覚醒と諦観
六章
二月も後半になると、冬の寒さもわずかにゆるむ日がある。三寒四温というのだろう。俺は、近所の公園のベンチで、去り行く冬と訪れようとする春を感じていた。穏やかな日差しと言っても、春に比べるとよっぽど冷ややかだ。俺は、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、その日差しを全身で受けていた。ちょうど、バイトが休みの日、昼頃に目を覚ますと、日差しが俺の頬を優しく愛撫していた。夜勤ばかりで、たまには太陽を浴びたいな、と思い立ってここに来ることにしたのだ。俺が座っているベンチのすぐそばに、プラタナスの木が一本植わっている。一見丸裸に見えるプラタナスだが、実際は春に備えて着々と、その幹の奥で準備をすすめているのだろう。
全てが明らかになっても、それでもやはり俺には分からないと思うことが尽きない。優の日記を読んだ後で、頭では優の行動や想いを理解したつもりでも、何故俺がそこまで愛されていたのだろうか、と疑問に思う。優の心が、まるで出来上がったばかりのガラス細工のように透明に透き通っていて、それに比べると俺の心は汚れすぎているのだろう。どうしても、曇り一つない言葉を素直には信じられなかった。人を信じることなど、俺にはできないのかもしれない。自分に自信が持てず、どうしても悲観的になってしまう人間は皆そうなのだろう。結局、人から愛されるということも、自分が自分を愛していなければ理解はできない。人というのは、どうもそういう生き物のようだ。そして、人から愛されるというのは、まるで結果論のようなもので、全てが終わってからでないと分からないのだろう。愛されている間は、きっと愛に鈍感で、いつしか愛されている事に無感覚になってしまう。そして、それを失ってから初めてその価値が分かる。人の愛なんていうものはそんなものなのだろう。きっと、今までの俺だったらそんな風に考えて、賢くまとまっていたと思う。今は、少し違う。お互いが、お互いのことをどれだけ理解しようと努力できるのか、なのだと思う。人は、長いこと付き合っていると思いやることを忘れて、思いこむようになる。思いやりと思いこみは違うのだ。俺は、思いやりは、相手の事を分からないと思って、理解できるように努力することなのだと思う。それに比べて思いこみは、相手を分かったと思ってその努力を怠ることなのだと思う。恋人同士でも、はじめはお互いの気持ちを思いやる。どんなことが好きなのかとか、何をしたら喜ぶかとか、何も分からないからこそ、お互いを等身大で理解しようと努める。けれども、いつしか、その相手の現し身のようなものが自分の心にできて、相手を分かったかのように思う。分かったと思わなくても、気がついたら相手を知ろうという気持ちも、相手を理解しようと努力することもやめてしまっている。相手を100%理解する事なんてできるわけがないのに、分かったような気がしてしまう。そして、お互いに思い込みあって、いつしか取り返しのつかないような思い違いをするのだ。そんなときから、お互いはすれ違っていく。俺と優の関係を振り返ってもその通りだ。俺は優のことをほとんど何も分かってなんていなかったのに、優の全てを知っているように考え、行動した。それなら、いざ優のことを問われたら答えられるのか? 優は、身長どのくらいだったんだろう。好きな色は? 好きな芸能人、音楽や映画、それらのどれも即答できない俺がいる。結局、そういうことなのだと思う。俺は優との二年半近い時間、優のことをほとんど何も分かっていなかったということを知った。不意に、その時間がまるで無意味だったような感覚を覚える。分からないことが分かった、などと哲学的な回答を得たところでなんらなぐさめにもならない。もう、優はいないのだから……
空が、寂しそうに蒼を讃えて輝いていた。風がくしゃみをしたように、一瞬だけ突風が吹いて公園の小さな土埃を吹き上げる。乱れた髪を、億劫に思いながらも整える。そうして、一時的な空白が心に生じる。どれくらいの空白だろう。秒針が、未来に三歩だけ歩を進めたくらいだろうか。俺は、その空白に語りかけられたように、優のことを思いだした。
