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日記  作者: ひさみち
1/6

怠惰と契機

10年くらい前に書いた小説です。


携帯とか今じゃあなんか古いですね。

朝か…… そう頭でつぶやいてから、二つ、深呼吸をした。

 ゆっくりと目蓋を開ける。

 辺りが色を帯びる。

初めに目に映ったものは天井だった。それは、透明ではない、曇りガラスのコンタクトレンズでもしているようにぼやけて見えた。そうして、かすんで見える世界が徐々に鮮明になるのと同時に、意識も目を覚ます。

眠りから覚めて、徐々に意識が戻ってくるの感覚が嫌いだ。それは、俺が現実を直視したくない状況にあるからだろう。

俺は、二流と三流の中間くらいのレベルの大学の文学部を卒業し、小説家になると言って親元を離れ、このアパートに移ってきた。

今から一年四ヶ月前の三月のことだ。

小説家として生きていくことを決意したのは二年以上前で、家族は小説家でやっていくなんて絶対に無理だ、と反対したが、俺はそれを無視した。友人や大学の教授からも、小説家としてやっていくのなら、せめて大学院に行って知識を広げるなり、仕事をしながらでも良いのではないかと助言された。しかし、その当時の俺には、そうすることが時間の浪費にしか思えなかった。何故なら、俺にはそれだけの知識と才能があると信じていたからである。しかし、現実はそれに反して散々なものであった。何度小説を応募しても、ろくな結果は返ってこなかった。

この場所に引っ越してからの一年半近くの時間で、才能がないということを思い知らされた。落選が続いて八ヶ月が過ぎたあたりで小説を書く気力もなくなり、今では紙やペンを目にするだけで吐き気を催す。そしてここ半年近く、何するということなくだらけきった日々をすごしている。

俺の精神も気力もすっかり腐ってしまっているだった。その現状と、過去の俺が描いていた現状にはあまりにも大きな隔たりがあった。


俺は布団に仰向けになったまま、天井のシーリングライトを見上げていた。

耳を澄ますと、隣の部屋からニュースのアナウンサーの声が聞こえる。天気予報をやっていて、どうやら今日も午後から暑くなるそうだ。

そうなのか、と思っていると、それとは別の音に気づく。

蝉時雨である。

そうか、夏なんだよな。俺は何か真新しい出来事にでも気づいたような気分になった。外のわずらわしい蝉の鳴き声に、朝も早くからご苦労なことだと思いながら半身を起こした。ねぼけまなこをこすりながら一つ大きなあくびをして、ふすまが開きっぱなしの隣の部屋を覗いた。

白とピンクのチェックの寝巻き姿の優がソファに座っている。優はいつものように朝食をとりながら、ぼんやりと、正面のTVのニュース番組を見つめていた。


 優は俺の彼女だ。付き合ってほぼ三年がたつ。俺が大学を卒業してここに移る時、一緒に同棲することになった。この部屋は優と選んだ。家具や雑貨だって、二人で選んだものばかりだ。

優との出会いは、大学二年の夏にさかのぼる。親友の唐沢に紹介されたのがきっかけだった。三人とも同い年で、同じ学部だったせいもあって、優とはすんなりと親しくなれた。

親しくなってから少しして、優から告白された。どうやら、優は俺のこと以前から知っていて、大学に入学した頃から好意持っていたのだという。その時俺は優を振った。理由はシンプルで、他に好きな女の子がいたのだ。

それから一年が過ぎたころ、俺は失恋して何も手が付けられない時期があった。そんな時に優は俺の側にいてくれた。落ち込んでいた俺を遊びに誘ってくれたり、色々と励ましてくれたりした。そして、まだ好きだと言われ、優の想いにうたれ、その後俺から告白して付き合いはじめた。とは言ったものの、実際は失恋の痛手から逃れたくて付き合い始めたというのが真実だ。俺の側に居てくれる人だったら誰でも良かった。そういう気持ちで付き合い始めたせいか、俺は、心のどこかの、消えることのない後ろめたさと共に優との関係を続けていた。

今の優は、とある企業の事務をしていて、忙しいとは言っているが充実した日々を送っている。


「おはよ……」

 俺は頭を掻きながら、優の隣に腰をおろした。

「うん、おはよ。早くしないと朝ご飯冷めちゃうよ」

 そう言って、優は紅茶を口に運んだ。

「――うん、分かってる」

紅茶の匂いをかいだ。その香りが、ダージリンであることを俺に告げる。小さなテーブルの上にはその他に二人分の朝食がならんでいる。フレンチトースト、野菜炒めである。

「今日も暑くなるってさ」

「――うん」

「ねえねえ、このアナウンサーさ、なんか前より綺麗になったよね」

 優は俺の方に顔を向け、少し嬉しそうな声で言った。

「――うん」

女というのは同性が綺麗になると、赤の他人でも嬉しいのだろうか。俺は、アナウンサーの変化などまるで気づいていいなかったが、さして興味もなかったので相槌をうつことにした。そして、少しぬるくなった紅茶を一口すすった。

「優さ…… 俺のこと好き?」

 俺は優が綺麗になったと言っていた女性のアナウンサーを見て、そんなに変ったかな? と思いながらたずねた。

「うん、好きだよ。君は?」

 優はなんでもないことを言うような口調で言った。

この三年間で、優の気持ちを聞くようなことは一体どれくらいあったのだろう。少なくとも、この一ヶ月より前ではほとんどどなかった気がする。

大学時代は、優に好かれているという絶対的な自信があった。それは、優の態度を見ていれば分かるものだったし、自分が好かれるに値する、魅力のある男だと思っていた。ところが、大学時代までの、優の心をつなぎとめているという自信は、自分の劣等感の成長に反比例して衰退していった。そして、今ではそのような自信は、自分の心のどこを掘り起こしても見つからない。

この一年間であろうか。俺は好かれているのだろうか? という、今までに感じたこともない不安がこみ上げてくるようになったのは。

このままじゃいつか捨てられるだろう。この言葉は不安によって呼び出される。しかし、この言葉がまた不安を駆り立てる。不安が不安になる言葉を呼び、その言葉がまた不安を招くのだ。それは、連鎖反応を延々と続ける。まるで、果てのない螺旋階段を上り続けているようだ。俺はいつ途切れるとも知れないこの階段を、疲労の蓄積だけをはっきりと感じながら上り続けていた。

「俺は、好きだよ」

「ほんとにー?」

優が正面のTVをさえぎるように俺の前に顔を出して微笑んで見せる。俺はそれから逃げるように、フレンチトーストを口に運んだ。元々正直な性格だったせいもあって、嘘をつきとおすことに罪悪感を覚えるのだ。

優は俺を好きでいてくれたし、いろいろな面で俺を受け入れてくれた。しかし俺は、優を好きだと思って付き合い始めたわけではない。優とは趣味が合うというわけでもなかったし、価値観が似ているというわけでもなかったのだ。確かに、一時期は好きだと真剣に思ったが、今ではそれもない。大学を卒業するころに、勢いで同棲することになったから今でも一緒にいる。俺と優はその程度の関係でしかないのだ。ただ、優に好かれていると思うことでかろうじて自尊心を保っている自分がいて、それを保ち続けるためにも両思いであることにしたかった。

