日記
二章
三木本さんから告白された日から二ヶ月が過ぎていた。秋はこの二ヶ月で、わびしさだけを残して、木枯らしと共に去ってしまった。十一月の末くらいまでは、生地の薄い秋物のジャケットやコートでやりすごす人もちらほら見かけたが、十二月となるとみな厚手のコートやダウンジャケットなどを羽織っている。街の景観を引きたてるために植えられた街路樹のプラタナスやイチョウなどはすっかり枯れてしまい、むしろ冬の物寂しさを引き立てる存在となっていた。日照時間も冬至に近づくに連れてどんどん短くなっていく。何か、太陽が冬の寒さから逃げ出してしまっているようだった。アルバイトから帰ってきて目が覚めたのが一時ちょうどのことだが、日が沈んでしまうまでに残された時間はごくわずかだ。俺の生活は、今のアルバイトが夜間であるため、昼夜が逆転している。そのせいか、日が照っている時間がなんとも貴重に思えた。
ベランダから望む冬空はどこまでも深く、澄み渡る蒼は途方もなく広大だった。生活が充実していると、不思議と世界が違って見える。空の蒼は以前よりもより蒼く映り、夜空に浮かぶ月、それにかかる群雲を見ているだけで何か詩的な気分になる。これが本来の俺だったのかと思う側面と、プライドが引き裂かれ、底辺をさまよった時間分だけ成長したと思う側面がある。どちらにしろ、今までとは違う。今は、よい意味で生きているという実感がある。肯定的に生きるということは、それだけで景色の見え方さえ変えてしまう。それまでは目障りだった青空が、今では何よりも大切なものに思える。あまりに極端な違いかもしれないが、それほど生きる意味というのは人間にとって重要なのだろう。
部屋に戻ってファンヒーターのスイッチを入れる。俺はふと自分が空腹であることに気づいて、台所に置いてある優が作ってくれた朝食のウィンナーと野菜の炒め物を居間のテーブルに置いて、それらを放り込むように口にいれた。冷えていておいしいなんて言えた代物ではないが、空腹時は味などあまり問題ではない。食器を片付けた後、オレンジペコのティーバックを一つカップに入れ熱湯を注いだ。ほんのりと立ち上る湯気をかいで、それを一口すすった。
俺は、未だに優と別れていない。その理由は、優にふられると思っていて、それを今まで待っていたからである。自分から別れをきりださなかったのには分けがある。優は俺がアルバイトを始めたころから休日を実家で過ごすようになった。俺はそれが実家に帰っているのだとは思わなかった。きっと、今の俺ではない彼氏の家にでも行っているのだろうと思っていた。何故なら、俺は土日に必ずアルバイトをしているからだ。優は、その間家にいても暇だから実家に帰ると言った。俺が休日の間家にいないというのは、優が彼氏の家に泊まりに行く良い口実だったのだろう。こんなカップルが長続きするわけがない。そう思っていたからこそ、俺がふられるのも間近なのだと思っていたのだ。
今の俺の優に対する態度は、あからさまに冷めている。俺はこの二ヶ月、なるべく優に会わないようにつとめた。優が家にいない土日は会わなかったし、平日でアルバイトがある日は優と入れ違いになった。バイトが休みの日はなるべく家にいないよう、唐沢や三木本さんに会ったり、ファミレスで夜遅くまで小説を書くようにしたりして時間をつぶした。それに、朝早く目が覚めることがあっても、優が仕事に出かけるまでは寝るようにしていた。こうした結果、一週間に一度も優と顔を合わせないような時もあった。どうしても優と一緒の時間ができてしまうときも、優となるべく会話をしないようにした。ほとんど無視をしていると言ってもおかしくないくらいだ。二ヶ月くらい前から、優は料理の勉強をしているが、俺はその料理をほとんど食べないようにしたし、優が俺の今書いている小説のことで何か口出そうものなら皮肉を言った。こんな関係が長続きするはずはないと思っていたのだが、予想に反して優は俺に別れをきりださない。こうして、優と別れていないということで一番傷ついているのは三木本さんなのだ。何もできないでいた俺を救い出してくれた人。俺の心の支えになってくれる人。何より、俺の大好きな人。三木本さんは口でこそ言わないが、優と別れていないことを気にしている。三木本さんと二人でいるときに俺の携帯にメールの着信があると、どことなく寂しげな表情になる。それが優からのものだと思うからだろう。三木本さんは俺を信じてくれているのは分かるが、それでもどこか俺の浮気相手という意識があるのかもしれない。俺が逆の立場だったらそう考えてしまうだろう。だからこそ、俺は優と付き合っているうちは、三木本さんとホテルに行くどころかキスや抱きしめたりもしていない。せめてそうすることで、俺の真剣な気持ちを伝えたかったのだ。俺がいまだに三木本さんと呼ぶのも、付き合うまではなれなれしくしたくないという俺なりのけじめのつもりでいる。しかし、考えてみればこんなことは優と別れればする必要のないことなのだ。随分と時間がかかったが、俺は今夜自分の口から別れ話をするつもりだ。
八時を過ぎたころ優は仕事から帰ってきた。
「ただいまー」
優がブーツのチャックを下ろす音がする。
「今日は家にいるんだ。珍しいじゃん」
そう言うと、玄関で白のショートトレンチコートを脱いで、それを片手にかけながら、ソファに座ってTVを見ている俺の横を通りすぎて行った。寝室に入ると、ハンガーにコートを吊るし、服を脱いで部屋着に着替える。居間に戻ってきた優は、ブルーデニムのジーンズとモヘアの白いVネックの上着に着替えていた。そのジーンズが、何年か前まではおしゃれ着として履かれていたものだと気づいた。ふと懐かしい思いがしたが、一瞬でも優との思い出に浸った自分に吐き気がした。
「ねーねー、まだ夕ご飯食べてなかったりする?」
優は冷蔵庫のドアを開けて、中の食材を覗きながら言った。
「あぁ、そういえばまだ食べてなかったな」
そう答えて、コマーシャルになる直前にTVのチャンネルを変えた。
「そっか、だったらこれからなんか買ってくるよ。何が良い?」
優は冷蔵庫のドアを閉めると同時に、ソファに座っている俺の方を見ながら尋ねる。
「うーん、なんか適当におにぎりとお茶で良いよ」
俺はTVに視線を向けたままで答えた。
「うん、分かった。ちょっと財布とるから側通るね」
そう言って、優は再度寝室に戻る。そんな優を横目に見ながら、俺は優と別れ話をするタイミングを見計らっていた。いざ別れると思うと、不思議とそれを引き止めるように優との思い出がよぎる。そして、なんで俺と優は駄目になったのだろうかと疑問に思う。俺にとってその理由はシンプルで、数秒も悩まないで答えが出た。ただ、優の浮気が原因なのだ。俺は裏切られたのだから仕方ない。しかし、そうされてしまった原因は、やはり俺にあるのだろう。ひきこもりになって、男として、いや、それ以前に人として何も魅力がなくなったことが原因なのだ。俺は、この一年優の気持ちの変化を、本当に微妙な変化でさえ感じてきた。徐々に俺に接しなくなる優。仕事の帰りが遅くなり、休日も家にいなくなる優。俺に甘えたり冗談を言ったりしなくなる優。俺はそんな優の心の変化をどうすることもできず、ただ優の興味の対象でなくなっていく自分を仕方ないんだと思い、みじめな気持ちになって自分を慰めることしかできなかった。三木本さんは、優と違ってそんな俺のことでも好きになってくれた。だからこそ、俺にとって三木本さんは、ただ好きな人という以上に特別な存在なのだ。
優は、フードのついている薄いピンクのダウンジャケット着て、寝室から出てきた。何か部屋で書き物をしていたようで、寝室から出てくるのに思っていたよりも時間がかかった。
「それじゃ、行ってくるね」
