困惑と謝罪
四章
日記を読んだ日から二週間が過ぎていた。その間に、俺が今年と呼んでいたものが去年に、来年と呼んでいたものが今年になった。気候はほとんど変わっていない。天上の蓋が開け放たれたように青はどこまでも深く、夜道を歩いていてときおり吹く風は頬を切りつけるようだったが、それらは二週間前と同じものである。変わったことといえば、俺が優のことを考えるようになったことだろう。
真実がベールを脱いで俺の前に姿を現したときに、蒸発するかのように消えうせてしまったものは一体なんだったのだろう。それは俺の中で、まるでクフ王のピラミッドのように壮大で絶対の存在としてそびえたっていたはずだ。思うにそれは、自分の考えることは正しいという自信だ。以前の俺は、優の何気ない仕草ひとつ、極端な話、髪を掻き揚げる動作一つでも、優が何を感じ、考えているのかがわかると思っていた。ところが、実際は何もわかっていなかった。いや、分かっていなかっただけならまだ幾分かましだったかもしれない。俺は、優が俺を想う暖かな気持ちや愛を踏みにじってきたのだ。まるで草地を歩いていて、気づかずに小さな野花を踏み潰すように。結局、俺が優のことを分かると思っていたことは、果物を見てその中の種の個数を言い当てるのと同じようなことだったのだ。それなのに俺は、見えていないはずの真実を見えていると勘違いしていた。そうして、優が無口なのは俺に飽きたからだと安易に理由付けした。真実は、俺の負担にならないよう優なりに気を遣っていてくれただけだった。以前のように俺に気軽に冗談を言ったり、甘えたりすることを抑えて、一歩はなれた所から俺を見守っていてくれたのだ。俺がすっぽかした付き合い始めた記念日のときも、俺が三木本さんを好きだという台詞を聞いたときも、優は最後に家を出る瞬間まで、俺の負担にならないように全て我慢していたのだ。それなのに俺はなんだ。勘違いを続けたまま優を苦しめてきた。三木本さんを好きになり始めてから、優の存在が日に日に目障りになって、目を合わすことさえ避けてきた。いつまでも別れをきりださない優にいらだち、いつしか憎しみの感情すら芽生えていたかもしれない。優が亡くなったときだって、葬式に行くことさえめんどうくさいと思った。俺は本当に何をやっていたんだろう…… 何を分かったように、三木本さんや唐沢に優が浮気しているなんて言っていたんだろう。思い出す。唐沢が言った、本気で優ちゃんが浮気してたと思うか? という言葉。三木本さんに優の浮気を話したときの、どこか信じきっていない顔つき。全て、俺一人だけがそれを正しいと信じきっていた。もしも信じていた人に裏切られたのならば、その人を責めればよい。しかし、信じていた自分に裏切られたら、自分以外誰を責めることができるのだろう。その上優の死は俺の勘違いが招いたのだ。俺には、自分を言い訳するためのどんな言葉も見出せなかった。俺みたいな人間は死んでしまえばいい。そう、死んでしまえば…… 優の日記を読んでから二週間が過ぎているが、最初の一週間はそんなことばかり考えて過ごしていた。そうすること以外で、優の死に対する責任の取り方が思いつかなかったのだ。いや、実際は俺が死んだからといって責任なんてとれるわけがない。そんなことは分かりきっている。俺が死んでしまいたいと思ったのは、そうすることでしか犯した罪の重さから逃れる術を見出せなかっただけのことなのだ。仮にそう念じているだけで死ぬことができたら、どれほど楽だっただろうか。仕方なく俺は死に方をあれこれと考えたが、死の恐怖を乗り越えて自殺するだけの勇気はなかった。死に方をあれやこれやと考えるくらいに心の余裕があっては、自殺など所詮は無理なのかもしれない。俺は優が事故を起こしたという現場で一度立ち止まって、その周辺をじっとながめた。特に、優の命を奪った道路のアスファルトの部位は凝視した。そこに何か優が残したものでもあるんじゃないかと思ってしまうのだ。ひょっとすると、優の霊か魂でもその辺りをうろついているんじゃないかと思ったりもする。しかし、五感を研ぎ澄ましてそれを探ったところで、俺には霊媒師の素質はないと知るだけである。
人を殺すといっても二つの種類がある。一つは直接的に殺しに関わる場合だ。その中でも意図的な場合と、そうでない場合がある。たとえば、恨んでいる奴を殺そうと思って殺せば意図的な殺しだが、外科医が手術のミスで人殺した場合は、意図していない殺しだ。この二つは、意図しているか、していないかを抜きにしても、自分がなんらかの形で直接的に殺しに加担している。もう一つは間接的に殺しに関わる場合だ。ここには殺しの意図なんてない。教育を誤って子供が殺人を犯したときの親。森林を伐採しすぎた結果山崩れが起きて、それに巻き込まれて人が死んだ時の材木業者、その材木を買った土建業者。そして、知らず知らずに優を精神的に追いつめ、死に追いやった俺。間接的に人を殺しても、その罪はほとんどない。だけど、直接的に殺しに関わるのと間接的に関わるのでは、一体何が違うというのだろう。俺にはその差異なんてわからない。ただ、俺は今こうしてなんの罰も受けず、平然と暮らしている。形はどうあれ俺が優を殺したことに変りはない。誰よりも俺を愛し、必要としてくれた人だ。少し考えれば、優の気持ちに気づく方法なんていくらだってあった。ただ疑って、自分の推理と状況証拠だけを信じるんじゃなくて、優に直接話を聞けばよかったんだ。そうすれば、俺は優のことを勘違いしなかった。そうじゃなくても、もし俺が優をもっと早くふっていればよかった。いや、それ以前に、俺が自殺してしまいたいと思っていた夏の頃に、そうしていればよかったんだ。人によっては、あれは事故だったと言うかもしれない。けど、それは違う。事故を引き起こす原因はすべて俺が作った。だから、俺が殺したんだ。なんで俺なんかが生き残って、優みたいな人が死ぬんだろう。俺は空に問いかけていた。空風は砂埃を巻き上げて、空の上の方でひゅーと言った。それはきっと地球の無垢な声で、意味なんて添えられてはいないのだろう。そう、白紙を渡されたのと同じことだ。あとは俺がどういう答えをその紙面に記述するかだ。自分の口ではなく、もっと偉大な何者かによって、自分が罪人であると宣告されたかった。
