3:永遠のために踏み外す第一歩
横たわる亡骸を覗き込み、まず最初に言葉を発したのはシンシアだ。
彼女は最初こそカティナを奪われた恨みと言わんばかりの表情を浮かべていたが、男の顔を見ると「あら」と声色を明るくさせた。
「これがカティナを独り占めしていた男ね。許すまじと思ってたけど、良い男じゃない。私のかつての取り巻き達の中でも上位に入るわ。出てきたら可愛がってあげる」
上機嫌で告げて、シンシアが亡骸の上でクルリと回る。まるでダンスのエスコートを強請っているような愛らしさだ。それどころか「早く出てきてちょうだい、美丈夫さん」と促しだす始末。
そんなシンシアに対して、ヘンドリックはいまだ恨めしそうに亡骸を睨みつけていた。彼からしてみれば、亡骸の見目が良かろうが関係ないのだ。
「こんな見た目だけの若造に可愛いパンプキンを守れるものか! 出てこい! 俺と勝負しろ!」
片や好意を示し、片や敵意を示し、シンシアとヘンドリックが揃えたように横たわる亡骸に訴える。だが真逆な意見ではあるが、二人ともこの亡骸から整然の姿そっくりの青白い亡霊がふわりと現れるのを待ち構えているのだ。自分達がかつてそうであったように。
そんな彼等を横目にカティナは肩を竦め、「出てこないよ」と割って入った。
「二人がどんなに呼んでも無駄だよ。残念だけど、彼は出てこない」
「あらそうなの? ならこのまま埋めておしまいね。ばいばい美丈夫さん、また次も麗しく生まれ変わったら死んでこの地に来てちょうだい」
「そうか、つまり亡骸から出てくることも出来ないのだな! 軟弱者め!」
「そういうわけでもない」
一刀両断するかのようにきっぱりとカティナが否定すれば、シンシアとヘンドリックがどういうことかと首を傾げる。だがカティナはそんな二人に答えを教えてやることもなく、棚から蝋燭を取り出すと慣れた手つきで火を灯した。
炎が揺らぎ、部屋が僅かに赤く色づく。それを机の傍らに立て、用意しておいたナイフを手に取った。いつ来るのか、むしろ来るのかすら分からないこの日のためにと磨いていたナイフだ。
左の掌、そこに描いておいた模様に沿って刃先を食い込ませる。半ば強引に押しやれば、プツと刃先が掌の皮膚を破いた。
ゆっくりとナイフを引けば皮膚が切れて模様を上書きするように赤い筋が描かれ、滲むように血が溜まり始める。痺れを伴う痛みにカティナは眉を潜めつつそれでも数度ナイフを引き、ようやく模様を赤で埋めると深く息を吐いてナイフを机に置いた。
強く手を握れば傷が脈打つように痛みを増し、握りしめた隙間から赤い血が伝う。
その手をゆっくりと蝋燭の上にかざし、一段と強く手を握りしめた。
血が肌を伝い縁に溜まって滴を作る。真っ赤な血の玉がふるりと一度揺れ、重力に負けてポタリと炎に落ちた。
その瞬間、赤々と灯っていた炎が青白く色を変えて業火のように勢いを増した。
本来であれば風など伴わないはずなのに舞い上がる炎に煽られ、カティナの銀糸の髪がふわりと揺れる。肌を撫でて舞い上がるこの風は生暖かく湿気を帯び、ぞわりと胸に言い得ぬ感覚を覚えさせる。カティナが耐えるように僅かに瞳を細めた。
横たわる亡骸に描かれた紋様が呼応するかのように灯りだし、部屋中が青白い光と風で満ちる。
「おっと、もう始まってたか」
とは、そんな尋常ならざる光景の中、それでも憶するでもなく驚くでもないギャンブルの声。壁を擦り抜けてきた彼は、まるで余興に間に合ったとでも言いたげではないか。
だが同じ亡霊でもシンシアとヘンドリックにはそこまでの余裕な無いようで、室内だというのに渦巻き吹き荒れる風と刻一刻と勢いを増して灯る蝋燭の炎に、実体のない身を寄せ合って驚愕を示している。