そう言って、俺の前をもう一度通り過ぎた。その時、かすかに俺の鼻腔に懐かしい匂いが香った。優の使っている香水の匂いである。俺がこの匂いを最後に嗅いだのはいつだったろう? それが、二ヶ月以上前のことは確かなのだが、何かまるで前世で嗅いだかのようにすごく昔のことに思えた。俺は、側を通りすぎる優を目で追った。これまで、なるべく優を見ないようにしていたこともあって、優の全体を見ているのも久しぶりのことだ。優の後姿が目に映る。ダウンジャケットのフードにかかる髪を見て、以前よりも髪が長くなったなと思った。そのまま部屋を出るかと思っていると、優が部屋を出る少し手前で振り返った。
「ねぇ……」
優と視線が合う。
「行ってくるね」
優が右手を少し上げてにっこり笑った。
「あ、あぁ」
俺は焦って答えた。優と視線が合って、自分でも分からない何かに自分の意識の半分が奪われていた。
優はスニーカーを履いてドアを開けた。ほんの一瞬外の空気が、まるでその冷たさを誇示するように部屋に入り込む。それが外の温度なのだと俺は思った。鉄のドアは、優の小さな気配りでバタンという乱暴な音ではなく、音が鳴るか鳴らないか程度の小さな音とともに閉まった。ドアの錠をかける音が響く。その後は、優が階段を下る音が徐々にフェードアウトしていく。最後には、歌番組の歌手の歌声だけが部屋に響いた。
俺の奪われた半分の意識は、優の変化を冷静に脳裏に焼け付けていた。優は以前よりもやつれているようだった。頬はどことなくこけていたし、それ以上に、何かもっと内的なリビドーが欠落してしまっているようで、今にも倒れてしまいそうな気がした。行ってくるねと言って最後に見せた優の笑顔が、今までに見たどの表情よりも哀しげだった。優、大丈夫なのか? 俺は、ふと優が心配になった。しかし、久しぶりに優を見たせいだ、と強引な理由付けしてソファに横になって目をつむった。
三十分くらいの時間が過ぎていた。コンビニまでの距離から考えて、帰ってくるのに三十分もかかるはずがない。コンビニで女性誌の立ち読みでもしているのだろうと思ったが、なんとなく不安がぬぐいきれない。さっき見た優の雰囲気が、俺の不安を駆り立てるのだ。その気持ちを否定するように、俺はTVのチャンネルを意味もなく回し続ける。心配だったら、優の携帯に電話をすればすむようなものなのだが、心配しているということを認めたくない。優はすでに過去の人なのだ。そう思っているからこそ、優に対して持つどのような感情も俺は否定的になってしまう。
俺は不安を紛らわすように、これから優が戻ってきたらする別れ話について考えることにした。別れる理由に関しては随分長いこと考えてきた。選択肢は三つあって、そのままストレートに三木本さんのことを伝えるのが一つ。環境が変わって一人になりたいというのが一つ。あとは、優が浮気をしているからという話をするというものだ。もしそれが否定されるようなら、携帯を見せろと言えば十分だろう。色々考えた結果、俺はやっぱり三木本さんが好きだから別れたいと直接伝えるのが一番良い方法だと思った。
それから三十分が過ぎ、さらに一時間が過ぎたころ、どこまでも膨張する不安を抑えきれず、ついには優の携帯に電話をかけることにした。俺は優と別れるからといって、優を嫌いになったわけでもなんでもない。できることなら、これからも友達になって、お互いの恋愛話なんかができればよいと思ってるのだ。だからこそ、心配する気持ちは至極当たり前のものなのだ、と俺は自分が優を心配していることを、恋人としてではなく、友人としてのものであると思い込んだ。優に電話をかけるのは正直一年ぶりくらいかもしれない。俺はそんなことを思いながら、電話をかけた。
ぷるるるる…… 呼び出し音が鳴る。そして、それが鳴り止んで優が電話に出たかと思ったら「おかけになった電話番号は、現在電源が入っていないか……」とそっけない声で言われた。俺は、ほとんど十分おきに優に電話をしたが、結局何度電話しても優が電話に出ることはなかった。あきらかに何か良くないことが起こったに違いない。そう思うと、今まで否定し続けてきた優への感情が、一時的に許可されたように、ただ優の身に何か起こったのかと心配でしかたなかった。しかし、どれだけ心配したところで、優が電話に出ない以上俺にはどうすることもできない。何かあったのならば優の自宅に電話がいっているはずだが、あいにく俺は優の自宅の電話番号を知らない。それからさらに一時間がして、俺は優の電話帳がどこかにないかと優の荷物からそれを探しまわった。偶然ハンドバックの中に優のシステム手帳があって、中を覗くのは気が引けたが、今はそんな悠長なことを考えている暇はないと、思い切ってそれを開いた。なるべく内容を読まないように、住所録のページが見つかるまで一気にページをめくっていった。それは、システム手帳の最後の方のページにまとめられていて、そこの最初の欄に優の自宅の住所と電話番号があった。俺は優の無事が確認できたわけでもなんでもないのに、何か光明を見出したような気持ちになった。その勢いで優の自宅に電話をかけたのは、十一時を過ぎたころのことであった。どれだけかけたところで呼び出し音以外に俺に語りかけてくる声はなかった。俺の不安は、ほんの一瞬安堵していた分何倍にもなって高まった気がする。結局、不安な気持ちのまま、俺はなんら対策も立てられずにその夜を眠れずにすごすことになった。
翌朝、まっさきに電話をかけたのは優の会社である。初めに、丁寧な口調の女の人が電話に出て、俺は優の課と名前を告げて電話を繋いでもらった。そこで電話に出たのは声の少し低めな男で、その声の雰囲気から優の上司だと予想した。俺が何者なのか、優とはどういう関係なのかと勘ぐるようにして尋ねられた。そうされるのも分からないでもないが、怒鳴り散らしたい気持ちであった。俺が優と同棲している彼氏であると分かってから、彼は自分の名前と優の上司であるということを明かし、優が昨晩事故を起こして亡くなったという話をした。一瞬、意識がショートしたかのようにふっと消えて、俺は電話口でそのまま気を失ってしまいそうになった。優の上司は落ち着いているようだが、どこか後ろめたさ感じさせる口調で、昨晩の出来事を話しはじめた。それによると、優は自転車に乗ってコンビニに行ったのだが、ブレーキが壊れてかからず、坂を下りきったあたりでハンドル操作を誤り転んだのだが、運の悪いことに地面に頭を強く打ちつけたのだそうだ。その後すぐに救急車に担ぎこまれたが、病院に着く頃には息を引き取っていたという。優の実家へは優が身分証を持っていたこともあってすぐに連絡が行ったが、優が俺と同棲していることなど病院側が知るはずもないし、優の家族も俺のことをかまっている余裕はなく、結果的に俺への連絡がなかったのではないか、と冷静に分析するこの男を心の底からぶん殴ってやりたいと思った。彼が、いかにも電話を切りづらそうにしているので、俺は「分かりました。ありがとうございます」まるで幽鬼のように力の抜けた声で言って、電話を切った。極度に高まっていた緊張が解ける。しかし、それは俺が安心したわけでもなんでもない。心が掠め取られたか、魂が抜け落ちたような感じがする。俺の思考はかろうじて正常に機能しているようだったが、魂不在の今、一体どのようにして優の死を受け止めればいいのだろうか。俺は優が死んだという事実を頭で分かろうとしたが、それはまったく実感を伴おうとせず、心ではエラーのメッセージが出っ放しだった。