そういえば、優は冬が好きなんだよな。俺は嫌いだけどな。それがどうしたのだという感覚が生まれるより一瞬早く、優と俺の誕生日がつい二週間程前だったことを思い出す。うっかり忘れてた。そうか、今年で俺も24か…… 優は23歳のままなんだな。優の歩みはすでに止まっている。俺もそこの場所にとどまっていられたらどれだけ嬉しいのだろう。なんだか、今まで手をつないでいたはずの優が、自分より一歩離れたところにいるように感じた。俺は、ポケットに手を入れたまま、一緒に行こうと促す。優は、横に首を振るだけ。そうか、と冷静に俺は答えようとするのに、その言葉が口から出る事はなかった。その代わりに俺は、ただ泣きじゃくった。
泣くというのは不思議だと思った。一度泣くと、次からは簡単に泣いてしまう。俺が最後に泣いたのは、本当に随分と昔のことだ。確か、幼稚園の頃のことだったと思う。それ以降、感動する映画を見ても、哀しい話を聞いても涙は出なかった。砂埃が目にはいって涙が出たときや、目薬をさして目に涙がたまるとき、泣くっていうのはこういう感覚だったのだろうかと関心したほど、泣くことと縁の遠い生活を送っていた。その中で俺は、どんなことにでもクールに対応できるという自信と、悲しみをもたない機械のようだという自己嫌悪を同時に経験していた。恋愛映画を見て泣ける人を見ると、その人を冷ややかな目で見る自分と、羨ましいと思う自分がいた。
「優、俺も少しは人間っぽくなれたのかな……」
そんなことを、泣いて腫上った二つの瞼で空を仰ぎ見ながら言っていた。
最近、日常が、今までの日常とその色彩を随分と変えていることに驚かされる。今までと比べると、随分大きな変化と言ってもいいだろう。優が生きていて、俺の側に居たどの頃と比べても、今以上に優を身近に感じることはなかった。時計が七時を過ぎる頃、優が帰ってくるようで気になってしまう。つい、ドアを開けて確かめたりする。朝食のトーストを焼くとき、知らず知らずに皿を二枚用意しそうになる。ソファは、真ん中には座らないで、隣を必ず空けている。独り言が多くなっているし、TVを見ていて笑うときの声が妙に大きくなった。まるで、優に聞いて欲しいかのように。自分の身辺を小奇麗にしておこうと決めたのは、いつまでも優が好きでいた俺でいられるようにと思ったからだ。小説を書くことも、以前のように何でも分かったようにではなくて、一つ一つ調べて、登場人物を愛しながら書いている。こうして、涙を流すことも今は自然に思える。そんな風にして俺は、まるで優が生きて俺の側にいるかのように行動している。三木本さんを好きだった頃の高揚感は、俺自身の変化ではなくて、かつてのように自信を取り戻しただけだった気がする。昔の自分に戻ったような感覚だった。それを自身の変化とは呼べない。今は、自身の変化に驚かされる日々だ。ふと、俺は下北沢に行きたいなと思った。そう思いついたときにはすでにベンチから立って、歩き出していた。そんな動機がどこから起こったのだろう。今日という日の陽気につられたのかもしれない。ただ、なんとなく行ってみようと思っただけなのかもしれない。自分でも分からないうちに、優との思い出をたどりたいと思ったのかもしれない。理由は分からないまま、ただ足が駅に向かっていくというのは、何か他人に自分の体を操られているようで違和感があった。とは言っても、けして気分の悪いものではない。まぁ、それも良いだろうという気分だ。
2
下北沢の改札を抜けると、ここにはたくさんの思い出がつまっているのだなと気づかされる。優との思いでもある。唐沢との思いでもある。三木本さんとの思いでもある。ふと、三人の顔が交互によぎる。俺にとっては何よりも大事な三人だ。去年の七月、この改札を抜けてすぐの場所で三木本さんに会った。童顔で、思わず女子高生かと思ったことを思い出した。どこかおずおずしていて、香奈の後ろに隠れていた三木本さん。初めは子供っぽいイメージが付きまとったが、話をしていくうちにその内側の強さや、魅力が引き出されていって、それはけして子供っぽいものではなかった。そんな三木本さんに影響されて、俺は最悪な状況を脱することができた。その頃の俺は、本当に腐りきっていた。劣等感の塊で、他人のどんな言葉も自分を非難しているように聞こえた。そんな俺に、きっかけを与えてくれたのは三木本さんだった。だからこそ、俺にとっての三木本さんは、好きである以上に、もっと大切な存在だったと思う。きっと、自分の肉体の欲求を抑えていられたのは、三木本さんへの感謝があったからかもしれない。だから、もし今三木本さんが俺を頼ることがあれば、なんだってしようと思う。