「ギャンブル伯、これは何なの!?」
「な、なんだこれ……。引き寄せられるような、弾かれるような、変な感覚がする……」
「なんだ、まだヘンドリックは影響されるのか。シンシア嬢、そいつを押さえておいてやってくれ。なに、これはまだ第一歩だ」
どこか楽し気にギャンブルが告げれば、渦巻いて吹き上げていた風が一層強まった。
カティナのローブが大きく煽れ、まるでマントのように裾がなびく。
だがこの突風の中でも手にする蝋燭の火は消えることなく、それどころか威力を増していく。そんな蝋燭をゆっくりと傾ければ、まるで先程の血のように青白い蝋が蝋燭の縁に溜まり、吸い込まれるように横たわる亡骸の唇へと落ちていった。
一瞬、炎が舞い上がるように灯り、まるでそれを最後に事切れたかのように風が止んだ。
青白い炎が赤い小さな灯に変わり、何事も無かったかのように微かな風に震えるように揺れている。
嵐が去ったと言わんばかりの沈黙が続き、はたと我に返ったシンシアとヘンドリックが慌てて離れた。
「カティナ、よくやったな。まずは第一歩おめでとう」
「ギャンブル伯、いつの間に来てたの?」
「ちょっと前からな。こんな面白い賭けを見逃したら名が廃る。もちろんお前の成功に賭けてたからな」
「賭けって……」
楽し気なギャンブルの口調に、カティナが呆れたと言いたげに答えた。
遊びではないのだと咎めるように見つめるも、当然だが彼が考えを直すわけがない。――そもそも、ギャンブルの中で賭け事は遊びではない。彼の人生、それも終わってもなお尽きない人生だ――
これは何を言っても無駄か……そんな考えさえ浮かぶ。だからこそ肩を竦めるだけで済ませば、より上機嫌になったギャンブルが青白く灯る顔で笑った。
「でも確かに、賭けといえば賭けかもね」
そう呟いて、カティナが机の上の亡骸へと近付く。
依然として彼の顔色は青ざめており、閉ざされた眼が開くことはない。唇に垂らしたはずの蝋は無く、体の紋様も今は落ち着いたかのように灯ることなく彼の体に描かれている。突風が吹く前となんら変わることないその光景の中、カティナが蝋燭の炎を吹き消した。
最後に一度細長い煙が立ち上がり、部屋の中に消えていく。誰もがそれを視線で追いかけ再び亡骸を見れば、周囲の視線を集める中で白い指がピクリと揺れた。
固く閉じられていた瞼がゆっくりと開き、深緑色の瞳が覗く。
次いで、まるで今まで寝ていたかのように亡骸だった体が緩慢に起き上がった。金の髪が揺れる。
これに対して驚いたのはシンシアとヘンドリックだ。甲高い悲鳴を上げ、「死体が起き上がった!」と透けた体で身を寄せ合う。
だがカティナとギャンブルは驚愕の色も見せず、起き上がり気だるそうに額を押さえる青年に視線をやっていた。ゆっくりとした動き、些か体が重く不自由そうではあるが、それでも苦痛を訴えることもなく四肢はきちんと動いている。
損傷はないか、とカティナが小さく呟いた。今の彼は生気無く艶も見られないが、かといって死に至るほどの負傷は見られない。五体満足、まるで生きているかのようではないか。
ふわふわと浮かんでいたギャンブルもまた同じように彼を観察していたのか、チラとカティナに視線を向けると、楽しそうに瞳を細めて「俺は毒殺に賭けよう」と告げてきた。相変わらずな口調ではあるが、カティナも同感だと頷いて返す。
外観に損傷は見られない。刺殺の跡も無ければ、首に括られた紐の後もない。
つまり体の内部から滲むように殺されたのだ。起き抜けの彼が慌てる素振りも怯える素振りも見せないあたり、自分が死ぬと気付かぬうちに侵食されて殺された可能性が高い。
そんな観察するような周囲の視線が集う中、彼は体の強張りを解すように軽く腕を擦り、ゆっくりと顔を上げた。