突然疲労感が押し寄せてきた。電話を切って、数分が過ぎたくらいのことだ。それは雪崩のようだった。ソファに崩れ落ちるようにして座ったが、それは座ったと呼ぶよりは倒れこんだかなぎ倒されたかのようだった。そして、雪崩の前の無力な針葉樹のように、俺の意識は疲労に飲みこまれてしまった。ソファに横になると、俺のまぶたはそれにタイミングを合わせるように、ほとんど自動的に閉じていた。まるで、俺の身体が誰かに操られているようにさえ思った。俺はそれにあらがう余力などなく、津波のように襲い掛かる眠気に、意識もろとものみこまれてしまった。完全に意識が途絶えるまでのほんのわずかな時間、俺はこれからのことをほとんど無意識で想像していた。優の実家に連絡をして今後の相談をする俺。葬儀の席で見ることになる優の家族や友人達、そして今優と好きあっている男。優の死を嘆き悲しむ彼らの前で、涙一つ見せずに一人だけ冷静な俺。そんな俺を侮辱するように見下す人々。それら全てが面倒くさく思えた。そもそも俺は優と別れようと思っていたのだ。なんで今更、優のために色々しなければならないのか分からない。そんな風に考える非情な自分を批判したかったが、すでに大分前に働きを失ってしまった意識は何も声を出さない。そう、これが本音なのだろう。俺はそれだけを実感し、完全に眠りの世界の住人となっていた。
2
俺が目を覚ますと、部屋はすでに夜の衣を纏っていた。いくら眠り始めたのが昼ごろといっても初冬である。日が沈めば気温はぐんと下がる。毛布も何もかけずソファに横になっていただけあって、体が寒さに凍えきっていた。俺は起き上がって、ほとんど条件反射のように石油ファンヒーターの電源を入れ、その足で浴室に向かってシャワーを浴びた。少し熱めのお湯だが、全身で浴びた瞬間火傷をしたかのように熱く感じた。それが起爆剤となったかのように、今朝の記憶が鮮明に浮かび上がってきた。
「優はもういないんだよな」
俺は一人言葉をもらした。
三十分ほどシャワーを浴びてから浴室を出た。けして広い部屋ではない。暖房のおかげで、腰にバスタオルを巻いただけの格好でも肌寒い程度の温度であった。服を着替え、ソファに腰をおろしてTVの上の時計に目をやると八時をわずかにすぎていた。八時といえば、いつもだったら優と顔を合わせないでそのままバイト先に行くため、近所のファミレスにいる時間だ。優が帰宅するのは残業がなければだいたい七時から八時の間である。もし今という時が日常の延長であったのなら、もう少しすれば優が玄関のドアの鍵を開ける音がするころだ。そして優の「ただいま」の声に、俺は「おかえり」と答えるのだろう。その後すぐに優は寝室で部屋着に着替える。ソファの俺の隣に腰掛けて、TVを見ながら夕食の相談をする。最近会うことも少なかったから、この日が誰の当番というのもなくなったが今晩はどうしても俺が作りたい。気がつくと、こうして俺が考えている日常は、俺が優を避けていたこの二ヶ月とは随分と異なっていた。そう、今日が一昨日と何も変わらないのであれば、俺は優を避けてそのまま家を出ていたに違いない。きっと俺にとっての日常は、優と何気ない会話をしていたころなんだろうなと思った。この二ヶ月、俺が優を無理に避けていたことは、俺とっては不自然だったのだろう。しかし、そんなことに気づいたからといって、もうその日常はない。
これからは色々変っていくのだろうな。俺は、出窓から覗く夜景をぼんやりと眺めながら思った。きっと、このアパートには長くはいられないだろう。そうなったら、俺は一度実家に戻らないといけなくなる。今のアルバイトの時間を増やせばやっていけないわけではないのだが、この部屋には優との思い出が多すぎる。きっと、日々優のことを思い出してしまうに違いない。だからこそ、この部屋を出なければならない。優を完全に過去にするためにも。実家に戻って、今度こそしっかり就職をしようと思う。正社員になっても、仕事ばかりにならないような会社もあるはずだ。小説を書くことを続けながら、ゆっくり人生設計を立てなおそうと思う。そして今度こそ、三木本さんと二人でうまくやっていこうと思う。さすがに、三木本さんと結婚をする、なんていうあまりに遠い未来のことを計画する気はない。それでも、俺と三木本さんが幸せになることが優への手向けのように思えた。
結果はどうあれ、俺は優との関係を終わらせることができた。そのことを俺は喜ぶべきだと思う。もちろんこのような終わり方を望んでいたわけではない。優が事故で死んでしまったことは悲しむべきことだが、優と別れて新しい道を歩もうという目標に近づいたというのも事実である。たとえ、俺がそう考えていることを人が罵ったとしても、俺はそんないいひとじゃないと開き直るだろう。
突然、目覚ましのベルが鳴り出したかのように、俺のお腹が鳴って空腹を訴えてきた。そういえば昨晩から何も食べてないんだよな。俺は不平を並べる胃のあたりをなでてなだめようとしたが、ますます不満をつのらせるばかりなので、冷蔵庫を開けて中を調べてみた。昨晩優が何もないから買い物言ってくると言っただけのことあって、冷蔵庫の中身はほとんど空だった。それでもなんとか、食パンが一枚、チーズ、卵、それにウィンナーがあったので、それらを使って簡単な料理を作ることにした。食パンにチーズを乗せてオーブンレンジに入れ、卵とウィンナーをフライパンで炒めることにした。五分の時間の間に、フライパンに油をひいて加熱し、卵と真ん中で縦に切ったウィンナーを四本炒める。パンが焼けるのとほぼ同時に卵とウィンナーが程よい焦げ目をつける。俺は手早くそれらを皿に盛り、その場で立ったまま食べた。そのほうが時間の効率が良いからである。それらを作るのにかかった時間とほとんど同じくらいの時間で全て食し、胃に収める。TVの上の時計が八時三十分ちょうどを指していた。アルバイトが始まるのが十時で、だいたい十分前にはついておきたいので、九時半頃に家を出ればちょうど良い。俺は残りの一時間半近くをどう過ごすか悩んだ。着替えはすでに済んでいる。TVをつけても、どれもつまらない番組ばかりですぐに切ってしまった。TVが一分以下の時間稼ぎにしかならなかったことから、さっきと同じ一時間半あまりの退屈な時間が、俺の側で横たわっていた。俺は考えた末、でないだろうと思いながら三木本さんに電話をかけることにした。電話をかけるときは大抵少し緊張する。
「あ、もしもし、東海林です」
俺は三木本さんが電話に出ないであろうと思っていたこともあって、余計に緊張していた。
「言わなくても分かってるよー」
「あぁ、そうだよな。つい癖でさ。なんか、名前言っちゃうんだよね」
「あはは、けどなんか分かる、それ」
いつからだろう、三木本さんが完全に俺に敬語を使わなくなったのは。おそらく、三木本さんが俺に告白した日の頃からだった気がする。きっと、三木本さんにとっての、俺との心の距離が縮んだということなんだと思う。以前よりもずっと親しげな三木本さんの話し声を聞きながら、そんなことを思っていた。
「ねーねー、今何してるの?」
「んー、学校のレポートしてた。東海林さんは?」
「俺、今起きたとこ。バイトまで変に時間余っちゃってさ、それで電話したんだけどさ。なんのレポート?」
「えっとね、民俗音楽学っていうやつ」
「なにそのがくがくしてるの」
「んー、色んな民族の音楽を勉強しようって感じかな? はっきりいってつまんない」
「ははは、大学ってそんな感じの授業多いよね」
「そうだねー」
三木本さんはため息混じりに答えた。三木本さんと話していると、昨晩の出来事が嘘か悪い夢のような気がする。三木本さんには、優のことを伏せておきたいと思った。きっと優が死んだという話を聞いたら、三木本さんは動揺するに違いない。それで俺と三木本さんとの関係がどうこうなるとは考えられないが、優のことでこれ以上三木本さんを悩ませたくないのだ。いっそのこと、優と別れたと言って嘘をついてしまいたかったが、嘘をついて後ろめたい想いを抱えていくのだけは耐えられなかった。俺は、ほんの一瞬だがそんな二つの考えに葛藤しながら、次の一瞬が過ぎたころには全てを話す決心をした。