この二週間で体重が五キロ近く減った。昨日、寝室の姿見に映る自分の頬が随分とこけているのに気づいて体重を計ったのだ。おぉ、五キロも減ってたんだ、とやつれている自分の姿にほくそ笑んだ。しかし、体重の減量と裏腹に、この一週間で心には随分と余裕ができた。そして、その余裕がだんだんと生活にバリエーションが与えていた。たとえば、初めの一週前は食パンを生でかじって水を飲む程度の食事だったのが、昨日はそれをオーブンで焼いてバターにイチゴジャムまで塗った。服を着替えるときも、今では色や形の相性を気にしてしまう。TVを見ては笑っているし、無意識のうちに音楽を流して聴き入っていたりする。心に余裕がうまれてくるのは仕方ないとしても、俺はもう唐沢や三木本さんには会うことはないだろう。今までも色んな言葉で自分を蔑んできたが、今はただ一言、人殺しと呼んでいる。今の俺には、これ以上自分にふさわしい称号はない。心なしか気に入っている自分さえいる。俺は三木本さんのことを心の底から好きだと思っていた。大切な人だからこそ、俺のような人殺しが三木本さんの側にいてはいけないのだ。もしこのまま付き合うことになったとしても、いつかなんらかの理由で三木本さんを傷つけることになるだろう。俺は人を不幸にする人間なのだ。そう考えることは明らかに非合理的だが、俺にはとてもシンプルな道理に思えた。そのせいか、三木本さんから去ろうと決意した時も、特別悲しいとは思わなかった。むしろ、正しい判断を下せたと自分を誇らしく思ったくらいだ。唐沢とも会わないと思ったのは、唐沢と優の親友としての過去があったからだ。俺はこれからの人生、なるべく人に接することなく、誰にも迷惑がかからないようにひっそりと生きていこうと思っている。彼女も作らないだろうし、交友関係を築いても必要以上には親しくしないだろう。せめてそうしていなければ、優の命を奪ったことの責任を果たせるとは思えなかったのだ。そういうことから、日記を読んだ日に携帯の電源を切って、一昨日になるまで一度も携帯に触れなかった。こうして突然連絡がなくなれば、三木本さんは、初めは俺のことを心配するだろうがそのうち忘れてしまうだろうと思ったのだ。初めはそれでいいと思ったが、三木本さんの性格からしてはやはり心配するに違いない。そう思って、一昨日一通だけメールを送った。一言『二度と会えない』と添えて。初め、別れようと書いたが、まだ付き合っていなかった俺と三木本さんにとってその表現はふさわしくないと思った。俺たちの関係は始まってすらいなかったのだ。三木本さんは俺のことを忘れていくだろう。
もうすっかり暗くなった空に自然と目が行く。何故だろう、冬の空は遠くに感じる。その窓越しに映る暗闇の世界には、どんな感情も存在しないように思える。同じ暗闇であっても、夏の夜空は日中の暑さにへたばっているようで、お疲れさんと声をかけたくなる。秋の夜空はどこか寂しげで、俺もそれにつられてしまうし、春の夜空はそれとは逆で優しい気持ちになる。ただ無機質な冬の夜空は、宇宙の闇に似ている。その先に優はいるのだろう。俺が追いやった先の、闇の檻に閉じ込められているに違いない。そこに追いやったのは俺だというのに、俺にはどうすることもできない。たとえ宇宙船が光より速くなっても、そこにいきつくことはない。そんなことを思ったあとで、最後の日記を読み終えた時のことを思い出した。最初に思ったことは、俺が優を殺したんだということだった。視界がぐるぐると回っているように感じたが、きっと実際にふらついていたのだろう。それがめまいだったのか、貧血のようなものだったのかは分からない。気が遠のいていくような感覚である。その時、ほんのわずかな時間だったが、現実とは別の時間と空間がそこには存在していた。そこには俺がいて、優がいた。俺は優と少しだが会話をした。薄いピンク色のダウンジャケットの優で、俺が最後に見た優の格好である。それが、いわゆる霊や魂というものでないという確信はあったが、ひとつだけわからない。それは、そのイメージは、その時その場で見たものなのか、それとも、後日俺が作り出した空想の出来事なのか。些細なことのようだが、どちらであるのかが俺にとっては重大だった。仮に、日記を読んだ瞬間であれば、それは優の気持ちに近い気がする。しかし、後者であればきっと、俺の都合の良い解釈でしかない。
「ありがとう」
「何言ってんだよ! 俺が殺したんだぞ!?」
「幸せになってね」
「馬鹿、そんなことできるかよ!」
「いつまでもひきずってたら怒るよー」
「話きけよ!」
「それじゃね……淳」
「ちょっと待ってくれよ!」
そう言って優はやさしく微笑んで、右手を少し上げて手を振って俺から離れていった。優の見せた笑顔は、優と最後に顔を合わせた夜と同じで哀しげだった。映写機がスクリーンに映像を映すように、俺の脳裏に優の姿が映し出される。俺は、ほとんど客席でそれを見ているだけだった。その時、直感が突如としてひらめいた。俺は永遠に開くことはないと決めていた日記を、いともあっさりと開いて、最後の日の最後の言葉を読み返した。
「はは、馬鹿かよ……」
俺はうなだれ、つぶいた。それもそのはずである。日記の最後の日に、その優の言葉と同じ言葉が書いてあるのだ。俺は、その行を読みながら頭で優を思い描いていたのだ。どうりで、俺の言葉に何一つ耳をかさないで行ってしまったわけだ。妄想でも亡霊でもなんでもいいが、もし優が俺の側に来たのならもう少し会話らしい会話をしただろう。不可能なことは百も承知だが、俺はもう一度優に会いたかった。そして、俺の命と引き換えに優をこの世に返したかった。ソファに横になり、腕枕をしてぼんやりと天井を眺めていると、玄関の扉がコンコンと二度ノックされた。
「優か?」
俺はそれをありえないことだと否定しながら、どこかで期待しながらドアを開けた。
「あ……」
そこには、三木本さんがいた。
2
黒いブーツをたどたどしく脱ぎ、三木本さんが俺の部屋に入った。頬が真っ白で、ほんの少しふれかけた三木本さんの冷気から、外の寒さが伝わってくる。今日は風も強いし、相当寒かったに違いない。三木本さんの家からここまで、少なくとも一時間半以上かかる。俺はふっと抱きしめたい気持ちに襲われた。愛おしさがこみ上げてきたのだ。三木本さんから離れる覚悟を決めたとはいえ、好きな気持ちに変わりはない。そんな自分に心で一言、もうお前にはそんなことをする権利はないんだと叱責した。
「えっと、狭いけど、そこのソファに座って」
俺はソファを指差して言った。
「うん」
部屋をきょろきょろと見回していた三木本さんは、その言葉に半ば驚かされたように反応した。そして、ほんの二つくらいの瞬間を隔ててから、三木本さんは白のトレンチコートを脱いで半分に折りたたみ、ソファに腰掛けると同時に隣の席に置いた。オフホワイトのモヘアの上着と、黒と白の千鳥格子の丈の短いスカートであった。その程度の軽装では、ここに来るまでの道のり、相当寒かったに違いない。俺は三木本さんを尻目に、やかんに火をかけた。
「紅茶でいい?」
「うん」
三木本さんがそう答えてから、やかんの水が熱湯になるまでの間、お互いに一言も声をかけなかった。俺はただお湯が沸騰するまで、ぼんやりとガスコンロの青い火を眺めていた。どんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。
