スカ女とノンスカ男
ぼくたちはプールで出会った。
ぼくはプールの中から彼女を見上げ、彼女はプールサイドからぼくを見下ろした。
ぼくは社会人になりたてで、まだまだ水泳に対する思いも、スイマーとしての自尊心も強かった。そんなこともあってか、ぼくはスイマーに対する嗅覚が発達していた。彼女をひと目見て、スイマーだと認識した。
ある種の職業人が他人とは違うオーラを出すように、しっかりと泳ぎ込んだスイマーは『しっかりと泳いでましたオーラ』を出すものだ。
それは一般人にはわからないものかもしれない。
ぼくたちスイマーには、頭髪の間からちらりと見える触覚が異星人を示すしるしであるように、あるいは微笑みの狭間に覗く尖った牙が吸血鬼の一族であるように、その物腰とオーラで、スイマーであることが、たいてい互いに一目でわかるものだ。
ぼくは、インターバルで彼女をちらりと見かけ、こいつはかなり泳げるスイマーだと感じた。
ぼくは往復コースの占有権を主張して、他人がコースに入り込めないようにロング・ディスタンスの練習を続けていた。
隣のコースで泳ぎながら見ていると、彼女の実力はぼくが鑑定したとおりで、田舎の畦道を走るフェラーリのようだった。彼女は前を泳ぐ女性との距離を充分にあけて、二十五メートルずつ泳いだ。
やがて、一方通行コースに人が増え、彼女は普通に泳ぐのを諦めたようだった。彼女はしばらくコースロープに肩を預けてコースの循環具合を確かめてから、スカーリングの練習を始めた。
ぼくもインターバルで一息ついて、彼女の手のひらが描く美しい軌跡のベルヌーイのレムニスケート(インフィニティ・シンボル)を眺めた。
息を整えると、やがてコースを占有していることに対する罪悪感がふつふつとわき、ぼくの心をちくちくと刺した。
ぼくはloosenを入れ、ふにゃふにゃと体をほぐしながら、慎重に、何気なく彼女の優雅なスカーリングをちらちらと観察した。
なかなかお目にかかれないほど美しく、指先の端々まで神経の行きわたったスカーリングだった。
彼女とタイミングを合わせて一息ついた。
既知の友人に挨拶でもするような気軽な様子を装って、しかしあまりちゃらちゃらした感じにならないよう、肩のストレッチをしながら、そして全身全霊の勇気をありったけ絞り出して話しかけた。
「あの、ご一緒に、サークル練習でも如何です?」
ぼくはコースロープ越しに彼女に声をかけた。
彼女はちらとこちらを見て、空耳かしらとでもいうように軽く小首を傾げてスタートした。
プールには七十年代のアース・ウィンド・アンド・ザ・ファイアが美しいファルセットを響かせていた。
ぼくは取り残された格好になり、周りをきょときょとと見回して、たった今起きた醜態を誰にも見られなかったことを確認した。
ぼくのなかで憎悪が募った。あの女、せっかく一緒に泳げるように声をかけてやったのに。
ぼくは美しい蝶を逃したこどものように悔しがり、かわいい猫ににゃーんと声をかけて逃げられた羞恥を味わい、なめらかな毛皮がきらきらと太陽をはじく黄金色の牝鹿を逃したハンターのように、ぎりぎりと歯噛みをした。
彼女がスカーリングを丹念にチェックしている様子を、逃した獲物のゆくえを熱心に見つめる狩人のように、しばらくの間、ぼくも熱心見つめた。
スイマーには二種類いる。スカーリングを信じるスイマーと、信じないスイマーだ。
ぼくは信じない部類だ。
神学論争であることは知っている。それでも信仰だから。
ひらひらと手を動かして水を撫でても、全く推進力にならない。誰がどう考えても抗力で推進力を生み出したほうがいいに決まっている。
揚力で推進力を得るなんて、バカげた話だ。ぼくはそう思う。
彼女は淡々とスカーリングを練習した。
ぼくはその熱心なスカーリングぶりに白けてしまって、その後ちょこっと泳いでさっさと上がった。
その後ずっと彼女には会わなくて、再び出会ったのはマスターズの大会だった。
大会といってもマスターズ協会の真面目なレースではなくて、ぼくが泳ぎにいっているスポーツクラブの、各店舗が対抗戦形式で泳ぐ大会だ。
横浜国際でもなくて、もちろん辰巳でもなく、いつもの習志野だ。
ぼくは午前中の個人メドレーと半バタで個人種目を終えた。
残るは二十五メートル×四名の男女混合リレーで、二十五メートルを一本泳いでさわやかに帰宅するつもりだった。