「あのさ……」
「――うん、何?」
俺の語調が変わったのが伝わったのだろうか。三木本さんの返事が、どこか重々しくなった。
「優が、昨日交通事故にあったんだ……」
「え?」
俺は昨日の晩の出来事を全て話した。三木本さんは、それを最後まで黙って聞いていた。全てを話し終えた後、ほんのわずかな時間だけ空白ができた。
「そんな……」
そう言って三木本さんは嗚咽し始めた。突然の三木本さんの涙に俺は困惑したが、それとは別の冷静な俺は、三木本さんが悲しむことを不思議がっていた。つい最近までは自分の恋敵だった優の死に、何故涙が流せるのだろう。それに比べて、涙の一粒さえ流さない俺は、人として大切なものが欠落しているように思えて仕方なかった。
気持ちを落ち着かせてきたのだろう。三木本さんのすすり泣きや鼻をすする音が徐々に聞こえなくなった。俺は何か一言声をかけてあげたかったが、できなかった。単純に考えて、俺が大丈夫? なんて言うのは変なことだ。本来なら俺と三木本さんの立場は逆で、俺が泣いていて、三木本さんからその言葉をかけられるのが当然の状況なのだ。それから十分近くの間、お互いに一言もしゃべらなかった。いや、しゃべれなかった。きっと、三木本さんとしても、何を言ったら良いのか分からなかったのだろう。お互いに、呪縛めいたものにでもかかっているようだった。俺はいたたまれなくなって、アルバイトまでまだ一時間近くあるのに「そろそろバイトいかなきゃ」と言って一方的に携帯を切った。
3
それから数日が過ぎて、葬儀が優の実家の近くのお寺で行われた。優の友人達や会社の関係者がたくさん訪れた。その参列者の数の多さに俺は少なからず驚いた。よく見ると、優のゼミ生や同じ学部の人達で、俺も何度か見かけたことのある人達が参列していた。その他の俺とほぼ同い年の参列者は、優の中学や高校の友人達だろう。優の大学時代の友人達の多くは泣き伏せていた。そんな彼らの姿が失われた存在の大きさを物語っていた。優は誰とでも明るく接していた。相手にプレッシャーを与えない性格で、誰かを極端に批判したり避けたりしなかった。だからこそ、優は誰からも愛され、周りにいつもたくさんの人がいたのだろう。それなのに、俺と接しているときだけなんとなく黙っているような感じがあって、俺はかつて優に無口な印象をうけていたほどである。唐沢と話しているときや、他の友人達と話しているときのギャップがあまりにも大きくて、優は俺と一緒にいることを楽しんでないんだろうなと思っていたことがある。
ふと、優の遺族や友人達と目が合う。それが何度も続いたとき、俺は周りが、俺の噂話でもしているんじゃないかと、不愉快な気分になった。そのせいか、なんとなく周りの人たちの顔を正面から見られなかった。小声で話している人たちを見ては、その内容が俺を軽蔑しているように思えた。確かに、俺といなければ優は死ななかっただろう。しかし、事故は偶然の出来事なのである。俺が後ろめたい気持ちになる必要はないのだ。
お坊さんが般若心経を唱える。TVなどでおなじみのそれは、ブラウン管を通して聞いた、どこか滑稽にさえ思えるものとはまるで違っていた。優が死んでしまったと思っても、それをすんなり受け入れられないときがある。生と死の区切りみたいなものがあって、実際に死んでしまってもまだ近くにいるように感じたりするのは、その区切りが曖昧なせいなんだと思う。それは、おそらく意識的に引かれる境界線だ。不思議と葬儀というのは、その生と死の区切りを明確にする。それでいて、なぜかそこまで悲しみの感情が強く沸きあがることはなかった。それは、もしかすると仏教の葬儀の、どこかのんびりした雰囲気のせいなのかもしれない。袈裟を羽織ったお坊さんの読経、ゆっくりと間断なく打たれる木魚、時折打たれる鈴の音、それらは全てまるで一本の直線のように単調で、感情を揺さぶられるような要素を何一持ち合わせていない。もしお経が西洋の宗教音楽の魂を揺さぶる旋律であったなら、今この席にいる人たちの悲しみはこんなものではないだろう。ひょっとすると、死すら特別ではないというような仏教の単調な争議という儀式は、残された者に生と死の区切りを明確にさせると同時に、死者への悲しみを少しだけ楽にする二つの役割を果たしているのかもしれない。
俺は優の会社の同僚の男が一人、葬儀の後寺の境外で泣いているのを見た。彼とは葬儀の間何度か目があったのだが、明らかに俺を敵視しているようであった。俺はその男が優の好きな男だったんだと思った。その男の視線を直視したとしても、平静を保っていられただろう。優に対する嫉妬や執着は、とうの昔に捨ててきたのだから。それとは別に、優の母親と会うのは、なんともきまずいものであった。俺は優の彼という立場でありながら、葬儀の間ずっと、まるで優の友人の一人のようにして端の方でひっそりとしていた。そして、前席にいる優の家族からは外れていても、彼らが俺を前に来るようにと声をかけてくることはなかった。彼らからすれば、俺は優の彼氏なんかではなく、ただの優の友達の一人程度だったのかもしれない。実際、優の葬儀の計画も俺は何一つ関与していない。葬儀の日時も場所も、俺に連絡が直接来ることはなく、俺から優の実家に直接電話して聞いた。おそらく、優の家族からすれば、俺はもっと積極的に参加するのが当然だったのだろう。彼氏なのだから。しかし俺は葬儀のことで何一つ意見しなかったし、優の母親に電話したときも、まるで事務員のように淡々と葬儀の日時と場所を聞いていた。優の家族の側からすれば、さぞ無責任に思えただろう。
葬儀には唐沢も参列した。俺は唐沢とほんの少しだけ会話をしたのだが、会話らしい会話はしなかった。ただ、一言あいさつをしただけだ。そんな風にして、優の葬儀はまるで退屈な映画でも見ているように過ぎていった。葬儀の時間はやたらと長いように感じたのに、終わってみればなんともあっけなく感じた。こうして、優という一人の人間はこの世を去っていったのだ。俺はそんな優のことを、しょうがない、こういう運命だったんだ、とあっさりと片付けて、優の思い出を心の倉庫の奥へとしまいこんだ。そうしてしまうこと、いや、それよりも簡単に割り切ってしまえることが寂しかった。
葬儀も終わって、アパートに戻ってから数日が過ぎていた。俺はその前日、三木本さんに電話をかけ、全てが終わったということを伝えた。俺はできることならこのまま三木本さんと付き合いたい思いだったが、何かやりきれさそうにしている彼女がいて、すぐには言い出せなかった。三木本さんは、俺の優に対する態度があまりにも冷たいと思ったのかもしれない。その上、優の死とはなんら関係ないはずなのに、優の事故に責任を感じているようにもみえた。確かに、自分に直接的に関係はない人でも、その人と自分を繋ぐ中間になる人と仲が良かったりすると、それだけでその人の不幸が妙に悲しくなる。たぶんそれは誰でも同じことなんだろう。
「もう、全部終わったんだ」
俺は優の遺品をダンボールにまとめる作業を進めながらもらした。それらを優の家族に送るのは、優と付き合っていた俺の最後の役目だと思いながらも、心のどこかで厄介払いをしているような感情があった。そのせいか、遅々として作業がはかどらず、一日かけても半分も終わらなかった。遺品として優の実家に送るもの、家に残すもので随分と悩んだ。例えば、優の衣類や化粧品など、優の私物は全て送り返そうと思ったが、二人で買った雑貨や食器などはどうすればいいのか悩む。結局俺は、優との思い出があるものは残すとか、そういった感情的な判断はいっさい省いて、単純に使えるものと使わないもので分け、使わないものは全て送り返すことにした。寝室のパルとパールをどうするかで悩んだ。ぬいぐるみは表情が変わるわけないが、ときおり寂しげな表情をする。それはもちろん心が作り出している虚像にすぎない。俺と目のあったパルとパールも、微笑みながら寂しげに俺を見上げていた。まるで、自分達のこれからを見越しているようで俺はつらかった。その瞳を避けるように、ダンボールと向かい合う格好でダンボールの中に入れて、すぐさまガムテープを貼ってしまった。