沸騰したお湯をガラス製のティーポットに入れる。丸型のもので、ここに引っ越してきたとき優と下北沢の雑貨屋で買ったものだ。ティーポットの中を紅茶の葉が踊る。それは、徐々に透明のお湯を紅い水色にそめていった。茶葉が沈むのを待って、ティーカップとそれを三木本さんのいるテーブルの上に並べた。
「これ、レディグレイだよ」
俺はティーカップに紅茶を注ぎながら言った。そのティーカップは、白磁器に、ぼかした淡い緑色の模様が描かれているものである。六分目くらいまで紅茶を入れ、それを飲むことを促すような手つきで三木本さんの手前に置いた。茶葉、ティーカップ、ティーポットのどれもが優と一緒に買ったものだと気づいた。
三木本さんと反対側のTVの置いてあるあたりに腰を下ろそうとしたが、そこからだと目線の高さがちょうど三木本さんのスカートを覗くことになることに気がついて、座るのをためらった。
「あ、こっちに座った方がいいよね」
その仕草から俺の思っていたことを察したようで、三木本さんはソファから立って、テーブルの寝室側に腰を下ろした。
「ありがとう……」
俺は三木本さんと対面する位置で胡坐をかいた。一瞬だけ視線が合う。視線が合った瞬間、三木本さんは俺から目をそらした。俺も少し遅れて同じように目をそらした。一瞬目が合ったときの三木本さんの表情が、泣き出してしまいそうに見えたからだ。三木本さんを悲しませたくないと思っていたころを思い出す。そう思っていたのは一年や十年も昔のことではなく、ほんの数週間前のことだ。盛り上がって小山のようになった気持ちを、半ば強引に撫で上げて、落ち着かせようとした。本当ならば、三木本さんの隣に腰掛ければよいのだろうが、そうする分けにはいかないのだ。きっと、この日記を読んでいなければ、俺は今頃何も気にせずに三木本さんの隣に座り、手を握ったり、肩に腕をかけたりしていたのだろう。つい数週間前の俺には、こうして言葉さえかけられないでいる二人の展開など、どうやって想像することができただろう。視線が合って、それをお互いに避けることなど、想像もできなかったはずなのに……
「どうしてた?」
それを尋ねたい気持ちは、三木本さんの方が遥かに強いに違いない。俺は、自分の失言にはっとした。しかし、それでもこの沈黙を続けるより幾分かましに思えた。
「ん…… 東海林さんは?」
三木本さんも、触れてはいけないことに触れたように、一瞬はっとした表情をした。
「俺は…… うん、なんとかやってるよ」
なんとかその言葉だけを告げた。本当は伝えたいことが山ほどあるはずなのに、寄り道せずにその言葉だけを導き出すのは至難の技であった。それからまた沈黙が続いた。
「メール、見ました。その、どうしても話がしたくて……」
顔をうつむかせて三木本さんは言った。その言葉にいきつくまでの、三木本さんの感情のうねりが伝わってくる。
「うん」
そう答えた俺は、三木本さんと同じように顔を伏せていた。
「ここの住所、唐沢さんに教えてもらったんだ。突然来たらやっぱり迷惑だと思ったんだけど、なんだかわけわからなかったから……」
「そっか……」
元々積極的に行動するタイプじゃない三木本さんが、こうしてここに来るということがどれほどの意味を持っていることか。あっさりと俺のことを忘れてくれた方がよっぽどよかった。俺は今更ながら、たった一言で二人の関係の全てを終わらせようとした自分がいかに愚かだったのかに気づいた。三木本さんがそこまで俺を好きだとは思っていなかった。連絡をしなければ、それで終わる関係だと思っていた。しかし、それは俺が都合よく作り上げたシナリオのひとつでしかなかった。現実的に今三木本さんは俺のすぐ目の前にいる。顔を伏せ、身体をこわばらせ、ときおりまるで捨てられた子犬のように身体を震わせながらそこにいる。優のときと同じだ。俺はあれだけ優への勘違いを悔やみ、自分を呪い殺さんばかりに責めたというのに、まったく同じことを繰り返しているのだ。
本当に、俺は何をしてるんだよ…… 人の気持ちを勘違いし続けて、なんでもわかった気になって、ほんとなにやってるんだよ。強く握った拳が小刻みに震えていた。もし、この場に誰もいなければ、その拳で自分の鼻面を折れるまで殴ってしまいたい。そういう気分だった。
「――ほんとうにごめん。三木本さんの気持ちも考えないで、勝手なことして。ただ俺は、俺という人間に三木本さんを巻き込みたくなかったんだ」
「どういうこと?」
三木本さんはたちの悪い冗談でも聞かされたような顔で俺を見上げた。
全てを話さなければならないのだな、と俺は直感した。そうしなければ、三木本さんは納得しないだろうから。
「そうだよね。三木本さんは、何があったか知っても良い人だよね」
「――うん」
自然と鼓動が早くなる。それは、三木本さんも同じことだろう。お腹で呼吸を二つゆっくりとする。真剣な会話の間にそれだけの時間空白を作ることが、気持ちを落ち着かせるどころか逆効果になることも知らずに俺はそうしていた。案の定、その二つの時間で、部屋中に極限までひっぱられたような緊張感が高まっていて、スパークでも起こしてしまいそうだった。
「優は、事故じゃなかったんだ」
「え?」
「俺が殺したんだ……」
三木本さんは眉をしかめる。何をふざけたことを言ってるの、と言い出しかねない表情だ。温厚な彼女が俺に見せた、初めての不快な表情だったかもしれない。三木本さんは一瞬だけそうした後、何かを考え直そうとしているような、けれどもそれがまるで収集がつかないようなおぼつかない目を俺に向けた。どういうこと? という声がそこに潜んでいた。俺は、ほんの少しだけうなづいてそれに答えた。
「優さ、ずっと俺のことを愛してくれてたんだ。だけど、俺はずっと勘違いしてて…… 優が浮気したとか言ってたけど、そんなことなかった」
三木本さんは白い湯気の立つレディグレイに視線を向ける。
「優は俺のこと見守ることしかできないって思って、ずっとそうしてくれてたんだ。けど、俺はまったく気づかなかった。いきなり態度が変ったからさ。俺、優に飽きられたと思った。それで、なんか頭おかしくなってて。小説のこととかも重なって、なんか疑心暗鬼で、もう耐えられない、死んだ方がよっぽどましだって思ってた。三木本さんと会った日とか、本当は、俺と優の記念日だったのに、俺は忘れてて。優は俺を待ってくれてたのに、そのことを隠して……」
俺は、少ない言葉で、真実をひとつひとつ簡潔に語る義務があった。それなのに、そうしなければというプレッシャーが逆に俺の言葉を封じてしまう。頭に血が上るときの嫌な感覚がする。そんな俺に、三木本さんはひとつだけ相槌を打ってくれた。
「俺と三木本さんのことも知ってたんだ」
「え……」
その告白に、三木本さんの心が動揺したのを感じた。そして俺に視線を向ける。俺は、それから逃げるようにしてティーカップの薄緑の模様に視線を向ける。ゆっくりとした時間が流れて、いつしか時間が停止しそうだった。
「携帯見たんだって。けど、それでもずっと黙ってた。俺のためだって言って……」