俺は、駅の北口を出てまっすぐに商店街を歩いていた。そして、俺は下北沢の個人店舗の洋服屋や、道行く人を見回した。たくさんの人がいて、たくさんの商品があって、たくさんの言葉があふれていた。ふと、前にいる人たちをごぼう抜きにしている自分に気づき、歩みをゆるめる。歩くの、速いか…… 優の、して欲しいことリストを思い出した。そうしてみると、同じ景色がいつまでも視界にへばりついて、移り変わることなどないように思えた。日頃とはなれない歩調に、足がむずがくなるような感覚を覚た。この速度なんだな。俺は、優の歩く速度を感じながら、遠くの空をわずかに仰いでいた。
突然携帯電話の着信音がなった。唐沢からの電話だ。
「おう、どうした?」
「どうしたじゃねーよ。お前、どこにいんだ。今日なんの日かしってんのか? 今、おまえの家の玄関とこにいるから早く戻ってこい」
唐沢は、あからさまに不満気な声で言った。
「今日? なんかあったっけ?」
「――いい加減にしろよな」
「あぁ、そうかそうか。今思い出したわ」
そう、今日は唐沢がうちに引っ越してくる日だったのだ。優や自分の誕生日さえ忘れているような俺だ。唐沢との約束など覚えているはずもないと内心思った。それとは別のところで、唐沢と同居することを心のどこかで拒んでいるのかもしれないと思った。家賃をシェアすることは確かに魅力的なのだが、一人の生活を続けていたい俺がいる。しかし、今更、やっぱりその話はなかった事にしてくれとは言えるはずもなく、俺はすぐに家に戻ることを唐沢に告げて携帯を切った。
3
俺がアパートに一時間ほどかけて戻ると、寒さに凍えながら階段に腰をかけている唐沢を、引越しの荷物と思われる大きなボストンバック二つと共に発見した。
「おう、死にそうだな」
俺は笑いをかみ殺しながら言った。
「お前、今日中にスペアキー作れよな」
唐沢はあからさまに不愉快な表情を浮かべて言った。俺が、唐沢の皮肉たっぷりの抗議の言葉を無視していると、ますます不愉快そうに、そもそもお前は昔から約束を破る男だったよな、と吐き捨てるように言った。そうだっけ? とすっとぼけながら、こんなことでも交友関係を続けていられるのだから、男の友情というのは気楽なものだと思った。
「まぁ、入れよ」
俺は、ドアの鍵を開けて、唐沢が先に入るよう手招きした。そそくさと部屋に入った唐沢は、無言のままファンヒーターのスイッチを入れ、その場で腰を下ろした。
「てか、今日そんな寒かったっけ?」
「お前、俺が何時間待ってたと思ってんだよ」
「あぁ、悪い。てかさ、普通にファミレスでも行けば良かっただろ」
「すぐ来ると信じて待ってたんだよ」
「はは、嘘つけ」
そして、俺はダウンジャケットをハンガーにかけた。
「そういや、お前引越しってわりに身軽じゃね?」
俺が唐沢に言ったのは、石油ファンヒーターが点火して少したってからだった。
「あぁ、まだもうちょいあるけど、まだいらねーしな」
「ふーん、そっか……」
二人の会話が途切れ、部屋にファンヒーターの音と、火を点火した後のガスコンロの音だけがこもっていた。やがて湯が沸騰するときのぐつぐつという音も混ざって、たわいない三重奏を奏でていた。俺も唐沢も、別に意識してそれに耳を傾けているというわけではなかったが、その三重奏が鳴り止むまで沈黙を続けていた。火を止めて、マグカップとティーカップをそれぞれ台所のカウンターに並べる。マグカップにインスタントコーヒー、ティーカップにはダージリンのティーバックを入れてそれぞれに湯を注いだ。
「飲めよ」
「お、気がきくじゃん。さんきゅー」
俺がティーカップを一度すすって、それをテーブルの上に置くと、その動作をじっと見ていた唐沢が一つ咳き込んだ。
「あのよ、なんでお前は俺が来るたびに違う種類の紅茶とか茶とかを入れるわけ?」
唐沢はいぶかしげな顔で言った。
「え?」
俺は質問の意図がいまいち読み取れずにいた。
「しかも、ちょっとかっこよく飲むだろう。こういう感じで……」
そう言って、唐沢は両目を閉じて、あごをやや突き出して香りを嗅ぐ。かすかに首を左右に振って、それから一口コーヒーをすすった。見るからにきざな飲み方である。
「はぁ?」
俺は、内心心当たりがないわけではなかったが、あえてすっとぼけた。
「それ、絶対狙ってやってるよな?」
それを見て唐沢は、勝ち誇ったようににやりとした。