二日かけて俺は大体の作業を終えた。優は部屋に荷物を増やしたくないからと言ってあまり増やさなかったため、それほど大荷物にはならなかったが、冬の衣類などはかさばることもあってそこそこの量となった。俺は優の遺品を整理しなければならないということが、不当に扱われているように思えて腹がたった。しかし、そう思う自分に気づくたびに脇腹を殴ってやりたい衝動にかられた。俺にとっての優は、どうでもよい人の部類に成り下がっていたのかもしれない。それとも、俺は優が死んだということをまだ現実として認識できていないのかもしれない。どれが本当の自分なのかわからなかったが、どっちにしても優を思いやれないでいる自分が悲しかった。
あと残っているものといえば、優の化粧品や小物くらいまで作業を終えた。そして、俺は姿見のすぐ側にある、優の化粧品などが入っている小物入れの引き出しを開けた。木製で、ちょうどA4サイズくらいの大きさの三段になっている小物入れで、下二段は引き出し、最上部は二つに分かれていて天板が開くようになっている。開いた天板に鏡がついていて化粧ができるようになっているのだが、化粧をするとき優はほとんど姿見を使っていた。俺はこの木枠の姿見の前で化粧をしている優をぼんやりと思い出しながら、小物入れの三段目の引き出しを開けた。すると、中に一冊の日記帳のようなものが入っているのに気づいた。
「これは…… 日記かな?」
それは、A5くらいの大きさの日記帳だった。表紙が赤色を基調としたタータンチェックの模様のものである。小さな錠がついていて鍵がなければ読めない作りのものだが、鍵は同じ引き出しの中に入っていた。
「はは、鍵が中に入ってちゃ意味ねーじゃん」
そう言って優の日記を手にとってみた。記憶の片隅から、優がまれに寝室で何かを書いているような物音がするのを何度か聞いたことがあるのを思い出した。初めは仕事の書類関係かと思って気に留めなかったが、それが日記だと想像したことは一度もなかった。この日記帳に優が何かを書いている姿を見たことはなかったし、優が日記を書いているなんて話していたこともない。俺はそれを読んでみたい衝動にかられた。しかし、これ以上優と関わりたくないという気持ちが何よりも強く、その衝動を押さえつけた。そして、引き出しの中の鍵と一緒にビニールの袋に入れてダンボールの端に追いやった。
4
優が亡くなってから二週間が過ぎていた。優がいなくなった後の俺の生活は、はじめこそ空虚に思える時もあったが、今ではいないのが当たり前に思える。たったの二週間しかたっていないのに、優のことを思い出すことは少なくなっている。思い出の一ページのようにしてすっかり割り切ってしまっている。俺は今の環境で満たされていたのだ。三木本さんとの関係もそうだが、アルバイト先での人間関係も徐々に親密になり、暇なときアルバイトで仲良くなった連中と遊んだりしている。色んなことが変った。優との思い出は、そんな新しい生活の変化に塗りつぶされてしまっていたのだ。きっと、このアパートを引き払って仕事でも始めたら、優との同棲生活は本当に遠い昔のことだと思ってしまうのだろう。優のことを気にしていたような態度だった三木本さんも、この二週間ですっかり落ちついた。こうして亡くなった人というのは、あまり関係のない人から順に少しずつ記憶から消されていくのだろう。そして、たとえ愛し合っていた二人だとしても、いつしか生前の面影もおぼろになって、忘却の彼方に葬られてしまうのだろう。
冬至が近いこの時期は、三時といってもすでにどこか薄暗い。俺はソファに座ってブランチを取りながら、間近に控えたクリスマスに思いを寄せていた。その日、三木本さんに告白しようと思っている。俺が三木本さんと呼ぶのもその日が最後になるだろう。ありきたりかもしれないが、フランス料理の店に予約を入れ、クリスマスのプレゼントも用意してある。初めは、三木本さんが何をもらったら喜びそうなのかまるで想像もつかなくて悩んだが、ネックレスをプレゼントすることにした。本当はもっと色々考えて驚かせたい気持ちでいっぱいだったが、優のことがあってそれどころではなかった。内心、優があんなことにならなければな、と思う。
俺はアルバイトまでの時間を部屋掃除に費やそうと思い、洗濯物を洗いながら部屋に掃除機をかけた。優の荷物がなくなって心なしか広くなった部屋を隅々までしっかりと掃除機をかけた。それから、洗い終わった洗濯物をしわになる前にすぐに干した。ワイシャツをハンガーにかけ、靴下や下着をステンレス製のピンチハンガーにつるし、それらを微かに日が当たる寝室のカーテンの金具につるした。そうこうして五時を回ったころ、辺りは薄暗くなっていた。一通りの作業を終えて、俺はシャワーを浴びた。シャンプーがほとんど空になっていて、新しいものを買い足さないとな、と思ったが、それが優と気に入ってよく買っていたシャンプーだと思い出して、別のシャンプーを買をうと思った。風呂から上がって、部屋着に着替えてからソファに座ってTVを見ていると、不意にドアの呼び鈴が鳴った。優が帰ってきたような錯覚を覚えて、一瞬ぞっとした自分がいて思わず笑いたくなってしまった。そして、そんなわけがあるはずないと思いながら、ドアに向かう。
「はい、どなたですか?」
そう言って、覗き穴から相手を確認もせず、玄関のドアを開けた。そこには五十代くらいの女性がいた。それが優の母親であることに気付くまでに、瞬き一つ分の時間さえ必要としなかった。それは、ある意味優がそこに立っているよりも意外な来客であった。
「どうも、お久しぶりです」
そう言って彼女は微笑みながら丁寧に会釈したが、俺はその表情の裏側に鬱積した何かをかすかに感じ取った。人間の直感は、そういった類の微妙な感情に敏感に反応するようにできている。当然だが、そういった類の感情はお互いの間に気まずい雰囲気をつくるものである。俺は苦手な上司と向かい合ったときのような、逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、考えてみれば優の母親なのだから、優の住んでいた部屋を見ておきたいと思って来たとも考えられる。
「あ、良かったらどうぞ」
俺はドアを大きく開け、彼女を部屋に招き入れようとした。すると彼女は目をかすかにつむって、ゆっくりと首を横に振った。それが俺の行為に対する拒絶を意味しているのは言うまでもないが、それ以上に、俺にとっては好ましくない目的で彼女がそこに立っていることを暗に匂わしていた。寒風が二人の間を吹き抜けていった。それがどこか遠くまに行ってしまうまで時間は誰のものでもなく、俺も彼女もただ黙ってお互いを見合った。
「今日はね、貴方に尋ねたいことがあって来たの」
俺は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
「尋ねたいこと…… ですか?」
彼女はバックの中から一冊の手帳を取り出した。優の日記帳である。鍵のついている赤いタータンチェックの、俺が以前優の家に送り届けたものだ。俺が厄介払いするように送り届けたそれが、また自分の目の前にあることに心なしか焦りを覚えた。もしこれが誰か別の、例えば唐沢の仕業だったのなら、俺はそのままドアを閉じるか、帰れと怒鳴っていただろう。二度と見たくないとさえ思っていたものを、再度突きつけられれば普通はそうなる。しかし、その日記を取り出したときに見せた、一見温和そうな彼女のものとは思えないけわしい表情が俺を完全に圧倒していた。そのせいで、俺は何か重大な過ちでも犯したような気さえした。