今、俺も三木本さんも同じ感情を共感している。それは罪悪感と呼ばれるものだ。
「自分から離れてあげれば良いのに、俺は、別れ話を切り出せるような男じゃないからって。けど、それができないって自分を責めてさ…… それで、追い詰められて、気がついたら正常な考え方とかもできなくなってて、自殺っぽいことしようって思ったんだ。俺に心配してもらいたくって」
「え……」
「死ぬつもりはない、ただ、少し怪我をすればって……」
「それじゃ、優さん……」
「そうだよ、俺が殺したんだ」
「違うよ!」
「そうなんだよ! 俺が、優の気持ちを分かってあげるように努力してればこんなことにならなかった! 三木本さんのことがあっても、変に待ったりしないでふってればこんなことにならなかった! いや、違う、俺なんかと出会わなければ良かったんだ! 俺が死ぬべきだったんだよ…… なんで優みたいな子が死んで、俺みたいのが今でも生きてるんだよ……」
「そんなこと……」
「あるよ! しかもさ、俺、未だに涙の一つも出ないんだ。ほんと、なんなんだよ、俺って」
閉められた窓。閉められたカーテン。閉められたドア。閉めきられた空間には罪の意識があふれかえっていて、それをファンヒーターが加熱してさらに膨張させていた。いっそのこと、部屋中を開け放って、全てを凍らせてしまいたかった。
少しだが、冷静な思考がもどってくるのを感じた。その感覚はなんとも不吉な予兆のようでもあった。テーブルの縁に何度となく打ち付けた頭は、無意識に力を制限していたのだろう。血まみれになってしまえと思っていたのに、こぶの一つか二つかできる程度だった。あれだけ感情に身を任せたと思ったのにな。正直残念だった。テーブルの縁にへばりつけていた頭をもたげて、目前に視線をやる。そこには、同情的な眼差しで俺を見守る三木本さんがいた。
「ごめん……」
俺はどんな顔でそう言ったのだろう。惨めな顔をしていたんじゃないかと思った。
「ううん、いいよ」
「ほんとは、三木本さんとは二度と会わないつもりだった」
「うん……」
「正直、こんな話聞いたら俺のこと嫌いになるでしょ」
「ううん、そんなことない。だけど……」
「だけど、何?」
紅茶の湯気はなかった。それだけの時間が過ぎていたのだなと思った。
「うん……」
三木本さんが、ふさわしい言葉を見つけようとして、必至に意識の海に釣り糸をたらす。静寂の部屋に時計の秒針だけがチク、チクと鳴り続ける。
「私、東海林さんのこと大好きだけど、今の私は役にたってあげられないんだなって思った」
無理に作ろうとした微笑みから、今にも泣き出してしまいそうな悲しみがこぼれていた。俺はそれをすくいとってあげたかった。俺の本音の部分がこんなことを言う。三木本さんとならうまくやっていける。今からでも遅くない、抱きしめて好きだと言えばいい。けれど、どこで培ったのか、いつの間にか鍛え上げられていた精神力はその気持ちを羽交い絞めにしていた。今の俺では、三木本さんを幸せにしてあげられない。好きな人だから、離れなければならない時もあるんだ。そう言って、本音の部分をなだめていた。
「――そっか」
心の迷いに気づかれないよう、クールに言った。
「けど、これだけは言っておきます」
「うん……」
「東海林さんのせいとか、そういうんじゃないです。絶対、優さんだってそんなこと望んでない!」
そう言って三木本さんは、精一杯すごんでみせた。けれども、それは脅しになるどころか、怒ったときの小動物によくあるかわいらしささえあった。
「ん、わかった」
本当は何も分かっていないのに、微笑んでうなずいてみせた。
それからは、香奈のことや唐沢のことを話したり、優のことに触れないようにお互いの話をしたりした。時間がたつのも忘れて、三木本さんの新しい曲や、俺が今書いている小説の話をした。それをお互いに見せ合うことはないんだろうな、と思うと言葉を失ってしまいそうで、俺は無理に自分の作品を熱く語った。三木本さんはそれを「面白そうだね」とは言ったが、読みたいという言葉が三木本さんの口から出てくることはなかった。そうしている微妙なやりとりが、きっと二人の関係の終わりを寡黙に告げているのだろう。
空腹に気づいて、夕食を食べていきなよという話になると、三木本さんは喜んで食べてくと答えた。冷蔵庫の中にはろくな食材がなかったのだが、スパゲッティが残っていたので、ペペロンチーノとドライ食品のたまごスープを作ることにした。「ペペロンチーノよりたまごスープが断然得意なんだよなー」と言うと「お湯入れるだけでしょ!」と突っ込まれた。それから、食事を挟んで二人の会話が弾んでいった。俺の自慢のペペロンチーノを、三木本さんは絶賛してくれた。それに対して俺は「ほんとは生麺を使いたいんだけどね」と照れてみせた。すると「あ、だけどたまごスープの方がおいしい」と言われて、また二人で笑いあった。俺は二週間ぶりに大きな声で笑った。三木本さんと食事をするということはこれほど幸せなことだったのかと実感した。けれど、これが三木本さんとの最後なのだと考えると、寂しくなる。失うには、あまりにも大きなものだと思った。それは、あまりにきれいな夕焼けを前にして言葉を失ったとき、秋の夜風が枯葉を運んできたときの寂しさにも似ていた。
三木本さんは十時くらいになるまで家にいた。夜は危険だから駅まで送ると言ったのだが、三木本さんはそれを真剣に拒んだ。優のこともあって心配で仕方なかった俺は、何度も送ると突っぱねた。その数だけ三木本さんは拒絶して、しまいには怒り出しかねない様相であった。そのとき俺は、確かに三木本さんの心の悲痛な叫び声を聞いた。私と終わりにするなら、最後に優しくしないで。これ以上側にいたら涙が止まらなくなるから。だから、一人で行かせて。そういう声だった。俺の心配する気持ちが、逆に三木本さんを悲しませている。俺は「わかった」と言うしかなかった。
三木本さんは来たときと同じように、たどたどしくブーツを履く。ほんの一瞬よろけた三木本さんに、俺がとっさに手を伸ばす。そのつかまれた腕が、俺を振りほどこうとするのを感じて、手を放した。こういう小さな優しさも、今の三木本さんにとっては負担でしかないのだと気づいた。玄関を出るとき、俺はせめてアパートの外までついていこうと靴を履こうとした。
「大丈夫だから……」
そう言って三木本さんは俺に微笑んで見せた。哀愁の風が吹く。玄関の蛍光灯が不器用な明るさで三木本さんを照らす。
「ばいばい……」
何か言えよ。最後の言葉、何か言えよ。何か、何か言わないと…… そう思ってあせっている俺を三木本さんが見つめる。何かを期待している目だろう。俺が最後に引き止めること? それとも、最後の言葉を待っているだけなのか…… 三木本さんと過ごした時間が瞬時に脳裏を駆け巡っていった。初めて出会った下北沢、好きだと気づいたこの部屋、初めて抱きしめた代々木公園。抱きしめたい思い、引き止めたい思い、けれども俺ではいけないんだという思いが入り混じる。頭が混乱して、どの言葉を投げかければいいのか分からなかった。ただ、何か言わなければという気持ちばかりが膨らんでいった。