メンバーリストをコーチに見せてもらったが、たまに見かける中年男性以外は未知の人たちだった。
招集所に行ってきょろきょろしていると、その中年男性が、こっちこっちと手招きした。
「こんにちは。斉藤です。今日はよろしくお願いします」
「村上です。こちらこそよろしくお願いします」
ぼくらは目に見えない襷をつなぐ者同士、簡単に自己紹介しあった。
中年男性が、よう、と手を振った。
中年男性の視線の先には、あまり泳げない感じのオーラの中年女性と、例のスカーリング女がいた。
先日見かけたときにはゴーグルとキャップをしていてわからなかったが、スカーリング女はほんわかとした、ある種の齧歯類を思わせるかわいい顔だちをしていた。若い頃は屋外プールでしっかり泳いでいたことを窺わせるそばかす。何気ない動作や微笑んだときの目尻の様子から、ぼくよりも多少年上であることが予想された。
ぼくらは互いに挨拶をし、泳ぐ順番を確認した。スカ女は青山といい、中年女性は木下さんと名乗った。
中年女性はレース慣れしていないらしく、レースの雰囲気に呑まれていた。
「あたしだめかもしれない」「どうしよう、ゴーグルが外れたら」「前の人の上に落ちちゃったらと思うと、飛び込むのが怖い」などと、絶え間なく悲観的な自己暗示をかけようとしている。
「まあ、楽しくいきましょうよ、楽しく」
男性がムードメーカーを買って出た。
「打ち上げでビールをおいしく飲むために、今、一生懸命がんばる。これだけですよ。ねえ」
中年男性はぼくに同意を求めた。
「えっ、まぁ、そうですね」
中年男性は、うんうんとと頷いてスカーリング女にも顔を向けた。
「ねえ」
「まあ、そうですね」
「そうですか?」
「そうですよ」
「そうですね」
悲観的な中年女性は、変わらず悲観的なオーラを辺りに漂わせながら、中年男性に励まされながら、プールの反対側へ向かった。
一泳が中年男性で、二泳がスカーリング女、三泳が中年女性で四泳がぼくだ。
ぼくはスカーリング女と世間話でもしようかと思ったが、先日声をかけて失敗したことを思い出してなんとなく気後れして、黙々とストレッチをして身体を動かした。
中年男性はかなり善戦した。たまにしか見かけないが、かなり泳げる人だろうことは予想していた。十二秒台はまず間違いないところだった。
スカーリング女はスタート台に立つと狙いを定めるように両手を前に差し出した。ぼくは鋭い相撲の立ち会い直前のような印象を受けた。中年男性がプールの真ん中あたりまでくると、スカ女は獲物に飛びかかる虎のように、がっちりスタート台を掴んで身を低く構えた。ぼくも思わず身を固くした。
ぼくはスタート台のすぐ後ろでスタートの合図をかけるタイミングを見計らっていた。中年男性はラスト五メートルでピッチが落ちたのを確認して声をかけた。
「いくよー」
スカ女はぐっと身体を引いた。
「せい!」
ぼくが声をかけるのとスカ女が飛び出したのはほぼ同時だった。ツッコミ気味か?ぼくのイメージしているスタートよりスカ女が飛び出すタイミングが早い。思わずぼくは息を飲み込んだ。
ぼくは身を乗り出して、中年男性のタッチとスカ女の足が離れるのがぴたりと連動している様子がスローモーションで見えた。
ぜいぜいと息をしている中年男性に手を貸してプールサイドに引き上げ、スカ女に目をやった。彼女はハイピッチをキープして
、もう泳ぎ切ろうかというところだ。
「おー、やるなー」
中年男性が呼吸を整えながら、彼女の感想を述べた。
中年女性は、事前の宣言通り、スカ女がタッチしたのを確認してから、バシャンと飛び込んだ。
ぼくは中年女性のタッチのタイミングを見計らってぶらんぶらんと手を振った。右足の親指をスタート台にかける。
中年女性のスピードがどうもつかみにくい。二十五メートルで二十七秒というところか。すでにトップのチームは四泳が泳ぎだした。
「せーい」
中年男性が声援を送る。ぼくは中年女性があと二ストロークというところで、スタート台を歩くように重心を前に移し、両足揃えて踏み切った。
そのあとは右前方にほかのチームが泳いでいるのがちらりと見えて、全身全霊の力を叩き込んでタッチ。
はあはあと息をして、えいやっと懸垂をしてプールサイドへよじ登った。
「おつかれさま」
「おつかれさまでした」
