2:森からくるもの
胸のざわつきを煽るように、生ぬるい、気味の悪い風が頬を撫でる。それ自体は別段珍しいものでもないが――なにせ誰もが忘れ去った墓地だ、清らかで心地良い風など吹くわけがない――それでも先程吹き抜けた風は気味悪さの中に妙な不安を抱かせる。
落ち着かない……カティナがローブの胸元を握りしめた。
「なんだろう、何か近付いてくる……」
ざわざわと胸の内を目の粗い布で擦られるような感覚に、カティナが窺うように周囲を見回した。
森の中で鳥達が甲高い鳴き声を上げて警戒している。
こんな夜中に、普通であれば誰もが眠っているはずの時間に、いったい誰がこの墓地を訪れるというのか……。
「良きものが来るか、悪しきものが来るか、賭けようかカティナ」
「ギャンブル伯」
また1体青白い亡霊がふわりと現れ、カティナがそちらへと視線をやった。
月を背後に、それどころかその身に透かし、どこか楽し気に森を眺める男。品の良い服装と優し気な瞳、口元の髭が大人の余裕を感じさせるが、そのどれもが色を失って青白く灯っている。
彼にしてみれば森から何が来ようと恐れるものではないのだ。いや、ギャンブルだけではない、シンシアもヘンドリックも、とうの昔に死んでいるのだから今更何を恐れるというのか。
「私は良きものが来ると賭けよう。もしも私が勝ったなら、その時は私の墓石を洗っておくれ」
「別に賭け事じゃなくてもお墓は洗うよ」
「なんと優しい子だろ! だがそれではつまらない。人生は賭けてこそ彩るものだ」
青白く灯るギャンブルの体がゆらりと揺れる。彼の足元にはまるで賛同するように同色の炎がポツポツと灯り出し、「来たぞ」という主の一言と共に一瞬強く燃え上がると彼共々消えてしまった。
甲高く鳴いていたカラス達も飛び去ったかそれとも警戒を強めて鳴くこともしなくなったのか大人しくなり、シンと静まった空気が漂う。
緊張感を煽るような沈黙に、残されたカティナが小さく生唾を飲んだ。
胸のざわつきが増していく。そんなカティナの胸中を更に煽るように、一台の馬車が大きく揺れながら森の中から姿を現した。
半月に一度訪れる物資や食料の運搬とは違う。黒一色の錆びれた馬車。補整されていない道が走りにくいのだろう大きく客車を揺らしながらも墓場の前にまで辿り着き、ひいていた二頭の馬がその足を止める。
馬車から出てきたのは黒い外套を羽織りフードを目深に被った男が三人。それと、彼等の身長はありそうな黒い棺。
いったい何かとカティナが窺いつつ、自分もまたローブのフードを深く被って顔を隠すと彼等に近付いていった。
三人の男の内一人がカティナに気付き視線を向けてくる。背が高く、三人の中でも体躯の良い男だ。
青白く灯ることもなく、肌や瞳にはきちんと〝生きた人間”としての色がある。それを一瞥して確認し、男達への挨拶もそこそこにカティナは棺へと視線をやった。
「墓守のカティナ?」
「そうだけど……そちらの棺は?」
「話がしたい。どこか人払いの出来る場所に通してもらえませんか」
「人なんていないよ」
生きている人間は、とカティナが心の中で付け足す。事実、この墓地で生きている人間はカティナだけだ。他にいるのは喧しい亡霊である。
もちろんそこまで説明する気もなく、それでもカティナは促されるまま彼等を小屋へと案内した。
客を渋るような小屋でもないし、「もしかしたら」という考えもあってのことだ。
もしも予想が当たっているとすれば、棺の中は……。
そうだとすれば、動けない内は彼等に運んでもらうしかない。カティナが出来るのは動けるようにすること、運ぶのは無理だ。
そう考えて小屋へと通すも、棺を運び入れるや先程の男が指示を出して残りの二人を馬車へと戻らせてしまった。
淡々と命じる声色から、彼等の関係に親しさが無いことが分かる。
「彼等は?」
「金で雇っただけです。金さえ渋らなければ深追いもしてこない、事情を説明する必要もない。何でもやる連中です」