「うん……」

 そう言った俺の声はかすれてしまいそうだった。この一ヶ月近く、朝、よくこんなような会話をしている。

「本当だったら嬉しいな」

 そう言って見せる優の微笑みが、俺には負担だった。

優は自分の食器をまとめて流しに運んだ後、俺がさっきまで寝ていた寝室に入って行った。そして、ふすまをそっと閉める。そこは、優の寝室でもある。

「そういえば、今日も仕事遅くなるから、夕ご飯、いつもどおりお願い」

「うん、解かった」

 俺は答えて、わずかにふすま越しに聞こえる優の着替える服ずれの音や鼻歌を、TVをぼんやりとながめながら聞いていた。

「変じゃないかな?」

着替えを終えた優が部屋から出てきて言った。優は白地のキャミソールと七分袖のカーディガンがアンサンブルになっているものを着ていた。キャミソールもカーディガンも同じ白のフラワーレースの飾りがついている。下は水色のシフォンのスカートだ。優は元々スタイルが良い方だし、こういう正統派な服装が良く似合う。

「うん、いいんじゃん?」

「良かった」

 優はそう言って、小さく首をかしげて嬉しそうな表情を見せた。俺は一目だけ優を見て、うなずいた後、すぐに視線をTVに戻した。

優は、また寝室に戻ると出かける支度を続けた。俺は一見興味なさそうにしているが、朝、出社前の優が隣で支度をしている微妙な時間が好きだ。優が着替えているのを、服ずれの音で判断できるし、その微妙な音でどんな服を着ているのか想像できる。足音が姿見の付近で止まると、化粧をしているのだなと分かる。服装やバックが決まらなくて悩んでいる感じも、優がたてるわずかな音から感じられる。俺は紅茶をすすったりしながら、今日の優はカーキのワンピースかな? とか、カバンはシルバーのやつかな? などと当てっこしたりするのだ。ちなみに、今日は予想が少しだけ外れた。ピンクのスカートだと思っていたのだが。

「早く行かないと遅れるぞー」

 俺は、TVに表示されている時間を見て、声をかけた。

「うん、解かってる。今終わった!」

 そう言って、あわてたようにふすまを開ける。

「じゃ、行ってくるね!」

俺の側を通り過ぎる。優のいつも使っている香水がほんのりと香った。それは、すこしの間だけ俺の周囲に香りを残す。

桃の香りのする香水。

俺の好きな香りで、俺が随分昔に優と一緒に買い物をしていたときにすすめたものだ。優にぴったりの香りである。

 俺は遠ざかる足音を聞くことで、部屋を去っていく優を見送った。すると、その足音が玄関付近で止まった。普段なら、このままパンプスなりサンダルなり履いて、そのままドアを開けるはずだ。俺は、日常とのわずかな変化に、ほんの少しだけ違和感を覚え、優の気配に意識を向けた。

足音は、徐々に俺に向かってきた。そして、それは俺のすぐ側で止まった。俺に触れるか触れないかという距離である。

「ん、どうしたんだ?」

 視線を、優の顔には向けず、胸元のレースの模様に向けてたずねた。

「あのさ、君さ……」

 優は視線を俺の膝頭に向けていた。俺達は、お互いの視線を避けるようにしていた。

ほんの数瞬沈黙が置かれた。まるで、優の後についてきたように、優の香水の香りがした。甘い香りに不似合いな、緊張感が漂っていた。俺は、優が何か真剣なことを伝えようとしている意思を感じとった。

「うん、何?」

鼓動が微かに速くなる。

「ごめん、なんでもない」

そう言うと、優は俺の肩に手を置いて、少しだけうなだれた。肩にかかるくらいの優の髪が少しだけ揺れて、シャンプーの香りがした。どきっとする香りだった。俺は、その、一瞬だけ沸きあがった驚きに似た感覚をごまかすように、他のことに思いをめぐらせた。大抵の男は女の子のシャンプーの香りに弱いのだが、俺もその一人なんだな、と。

ふと、何か期待していたのに裏切られたという感覚が起こった。

「なんだよ?」

ようやく言葉が出た。俺は、その言葉をやや不機嫌に言った。

「あ、そろそろ行かないと」

 そう言うと優は笑顔を浮かべて、そのまま小走りに部屋を出て行ってしまった。

「ちょっと、なんなんだよ……」

 俺は分けのわからないまま部屋に取り残された。

部屋がしんとしてしまった。

部屋の無機物達が急に饒舌になる。閉められたドアの音は、鼓膜にいつまでも余韻を残す。TVのアナウンサーの声が妙にわずらわしく聞こえる。俺は腹立たしげにTVの電源を切って、ソファに仰向けになった。すると、今度はTVの上にある時計の秒針が小刻みに動く音が耳についた。


寝室の布団で横になっていた。そして、わけの分からないまま優の言葉をたどり、妄想にふけった。

この数日、いや、俺と優がこの部屋に移ってからの時間、二人の生活に大きな変化はない。何も変化のない日々に、優の心は離れてしまったのかもしれない。そんなことを考えていると、急に不安になる。もしかすると他に好きな男がいて、本当は別れたいのかもしれない。そんな考えに取り付かれる。

足早に部屋を去る優を思い出す。

何を、言いたかったのだろう。

俺にはわからなかった。ただ、鼻腔にわずかだが優の残り香がわだかまっていて、それを嗅いだのは随分と昔のことだったように思えて仕方なかった。

姿見に目をやると、それは自分を写し出していた。ただ、無気力に横になっている自分だ。そんな自分を見て、これじゃしょうがないだろうと思った。だからといって何かできるわけでもない。そんな自分を励ます気にもならない。

「仕方ないよな……」

ふと、あきらめの言葉が零れ落ちる。

眠ってしまいたかった。そして、現実から逃げるように布団の中に潜り込んだ。だからといって人間は過剰に睡眠をとることはできない。目をつむり眠る事に意識を集中しても、頭は冴えるばかりだ。

眠らなければ、という強迫観念にも似た強い思いは逆に意識を覚醒させる。そして、覚醒させられた意識は、総力をあげて思考を展開する。

過去の俺が現在の俺に冷たい視線を向ける。

昔の俺は何もしない無気力な人間を極端に憎んでいた。存在する価値さえないと思っていた。その頃の俺の無気力な人間に対する憎悪は、そのまま現在の自分に向けられていた。


 こんなに醜い姿をさらすくらいなら、一層のこと死んでしまい。そんな観念に支配されて一体どれくらいの時間がたったのだろう。そう思って、枕もとの時計を見ると、すでに三時間近い時間が経過していた。

そんなに経つのか、と思っていると、嬉しいような、むなしいような気持ちになる。時間の経過が遅いのは耐え難い苦痛だが、早いと、それはそれでその時間を無為に過ごしたという感覚が虚無感を生む。

俺は視線を空の青に向けた。梅雨も明けたばかりの、あくびでもしそうなほどのどかな空だった。しかし、それがなんとなく腹立たしくて、青空は優しいのに、なんて目障りなのだろうかと思った。