スカ女とぼくは中年女性と中年男性のスイムタオルやバスタオルを持って、彼らのいるほうへ向かった。
「いよう、おつかれ!」
「ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ、ありがとうございました」
「引き継ぎ、よかったね」
「ほんと?ありがとう」
口々に互いの健闘を称え合い、ぱしぱしとスイムタオルで滴る水を拭った。
中年女性の木下さんは晴れ晴れとした顔で競技場全体を見回して、ぽつりと言った。
「あたし、こんなすごいところで泳いだんだ」
ぼくは嬉しくなった。
「そうですよ。木下さんのおかげでぼくらはゴールできたんですから。ぼくらはリレー慣れしちゃってるけど、初めての人はびびりますよね」
「ありがとぉ〜。もう、泳ぐまえは不安で不安で。娘に軽いノリで勧められたもんだから」
「娘さん?木下さんお子さんいらしたんですか?いや、見えないなー」
中年男性の斉藤さんがあとは任せろといった風情でスタスタと木下さんと歩み去った。
ちらりとこっちを見た斉藤さんの目に、ここは俺に任せろ、お前はお前のすべきことをせよ、というニュアンスが含まれていたのは気のせいだろうか。
ぼくは当たり障りなくスカ青山さんに話しかけた。
「今日は?あとは何に出るんですか?」
うふふと笑ってスカ青山さんはくしゃくしゃとスイムタオルで後頭部を拭いた。
「今日はもう帰ってお風呂に入ってゆっくりストレッチしておいしいビール飲んで寝るだけ」
「打ち上げは?」
「村上くんは?」
にこりと青山スカさんはほほ笑んだ。
切り口上で質問に質問で返す女性は好きじゃないのだが、青山スカさんはふんわりと、ボールを投げ返してきた。
「いや、打ち上げには参加しないんです」
「帰ってお風呂に入っておいしいビール飲んで寝るだけ?」
ぼくらは顔を見合わせて笑った。
まだ仕事が残っているコーチたちに声をかけ、斉藤さんと木下さんににお先に失礼すると伝えた。
斉藤さんは打ち上げ不参加を誰かから聞いたらしく、来る気になったら横浜のどこそこだからな、とお店の名前と斉藤さんの携帯電話の番号を教えてくれた。
新習志野の駅前はなにもなくて、だだっ広いロータリーと巨大なMr.Maxというスーパーが目立つ。プールから駅までは都会の小学校の運動場くらいの大きさがあって赤茶色のレンガで無駄におしゃれに舗装されている。
ぼくはひとりでとぼとぼと駅まで歩き、コンビニでアクエリアスを買った。
スイカの残高がなくなったので駅の券売機でチャージした。
「村上くん」
長年泳いでいると、いろんなところにいろんな知り合いができるのだけど、振り返るまでもなく青山スカさんだとわかった。
そんなに社交的な性格ではないので、習志野から横須賀線に乗り換えて神奈川までの道のりを考えると、よく知らない人間と対面し続けるのは面倒だなぁと思った。反面、年上だけとかわいらしい小動物のような女性と、しばらくご一緒できることに喜びを感じた。
「青山さん。おかえりですか」
「うふふ、村上くんて、わかりきったこと聞くから面白いよね」
泳ぎ終わってバッグパックを持って駅に向かうひとは、きっと、ちょっと幕張のイケアにお買い物に行くわけではないし、ましてやディズニーシーに行くのではない。しかし、ぼくは女性を相手に気の利いたおしゃべりができないのだから仕方がない。
ぼくは京葉線のなかで、世間話のなかに少しずつ自己紹介を交えて、時間を千葉県に撒き散らした。
青山さんは、arenaのバッグパックを抱えて、シートに座っていた。車内は空いていて、並んで座った。ぼくらはいつの間にか、同じように泳ぎ、同じように育ってきたジュニアスイマーのように、くつろいで語らった。
水泳を軸にしてさほど長くはない人生を語る。例えばパドルが使えないのは嘆かわしいとかフィンくらいは使わせてほしいよね、といった話を織り交ぜて。
東京の手前でネズミの国で夢を見てきた連中がぞろぞろと乗り込んできて、ぼくらは夢を見て疲れ果てた老夫婦に席を譲った。
「ところで、村上くんおうちは?」
変わらずarenaのバッグパックを抱えた青山さんが尋ねた。
「保土ヶ谷ですよ」
ぼくは東京から横須賀線の駅を頭の中で並べてみた。東京、新橋、品川、西大井、武蔵小杉、新川崎、横浜、そして保土ヶ谷。
青山さんは一瞬間を置いた。