「何いってんだよおめーは」
「俺は、色んな紅茶をおしゃれに飲んじゃう男だぞ、とか思ってるわけ?」
「ははは、なんだよそれ」
俺は思わずふきだしていた。
「色を楽しんで、香りを楽しんでから味を楽しむ、みたいなこと考えてんだろ」
唐沢が追い討ちをかける。
「馬鹿かよ!」
「ぜーったい確信犯だって」
「ほんと変な奴だよな」
俺は最後の最後までとぼけて押し切った。唐沢の言ってることの七割くらいは当たっているからおもしろい。こういう時は、旧知の仲というのは伊達じゃないんだなと痛感させられる。
「そんなん言ったらお前だって、俺はブラックしか飲まないかっこいい大人だぜ、とか思ってるか?」
「馬鹿かよ!」
口の端が思わずわらっている唐沢が、それを隠すようにして首をふる仕草がまさにその通りと言わんばかりだった。
「で、ミルクと砂糖入れてる奴見て、内心にやついてんだろ?」
言われたら言い返す。これが俺と唐沢の間の鉄則であった。
「ちげーよ!」
「いや、そうだ」
「あぁ、そういえば、後でバイクとりにいくわ。今日あったかいし」
唐沢があっさりと話題を変える。唐沢は昔から、強引じゃないか? というほどあっさりと話題や話のテーマを変えることがあった。そのたびに、俺や、俺と一緒にいた友人達も話の腰を折られてガクっとしてしまう。それが、こんなようなどうでも良い話ならともかく、重要な話をしていても簡単に話題を変えてしまうことがある。慣れていない人だったら、びっくりしてしまうに違いない。俺はといえば、どういうタイミングで話を打ち切ってくるかのタイミングもなんとなく分かっている。別の話題に難なくついていくこともできる。長く話していると、話題が何度か転じるうちに最初と繋がったりするから面白い。
「寒いし、さっさと行けよ」
もちろん、心配をしているわけではないが一言告げた。
「そうそう、お前的にほんとにいいわけ?」
「ん?」
出窓から覗く冬空をぼんやりと眺めていた俺は、冗談を交わしていたときとまったく同じ声色の唐沢の言葉をうまく理解できずに、数瞬その意味を考えた。
「今更、やっぱごめんとかってのはないさ」
「そっか、それなら良いけど」
その言葉が、尾を引くようにして俺の頭を幾度となく反響した。それを数えれば三つくらいの空白ができる。この、わずかな空白が、二人の会話が一通り終わったことを伝える。舞台劇ならば、次の幕までの空白時間のようなものだろう。
「じゃ、俺行ってくるわ」
立ち上がった唐沢は、ストーブから離れるのを惜しむかのようにじっとストーブを見下ろしている。
「良かったらもってっていいぞ、ストーブ」
「あぁ、分かった…… 持ってけるかよ、あほ」
「ははは、早くいけよ。夕飯くらい用意しとくから」
「おぉ、期待しとく」
そして、唐沢は部屋を出て行った。ドアがバタンと大きな音をたてる。このドアの閉め方が唐沢なのだなと思った。長いこと優と生活していたせいなのだろうか。唐沢の足音、ドアを閉める動作、しゃべる声、どれも暴力的に思えた。まぁ、唐沢から見れば俺も同じようなものなのだとは思う。ただ、俺はそういうことが言いたいのではなくて、ここにはもう優はいないと実感させられることが切なかったのだ。今更になって、唐沢と同居することの意味を考え始めた。はじめは、そうする事の方が面白そうだし、家賃が安くなるという理由だけであっさりと合意した。しかし、唐沢がこの部屋に来るということで、優との思い出が失われてしまうようで急に怖くなった。まだどことなく優の残り香のするこの部屋を、そのままにしておきたかった。
4
唐沢は、八時になって戻ってきた。ちょうど、俺が夜食の鍋物の準備が整った絶妙なタイミングである。夜食はキムチ鍋で、ギンダラ、鶏肉、水菜、白菜、豆腐、えのきなどを揃えた。唐沢のためとはいえ、今夜くらいはまともな料理でもしようとわざわざ近所のスーパーまで買いだしに行ったのだ。そうして、黙々と料理の準備をしていると、優の手料理をもっと食べてあげればよかったと思う。優が、料理を勉強していると言っていたとき作ってくれたえびのチリソースは本当においしかった。豚の角煮や、他にも色んな料理を考えていたんだろう。日記を振り返って思い出す。そして、俺はもくもくとコンロ、皿、箸などをテーブルの上に並べる。唐沢は、寒さに凍えてストーブの前に張り付いている。唐沢の姿を横目に、それが優であればなと思っている俺がいた。