おもむろに携帯電話の着信音が鳴った。俺は、驚かされたようにはっとして、起き上がり、携帯電話を手に取った。

携帯電話の画面に『唐沢』という名前が表示されている。

「よ、元気か?」

唐沢が気の抜けた声で言った。

「おー、唐沢、久しぶりじゃん」

 唐沢は高校時代からの親友である。

正直、俺の友人の中で親友と呼べるのは唐沢くらいだ。唐沢は今の俺のありさまに対して何も言わない。本心で何を思っているのかは分からないが、色々あっても、唐沢だけは俺を信じてくれている気がする。そう思うのは、十年来の付き合いから生まれる、言葉にはならない信頼感からだろう。

唐沢とは高校を卒業して同じ大学に進学したが、大学三年の時に突然学校を退学した。それから一年間浪人して、同じ大学に二年生として再入学した。そのため、現在大学三年になる。今でこそあまりつるむこともないが、高校時代は毎日のようにつるんでいた。同じ弱小テニス部で、弱小プレイヤー同士最悪なダブルスを組んでいたこともある。

「で、どうしたん?」

「うん、ちょっと頼みがあるんだけど。今日暇?」

「あぁ、別に良いけど。なんだ?」

唐沢からの電話は稀であるが、唐沢からの頼みごとはさらに稀なせいもあって、俺は少し緊張した。

「おう、悪いな。ちょっと、人数合わせで来てもらいたい。こんな平日で暇なのってお前くらいしかいないしな」

「なんだと、そんな理由なのか?」

「うん」

 当然だろう? それ以外に何かあるのか? と言わんばかりである。他の誰かに言われたら正直腹がたつような言葉だが、唐沢に言われるとそれほど気にならない。それが唐沢との付き合いの長さがそうさせるのか、唐沢のキャラクターのせいなのか俺には分からなかった。


「うんって…… まぁいいや。で、どこ? 何時?」

 俺はほんの少し呆れながらも、いちいち深くはつっこまずさっさと了承してしまった。

「あぁ、下北に六時半でよろしく」

 俺は内心、唐沢にしては強引に話を決めてくるなと思った。何かあるに違いない。それを今すぐ確かめてみたい衝動もあったが、会えばすぐに分かることだ、とその衝動を抑えた。

「了解。つうか、今日って何日だっけ? お前学校いいのかよ?」

「何ボケてんだ。今日、七月十八日だ。学校夏休にはいったわ」

「あぁ、そっか……」

 俺達は、その後数分ほど下らない話をして電話を切った。 

朝食の洗い物をすませ、俺はさっさと着替えて図書館にでかけることにした。この町にある区の図書館である。この町は駅ビルが一つあるくらいの閑静な住宅街だが、図書館はそれに相応する程度の小さなものであった。しかし、俺はその図書館を案外気に入っていた。人が少ないことが何よりも魅力だ。それ以外にも、当然といえば当然なのだが、夏はクーラー、冬は暖房が完備されている。光熱費をまったく気にせずくつろいでいられるのが良いのだ。蔵書の数も他の図書館に比べれば少ないが、少なくとも俺が一生かかっても読みきれないほどの本が用意されている。いっそのこと図書館の住人になって、そこに住みついてしまいたいと思うことも多かった。

 時計の針が十一時を回った頃、俺は着替えるために寝室の押入れを開けた。姿見を見ながら、ラウンドネックの黒のタンクトップをインナーにして、その上に白地に藍色の小さな野ばらが描かれた半そでのワイシャツを着た。ストレートのブルーデニムをはいて、玄関でタンクトップの黒に合わせて黒のサンダルを履き、ドアを開ける。

「ふー、良い天気だけど、暑いな」

 外の外気と、突きさすように力強い夏の光線にたじろぎながら部屋を出て、すぐ左手の階段を下りた。

アパートを離れながら、横目で呆然と自分の部屋を眺めた。それは、都心から電車で40~50分ほど南下した神奈川県にあるアパートの一室である。2DK、月6万5千円、けして安いわけではないが高いというわけでもない。部屋は長方形型をしていて、玄関を入るとすぐ横に洗面所がある。玄関から三歩ほどして、六畳くらいの、キッチンと洋間一つになった部屋がある。部屋が端にあるおかげで出窓がついているのが魅力だと思っている。さらにその奥に五畳くらいの広さの畳の間があり、その先にはベランダがある。築二十年を超えているが、外観は俺が引っ越して来る少し前にペンキを塗り替えられたため、それほど古くは見えない。壁もそれなりに厚いため、隣の音が気になるということもない。最寄りの駅まで徒歩20分といったところであろう。これといって不満はないのだが、唯一の難点といえば、アパートが小高い丘の上に建っているということだろう。


    2



 下北沢は俺が学生の頃に足しげく通った街だ。俺が勝手に思っていることだが、若者の中心地は渋谷だが、個性的なファッションの若者はあまり渋谷で買い物をしない。渋谷から一駅離れた場所に代官山、原宿があり、下北沢も渋谷から四駅離れた、渋谷のすぐ近くに位置している。彼らは渋谷をあえてはずして、そういう街に集まる。渋谷は何でも揃っているという意味での、便利さを除いてしまえば、人が多すぎるし、よっぽど渋谷のセンター街周辺を聖地のようにして毎日群れている若者でもない限り、そういつも行きたい街ではない。下北沢はそれに比べればまだ静かな方だ。レディースファッションよりもメンズファッションの方が豊富で、どこかしら、センスの良い男の子の街という印象も受ける。雑貨屋も多く、一風変ったものからおしゃれなものまで豊富に揃っている。昔はよく優とこの街で雑貨を揃えたものだ。うちにある二人がけのソファやテーブルなんかもこの街で買ったものだ。とにかく、下北沢という街は下北的と言っても良いような独自の若者の文化を形成していて、この街によく来る若者達はこの街が好きで仕方ないという印象をうける。かくいう俺もその一人である。

 六時二十分頃、下北の改札を抜け、狭くて蒸し暑い駅の構内で他のメンバーが揃うのを待った。こういう気温が極端に暑かったり寒かったりする日は、癖で十分前行動をしてしまう自分が馬鹿らしく思えて仕方なかった。唐沢は六時三十分頃に到着し、俺は久しぶりに会った唐沢に親しみをこめて「おせーよ!」と言った。

「んで? 最近どうなの?」

 俺は自然に話かけたが、内心久しぶりに会った唐沢がストリートファッションに目覚めているのがおもしろくて仕方なかった。

「何が?」

 唐沢は改札の方向を気にしながら答えた。俺の話にあまり集中できていないらしい。

「色々、学校とか」

「まぁ、いつも通りだよ」

 唐沢は通り一遍の返答をする。

「そういや、他誰がくるんだ? おそくねー?」

「他は、女の子が二人くる。あと、待ち合わせは七時だったりする」

「おい! どういうことだよ!」

 俺は唐沢が時間を偽っていたことに怒りを覚えた。

「あのよー、なんで俺はお前に合わせて六時半に集合しなきゃいけないんだ?」

「はは、まぁたまには良いだろ」

 唐沢はそう言って、にっこり笑った。

まぁ、昔から唐沢はそういうところがあった。とは言っても、何故俺まで早く集合させられたのかが理解できない。おそらく、一人で待つ三十分が面倒くさかったのだろう。待ち合わせの相手を待たせないという気遣いは偉いが、それに付き合わされた俺は迷惑以外のなにものでもない。