「あ……」
「あ……」
声が重なる。
「え、なに?」
「いや、そっちこそなに?」
「べ、べつになんでもないよ。東海林さんは?」
「え? 俺も別に……」
はりつめていたものが、ほんの一瞬だけど和らいでいた。そして、自分が一番伝えたい想いは、初めからすぐそこ置いてあったことに気づいた。どこに行ってたんだよ、と言ってしまいたいくらいそれは素朴に、心の中にあった。
「ありがとう……」
最後の言葉だった。
「うん、ありがと」
三木本さんの笑顔は、今までに見たどれよりも優しく見えた。
三木本さんが部屋を出て三十分ほどして、一通だけメールを送った。車に気をつけてねと。そのメールの返信がくることはなかった。その代わり、少ししてからこの二週間分のメールが大量に送られてきた。なんとなく、メールボックスにどしどしと詰まれていくそれは雪崩のように思えた。それは二十通以上あり、そのほとんどが三木本さんからであった。俺は、それを見ずに全て削除してしまった。
3
深夜の一時が過ぎていた。俺は布団に、天井の白を見つめる姿勢で横になっていた。一月の半ば、真冬日の夜は関東といえども凍えるように寒い。部屋の空気には冷気が漂い、はりつめて凛としていた。その冷気と直に接している頬や唇が、かさぶたのように固まってしまっているように感じた。そんな中で夏を想っていた。冬になると夏がいいと思い、夏になると冬がいいと思う。不思議だ。けれど、そのすぐ後で、やっぱり秋が一番いいよなと思う。年に一度は必ずこんなようなことを考える。ふと、夏に関する言葉で、以前疑問に思った言葉のことを思い出した。何故、夏の暑さは、猛暑やら酷暑とか言うのに、冬の寒さは猛寒や酷寒とは言わないのだろうか。そんな疑問が、連鎖的に小学生の頃に抱いていた算数の疑問を思い出させる。以下に対する言葉は以上と言うが、未満の反意語は聞いたことがない。あるのかもしれないが、何故か一般的には使われない。やっぱり、未上とか言うのかな? ふと、言葉遊びに興じている自分が馬鹿らしくなって、くすっと笑ってしまった。そして、優のことを考えた。日記を読んでから、色んな疑問が頭に浮かんでは自分なりの解釈を与えてきたが、一つだけ根本的な疑問が解決しない。優は、どうして俺のことをそんなに想っていたんだろう。そのことだけがどうしても分からなかった。好きと愛するというのは違う。好きというのは、いつしか好きではなくなるものだ。感情なのだと思う。愛するというのはもっと深い。一生に一度しか言わない言葉かもしれないし、一生に一度も言わない言葉かもしれない。まぁ、誰でも言葉の意味というのは違っているから、口癖のように愛してると言う人もいる。俺にとっての愛するというのは、そういう口癖の類とは違う。こんな風に考えている俺は古風なのかもしれないが、優も同じようなところがあるんじゃないかと思っていた。優の日記に、一体何度愛してるという言葉があったか。けれど、俺はその言葉を直接言われたことがない。この差は一体なんなのだろう。俺はどれだけ考えても、その答えのヒントになることさえ見出せなかった。それに、今まで妄想で散々勘違いを繰り返してきたこともあって、ただ悶々と考えて見つけた答えはどれも信じられなかった。
「なぁ、なんで俺を愛してるんだ?」
部屋の空気がわずかに震えたのを感じた。それだけだった。返事がないことなど分かりきったことだが、この三週間で何回同じことを訊ねか分からない。優の日記を読む限り、それ以前に書かれたものがあるはずだ。もし、その日記を読むことができれば、その理由が分かるに違いない。俺は、是が非でもその日記を読みたかったが、そのためには優の実家を訪れなければならない。あの優の母親に再度会って、ぶしつけに日記を貸してほしいなどと言えるはずがない。そう思う一方で、俺はすでに取り返しのつかない罪を犯しているのだし、この際非礼の一つや二つ増えたところで大差ないはずだとも思う。
目が冴えているわけではない。俺はすでに半歩ほど眠りの世界に歩を進めている。頭では優のことを考えているが、明日になってしまえばそれが現実か夢か区別がつかないだろう。いや、それよりも、今ぼんやりと考えていることを思い出すこともないかもしれない。そんな時に、突然ドンドンとドアを殴るように叩く音がなった。それは、狭い部屋の中を乱反射して、すぐに部屋の壁や天井に吸い込まれてしまった。そして、空白が余韻を残す。俺は、ドアを叩いているのが誰なのか考えた。一瞬三木本さんかと思ったが、以前彼女が来たときのノックとは、その繊細さにおいて天と地ほどの差がある。いたずらか不審者かと思ったが、その犯人が誰なのかをつきとめたいという欲求が、眠気と寒気の両方に打ち勝って俺を突き動かしていた。
「うー、さみー。あいつ、またバイトかよ」
ドア越しに独り言をするその声が、唐沢のものだと分かるのに一秒かからなかった。ドアを開けるか、ゆっくりと三歩あるくくらいの時間迷ったが、開けることにした。
「よう」と言って唐沢は右手を軽く上げる。
「なんだよ、こんな遅くに」
「あぁ、なんとなくな。いつも深夜のバイトだろ? だから、こんくらいの時間の方が良いかな思ってよ。てか、さみーから早く入れてくれ」
俺がほんの数瞬迷っていると、半ば強引に唐沢が部屋に上がりこんできた。俺はそれを迷惑と思ったわけではなかったが、もう二度と会うことはないと思っていた手前、どうしたものだろうかとためらったのだ。
「つーか、寒すぎだろ!」
唐沢は、スイッチを入れたばかりでまだ火の点ってないファンヒーターの前で寒さに震えていた。寒いときに、ヒーターが点くのを待つ数分間は、異常に長く感じるものだ。
「はやくつけ!」
唐沢がファンヒーターを叱っている。心なしか冗談ではないように見えるのがおかしい。俺はそれを横目に、寝室に戻っていった。
「うー、さみー、今日とくに冷えるよな。っていうわけで、お休み」と言って、俺は布団にもぐりこむ。
「おい、寝るなよ!」と唐沢がすかさず突っ込みを入れる。寒さに震えながらの突っ込みは、いつものそれよりも真剣に感じるから面白い。俺は、けらけらと笑いながら身を起こし。ファンヒーターがつくまでと白のダウンジャケットを着込んだ。
上着がいらなくなる程度に部屋が暖まるのに、十分くらいの時間がかかっただろうか。それと同時くらいに、火にかけていたやかんが沸騰した。それを見計らって、俺は、手早くインスタントコーヒーをマグカップに入れ、それを唐沢に出した。俺自身は、だいぶ以前に買ったはす茶を黒い急須に入れ、お湯を注いで、空の湯飲みと一緒にテーブルに置いた。
「なんだそれ?」