「これは、優が生前使用していた日記帳です。貴方、これを読んだことがある?」
「いえ……」
俺の反応を見て彼女は目をつむり、一つだけ大きなため息をついてからもう一度目を見開いた。
「そうでしょうね。もし、貴方が、これを娘の生前に読んでいたとしたら、私は貴方を生涯恨まなければならなかったかもしれないわ……」
そう言って彼女はもう一度目をつむった。彼女が何かの葛藤をどうにかして抑えようとしているのを感じた。俺は完全に圧倒されていて、せめて一言それはどういうことですか? という言葉を返すことすらできなかった。
「え、ここではなんですから、どうぞ部屋の中に……」
その代わりにでた言葉がこれだ。まったくもって見当はずれ、場違いな発言だと思った。自分自身でさえ、なんでそんな無意味な言葉が口から滑り落ちたのかわからなかった。ひょっとすると、なんとかして彼女の感情の矛先を自分からそらしたい気持ちの表れだったのかもしれない。
「ごめんなさいね。今は、そういう気分にはなれないの……」
彼女は、ぎりぎりのところで何かに耐えながら、かろうじて丁寧に返しているようだった。いっそのこと、俺の失言など無視してもらいたかった。
「あなたに、どうしてもこれを読んでもらいたいの」
「え……」
「あなたの気持ちも分かるわ。だけど、どうしても読んでもらいたいの。今はそれ以外に何も言えないけど、もしあなたに、まだ少しでも優を想う気持ちがあるのなら、読んでやって」
彼女は一変して、まるで何かにすがる者のような目を俺に向けた。俺は今まで完全に圧倒されていたのが、突然逆の立場になっていることをまるで実感できず、ただ言われるがままその日記を受け取った。それを俺に手渡すと、優の母は軽く頭を下げて去っていった。まるで、その場所から逃げ出すようにして。俺は、呆然と彼女の去っていく後姿を見ていた。おそらく、その場の雰囲気に耐えられなかったのは俺だけじゃなかったんだな、と今になって思った。
「なんだよ、今更……」
彼女も、逃げたかったんだな、と思うと急に自分が彼女に何か思っていることを発言する権利が戻って来たような気がした。そして、記念すべき最初の一言は、突然優の日記をつきつけて、読めと言って去って行った彼女への愚痴で飾られた。
俺は不愉快さを抑えられずに、優の日記をソファの上に放り投げた。それは勢いあまってソファにバウンドして、寝室の畳の上に落ちた。自分を頼ってきた弱者を足蹴にしたようでばつが悪い気がして、すぐにそれを拾い上げ、今度はできるだけ丁寧にテーブルの上に置いた。ソファに腰をおろし、その日記に視線を合わせた。そして、優の母親との会話を思い出した。実際に対面していたときは圧倒され異様に緊張していたのに、こうして心のモニターに映し出される彼女を見たところで、特別圧倒するものがあるとは思えない。正直、優のことはすべて過去にしたかったのに、今更そのようなことを頼まれても困るというのが本音である。俺には、日記を読んだことで知るどんなことも重荷にしか思えなかったのだ。しかし、何故今更日記を読んでほしいと言ったのだろう。何か重大なことがそこに記されているのかもしれない。そのことが、優と俺との関係とはまったく別の視点から、まるで推理小説を読みふけっているときのように俺の探究心に訴えかける。俺はその探究心を充たしたいという誘惑と、優との過去を一切消し去りたいという苛立ちの折り合いをつけられずにいた。
5
俺は三木本さんと新宿のダイニングバーにいた。そこはけして広い店ではなく、マスターのいるカウンター席と、窓越しに新宿の夜景が見るこのできるテーブル席がいくつか用意されている。抑えられた明かりは白熱灯によるもので、夕焼けの色をしている。それが、部屋に流れるジャズの重低音と合わさって、落ち着いた大人の雰囲気をかもし出していた。酒を飲むといっても、居酒屋などで騒ぎながら酒を浴びるように飲むよりも、こういう落ちついた雰囲気の店で軽く酔う程度に飲むのが好きだ。
俺と三木本さんはテーブル席にいて、お互い夕食はまだ食べてなかったこともあって、俺はボンゴレビアンコを、三木本さんはキノコのリゾットを注文した。俺は三木本さんと楽しく食事をとりながら、四日後に控えたクリスマスに思いをはせていた。
「うちの大学にさ、言語学の武田って先生がいてさ」
「うんうん」
「武田、すっげーおもしろくさ。しゃべるときに、おほん、えー、それではー、これから言語学の講義をー、始めますって言うんだ。全部語尾上がりで」
俺は武田の声色を真似てみせた。この先生、何故か声が上ずっている。初めて聞いた人は大抵笑いをこらえているものだ。わざとやっているのか、冗談なのかわからないところがまた面白かったりする。俺は唐沢や優と武田をさんざんネタにした。
「変なしゃべり方だね」
「なんか、質問とかしてするどいこと言うと、ホホホホ、なかなか良い観点ですねーって。みんな笑うの超こらえててさ。唐沢とか、それが聞きたくて質問しまくってた」
「ははは、唐沢さんっぽい!」
「だろだろ? あいつそういうの大好きだからさ。で、唐沢が俺よりもっとうめーんだって。今度会ったらものまねさせるから」
「唐沢さんって面白すぎるよねー」
「うん、そういや最近あいつと連絡とってねーんだけど、香奈ちゃんとはうまくいってるの?」
「え……」
三木本さんの声のトーンが急に変わった。
「ん、なんかまずいこと言った?」
ほんの数秒彼女の返答を待って、それがないのを確かめてから聞いた。
「うん、そのさ、先月くらいだけど、唐沢さんが香奈に告白したらしいんだ。香奈もすっごい悩んだんだけど、やっぱどうしても忘れられない人がいるからって……」
「――うそ?」
俺は言葉に詰まった。十二月に入ってから四人で集まることがなくなっていて、俺は優が死んだことが原因だと思っていた。
「そっか…… あの二人いい感じだったのにな……」
俺はそれの半分くらいは自分のことのように思えて言葉を失った。そう思うのは、俺自身唐沢を応援していたこともあるが、今こうして三木本さんと一緒にいられるのは唐沢のおかげであって、唐沢にはいつか返さなければならない大きな貸しがあると感じているからだろう。
「そうだよね。香奈も、好きって思ってたみたいなんだけど、なんか、急にその人からメールが来たとかで。ほんと、すごい良い感じだったのに」
「まぁ、恋愛ってさ、タイミングだよね」
「うん……」
「どんな相性の良い二人でもさ、タイミング合わなきゃ絶対付き合えないし。ほんと難しいよね」
俺は唐沢のことだからその後も当分引きずるんだろうなと思った。それがすごく哀れに思えたが、そのことを考えている最中、ふと優のことを思い出した。優との関係も、タイミングが合わなかったのかもな…… 自分が飽きられたこと、浮気されたことが次々に頭に浮かぶ。いつからだったろうか、優が俺に対して妙に距離を置くようになったのは。俺が無気力で、何もすることができなくて、そのせいで優が俺に対して失望していたときに良い男が現れたんだろう。俺がしっかりしていたら、今も俺は優と一緒にいたのかもしれない。優も死なずにはすんだのかもしれない。そして、俺と三木本さんはそのタイミングが合ったから、今こうして一緒にいるのだと思う。もし俺が優と上手くいっていたら三木本さんとの関係もなかったのだろう。俺はグラスのウィスキーと、店内の薄明かりを反射させる氷をぼんやりとながめた。そうしたのは、全てがタイミングという言葉一つで片付けられてしまうことが切なかったからだ。その切なさが、どう頭の中を経由したのかわからないが、先日の優の母親のことを思い出させた。