「それで、ゆうちゃんは元気?」

「あぁ…… 最近は仕事が忙しいみたいで、帰りがいつも遅いよ」

「へー、あのぼけっとした子がね」

「俺たちよか、よっぽどしっかりしてるわな」

「ほんとそうだな」

 唐沢はかつての友人が遠くへ行ってしまったような寂しげな顔をした。

唐沢と優と俺は大学で同じ学科を専攻していた。俺が唐沢に優を紹介されたときには、すでに優と唐沢は随分と親しい間柄であったようだ。唐沢から優の話をよく聞かされたものだ。しかし、唐沢の突然の失踪を契機に、唐沢から優の話を聞くことはなくなった。同じように、優から唐沢の話をきくこともなくなった。最近になって二人の間で何かあったのかな? という疑問が沸きあがったが、今更それを突き止める気にもならない。

「それで、お前の連れはなんなん?」

 俺は会う相手が女ということを聞いて、それはつまり唐沢が気になっている女に違いないと読んでいた。そのせいで、詳細を聞き出したくて仕方なかったのだ。

「あぁ、同じサークルの子」

 しれっとした顔で唐沢が答える。

「へー、それで?」

 当然俺はしつこく食い下がる。

「いや、まぁ、いわゆるそういうやつだよ」

「どういうやつだよ」

俺は言いながら、思わず自分の口の端が上がっているのを感じた。

「ほら、あれだよあれ」

 あたふたと、はぐらかすように話す唐沢の顔が徐々に赤くなっていく。

「だからなんだって」

俺は唐沢の反応を見て楽しんでいた。唐沢はユーモアがあるし、ルックスも悪くない。けっしてもてないタイプではないのだが、極端な恋愛下手なのだ。いや、実際はもてないタイプではないという以上によくもてていた。俺は唐沢と仲良かったこともあって、昔は唐沢目当ての女の子がよく俺に近づいてきたものだ。

「まぁ、その…… いわゆる…… 言えるか!」

「はははは! なに切れてんだよ」

俺は思わず吹き出してしまった。

「まぁ、大体解った。お前極度の恋愛べただからな」

「解っててわざと遊んでただろう」

 唐沢が眉をしかめて言った。

「まぁ、一応…… 俺が好きな子がいる……」

 俺がわざと口を閉ざしていると、さっきよりも真っ赤になって唐沢が白状した。唐沢がどうしてここまで極度な恋愛べたな男になったのか、俺には解らない。俺が知り合った頃にはすでにそういう体質が出来上がっていた。唐沢は妥協しないから、彼女がいないからという理由だけでは付き合わない。相手に好きな人がいるとすぐに諦める。一度ふられるといつまでも引きずる。こういうタイプの男だ、例えもてたとしても彼女なんて簡単にできるはずがない。そういう理由もあってか、俺は唐沢の恋愛には、昔から全力で手助けするようにしてきた。良いものをもっているのに不器用なせいで恋愛がうまくいかない男というのは、不思議と同性からは魅力的にうつるのだ。まぁ、面白いといって片付けられなくもない。そして、今回も俺はできる限り唐沢の助けになろうと誓った。


七時五分が過ぎたのを携帯で確認し、俺も唐沢も二人が遅れてくるだろうな、とむし暑い駅の構内での長期戦を覚悟した。それから数分して、唐沢がおもむろにちょうど改札を通り過ぎようとしている少しおねえ系ファッションの女に手を振った。すると、その女も唐沢に気がつき手を振りながら少しだけ早足に歩み寄ってくる。それに少し遅れて、もう一人、一見すると高校生に見えなくもない童顔の、いかにも女の子といった風貌の女が来た。とても対照的な二人だった。唐沢が先ほど手を振っていた女はピンクと黄色の花柄のシフォンのキャミソールに、白のカプリパンツをはいていた。目鼻立ちが整っていて、細身で身長もあるし、モデルっぽい雰囲気がある。それと同時に、一見軽そうな女にも見える。おそらく、こっちが唐沢のお目当てだろうなと直感した。正直、唐沢には無理なんじゃないのか? というのが第一印象であった。もう一人は、白の半そでのワイシャツ、ブルーデニムのジーンズにスニーカーといった格好で、見るからに普通の女の子の雰囲気だった。丸顔にストレートで肩までかからない程度の長さで切りそろえられた髪が、より幼く見せているのだろう。

「ブッチ遅いってー」

口調は怒っているようだが、唐沢は微笑んで言った。

「先輩ごめーん! 時間かかっちゃって!」

 まったく悪びれた様子もない顔で、唐沢にブッチと呼ばれた女が言った。

「あ、紹介するよ。こいつが俺が言ってたつれの奴」

「東海林淳です、初めまして」

「どうも、初めまして。竹淵香奈です」

俺は自己紹介をしながら、しっかりした挨拶をする彼女に意外さを感じた。

「えっと…… それで……」

俺は目線を香奈の後ろに隠れるようにして立っている彼女に向ける。

「この子ちょっと人見知りなの。ほら、みき!」

香奈に背中を押されて、彼女はおずおずと前に出た。

「どうも、三木元淳です」

 そう言うと、三木元さんは顔を伏せるようにして俺に視線を合わせないままでお辞儀をしてみせた。

「あれ、お前と同じ名前じゃん」

 唐沢が俺と三木本さんが同じ名前であることを指摘した。俺もそう言われて、同名であることに気づいた。

「あぁ、そういえばそうだな。これで俺達が結婚したら同姓同名だよ。個人宛の郵便が来たらどうすりゃいいんだよ。なんてね……」

 俺は言うだけ言って、しまったと思った。この手のタイプの子は、こういうジョーダンにひく。それに、こんなに早くにぼけて見せても意味がない。いや、むしろ警戒される。俺は心の中でうめいた。

「なんで結婚してんだよ!」

 すかさず唐沢が突っ込みを入れてくる。このへんのつっこみのタイミングは俺好みなのだが、滑ったボケに突っ込みがはいるのはやっぱり惨めだ。そう思っていたが、予想以上に反応が悪くなかったようだ。三木本さんこそ、何を言われたのか分からないという感じで表情が固まったままだったが、香奈は側で笑いをこらえていた。おそらく、唐沢と香奈はすでに親しいのだろう。まぁ、それが恋人としてではないのだろうが。それにしてもこの二人は、格好だけでなく性格まで対照的であるらしい。俺は三木本さんと香奈の二人を見比べて思った。これで本当に仲が良いのだろうか、と疑ってしまうほどだ。