「これか? これははす茶っていうんだ。香りがいいんだよね」
「――ほう?」
どことなく違和感のある、コーヒーと急須を見比べながら怪訝そうな顔で言った。
「お前はコーヒーで良かったよな」
「うん」
そう言って唐沢はコーヒーを一口すすった。唐沢は昔からコーヒーをブラックで飲む。
「それで、バイトはどうなん?」
唐沢はマグカップをテーブルに置くのと同時に言った。
「別に普通だよ」
「コンビニだっけ?」
「うん」
「深夜でやってるとわりかし時給良いんだよな」
「まぁな、だいたい時間1000円くらいかな?」
「1000円なら良いじゃん。週何回?」
「んー、5~6回かな?今は少し多めにやってるし」
「そっか」
「お前なんのバイトだっけ?」
「あぁ、俺はかてきょーと、塾講やってる」
「まじ? すげーじゃん」
「すげーんだかしらねーけど、時給は結構いいな」
「いくらくらい?」
「塾講の方が、2000円で、かてきょーの方が、2500円かな」
「お、すげーな」
「まぁね。けど、あんまし長時間やれねーし。効率あんまよくねーぞ」
「あぁ、それはあるわな」
なんでもない話が続いていた。俺は、唐沢がなんの目的で今夜ここに来ているのか察しがついていた。三木本さんのことに違いない。会話が途切れ、ファンヒーターの音だけが部屋に響くたびに、唐沢が三木本さんの話題を切り出してくるんじゃないかと身構えていた。しかし、その話題はこの一時間近くで交わされることはなかった。
唐沢がコーヒーを三杯飲んで、もう一杯を要求したとき、俺は文句を垂れながら、やかんに火をかけるために立ち上がった。そしていたずらしてやろうと、唐沢のマグカップにスプーン四杯分のコーヒーの粉末を加えて、熱湯を注いだものを出してやった。
「ぺ、なんだこれ! 濃過ぎだろ!」
何も知らずに極濃ブレンドコーヒーを飲まされた唐沢は顔をしかめた。
「あぁ、カラオケ屋のフリードリンクでサワー頼みまくると三杯目くらいから、焼酎めっさ濃いだろ。それだよ」
俺は、はははと笑いながら答えた。
「意味わかんねーよ!」
唐沢は笑いをこらえながら、その言葉をはき捨てた。
「まぁ、それは良いとして、今日はなんだ? まさかコーヒー飲みにきたんじゃねーだろ?」
俺はあえて自分から切り出した。そうする方が、わずかだが精神的に優位さを保てると思ったからだ。部屋中を沈黙が静かに伝達していく。唐沢は、極濃ブレンドコーヒーをもう一度すすりながら、ゆっくりと部屋の天井の方を眺める。一瞬が二つほど過ぎる時間、唐沢は目を閉じ、軽く深呼吸をした。その動作が、いやがうえにお互いの緊張感を高める。
「あぁ、お前さ、俺とここシェアする気ねー?」
「え?」
三木本さんの話かと思っていたせいで、拍子抜けしてしまった。
「は? なんだよそれ」
きっと、俺はあからさまに不愉快な顔をしたのであろう。唐沢が少しだけ驚いたような表情をする。
「あ、いやさー、親元にいつまでいるのもなんか気がひけるし。ここから大学までってわりと遠くないし。ちょうどお前一人だし、良いかな、思ってさ」
「うーん。前言わなかったか? 俺、実家に戻る予定なんだが」
「いや、それは覚えてるけど、お前も簡単に実家とか戻りたくねーだろ?」
「あぁ、それは確かにそうだ」
「だろ? 俺も同じような心境だしな。だから、良いかな? 思って。シェアしてりゃ、安上がりだろう」
「まぁな……」
正直、思ってもみない提案だった。俺自身、作家になると言って家を出た手前、中途半端なままで実家に戻るのは気がひける。日記を読むまでは、三木本さんとの未来を考えて就職をと思っていたが、今となってはどうだってよかった。すでに俺は、自分自身に貼った落伍者のレッテルを剥がす気は毛頭ない。まっとうな人生を送ろうというつもりもなく、社会に出ることで押し付けられる責任を忠実に果たしていく勇気もなかった。アルバイトでもいいから、細々と生きていればそれでよかった。そして、いつか死んでしまいたいと思っていたのだ。唐沢との同居は、少なからず俺に刺激となるであろうし、家賃の問題もある程度は楽になる。そう考えれば、今すぐにOKと言ってしまっても構わない提案なのだが、何かが心に引っかかる。
「あ、それとお前みきちゃんと別れたんだってな」
その言葉に一瞬心臓が止まってしまいそうになった。完全に虚をつかれた。
「――うん」
かろうじてつぶやくことができた。三木本さんとは付き合ってたわけじゃないから、別れたとは言わないと言いたかったが、唐沢の言葉があまりに唐突だったせいで、その言葉は心でしか聞きとれない声にしかならなかった。
「お前ん家にみきちゃんが行った日、夜の11時くらいに俺に電話あってさ」
唐沢は淡々と話しだした。
「みきちゃん、ずっと泣いてた。それで、どうした? って聞いたら、お前にふられたって」
三木本さんが俺の部屋を出て少したってからのことだろう。俺はまた勘違いをしていた。最後、三木本さんが俺に見せた微笑の意味をまるで履き違えていた。泣き出しそうな気持ちを抑えて、意地をはって見せた微笑だったのだ。俺はてっきり、お互いに理解しあえた笑顔だと思っていた。
「で、俺さ、その日の夜、みきちゃんに会いに行ったんだわ。あんまり泣いてたし、かわいそうだったからさ」
唐沢は、俺に対して本気で怒っているのだろう。今、この場で唐沢に殴られても俺は仕方ないと思った。何も言い返す言葉が見つからない。しかし、それならば何故同居しようなどという提案をしたのかが俺には分からなかった。
「でよ、みきちゃん、まぁ今は大分立ち直ったよ。女の子って失恋から立ち直るの早いしね」
「――そっか、良かった」
そのことだけが、俺にとって唯一の救いのように思えた。
「話し聞いてたときは正直、お前って最悪な野郎だなと思ったよ。けど、みきちゃんの話し聞いててなんとなく分かったわ」
「え?」
「優ちゃん、事故じゃなかったんだろ?」
そう言った唐沢は、そっと俺から視線をそらす。
「うん……」
そう答えた後、俺も自然と唐沢にならって視線をそらしていた。
「まぁ、お前って昔から頑固だったからな……」
言葉が唐沢の口元から零れ落ちた。それはテーブルの上に落ちて小さな波紋を広げる。ゆっくりと、空間を伝って部屋の隅々まで届く。それが、部屋を包みきったころには、お互いに言葉を禁じられたような、葬儀で経験したあの雰囲気が広がっていた。俺は唐沢の言葉から、どれほどのことを唐沢が理解しているのかを感じた。俺が軽い気持ちで三木本さんとの関係を続けていたわけでも、突然連絡を断って別れようと言い出したのでもないということ。俺が勘違いして、優を傷つけ追い詰めていったということ。そして、それを知った俺が、どれほど自分を許せないでいるのかということ。唐沢は、三木本さんのたった一言でそこまでを理解したのだ。ひょっとすると、唐沢には優が死んでしまうことも分かっていたのかもしれない。そう思わせるほど唐沢の理解は深く、俺や優の内面を正確に捉えている。俺なんかは、日記を読んでも未だに何も分からないというのに。
