えをご用意いたします」
「着替え、そんな別に……」
「ジル様から、カルティア様によくするよう言い渡されております。これでカルティア様が風邪をひかれたら、ジル様はさぞや悲しむことでしょう。自分が食事に誘ったせいだと知れば尚の事です。どうかこれ以上ジル様を悲しませないでくださいませ」
悲痛な声色で話し、メイドがカティナの腕を擦ってくる。
着替えの準備が出来るまで少しでも暖めようと考えているのだろうか。彼女の手から徐々に熱を与えられ、カティナがゆっくりと瞳を細めた。
生きた人の肌は暖かい……そんなことを改めて実感する。今更なこの実感は、これもまた哀れといえるのだろうか。
そうしてメイドが用意してきた服を受け取り、一室へと入る。
気をきかせてくれたのだろう部屋は暖まっており、濡れて冷え切った服を脱いでいけば徐々に熱を取り戻していく。
タオルで体を拭い目新しい下着を身につけ……と着替えを進めていると、それを遮るようにノックの音が響いた。
今着替えている、そうカティナが答えようとするも、それより先にガチャと音をたてて扉が開かれた。隙間から金の髪がふわりと覗く。中を窺うように顔を出してきたのは……ジルだ。
「カルティア、大丈夫?」
「……ジル様」
「あら、まだ着替えていたのね。ごめんなさい」
謝罪の言葉こそ口にするが、それでもジルは扉をしめることなく、それどころか部屋へと入ってきた。
もっともカティナも裸というわけではなく既に下着は着ている。ならば追い出す必要もないかと考え、彼女の不躾さに何も言わずにおいた。
そんなカティナの考えを察したのか、もしくは何も言ってこない事を入室の許可と取ったか、ジルが微笑みながら近づいてきた。今日も黒い手袋で覆われた彼女の手には、真新しい一枚のタオル。それをゆっくりと広げ、カティナの髪を包むように拭きだした。
「ごめんなさいね。午前中は大丈夫って言われていたのに、まさかこんなに早く降るなんて思わなかったわ」
「ジル様、自分で拭きます」
「いいのよ。綺麗なカルティアの髪を拭かせてちょうだい。濡れても色褪せない綺麗な銀、庭園で見たかったわ。赤い薔薇に囲まれて……なんて綺麗」
雨が降っていても心は快晴の庭園にいるのか、ジルがうっとりと語る。
それを聞き、カティナがそういえばと己の手を見た。彼女の口から『薔薇』という単語を聞き、棘で指先を痛めたことを思い出したのだ。
だが改めて見ても傷跡は無く、既に痛みも消え失せている。今となってはどこを刺してしまったのかもあやふやだ。
「どうしたの?」
「いえ、さっき薔薇に触ろうとして棘が」
「怪我をしたの!? どこっ!」
突如声を荒らげ、ジルがカティナの手を取った。
掴みあげるような強引さ。彼女らしからぬ行動にカティナが目を丸くさせたが、ジルはそれにも気付くことなくカティナの手をじっと見つめていた。
鬼気迫るといっても過言ではない瞳に、いつもの穏やかさは無い。それどころか険しいとさえ言えるだろう。
元の美しさも合わさって、彼女の性格を知らない者が向けられれば臆しかねない程の眼光だ。
「あ、あの、大丈夫です。怪我というほどでもないので、それに傷跡もないし」
「あら、そうなの? 傷跡はないのね。……良かった、綺麗なカルティアが傷を残すなんて耐えられないわ」
カティナが無事だと知って安堵したのか、ジルが深く息を吐いた。
今の彼女の表情は普段通り麗しく穏やかで、強引に手を掴んできた一瞬のことがまるで嘘のようだ。微笑んでカティナの手を取り、時折はいたずらに擽ったり握ったりしてくる。
そんな彼女の手は黒い手袋で覆われている。その下にある左手の薬指は……。
「ジル様は心配性ですね」
「綺麗なものを大事にしたいと思うのは当然のことよ。誰だって、宝物は傷つかないよう宝石箱にしまうでしょ?」
「そうですかね?」
あいにくとカティナには箱にしまいたくなるほど大事なものはない。だからこそボンヤリとした答えしか返せずにいると、ジルがスルリと手を伸ばして頬を撫でてきた。
手袋の布が少し湿っているのは、濡れた髪を拭いた時に水を吸ったからか。
左手だ。薬指が鼻先を擽るが、その感覚もなんら違和感はない。本当に布の下に義指があるのかと疑ってしまいそうなほどだ。
そんな薬指がゆっくりとカティナの鼻先を撫で、頬を伝い、唇に触れようとする。あまりの擽ったさにカティナが身を捩らせて逃げたが、ジルの左手はそれでも追いかけてくる。
「……ジル様?」
「そうよ、綺麗だから……だからカルティアも美しい箱に……」
「箱に?」
ポツリと呟かれたジルの言葉に、カティナが彼女を見つめて問いかけた。
先程まで庭園にあった心が今度は宝石箱にでも入ってしまったのか、彼女の視線はカティナを向いているものの瞳は定まっていない。いつもの夢心地だ。
箱というのは、きっといつもの彼女の冗談なのだろう。
そう考えカティナが何かを言おうとし、響いたノックの音に言葉を止めた。唇に触れようとしていたジルの指もピタリと進行を止める。
返事をすれば扉がゆっくりと開かれ、開いた隙間からメイド顔を覗かせた。
どうやらジルあてに客が来ているようで、それを聞いたジルが参ったと言いたげに肩を竦めた。唇に触れかけていた薬指がパッと離れていく。
落ち着いてカティナを堪能出来ないと嘆く彼女の表情は普段通りだ。冗談めいたその嘆きに、カティナが肩を竦めて返した。
「着替えを邪魔してごめんなさいね。お詫びに昼食を豪華にするから、アルも呼んで三人で食べましょう」
「はい、楽しみにしています」
「それじゃカルティア、またお昼に」
パチンと優雅にウインクし、ジルがメイドに促されるまま部屋を出ていった。