「それじゃ、集まったことだし飲み行こうぜ」

 唐沢が先頭に立って下北沢の南口の出口を指差した。


 俺たちは駅から数分離れた所にある、路地裏の居酒屋に入った。店員に四人用のテーブル席を案内され、俺は当然壁側の奥の席に加奈と三木本さんを座らせた。もちろん加奈と唐沢が対面するようにした。酒のオーダーをとりに来たので、俺と唐沢は生中を一杯ずつ頼む。奥の二人はそれぞれ、アルコールの薄くて甘めなサワーを頼んだ。その後、三人が空腹であるのかを確認して、俺はメニューを選んだ。俺が奥の二人にどれがいいかな? とたずねていると、隣の唐沢が勝手に店員を呼んでオーダーをはじめた。

「俺、キムチ、一口餃子、あとあと、この焼肉ね。みんなは?」

 唐沢! 俺は心の中で叫んでいた。みんながメニューを決めていないのに、一人だけさっさとオーダーするのはマナー違反だろう。当然のことである。それ以外にも、女の子と飲み屋に来て、男がオーダーをするときに意識しないといけないこがある。第一に、臭いが強いものは避ける。次に、カロリーの高いものも避ける。そして最後に、相手の着ている服を見て、色が薄いなら汁がとばないものにする、である。この男、三品目どれも各当するものを頼んできた。隣で俺達のオーダーを待つ店員をひとまず帰して、三人でメニューを選んだ。ちなみに、俺はまず女の子が一番気にするカロリーが低いシーザーサラダ、次にカロリーは高めだが味で勝負のチーズもちをたのんだ。もちろん、奥の二人にさりげなく、それらが好きかを尋ねたあとである。本当に唐沢は香奈に好かれたいと思っているのだろうか。俺は、さっさとオーダーを済ませてメニューを閉じてしまった唐沢を見ながら思った。

 メニューをとった後一瞬場がしんとした。全員、この一瞬の沈黙による場の静けさの扱いに困っているようだった。互いの視線をうかがうようなやりとりが続いた。誰かがしゃべらなくてはと思った俺は、香奈に話をふることにした。

「えっと、香奈さんと唐沢はどうやって知り合ったの」

「え、あぁ、同じ大学なんです」

「へー、そうなんだ?」

俺は香奈が唐沢と同じ大学であることを唐沢からとっくに聞いていたが、会話のきっかけのために、わざと何も知らないふりをした。

そう言って、唐沢をしゃべらせるために唐沢のほうを見る。

「ブッチとは同じサークルの仲間でね。ちなみに東海林も俺達の大学卒業してんだぜ」

「あ、そうなんですか?」と香奈が驚いた顔をみせた。

「同じサークルって…… アニメ研究会?」

「違いますよ!」

 唐沢が吹き出した。唐沢と俺は、はじめ同じテニスサークルだった。唐沢が一度退学して再入学したとき、何故か一時アニメ研究会に入っていたことがあったのだ。俺はそのときのことを今でも笑いのネタにしている。

「馬鹿、そんなのはいってねーだろ!」

「唐沢さん、そういう趣味あったんだ」

香奈がすかさず突っ込む。今の間よし、と思いながら俺は調子にのって続ける。

「お前のコスプレパーティーの写真、あれ最高だよな。羽生えてたじゃん」

「違う違う、俺は角が生えてる方…… って、ばらさせるなよ!」

 こういう唐沢の切り返し方は面白いなと思う。唐沢は、結構天然なところも多いのだが、それでいて突っ込みもなかなか上手い男だ。

「あははは、先輩アニオタだったんだー」

 香奈が笑いながら唐沢に言う。

「違う、あれは違うんだって!」

 唐沢が、本気で弁解しはじめそうな勢いだったので、俺はこの辺りで唐沢いじめをやめることにした。そりゃ、好きな女の子の前で笑いものにされたら腹が立って当たり前だ。しかし、この場を盛り上げなくてはならないという俺の使命をまっとうするためには、こういうネタも仕方がない。俺はこのやりとりで奥の二人が少し笑っているのを見て、うまく場を和ませられたかなと思った。

「そういえば、二人とも何年なの?」

 俺はさりげなく話題を変えた。

「今二年ですよ。みきは大学がちがうんだよね」

 香奈は三木本さんの方を向いて、同意を求めるように言った。さっきからほとんど話していない三木本さんに、話をさせようという意図を含んでいるのを感じた。

「香奈とは高校からの友達なんです……」

 人見知りの三木本さんが、まだどこか恥ずかしそうに俺の方を見ながら、それでも目線が合わないように伏目がちに言った。

「そっか、俺も唐沢とは高校時代からだよ」

「そうなんですか?」

 わずかに視線を上げて三木本さんが言う。しかし、俺と目が合うとまたすぐに視線を他に移してしまう。

「高校時代もテニスやってて、東海林とは結構いいせんいったんだぜ」

 唐沢が自慢そうに言う。

「へー、そうだったんだ。先輩すごいじゃん」

 香奈が関心したように言った。

「確か、地区予選二回戦目で敗退だよな」

俺がすかさず答える。

「それって、だめじゃないですか、かなり」

香奈はやや呆れ顔で言い放つ。

「しかも、俺達に勝った連中が三回戦目で負けて、三回戦目で勝った奴らが四回戦目で負けてたからな。まさに最凶ペア。俺たちに負けた奴、どんだけ弱いって感じだけどな」

 唐沢が続けた。呆れ顔だった香奈が少しふきだした。三木本さんも、笑いをこらえていた。よし、唐沢! 俺は心の中で唐沢のタイミングのよさを誉めた。笑いとは間が重要である。笑えるネタも、1秒の遅れで命取りになるのだ。

 四人とも酒が進む。俺と唐沢は生中を二杯飲み終えていた。俺はそろそろもう一杯他の酒を飲みたい気分ではあったが、あまり酒に任せてテンションをあげるのは危険であると思い、少し間をおくことにした。

俺は酒の勢いに任せてどんどんなれなれしくなってくる男が大嫌いだ。特に、酔った勢いで女の身体に触れてくるやつは最悪だ。まぁ、そういうことを気にしない女というのもいるが、それはごく少数である。自分だけは、「俺、酔うとついああなっちゃうんだよね」といくらでも言い訳ができると思っている。しかし、そうやって気安く触られたりした女は、その場は笑顔で取り繕ってもそれを許してはくれない。さらに女の恐ろしいところは、噂である。一つでも悪い噂が立てば、それは尾びれだけでなく背びれまでつけて、大げさに、その上大勢に知れ渡っていく。だが、これは逆のことも考えられるわけだ。つまり、一度好印象を与え良い噂が流れれば、多くの女の人に良い印象をもってもらえる。唐沢はその点では信用できる男だ。なれなれしいし、デリカシーにかけるところが稀にあっても、女が生理的に嫌がるようなことは死んでもしない。それに、ユーモアもあるし容姿もそこそこ良い。二人のやりとりを見ていても、仲が良いのは一目瞭然というところだ。今も、こうして俺が黙っていても二人で会話が弾んでいるのがその証拠だ。本当に、これで恋愛べたというのが信じられなくなる