「三木本さんには、本当に悪いことしたと思ってる」
そう言ったのは本心である。
「当たり前だ。ていうか、そもそもお前は贅沢なんだよ。優ちゃんみたいな人に好かれてたってだけで、どれだけ幸せだと思ってんだ。優ちゃん、大学の頃すっげー人気だったんだぞ」
「あぁ……」
なんで、俺には優がそういう人という自覚がなかったのだろうと思った。
「その上、みきちゃんにまで好かれたっていうのによ。二人とも振ろうなんて、お前ほんと何様のつもりだって感じだぞ」
「はは、ほんとだな」
俺は責められていることがむかつくどころか、心地よかった。
「まぁ、そういうところがお前っぽいんだろうけどなー。なんか、こう、どうでもいいこといつまでも悩んでたりさ」
そう言った唐沢は眉をしかめていた。きっと、唐沢が言葉を続けるなら、俺にはお前のことは理解できない、と続けるだろう。しかし、その言葉が音声を伴うことはなかった。こうして唐沢に言われて、初めて自分の行動は変っていると気づいた。もし俺が唐沢だったとしても、同じことを言っているに違いない。
「てなわけで、明日学校だし、用件済ませたからそろそろ帰る」
そう言って唐沢はソファから立ち上がった。今まで優か俺以外にこのソファに座った人は三木本さんくらいのものだ。唐沢はソファに座るときも立つときもどこか大雑把だった。男らしいと言えばそうなのだろうが、そのように扱われているソファを見るのが妙に新鮮だった。
「あぁ、分かった」
「それじゃ、部屋のこと少し考えといてな」
「はいよ」
そう言って唐沢は、ぶつぶつと外の寒さに呪いの言葉を吐きかけながら玄関で靴を履く。俺は、それを見送るために側に寄った。
「そうそう、携帯電源いれとけよ。連絡取るのめんどくさくて仕方ない」
「あぁ、わかった」
「じゃ、そういうわけで」
「またな」
ドアが閉まると、無機質の音が一通り部屋に散乱して、微かに余韻を残していた。
優が亡くなってから二ヶ月がたとうとしていた。俺は今、優の実家の客間で、優の母親と向かい合ってあっている。敵地に足を踏み入れたような気分だった。はじめ、俺からの電話をうけた優の母親は、何故かこうなることが分かっていたように冷静に、今日の予定を入れてくれた。てっきり、怒鳴られるか無言で電話を切られるかのどちらかだと思っていた俺は、その冷静な彼女の態度に驚かされた。以前会ったときにも感じたことだが、今こうして面と向かっていると、彼女の、人としての格の違いのようなもの感じる。見た感じは穏やかで優しそうなお母さんという感じなのだが、堂々としているというか、落ち着いているというか、どこか威厳さえ感じる。ただ強面で、相手を威嚇するだけのそれとは根本的に違う。まるで、一本の大木のようでもある。俺はこの人の前で嘘などつけないだろ。そのような小手先の話術を振りかざしたところで、全て見抜かれてしまうに違いない。
どうしても、優が俺をそこまで想っている理由を知りたかった。そのためだったら何でもしてやろうという気持ちでもあった。確かに、優を死に追いやったのは俺だが、俺なんかに固執してないでさっさとふってしまえばよかったのだ。優はそれをしなかった。好きだ、愛しているといくら書かれていても、俺にはその理由が分からない。人は、気持ちだけを見てそれを理解することなんて絶対にできないのだ。頭では理解できる。けれど、そんなものは実感を何も伴わない、言葉という記号をこねくりまわしただけの理解でしかないのだ。体がそれを受け付けなければ何も意味が無い。だからこそ、結果としての愛よりも、愛に至る過程が重要なのだ。それを実感できなければ、愛されていても、愛されているとは感じられないだろう。真に愛し合う二人がいるのなら、その二人の愛しているという言葉は、二人の軌跡を瞬時にたどらせる。しかし、俺にそれはない。愛してると言われても、その言葉は俺の記憶の中で迷子になってしまう。その言葉が俺に抱かせる感情は、不信、懐疑、困惑でしかない。だから、今俺はここにいるのだ。優の中で何が起こっていたのかを知るために。
「まさか、あなたの方から尋ねてくるとは思わなかったわ」
優の母親は言って、自分で出した緑茶を一口すすった。その手がほんのかすかに震えているように見えた。
「――はい」
俺は下を向いたまま答えた。
「良いわ……」
そして、長い沈黙が訪れた。それは嵐の前の静けさに例えられる種類の沈黙だった。
「日記、読んだのね」
沈黙が、彼女の口から破られた。
「はい……」
「私もね、あれを読んだときは正直言ってなんともいえない気分だったわ」
ため息にも似た、かすれるような声で言った。
「最初は、貴方を恨んだわ」
「――はい」
俺の心に徐々に負荷がかかる。それは、圧力に似ている。深海に潜ったときの水圧と言ってもいいかもしれない。俺は、できるなら逃げ出してしまいたかった。
「でも、日記を全部読んだらね、なんだか分からなくなったの。あの子って、ほら、見かけによらず自分のことってしゃべらない子じゃない。私も、正直あの子がそんなに貴方のことを想っていたなんて気づかなかったわ。あの子が亡くなる数ヶ月前くらいから、週末は家に戻るようになって、なんだか様子が変だなって思ったけど」
そこまでを一気に話し、また一口お茶を啜った。
「貴方のことで、あんなに耐えていたなんてね……」
そう言い終えた後、ふっと視線をそらし、顔をわずかに伏せ気味にして座卓の縁のあたりにそれを向けた。どこか遠くを見ているような視線だった。口の端が微かに笑みを浮かべているように上がって見える。そうしているのが癖なのかと思う。何を思っているのだろう。優の何を思っているのだろう。きっと、後悔しているのだと思う。俺との同棲を許すべきじゃなかった、と思ってるのだろう。もっと早くに優の異変に気づくべきだった、と思ってるのだろう。数え切れないほどの後悔があって、それは俺の後悔なんかよりもよっぽど多くて、遥かに深いに違いない。全て俺の責任なんだと言いたかった。もし憎しみがあるなら、俺はそれを全て引き受けようとさえ思う。俺のせいで、優だけじゃなくて、優と関係のある多くの人が苦しんでいる。優という損失が、どれだけ多くの人の心を欠けさせたのだろう。あの、岡田という男だってそうだ。俺はかつて、そういう人たちの中にいて、面倒くさいと思った。葬儀の時のことである。できることなら、葬儀に出た人を集めて、優は俺が殺したんだ、と打ち明けてしまいたかった。
「確かに、貴方と付き合うようになってからあの子って変ったのよ。私も、もう一人の娘と一緒によく言ってたのよ。なんていうのかしら、なんだか生き生きしているっていうか。昔は、なんだかもっとぼんやりしてる子だったから。それでも昔から、明るいし、素直で良い子だったから、友達も多かったのよ。ほんと、高校時代なんてしょっちゅう友達が来てたもの」