「そういやさ」
「ん、何?」
「いや、なんか、こんなこと聞くのも変かもしれないけどさ。先日優のお母さんがうちに来たんだ」
「え……」
三木本さんは不安そうな表情を俺に向けた。
「うん、それで、なんか優の生前書いてた日記を読んで欲しいって言われちゃってさ。渡されたんだけどね。なんか、どうしたら良いか分からなくて」
本当はこんな話題は避けたかった。優と俺の問題を持ち出されても、三木本さんは返事に困るだろう。優と直接会ったことがあるわけじゃないのだし。優の日記は、読むなり読まないなり自分で決めるべきなのだ。当然、優を過去にして忘れてしまうのなら読まないほうがよいだろう。しかし、優の母親の真剣な眼差を思い出すと、読まなければいけない気がする。どちらにすべきかどうしても判断がつかなかった俺は、三木本さんの気持ちに従おうと思ったのだ。
「うん」
そう言ってうなずいた三木本さんの瞳は、ふっと新宿の夜景に向けられた。俺の視線は三木本さんの視線を追い、その先にある道路を隔てた先のビルに向かう。それは、まるで木漏れ日のように明かりを点らせていた。三木本さんの心はその木漏れ日に向かっていて、この場所にはいないように思えた。
「なんだかわからないけど、俺は読まないほうが良いと思ってる。これはそのまま読んだっていうことにして、優の家に届けようかと思ってたんだ」
三木本さんは少し考えた後で、俺を真剣な眼差しで見つめた。その眼差しと、あの時優の母親が見せた眼差しが一瞬だけ重なって見えた。二人とも、顔の造作は似ても似つかない。けれど、優しげでおっとりしている全体的な雰囲気がどことなく似ている。俺はこういう、穏やかな雰囲気の人達が真剣になっても、その真剣さが伝わりづらいと思っていた。しかし、それはまったくの誤解だった。むしろ、普段と雰囲気ががらりと変わるせいか、不思議と心に訴えてくるものがある。
「私は読んであげたほうが良いと思う」
「え……」
俺は期待していたのとは異なる返事が返ってきたことに動揺した。
「そっか」
「日記ってさ、私も書いてたことあるんだけどね。なんだか、生きているようなところあるんだよ。後になって読み返してさ、すっごい恥ずかしいなって思うけど、なんだか読み返すたびにいつも新鮮でさ。本当に、その時の私が、日記の中では生きてるんだなって思ったことあるから」
少し気恥ずかしそうにうつむきながらしゃべる三木本さん。肩までかかる髪の毛は、初めて会ったころはまっすぐのストレートだったのに、今は毛先が緩やかに内側にウェーブしている。初めてあった七月から伸ばし続けたのだろう。髪型を変えると、それだけで人の雰囲気は随分と変わる。ショートかロング、分け目の位置や毛先の動きなど、どれが似合うのかはその人の顔や身長、性格などで大きく変わってくるが、元々童顔な三木本さんには軽くパーマをあてて大人っぽく見せるような今の髪型の方が似合っているのだなと思う。俺はほんの少し前、三木本さんの心が不在に思えたことなどあっさりと忘れて、以前よりもずっと大人っぽくなった三木本さんの仕草があまりにも可愛くて、その場で抱きしめたい思いでいっぱいだった。
「三木本さんって優しいんだね」
「えぇ? そんなことないって!」
三木本さんは、一瞬驚いた顔を見せた後、はにかみながら否定した。
「いやいや、俺は感動した」
そう言われて、わけがわからないという気持ちとうれしい気持ちが入り混じった表情を見せる。俺はそんな三木本さんの仕草がまた可愛らしいなと思った。
「好きだぞこのやろうー」
そう言って、三木本さんの頬を人差し指で小突いてやった。
6
三木本さんとダイニングバーで夕食を一緒したその夜、俺は唐沢を半ば強引に近所のファミレスに呼んだ。深夜一時のことである。俺はL字型の作りのファミレスの、一番奥の入り口からは死角になっているテーブル席に座っていた。ファミレスについてすぐドリンクバーと小さめなチョコレートのパフェをオーダーした。その後カフェオレを二杯とパフェを食べ終えたころ、唐沢からの電話が鳴った。俺は自分が店の一番奥の席にいることを伝えた。するとすぐに入り口のドアのベルが鳴って、唐沢が店内に入ったことを俺に伝えた。それからすぐ唐沢は俺の前に来て、コートと手袋を脱ぎながら俺の向かいの席に倒れこむようにして座った。
「マジ、寒すぎ! てかなんだよいきなり」
「あぁ、別にたいした用じゃないんだけどな。久しぶりだし」
「ふーん」
そう言って、唐沢はメニューを開いて少し悩んだ後、呼び出しを鳴らしてウェイトレスにフルーツパフェとドリンクバーをオーダーした。
「なんだよ、相変わらず甘党だな」
唐沢のオーダーを聞いて笑いながら言うと、唐沢は「はは、お前にいわれたかねーな」と返してきた。
唐沢と俺は、一時間ほど高校時代の思い出話をして盛り上がった後で、これからの話をした。その間俺は唐沢が意図的に、優のことにはふれないようにしているのを感じた。実際、唐沢と優の関係は俺と優よりも長い。俺がはじめて優と会ったのは唐沢に友達だと紹介された大学二年の時で、唐沢はどうやって出会ったのかは知らないが、大学一年の頃から優と仲が良かった。俺よりも一年近く早く優を知っている。俺と優が付き合うようになってからは、そのことを考慮してか、優と会ったり連絡をとったりすることはあまりなかったようだ。とは言っても、昔からの友人であることに変りはない。唐沢は俺と三木本さんとの関係を知っているし、俺が優と別れる前に優が亡くなったこともあって、それらのことを俺がどう考えているか当然興味を持っているはずである。それを直接口に出して言わないのは、唐沢の良い所のようにも思えるが、時には聞かれたほうが話しやすいと思うこともある。どうせ、今日はその話をしようと思っているのだし。このまま話をしていても、直接的に重要な話を聞かれるとは思えなかったので、徐々に優の日記の話や三木本さんとのことを話していくことに決めた。
「そういや、お前大学卒業したらどうすんの?」
「あぁ、一応出版関係の会社に就職する予定」
「予定かー、そろそろ就活だろう」
「あぁ、はっきりいってめんどくさいんだよなー」
唐沢はうなずいた後、眉をしかめながら両腕を組んだ。
「はは、けどお前だったら大丈夫だろう。わりと外面良いしな」
俺は笑いながら言った。
「なんか、あんま誉められた感じしないな。けど、まぁ大丈夫だろ」
ほんのかすかに間が空く。おそらく、唐沢なりに将来のことはまじめに考えているんだろうな、とコーヒーを一気に飲み干す唐沢を見ながら思った。
「てか、東海林はどうすんだ?」
「あぁ、まぁとりあえずは実家に帰って、就職先さがすよ」
「お、まじで? お前も就活かー。どこらへん狙ってんの?」
「うーん、マスコミ関係とか、出版関係とかじゃねーの。俺たちの学部だと」
俺も唐沢も文学部であったため、これらの就職先が最も適当であった。
「まぁ、そっち系だよな。俺達の学部って。てか、お前就職考えてたんだ。このままバイトしながら小説書いてくのかと思ってたわ」
そう言って唐沢は、ほくそえんだ。
「まぁ、今回こんなことになっちゃったしな……」
俺が言うと、唐沢は深く考え込むように両腕を組んで、目を閉じてうなずいた。俺は唐沢と長いこと親友としてやってきただけあって、微妙な会話の雰囲気や間のとり方で、なんとなく相手が何を考えているのかがわかる。きっと唐沢も同じであろう。そして、今の唐沢の沈黙がどれ程の意味を持っているのかも分かる。優が亡くなったことは、唐沢にとって当然悲しいことだったのだ。
「俺さ、三木本さんのこと好きなんだ」
俺が自分の口からそれを言うのはこれが初めてだ。