「そういえば、三木元さんは何をやってるの?」

そう言って、俺は唐沢以外誰も手をつけずに、テーブルに取り残されていたキムチを一切れ口に運んだ。

「あ、私ですか? 音大行ってるんです」

「へー、どんなことやってるの?」

「作曲家になりたいんで、ピアノとか、作曲法の講義とか、そういった感じです」

「すごいじゃん、かっこいいね!」

三木本さんは照れ隠しをするようにサワーを一口飲んだ。

「どんな曲作ってるの? ポップとか?」

「みきってすごいんだよ。頼まれた曲だったらなんでも作るし。最近少し有名になってきてるんだよね」

 香奈はそう言って、俺に微笑んで見せた。香奈は酒が少し酔ったのか、ほんの少しだけ頬が紅潮していた。ちらっと隣の唐沢を見ると、うれしそうに微笑みながら香奈を見つめている。俺は、あんまりじろじろ見るなよ唐沢、と思いながら再び話を続けた。

「ほんとに? それはすごいな。売れない小説家の俺とは大違い。才能あるんだね」 

 三木本さんを誉めながら俺は、心のどこかで劣等感がこみ上げてくるのを感じた。そして、できればこの話をすぐにでもきりやめてしまいたい気持ちにもなったが、そういうわけにはいかない。せっかく話が盛り上がり始めているのだ。そう思って自分をごまかすことにした。今のような言い回しをすれば、この後すぐにでも香奈あたりが、俺が小説を書いていることで何か聞いてくるに違いない。それは今の俺にとって、何よりも耐え難い言葉の刃である。できれば触れて欲しくない話題なのだ。

「へー、東海林さん小説家なんだ?」

 香奈が予想通り尋ねてきた。俺は自分の劣等感で、一瞬笑顔が凍りついた。うるさい、お前に俺の苦労の何が分かる。俺は心の中で、何も罪のない香奈を責めた。俺はほんの一瞬香奈を、俺がどれだけ努力しているかを何も知らずに馬鹿にする社会人たちの代表であるかのような錯覚を抱いた。その声は心の深い領域に広がっていって反響しているのを感じた。だんだんと怒りの感情が沸き上がる。その一瞬の葛藤を抑え、虚勢をはってこの場を冗談で切り抜けようとしたが、それは予想以上に困難であった。

「どんな小説を書いているんですか?」

 三木本さんが今までになく、興味津々といった眼差しを俺に向ける。まるで今までの会話が全てどうでもよかったというくらいだ。

「あ、あぁ、まぁ、たいしたもんじゃないよ。売れないし。はは」

 俺は売れないどころか実際は出版さえしていないのだが、あえてはぐらかすような言い方をした。

「いえ、そんなこといったら、きっと東海林さんよりもっと年上で、ぜんぜん売れない作家の方はいっぱいいますよ」

 けして同情的に言っているのではないことは、三木本さんの眼差しから容易によみとれた。

「そっかな。まぁ、物によってはファンタジーとか、推理ものとか、恋愛ものだったり、色々書くよ」

「すごいですよね! 私、曲は作れるけどどうしても言葉が下手で。歌詞とかも大抵他の人に頼むんです。だから、言葉をうまく使える人ってほんとにすごいと思います」

 三木本さんはまるで、尊敬する先生か誰かと話しているように、瞳を輝かせながら言った。そして、一人で納得したように何度もうなずいていた。そんな風に言われて気分がよくならない奴はいない。俺の劣等感は完全に姿を消して、いまや優越感に成り代わっていた。不思議なもので人というのは、相手が自分を手放しで誉めてくれるとそれを同じ規模で相手に還元したくなる。

「いやいや、俺だって曲作ってたことあるから三木本さんってすごいなって思うよ、まじで。俺の場合は結局音を作るより、言葉を作るほうが向いてるってことに気がついたから今は小説を書いてるけど、音楽のほうが難しいってまじでおもうもん」

「そ、そうですか?」

 そう言って三木本さんははにかんだ。

俺はこのような人間関係が大好きだ。同情とかではなく、本心でお互いを誉め合える関係というのは気分がよいものだ。本来人が望む人間関係というのは、こういうものなのかもしれない。つまり、お互いがお互いを誉めあって、いい気分になるということだ。そう思うと、何故人はわざわざ相手を非難したり否定したりするのだろうか。少なくとも、相手から非難や中傷をされてうれしい奴はいない。そして、相手を否定ばかりしていれば、否定された人々は自分を否定して返してくる。逆に、相手を真に尊敬していれば、相手もそのように自分に返してくれるものである。全てがそうではないと思うが、多くはそうである気がする。

「あの、もしよかったら東海林さんが書いてる小説とか、読ませてもらえたりしますか?」

 伏目がちに、三木本さんが言う。

「え? 俺の小説? いいけど、しょうもないよ?」

 自分の小説が他人から必要とされていることなんてほとんどどなかった俺は、動揺して声が上ずりそうになった。

「そんなことないです。それに、ほんと参考にしたいなって思って」

「そっか、もし良かったら携帯番号とかくれる? そしたら後で色々送ったりするよ」

「ほんとですか!」

 俺と三木元さんはお互いの携帯番号とメールアドレスを交換した。内心、優に対する後ろめたさがあった。しかし、三木本さんは純粋に俺の小説を興味もってくれただけで、俺には下心などないと自分に何度も言い聞かせるのであった。そのくせ、名前を登録したとき、登録名を『淳也』にしている。やましいことがないのならば、こんな回りくどいことをする必要ないのになと思った。そして、俺は誉められたせいか久しぶりに気分が良くなって、今日はしっかりと酔いたいなと思った。そして、酒をオーダーするために店員を呼んだ。





俺は一時を過ぎた頃にアパートについた。元々ひきこもり生活で、あまり外出しない俺がこんな時間に連絡もしないで帰るというのは久しぶりのことである。優が心配しているんじゃないか、と今更になって思った。しかし、優も残業が遅くなって、その上帰りに飲みに行ったりするとこのくらいの時間になる。ひょっとすると、優もまだ帰ってきていない可能性だってあるのだ。アパートの外から部屋の明かりが消えているのを見ていたので、優はもう寝ているのか、それともまだ帰ってきていないか二択だなと思った。それでも、部屋に入るときは優がすでに寝ていることを考慮して、できるだけ音を立てないようにドアを開けて部屋に入った。部屋は全て消灯していたせいか、日頃見慣れた部屋の中も、壁を手で探りながらでないと足取りがおぼつかない。目を凝らすと優のサンダルが玄関にあるのを見つけて、もう寝ているんだなと知った。俺は極力物音を立てないように、忍者のごとく忍び足で部屋に入った。そうしていると、まるで俺が浮気をした帰りのように錯覚する。そして、妙に高まる緊張感を覚えた。俺はそれを少しおかしく思いながら、なるべく物音を立てないように細心の注意を払い、シャワーを浴びるために服を脱いだ。

浴室から出た後、頭を乾かそうとしたが、ドライヤーを使うわけにはいかないと思って髪の毛を半乾きのまま寝てしまうことにした。俺が寝室のふすまを開けると、タオルケットを腰のあたりまで掛けて横向きに眠っている優がいた。俺は優が起きてしまわないようにそっと自分の布団に入る。優は俺に背を向ける姿勢で眠っていた。俺はまるで夜這いでもかけにきたみたいだな、と思わず苦笑した。