「そうなんですか」
「えぇ、詳しくは知らないけど、なんだかボーイフレンドもよく変ってたみたい」
俺は、俺と付き合う以前の優のことをほとんど知らなかった。確かに、優は俺以外の人とは、誰とでも話が合った。唐沢と一緒に居たときなんて、本当に楽しそうだった。ところが、優が俺といるときはなんとなく口数が少なかった。まるで、俺と一緒にいることがつまらないとでもいうように。
「それでね、日記を読んでいて思ったの。あの子がそれほど愛した、貴方っていう人がどんな人なのかって」
そう言われても、俺には自分を卑下する言葉以外は持ち合わせていなかった。
「そういえば貴方、他に好きな女の子ができたんでしょ?」
彼女は、俺が黙って下を向いているのを見て、さりげなく話題を変えたようだ。
「はい…… けど別れました」
「そう……」
そして、その理由を尋ねようとはしなかった。それが、大人の女の持つ察しのよさというものなのかもしれない。
「貴方ってね、ほんの少しだけど、別れた亭主に似てるかもしれないわ」
「え?」
「あの子、貴方のそういうところにも惹かれたのかもしれないわね。なんだか、自分を死んでも曲げないようなところかしらね。男の子って、そういうものなのかしら。私は娘が二人だったし、あの人はすごく無口な人だったから、男の人のそういうところって分からないわ」
そういえば、唐沢もおれのことを頑固な奴だと言っていた。確かにそうかもしれない。俺は、一度決めたことをそう簡単には変えないところがある。
「そういえば、今日貴方が来たのって?」
「はい、優の日記をお借りしたくて」
「そう、それを読んでどうするのかしら?」
「わかりません。ただ、どうしても読みたいんです」
電話をかけたとき、彼女に会って話したいことがあると言ったが、その時直接日記を貸してもらいたいとは伝えてなかったのだ。
「そうね、いいわ。もともと、あの子はこの日記をいつか貴方に読ませたいって書いていたもの。あの子の日記は、貴方が持つべきなのかもしれないわね」
彼女は、何か寂しげな表情を浮かべていた。子供はいつしか自分から離れて言ってしまう。そうされても、親は子供のことを考えずにはいられない。そういう、両者の心の歪に対して向けられていたのだろう。優の気持ちの全てが俺に向いていて、死んでしまうその最後の一瞬まで俺のことばかりだったことが、彼女にとっては羨ましいことに映っているのかもしれない。
「正直、何度も貴方を恨んだわ。けど、どうしても恨みきれなかったの。何故だか分かる?」
「いえ……」
「日記をね、何度か読み返したのね。そうしたら、貴方を恨もうとすると、あの子が言うのよ。淳は何も悪くないのって」
俺は、なんと言って返事をすれば良いのかわからなくて黙っていた。ただ、その言葉が、罪悪感に染め上げられた心に、別の色彩を与えようとしているのを感じた。それは、初めは針で突いたような心の痛みを伴い、胸を締め付けるような苦しみとなった。そして急に目頭が熱くなる。しかし、それは長くは続かなかった。いつもそうだ。きっと、人は泣くとき、今の俺のような状態が悪化して、涙を流すのだろう。それが俺にはできない。何故だかわからなかった。きっと、俺には優しさや愛が欠落しているのだ。そう思っているほうが楽だった。きっと、涙が流れたら、俺はそれで自分が許されたと感じてしまうだろう。俺は優を殺した殺人者であり、悪人であり、それを、許しを請うことや、涙を流すことで誤魔化したくなかった。俺は、何も悪くないわけないだろ、と言って優に反論した。お前の可能性も、未来も、幸せも、全て奪ったのは俺なんだ。お願いだから、そのことに気づいてくれよ。俺は優を罵倒する言葉を、心の中で浴びせた。
「なんだか、貴方ってやっぱり少し変ってるのね」
そう言って彼女は、今日始めて微笑を見せた。それは、作ったものでない。何か、さっきまでの険悪な雰囲気は、まるで忘れてしまったか、嘘だったかのような笑顔だ。
「だって、普通、こういう場面で、一言くらいは謝るとか、なにかあるものよ」
「あ、すいません……」
「うんうん、良いの。私も、優と一緒で貴方に少し触れてしまったみたいね。なんとなくだけど、貴方がなんでそういうことを言わないのか分かる気がするわ」
俺は、何も返す言葉が見つからず、ただ一口すすられただけの緑茶に視線を合わせていた。そこには、僅かな茶葉の欠片と後悔が浮かんでいた。
「けど、もしもすいませんでした、なんて言われたら、私の方が何を言うか分からなかったかもしれないわね」
「――すいません」
「あら、貴方、二度もすいませんって言ってるじゃない」
「あ、す……」
「ほんと、おもしろい人ね。少し待っててね。今、取りに行ってくるから」
そう言って彼女は、おもむろに席を離れた。
階段を上る音がする。優の部屋が二階の東向きの部屋であることを俺は思い出していた。
「それから、彼女が降りてくるまでだいたい二十分くらいかかった。俺は、彼女の戻りが、遅くなることを、十分が過ぎた頃に感じ、慣れない正座でしびれた足をマッサージしたり、少し余裕ができた心で、部屋を隅から隅へと眺めたりした。優が、俺と同棲するまでの間住んでいた家。この部屋は、きっと家族が食事をとる部屋だったのだろう。俺の背中側にある、型の古い20インチのTV。正面の、一昔前のこげ茶色で、塗装がところどころ剥げているさえない棚、その上の時計、優が何万回と目にした景色を、優と同じ視線で見ているような錯覚がした。
数年前には、優はここにいたんだな。この家で、家族に愛され、未来の幸せを信じられながら育ったんだな。優が、大学を出て俺と同棲するって言ったとき、優の母親はどんな気分だったんだろう。優が交通事故で亡くなったと聞かされたときは、どれだけ絶望したのだろう。そして、日記を読んで、それが事故ではなくて、俺に追い詰められた結果だと知ったときはどれほど俺を憎んだのだろう。俺には、ただ、自分が取り返しのつかないことをしたとしか考えられなかった。たくさんの人に愛される、優しくてきれいな女性の人生を奪い去って、その上消し去ってしまったのだ。お前は人殺しだ。呪いの言葉が浮かんで、自分の心にしみこんでいく。それが、自責の念を掻き毟る。その苦しさが、むしろ心地よかった。
「ごめんなさい。ちょっと時間かかっちゃったわね」
そう言って、部屋に戻ってきた優の母は、中くらいの大きさのダンボール箱を抱えていた。それを、軽々と持ち運んでいる彼女から、中身はさほど重いものが入っていないということが推測できた。
「これは?」
「家に帰ったら開けて見て」
「良いんですか?」
中身を見たわけではないが、それが優の形見をまとめたものであるということは、容易に想像がついた。
「良いのよ。形見なんて、まだたくさんあるから」
そう言った彼女の視線が、何故かいるはずのない優に向けられているように思えて仕方なかった。