雇いはしたが鼻持ちならないとでも言いたいのか、説明する男の口調は随分と厳しく嫌悪の色さえ感じさせる。次いで彼はすぐさま「それで」と話を切り替えると、運び込んだ棺に視線をやった。
カティナもつられるように視線を落とす。黒一色で飾りも文字の掘り込みも無い、身寄りも金も無い者を情けで葬るような棺だ。
それを見つめ、男が深く息を吐いた。揃えたように目深に被ったフードが互いの顔を隠し視界を遮り、カティナには今彼がどんな表情を浮かべているのか分からない。
「後のことは全て貴女に託す。三日前に行きずりで拾った男の亡骸、身寄りも無く眠る土地もないことを憐れんでここに葬ることにした。……そういう事になっています」
最後にポツリと告げて、男が陰鬱とした空気を纏いながら扉へと近づいて行った。一応見送るべきかとカティナが考え後を追おうとするも、「やるべき事をやってくれ」という一言で制止されてしまう。
そうして男が振り返ることもなく扉を閉めれば、馬の嘶きが響き馬車が走り出す音が聞こえてきた。それも次第に小さくなり、シンとした沈黙が小屋内に満ちる。
だがそれも、ふわりと現れた青白い男女に掻き消されてしまった。言わずもがな、シンシアとヘンドリックである。
「ねぇカティナ、それは誰? 新入りかしら? 良い男?」
「新人だ! ようやく俺の後輩が来た!」
先程までの喧嘩もどこへやら、棺の上で二体の亡霊がクルクルと回る。
そんな彼等にカティナは肩を竦め、ゆっくりと棺を撫でた。
青白い彼の顔に生気は無く、閉じられた瞳が開く様子はない。金の髪も艶を無くし、張りの無くなった肌は見て分かるほどに冷ややか。肌を露わにした上半身には心臓を中心に文様が描かれているが、その胸は上下することなく微動だにしない。
何色の瞳だったか、どんな声だったか……そんなことをカティナは考えつつ、薄暗い部屋の中で灯した明かり越しに横たわる亡骸を眺めていた。
彼が運ばれてきて三日が経った。
そしてようやく全ての準備が整い、カティナは久方ぶりに温かい紅茶を飲んで募っていた疲労を癒していた。
寝食を忘れて……とまでは流石にいかないが、殆ど掛かり切りだったおかげで彼の体が腐り始める前に準備を終わらせることが出来た。間に合ったのは、ここに運ばれてきた時点である程度の防腐処理が施されていたおかげもある。
良かったと安堵の息を吐き、カティナが横目でチラと窓の外へと視線やった。
「カティナ、私の墓石にカラスがとまっているの。追い払って、なんだったら奴らを群れごと焼き尽くしてぇ……」
「あぁ愛しのパンプキン、俺よりその亡骸の方が良いというのか……」
窓辺にべったりと張り付いて泣き言を訴えてくるのはシンシアとヘンドリックである。
邪魔しないでくれと彼等を追い出し、小屋への立ち入り禁止を言い渡したのがちょうど三日前、彼が運び込まれて直ぐのことだ。扉を施錠したところで壁を擦り抜けることの出来る彼等は律儀に言いつけを守ってくれているが、終始この調子である。
この世の終わりのような悲し気な表情を浮かべた青白い亡霊、それが窓辺に張り付いている、と考えれば誰もが竦み上がりかねない怪談話そのものだ。おどろおどろしさすら感じられるだろう。
もっとも、カティナからしてみれば呆れる光景でしかないのだが。
墓守離れできない亡霊だ……。そんなことを考えつつ彼等に近付いて窓を開ければ、ようやく許可が下りたと言いたげに二体の亡霊がするりと小屋の中へと入り込んできた。
それも、わざわざカティナの体を擦り抜けて。その際に伝う冷気に思わずカティナはふるりと体を震わせ、ローブ越しに腕を擦った。
ただでさえ彼の体の腐敗を遅らせるために小屋の中の温度を下げていたのだ。そのうえで二体の亡霊からの冷気……風邪をひいたらどうしてくれるのかと睨み付けることで訴える。
だがカティナのそんな訴えをシンシアとヘンドリックが聞き入れるわけがない。彼等はふわりと漂うと机の上に横たわる亡骸を覗き込んだ。