夜目になれたせいか、外の外灯と月明かりだけでもあたりがよく見える。優の背中をぼんやりと眺める。優は香奈ほどスタイルが良いわけではないが、それでも標準よりはずっと上だ。肩から腰にかけてのくびれがどことなくエロティックに見える。やっぱり優は可愛いんだな、と俺は自分の彼女の魅力を再発見したようで嬉しかった。

だんだんと睡魔が俺のまぶたを重くするころ、ふと俺は優が起きているような気がした。なぜなら、俺が部屋に入ってきて動き回る音は、いくら気を使って静かにしているつもりでもうるさいだろうし、眠っている人間は寝息をたてる感じが特徴的であるのに優はそうでなかったからである。俺はもし本当に眠っていたら悪いと思ったのだが、小声で「優、起きてる?」と声をかけた。

返事はなかった。肩でもゆすろうかと思ったが、そこまでするには俺の意識が眠りの世界に歩を進めすぎていた。


 隣の部屋から声が聞こえる。いつものアナウンサーの声だろう。何故だろう、今日はいつもの憂鬱な気分がしない。理由を考えていると、それは昨日の飲み会と直結した。昨日、唐沢達に会った事がなんらか俺に影響しているのだろう。それの多くは、三木本さんによるものに違いない。いつもより少し身軽に起き上がって、俺は例のごとくソファに腰掛けた。隣には優が居て、パンをくわえている。

「君さ、昨日どうしてたの?」

優はそう言ってパンをもう一度口にした。俺は合コンだと言えなくはないと思ったが、それを正直に言う程馬鹿ではない。少し罪悪感を覚えながらも、唐沢と、唐沢の友達と会っていたと言うことにした。

「あぁ、唐沢いんじゃん? あいつと下北で会ってたんだ。なんか、唐沢から突然メール来てさ。行ったら唐沢とあいつの友達が二人居てね。飲み会してたよ」

 俺は微妙に話をぼかしながら昨日の出来事を説明することにした。

「でさ、なんか唐沢、その友達の一人に気があるみたいでさ。香奈っていう子なんだけど、ちょっとモデルっぽくてきれいで、唐沢にはもったいない感じだった」

「あはは、まぁ、唐沢君おもしろいし、良い人だしうまくいくんじゃない?」

 優はTVに視線を向けたまま答えた。

「あいつなんか恋愛べたじゃん? うまくいくかなー」

 俺は紅茶をすすりながら答えた。昨日と同じダージリンティーである。

「そういえばそうだよね。もったいないよねー。大学時代、私の友達で唐沢君のこと好きな友達いたもん」

「あ、そうなんだ?」

「うん、いたよ」

「へー、あいつもてるよなー」

「だね、面白いしね、唐沢君」

 俺は優が唐沢を誉めてるのが内心気に食わなかったが、それは表にださなかった。

「そうそう、唐沢の連れでもう一人来てた子がさ、作曲やってるんだけど俺と名前が同じなの。結婚したら苗字も名前も一緒じゃん、ってネタですべっちった」

「あはは、けど淳ってどっちでもありの名前だよねー」

 優がさわやかに笑う。

「だなー」

「けどさ、遅くなるなら言ってくれればよかったのになー。心配したじゃん」

「悪かった。今度から気をつけるよ。それより、優はどうしてたの」

 俺は飲み会の話題をそらすためにたずねた。

「私? 私は、だから同僚の人と会ってたよ」

 俺の目には優の表情が一瞬こわばったように見えた。

「ほんとにー? 今一瞬顔がひきつってなかった?」

俺は笑いながら優を上目遣いで、表情を探るそぶりをした。

「あー、疑ってるでしょー?」

 優が俺の方をちらりと見て、また視線をTVに戻した。

「んー、どうだろ」

 俺は、ふと優のことを疑っている自分がいた事を思い出した。どうも昨日から気分がよかったせいか、そのことをあまり考えないでいたようだ。すると優が昨日誰か男と会っているような気がしてきた。さっき表情が一瞬こわばったことと、昨日俺に何かを言おうとしてやめたあの不可解な言動が、浮気の証拠のように思えて、猜疑心が徐々に膨れ上がっていった。

「それだったら、君だってほんとに唐沢君と会ってたの?」

「あ、疑うんだ。ひどいな」

「だって、君前科ありだもんね」

「まだあのこと言うのかー? もう二年も前の話だろ? それに、あれ以降ほんとに何もないんだぞ」

そう、それは二年ほど前、俺達がまだ学生だった頃のことだ。実際浮気をしたわけではないのだが、そのときある女の子を自分に夢中にさせてしまったのだ。自分が好かれている感覚はあったが、わざと知らないふりをしてそのままにして、結果随分しつこくつきまとわれたのだ。その時優と喧嘩をして、二週間近く口も聞いてもらえなかった。

「ほんとかな?」

「ほんとうだって。そんなに疑うんだったら、唐沢に電話すればいいだろ」

 俺は癇癪持のように、取るに足らないことだと分かりながらも腹を立てている自分の感情を抑えられなかった。

「うーん、それじゃぁ、今度会ったときにそうするよ」

「そんなに俺が信じられないのか?」

「そういうわけじゃないよ」

 優の視線がいつまでも俺ではなく正面のTVを捉えていて、それが、必要以上に俺を苛立たせているような気がした。

「優って、いつも俺のこと信じてくれないよな」

「そんなことないって!」

 さっきまでは平静そうだった優が、急に強い語調で言った。そして俺の瞳を捉える。

「そのことだって、二年も前の話だろう? 今さらその話するなよ!」

 俺は思わず怒りに任せて怒鳴らんばかりの声になっていた。

 会話が一瞬途切れて、二人の間になんとも気まずい空気が漂っているのを感じた。蝉時雨が妙にはっきりと聞こえる。それは、まるで二人の会話の間奏のように鳴り渡っていた。

「ごめんね……」

そう言った優の瞳が涙で潤んでいた。感情的になっていた俺が、はっと我を取り戻す。俺は自分の激情にブレーキをかけるのが、わずかに遅れてしまったことを後悔した。一日も始まったばかりだとういうのに、倦怠期の夫婦喧嘩のような一幕を演じていたようで自分が恥ずかしかった。それをごまかすように、俺は何か話題をそらすネタがないかとあたりを見回した。そして、目に止まったのはTVの上の壁に飾られたカレンダーであった。

「あれ? そういえば昨日って、俺達の記念日じゃん」

二年前の七月十八日、俺と優が付き合ってちょうど一年がたった日、ひょんなことで毎年この日は七時に、二人で打ち合わせとかしないで、ある駅の時計台の下に集まる約束をしたのだ。

「悪い…… すっかり忘れてた」

「ん、いいよ。私も仕事忙しくって忘れてたから。ごめんね」

そう言って、優はぺこっと頭を下げた。優の、チョコレートブラウンの髪が揺れる。それに合わせて優の使っているシャンプーの香りが鼻腔に届く。俺の好きな優の優しい香りだ。その優しさに、優の涙がこぼれおちているように思えた。淡い悲しみが部屋一面に広がっていく。そして、それは俺に深い後悔を抱かせる結果となった。