「横浜で、どう?軽く」
ぼくは夢の国で疲れ果てた老夫婦から目をあげた。
「いいですね。帰ってひとりでお風呂に入ってビール飲んで寝るよりもよさそうです」
青山さんはにこっと微笑み、リスのような顔になった。
ぼくらは横浜駅の東口、裏横浜の魚介とワインがおいしいお店に来ていた。ぼくがたまたま知ってるお店だったから。ポルタのイタリアンも悪くないし西口のピッツェリアも悪くないけど、なんとなくレース後に、気を張らずにゆっくりと飲めるような気がしたのだ。
ぼくらは開店時間直後に入ったお客さんとしてお行儀よく振る舞い、歩道わきの半テラス席に案内されていた。
まずはハイネケンで今日の健闘を称え合い、ともに泳いだリレーを振り返り、斉藤さんは独身か、木下さんは楽しめただろうかといった当たり障りない話で、軽やかなマカロンのような時間を過ごした。
じつはさほど遠くないところに住んでいることがわかり、お互い気心も知れて、ご近所ネタで盛り上がった。相鉄沿いの家庭的な商店街、天王町のつけ麺屋、国道十六号沿いの不便な立地の家系ラーメン。サティはジャスコ変わり、杉山神社や保土ヶ谷公園、URの山。ピープルはエグザスに、そしてコナミに。東口のヨコスイはいまどうだろう。野毛山のプールはなくなったらしい。あそこの急な観客席はパンチラの宝庫でしたよ。
高校生みたいな、軽やかな恋の駆け引きのような会話。
「このまえプールであたしに会ったとき、練習誘ってくれたじゃない?」
ねえさんリスかしっかりウサギさんの青山さんは、ピッチを上げてビールの二杯目に入っていた。
ぼくも銀河高原ビールに手をやった。
「あれ?聞こえてたのに無視?」
「あたしは臆病なのよ」
青山さんもくぴりと飲んで、にこりと笑った。
「村上くんが練習しない?って声かけてくれたとき、『よーしやるか』て思ったんだけどね」
プールは道連れ世は情け。
「だけど?」
スカさんはグラスのふちをいじいじした。
「引っ込み思案なのよねー。例えば、知り合いを偶々街で見かけたりすると、あたしは向こうに気づかれないようにそっと道を変えたり俯いたりしちゃう」
「わかりますよ。ぼくも」
「そお?積極的だったじゃない?」
青山さんはくくくと笑った。
ぼくはちょっとむきになって言った。
「ぼくは自分から練習に誘うなんて、滅多にしないんですよ。ぼくも人見知りだから」
「意外ね。人見知りなんて」
ぼくらは三浦半島産直だというアクアパッツァを遠慮がちにつまんだ。
「そうですか」
「斉藤さんとも木下さんとも気軽にしゃべってたし」
ぼくは手を挙げてお店の人を呼び止め、相模湾採れたてしらすのピッツァと三浦産直サラダ盛り合わせを追加して、爽やかなグレープフルーツの香り、という白ワインをボトルで頼んだ。
「決め手は、スカーリングですかね」
ぼくは銀河高原ビールのバナナのようなフルーティな香りを楽しんで、なんとなく呟いた。
「スカーリング?」
ぼくは初めて青山さんを見かけたときのことを思い出していた。
「ええ。スカーリングが上手だなーと思ったんです。青山さんを初めて見たとき。それで声をかけた」
青山さんは白ワインを注いでもらって、ちょっと掲げた。
「スカーリングに」
「スカーリングに」
ぼくも残り僅かな銀河高原ビールをちょっと持ち上げた。
「コースは限られているわけだし、袖振り合うも多生の縁、でしたっけ。あんまりガシガシ泳ぐのがいたら、他のお客さんに迷惑じゃないですか。で、ご一緒にどうかなーと思ったんですよ」
「同志ね」
「同志?」
「私は、他の人のお邪魔になっちゃうときに、スカーリングの練習するの」
ぼくはそういう考えもあるかと思いつつ、なんだかほんわかした気分になった。
ぼくはトイレに行って、ふと思いついた。
「打ち上げ、参加しますか」
「えっ?」
「なんか、いいかなーって。臆病者と引っ込み思案とスカーリングで」
ふふんと笑って青山さんはグラスを空けた。
「いいかもね」
「よし、じゃ木下さん捕まえてスカーリングについて熱く語りますよ。あんなの気休めだって」
「ええーっ?なに言ってんの、ノー・スカル、ノー・スイムだよ」
「まあまあ、その話は道道」
ぼくらは飲み残しの白ワインをぶら下げて、スカーリングに関するほのぼのとした激論を戦わせながら、打ち上げをしているという西口の居酒屋へ向かった。