「あぁ、知ってる。みきちゃんから何度か相談されたからな」
唐沢は別段驚くわけでもなく言った。
「そっか……」
気まずい雰囲気が広がる。俺は、唐沢が「お前がこんなんじゃなかったら優ちゃんは死ななかった。お前が殺したようなもんだよ」と蔑んでいるように感じた。
「まぁ、心変わりは仕方ないだろ」
そう言って唐沢は微かに明るい表情を俺に向けた。それが、俺の予想していた唐沢の反応と異なったことが俺を惑わせた。俺は三木本さんとのことで、てっきり唐沢に嫌われたんじゃないかとさえ思っていたのだ。
「優ちゃんとのことは事故なんだろ? 事故じゃ仕方ないもんなー。なんか、お前がさっさと別れてればとか思ったけどな。そんなん言われてもって感じだろうし」
その言葉が、唐沢の気持ちの動きを表していた。はじめは、俺のことに相当腹を立てていたのだろう。しかし、短い時間ではあったがその間に、あれは事故であったと考えるようになったのだろう。
「今だから言うけど、優さ、多分浮気してたんだ」
「え、マジで?」
唐沢は信じられないというように目を丸くして言う。
「あぁ、優の葬式のとき優の会社の同僚とかいうのがすっげー泣いてたし、俺のことなんか睨んでたから、そいつだったんだろうと思う」
「へー、優ちゃんがねー。ま、どっちにしろお前にはもったいなかったしな、ははは」
唐沢は、優の浮気に対して半信半疑なままだったが、それとは別のことのようにすぐに冗談を言った。
「はは、ほんとだよな」
俺は笑えこそしなかったが、その冗談を聞いてどこか安心することができた。そして、俺と唐沢は大学時代の優と三人で一緒に遊んだ頃の話で盛り上がった。
「そういや、香奈ちゃんにふられた」
唐沢は話の盛り上がりの勢いにのって、香奈にふられたと告白してきた。俺はその話題がでることをあらかじめ予測していたこともあって、そう驚きもしなかった。
「あぁ、なんか三木本さんに聞いたよ。なんで?」
「いや、まぁ、途中まではうまくいってたんだよな」
そう言って唐沢は、過去を懐かしむように天井を仰いだ。
「うん、だからなんでそれで終われるんだよ」
「うーん、俺もはっきり言って不思議だ。けど、まぁ、あれは俺が悪いんだよな。はー……」
仰いでいたのが、今度はうつむいてしまった。何か、幸せだったのが一気に不幸のどん底に落っこちたような、唐沢の心理が手に取るように分かる変化だった。
「香奈ちゃんがさ、昔好きだった奴がいてな。そいつに振られたらしいんだけど、引きずってたんだと。で、俺と出会ってからはどうでもよくなってたけど、最近突然連絡があったんだとさ」
「うんうん、それで?」
「で、そいつが何言い出すかと思ったら、バイクで事故ったらしいんだってよ。で、暇だから見舞いに来てくれーって。普通、昔振った女にそんなこと言うかー?」
唐沢が俺にすごんでみせる。ここで同意しなかったら殴られかねない気迫さえあった。
「あぁ、頭いかれてるんじゃねーか?」
そう答えるのは、別に唐沢の半分脅しのような言い口によるものでなく、ごく普通にそう思ったからだ。
「そうだろ? で、香奈ちゃんがな、どうしようって言ってたんだよ」
「うんうん」
「俺さ、なぜか行ってあげれば? って言っちゃってさー」
それが、唐沢が今最も後悔している発言をした瞬間だろうと俺は思った。唐沢が眉をしかめて眉間にしわをよせる。今にも泣き出しかねない表情であった。俺は、そんな唐沢の、世界の半分くらいの悲しみを背負ったような表情が面白くて思わず笑っていた。
「ははは、お前ばっかだなー」
「いや、マジで行くと思わなかったしさ。それで、本当に行っちゃって」
「ははは、その後は想像つくわ。やけぼっくいに火がつくとか、そういうやつだろう?」
なんとも唐沢らしいふられかただ。唐沢のような態度をとられると、女はもっと束縛してほしいと感じてしまうのだろう。それがないから、香奈は唐沢の気持ちがそこまで自分に向いていないように感じていたのかもしれない。一度そう思われると、面白いところや人のよいところを含めて、唐沢のプラス要素は全てマイナス要素に変わる。香奈の気持ちを一言で言ってしまえば、彼には私じゃなくても代わりがいくらでもいる、ということであろう。
「はは、なんだよそれ? まぁ、それでやっぱ彼が好きだって言い出してさー。俺の前で泣くんだよ。ごめんなさいって。もう、何もいえねーよな。こういうのって」
今度は唐沢の視線が一本の冬枯れた大木に向かう。
「はは、泣かれたら負けだな、男は。ていうか、そもそもお前は馬鹿なんだよ。恋愛は不条理なもんなんだよ」
「不条理かー」
「そうだよ。お前みたいなこと言われたらな、女は、あぁ、この人私のこと本気じゃないのかな? って思うんだよ。束縛も度がすぎりゃうざいけど、ある程度は必要だぞ」
「そうなんだよなー、俺にはそれがどうしてもできねー」
「はは、ほんとお前らしいよな。そういうとこ」
唐沢の失恋話を唐沢から直接聞くと、何かそれが笑いのネタとでもいうような気がしてしまう。実際、俺は唐沢に会うまでは唐沢の失恋をもう少し同情的に考えていたのに、今はなんとなく楽しいと思えてしまう。
「あー、ほんと馬鹿だった。はー……」
こういう唐沢の発言も、良いものをもっているのに不器用な人間にしかない特別な魅力なのだろうなと思った。ひょっとすると唐沢自身、笑い話にしてしまうことで、気持ちを切り替えているのかもしれない。
「いいんじゃねーの。そのうち、そういうのが分かってくれる女の子もでてくるんじゃねー?」
「そうだと良いんだけどな……」
そう言って、飲み干したティーカップに砂糖をどっさりと入れた。
「あ、そうそう、そういや優のお母さんが家に来て優の日記をおいてったんだよな。読むべきかな?」
俺は今回の核心であった優の日記のことを、おまけのことのように話題にした。真剣に話すと色々と聞かれそうだったからである。
「へー、優ちゃんの日記か。お前はどうしたいわけ?」
「俺は、あんま読みたくないんだよな。こんなこと言うのもひどいかもしれないけど、もう過去のことにしたいんだ」
「そっか……」
唐沢が切なげな表情でこたえた。俺の良心にとげがささる。。
「だったら、読まなくても良いとは思うけどさ、過去なんだろ? だったら割り切って読んでも良いんじゃないか?」
「そっか…… 三木本さんもそうして欲しいって言ってた」
「そりゃ、読まないでとは言えないだろう。お前も女心分かってねーなー。てか、優ちゃん日記書いてたんだな」
唐沢は、散々俺に言いたいように言われて、内心腹が立っていたのだろうか。それまでの仕返しのように、一言だけ俺に皮肉を言った
「ははは、浮気の話とか書いてあっても困るけどな」
俺がそう言うと、唐沢は少しまじめな顔になって俺を正面から見つめた。
「お前さ、本気で優ちゃんが浮気してたと思うか?」
「え?」
それから俺は、俺の優の浮気についての考えを話した。優が友達と会ってきて、帰りの優の衣類がタバコ臭かったこと。優の友達がタバコを吸わないことから、男と会っていたのかもしれないということ。優の態度があまりにも淡白だったこと。突然料理を練習し始めたことなどである。唐沢は終始、納得がいかないといような表情をむけていたが、俺が話し終わったあたりで「分かった」と言って黙ってしまった。その時になって初めて、俺は何か自分が恐ろしい勘違いをしていたんじゃないかという気がしてきた。確かに、自分の発言を冷静に聞き取っていくと明らかに欠落しているものがあるのだ。それは浮気の証拠である。しかし、それでも俺は自分の考えが間違っているとは思えなかった。それくらい優の態度の変化はあからさまだったのだ。俺と唐沢の間で何か考えのずれが生じて、お互いにどことなく居づらい気分になっていたあたりで、唐沢が「そろそろ眠いし帰るわ」と言いだした。