「おい、もうできたぞ。ていうか、戻ってくるタイミング良すぎだよ。少しは手伝え」
「はは、まぁいいじゃん」
唐沢は悪ぶれた様子をかけらも見せない。
「絶対洗い物はお前がやれよ」
俺は一言釘をさして、最後に冷やしておいた缶ビールを二本机に並べた。
「ま、固い事は抜きにしてとりあえず食おうぜ。腹減って仕方ない」
唐沢は、そう言うとようやくストーブから離れて、寝室側の席についた。俺は、その反対側にいる。
「じゃ、食おうぜ」
そう言って、俺が箸を鍋に入れるまで唐沢はじっとしていた。それが、待て、をされている子犬のようで少し笑ってしまった。
「おー、美味そうじゃん!」
唐沢は、予想以上のものがテーブルに並んでいる、という感じで言った。まぁ、俺が作ったんだから当然だろう。自慢ではないが、俺は料理が昔から得意だった。優と同棲を始めた頃、俺が料理を作って、それがおいしいのが気に食わなかったのか、優が無口になっていたことがあったのを思い出した。俺は自分の料理がうまいせいか、どうも料理に一言けちつける癖があって、あんたは料理専門家か! と優に怒られたこともある。懐かしいな、と俺は思った。そして、缶ビールを一気飲みする。
「そうそう、俺、みきちゃんと付き合ってる」
「――ぶ!」
一気飲みしてる最中に言われた突然の発言に、俺は思わずビールを噴出してしまった。
「うわ! きたねーーな!」
それが、少し鍋の中に入ったのを見て唐沢がキレ気味に言った。
「お前な…… こういうタイミングで言うことかよ」
「あ? あぁ、そうか?」
「まぁ、良いけどよ……」
そして、二人の口は重くなる。驚きで心音が倍も早く聞こえる。
「お前にさ、ふられた夜に電話があったって言ったじゃん。で、なんか話聞いてたら、まぁなんというかね。俺もふられた後だったっていうのもあったけど、なんか気になるようになって、気がついたら好きだなーって。それで、そういう話したら、みきちゃんも俺とだったらやっていけそうって言ってくれて、付き合おうって話になった」
そこまでを一気に言い終えると、唐沢はビールを一気に飲み干す。そして、俺におかわりを求めた。俺は、自分でいけよと吐き捨てながらも、冷蔵庫から二本、一本は自分のためにビールを出した。唐沢はそれをすぐに開けて、また一口で大量に飲み込んだ。俺は、その仕草を横目に、自分のビール缶を、鍋の煮える音を聴きながら眺めていた。
「で、いつからだよ?」
俺の声は少し挑戦的であったかもしれない。
「あぁ、そうだなー。一ヶ月くらいかな?」
「っていうと、二月になるちょっと前くらいか」
「うん、まぁね」
「そっか……」
俺は、そう言いながらどこか複雑な気持ちを隠せずにいた。確かに、俺は三木本さんと付き合っていたわけじゃない。俺との関係を終わらせて、その後すぐに誰かと付き合ったとしても、それは特別なことではないと思う。別に、付き合っていたわけじゃないし、執着することもないだろう。けれど、俺との関係が終わって、その一ヶ月後には他の男、よりによって唐沢と付き合うというのだから、なんともやりきれない気分になる。唐沢も、香奈にふられて二ヶ月もたっていないというのに。ふと、自分も同じだと思った。俺は優を好きだと思っている。俺だって三木本さんのことをあっさり忘れてしまったのだから、二人のことをとやかく言えるはずもない。唐沢と三木本さんなら理想的じゃないかと思う。俺は、初めて三木本さんに会っとき、唐沢には香奈よりも三木本さんの方が合っていると思った。そう考えていると、俺は二人を祝福したい気持ちに包まれた。俺は、自分に問いかけた。三木本さんに対してなんら未練はないのか? と。未練がまったくないと言えば嘘になる。現に、数瞬前のやりきれない気持ちには、嫉妬が尾をひいていた。ただ、それよりも二人の幸せを願う気持ちが強い。俺は、唐沢に、一言うまくやれよとか、幸せにな、とか言えばいいんだろうが、微妙な空気になってしまっていて、どうもそれが言い出しづらかった。ふと気がつくと、唐沢が俺を直視しているのに気づいた。アルコールで頬が赤くなっているにも関わらず、唐沢の表情が素面の時以上に真剣に見えた。お前は本当に良いんだな? という疑問符と同時に、もし今でも俺が三木本さんを思っているならば、宣戦布告も構わないという覚悟をも含んでいる強い表情であった。
「お前と、三木本さんなら、最高だろ」
俺はそれを笑顔で言えたのだろうか?
「あぁ……」
唐沢は、そう答えたきり無口になった。けれども、箸だけは動く。その動きを見ていると、鍋の中のギンダラと鶏肉をピンポイントで捕獲していた。こいつは、どこまでが真剣なんだろうか、俺はおかしくて笑っていた。
「なに笑ってんだよ?」
唐沢は、その笑いを理解できずにいるようだった。
「なぁ、愛するって、どういうことなんだろうな」
俺はそれに答えず、まるで別の話を切り出してみた。唐沢の技だ。
「なんだよ、いきなり」
唐沢は敵意さえ感じられるような声で言った。
「俺は、一番大切な人が、側にいるときに愛することができなくて、こんな状態になって初めて好きだと思う。愛しているのかと思う。だけど、何が愛なんだか分からない」
「はは、お前本当に変わったよな」
唐沢は呆れたような笑い声をあげて言った。
「なんでだよ?」
「まぁな、昔のお前は、もっと解っている人間だったな。そんなことの答えだって、簡単に出してただろ」
「そうだっけ?」
俺はまったく思い当たる節がなくて、記憶のファイルを高速でめくった。それは、そこそこ心に負担がかかるものだ。不快な表情はその反動だろう。
「ははは、まぁ、俺は昔のお前も好きだったけど、今のも好きだぜ」
「……」
「お前な…… 男二人でそういうのやめようぜ」
「照れるな照れるな」
「もういい、さっさと洗物してくれ」
俺の言葉をあっさりと無視して、唐沢は三本目のビールを口に運んだ。
「昔は、頭で解ってただけ。今は、体全体で何か学ぼうとしてってのかね。だから、解ってたはずのことが解らなくなったんだろ。今のお前が正しいかだって? 昔のお前は俺にこう言ったよ。何が正しいのかなんてのは、自分が勝手に決めればいい。答えは、無限の数だけ存在しているから。なんだって良いんだよ。答えの質なんかより、自分にとって、どれだけ大切な答えか、それこそが重要なんだって」
それを唐沢は、俺から視線をそらし恥ずかしそうに語った。
「誰だ、そんなかっこいいこと言ったの」
俺はうそぶいていた。勿論俺は、自分の言った言葉を忘れたわけではない。それは、俺が大学一年の頃に唐沢に言った言葉だ。当時の俺は、その言葉をどれほど軽い気持ちで言ったのだろう。そう思うと恥ずかしくなる。大人になって青春時代に熱くなったことを振り返るときに特有な歯がゆさだろう。しかし、いつもとぼけてばかりの唐沢が、俺の言ってきた事をこうも正確に覚えているのには正直驚きだった。
「きっと、俺は宇宙人に連れ去られてたんだよ」
「おい、マジかよ。 お前捕獲しても、地球人のサンプルにならねーぞ」
唐沢が笑いながら言った。
「馬鹿、良質な地球人だって喜ぶに決まってるだろ」
「ははは、ありえねー。火星人扱いされんぞ」
俺も唐沢も笑っていた。きっと、ギャグとして特別面白いことを言ったのではないと思う。ただ、酒が入っていたのと、さっきまでのまじめな雰囲気のギャップが手伝ったのだと思う。
「優がな、俺を連れ戻してくれたんだ」
一通り笑いの雨が止んだあと、俺は出窓から覗く夜空を眺めながら言った。もう、冬は遠くに行こうとしている。春は間近なのだと思った。
「そっか、このくそ頑固な男を変えるんだから、すごいよな、優ちゃんは」
唐沢も、それにならうように窓の外に視線を向けた。
「俺めっちゃ柔軟だと思ってたんだけどな」
「それだけ自分のことがわかってなかったんだろ」
唐沢の言う通りである。本当に俺は、誰の事でもどんなことでも簡単に分かると思ってきた。優のことでも、唐沢のことでも、分かった気になっていた。俺は、優の日記にあるような一途な想い気づく事すらできなかったし、唐沢がこんな風に真面目な意見を言うなんて想像もつかなかった。小説のことだって、分かった風になって自分が天才作家だなんてうぬぼれていた時期もある。俺は人よりも器用なせいか、どんなことでも人よりも理解が早かったし、上達も早かった。ピアノ、歌、絵、習字、俺が小さい頃に習って、人よりもすぐに上達し、けれど途中で投げ出した習い事である。きっと、どれもすぐに分かった風になって、それ以上の奥深さなんてものを追求しようともしなかったせいで、どれも中途半端になってしまったんだ。
「優が、気づかせてくれたんだ。全て……」
「うん、優ちゃんはすごい。けど、言っておくが、みきはそれ以上だけどな」
唐沢は得意そうに言った。
「はいはい……」
「そういえば、唐沢さ……」
「ん?」
「お前、学生時代優に告白してふられただろう」
「げ! おま…… そのネタ今のタイミングでだすのずるいぞ!」
「はっはっは」
こうして、俺と唐沢の初日の飲みは、この後も途中で大量に酒とつまみを補充して、高校時代や大学時代のこと、今までお互いに語り合わなかったことも含めて延々と深夜の三時まで続いた。
5
朝、目を覚ました俺はちゃっかりとソファで眠っている唐沢に気づいた。それが現実だと思うのに一瞬だけ時間が必要だった。それから夢を思い出した。優の夢を見たのだ。鮮明に思い出せる。俺は、確かに夢の中で優と一緒だった。川原を、真夏の夜、二人で浴衣を着て川辺を歩いていた。俺は紺色の、星のちりばめられたような模様の浴衣。優は濃いピンク色で大きな大輪が描かれた浴衣。優は俺の左側にいて、俺の小指と薬指をちょこっと握っていた。二人の背後で花火がなって、俺は立ち止まって振り返りそれを指差す。優が驚いたような、嬉しいような顔を見せて、俺はそれに微笑み返す。三尺玉の、大きな花火だった。すると突然景色が一変する。スーツ姿の俺が、花束を抱えながら走っていた。待ち合わせに遅れそうなのか、しきりに腕時計を気にしていた。時計は、7時を5分程過ぎたあたりを示していた。駅の改札を駆け抜け、俺は時計台の下に走っていた。そこには優がいて、俺は、ネクタイを緩めながら頭を下げて遅れたことを謝っていた。花束を渡すと優は、今回は許してあげようと言って俺の腕を組む。そこでまた景色が変って、今度は優と俺はこの部屋にいた。優も俺も、肩を寄せ合いながらソファに座っている。優のさわやかで、優しい香りがして、俺はそれが好きなんだと言った。もう寝る時間だからと、二人で一つの布団に入って、固く手をつなぐ。二人とも横になって瞳を見つめあう。そして、キスをした。上唇と下唇に軽くキスしてから、一度だけキスをした。優はそれが俺の初めてのキスだと思い出したのか、くすっと笑う。そして、優は俺の腕枕で眠りについた。俺も、瞳を閉じて、少しずつ意識が遠のいていくのを感じた。俺はそれが夢で、目が覚めたときに優は側にいないことを分かっていた。涙がでそうになって、俺は優を強く抱きしめて、行くなと叫びたかった。けれどもそうはしなかった。優を心配させたくなかったから。記憶はそこで途絶えてしまった。
以前は俺が目を覚ますと、優はいつもソファに座ってTVを見ていた。もう、それはないのだなと改めて思う。そして今、俺の目の前にいる唐沢は、優と比べるとあまりにも無様な格好ですやすやと寝息をたてている。俺はそれを見ながら小声で笑っていた。外では鳥がさえずっている。ふと、去年の夏これと似たような日があったなと思ったが、それがいつだったのか具体的には思い出せなかった。ただ、それを思い出す代わりに、世界はいいものだな、と思った。
「優、俺は大丈夫だよ。本当にありがとう」
俺は小さな声でつぶやいていた。そして、唐沢に涙の跡を見られる前に、顔を洗おうと思った。