「――ごめん。朝一でイライラさせちゃって。俺、少し考え直した方が良いよな」

 俺は両ひざに両手をついて、頭を下げた。

「うんうん、良いよ。あ、そろそろ行かないと」

優はTVの上にあるスチール製の時計に目をやりながら言った。

「今日、友だちと飲み会の約束しちゃったから遅くなるね」

 優は俺に微笑んで言った。俺にはその微笑が、何故か幸せそうに思えた。

「うん、わかった」

そして、優は何事もなかったかのように、食べ残しと皿をまとめて流しに運んで行った。俺は優の微笑みの意味も解らず、難破船のように、行く当ても解らずさまよう心を、ただそのままにしておいた。そして、今の俺には、優のことを気にかけるような心のゆとりはないのだと思った。


優が部屋を出て、TV以外にしゃべる者が居なくなってから数時間が過ぎていた。昔の優のこと、昨日会った三木本さんや香奈、唐沢のことを思い出すことに時間の大半は費やされ、これからの俺と優のこと、香奈と唐沢のこと、三木本さんのことなどを空想することに残りの時間が費やされた。過去と未来に置き去りにされた現在。俺の本来の居場所は現在であるという明快な事実が、思考から抜け落ちている。

今、自分がすべきこと、さっき優が見せた微笑の意味、そういう本当は今考えなければならないことからは目そむけていた。しかし、辛辣な一人の自分が、過去と未来の夢想というぬるま湯に浸っている自分を鋭い視線で射抜く。そして見たくもない現在の自分の無様な姿と、希望と活力にあふれていた過去の自分の対比が、3Dのヴィジョンとなって脳裏に映し出される。それは、まるで映画のフィルムの一コマが映し出される程の刹那の時間だけなのに、幾度も繰り返され、サブリミナル効果となって潜在意識にまで浸透していた。

「何もかも忘れて楽になりたい」

俺の嗅覚はかすかな死の甘い香りを嗅ぎつける。

「そうだ、死んでしまえば楽になるな」

小声でつぶやく。死をほのめかすのは、最近ではけして珍しいことではない。だが、それが自然に口からもれるようになっている自分に驚いた。しかし、このような精神状態にあってはその問題発言を否定する気力もない。ただ「そうだよな、俺なんか……」と力なく返答することしかできない俺がいた。朝起きた時の活力は、どうやら先ほどの優とのやり取りで全て使い切ってしまったようだ。


朝が昼に席を譲ろうとしている頃、携帯メールの受信音が鳴った。唐沢からのメールだ。

『よう、昨日はサンキュー。香奈ちゃんも三木ちゃんも楽しかったってよ。また今度会えたら良いな、だって』

どうやら上手くいったみたいだな。俺は、携帯の画面を見つめながら思った。おそらく、この中で一番喜んでいるのは唐沢なのだろう。唐沢は昔からよっぽどの用事でもなければ連絡をよこさない奴だ。俺はこのメールに、唐沢なりの感謝の気持ちがこもっているのを感じた。

高校時代、俺は唐沢といつもつるんでいた。唐沢とは会話もあったし趣味もあった。テニス部では仲が良いからという理由で、強引にペアをしていたくらいだ。俺は以前からあまり人を信じない男だったが、唐沢は違った。俺は唐沢とは本音で話をしてきた。唐沢は、あまり思っている事を言うタイプではなかったから、俺が一方的に話していることも多かったかもしれない。今思えば恥ずかしいが、愛についてなんてことも熱く語ったこともある。唐沢との時間は素直に楽しかったと言える。大学が一緒になったときも心から喜び合った。

あいつが大学を辞めるまで、ほとんど毎日一緒に居たよな…… そういえば、なんで辞めたんだ? 俺は過去にひたりながら、唐沢と俺がどことなく疎遠になった、唐沢の失踪を思い出した。当時唐沢が大学を辞めた時、俺に相談一つなく突然大学を辞めたのだ。当時の俺は学校とバイト、優と付き合い始めたばかりだったこともあって、そのことがあまり気にならなかった。それから一年、ほとんどど連絡も取り合わなかったが、それでさえ俺はあまり気にとめなかった。男の友情は、立ち入ってはいけないという境界線をお互いに理解しあっているところがある。だから、俺に相談しないということは、それなりの理由があって俺はそれを無理に聞きだしてはいけないと思ったのだ。

なんかあったのかな? 昨日、優と唐沢に何かあったのではという憶測をしたが、実際それを確かめるには、いちいち二人に尋ねなければいけないのが億劫だ。俺は照明の消えた携帯の画面を見つめながら考えをめぐらしてみたが、答えがわかるわけもない。答えが解らない疑問にいつまでも悩む程の精神的なスタミナもなく、そのことを忘れることにした。そして、それよりも今後の香奈と唐沢の二人がうまくいくことを考えようと思った。

『俺に何かできることがあったらいつでも言えよ』

俺は唐沢に返信した。一分と待たず、俺の携帯は唐沢からのメールを受信した。

『悪いな。また四人で会ってみたいって言ってたから、そのときよろしく』

俺は唐沢からのメールを読んでから、携帯を放り投げてその場で横になった。

夏の香りが鼻につく。まとわりつく湿気がだるくて仕方ない。俺は朝っぱらから、命がけで鳴いている蝉を「昼の暴走族だな……」と一言吐き捨てた。

それからまた三十分ほどして、暑さから逃れるために図書館に行くことにした。俺はただ時間を削るためだけに図書館に通っている。そんな自分に嫌気がさす。しかし、まだ外に行く気になるだけ、鬱病患者に比べればましなのだろうな、とも思う。そんな楽観論も、このままこの生活を続けていれば、自分もその一人になってしまうんじゃないのかという不安に、あっさりと崩されてしまった。


 図書館から部屋に戻ったのは七時を少し過ぎた頃であった。夜食の準備でも始めようかと、台所の冷蔵庫を覗く。優は今夜飲み会で遅くなるから俺一人だ。朝、優は友達と飲んでくるから遅くなると言っていた。飲み会で遅くなるなんていうのは別に珍しいことじゃないのに、その発言がいつもと何かが違う気がした。優は、飲み会に行く時は、大抵誰と飲むとか、どこで飲むとか言うことをさりげなく俺に話す。今日に限ってそれがなかった。言いたくない理由でもあるんじゃないか? 例えば合コンに行ってるとか、誰か気になってる男ができたとか…… 心に嫉妬の炎が灯りかける。しかしその寸前で、こんな俺では仕方ないという思いが言葉になるよりも早く沸き起こる。そして、それは心に一陣の凍てついた旋風となって、灯りかけた嫉妬の炎を瞬時に消し去ってしまった。

今日見せた優の寂しげな表情は、きっと俺に対する気持ちが冷めていく自分自身に向けられていたのだろう。優は昔からもてた。大学の時、何度告白されたと言われたか分からない。俺が思っている以上に優は魅力的なのだ。彼氏の俺が言うのもなんだがきれいだ。その上かわいらしい要素まで持ち合わせている。それなのに優は特別容姿だけで特をしているタイプではない。性格も良い。ノリも良い上にしゃべるとユーモアもある。俺は途端に俺が優と釣り合いがとれていないことに気づいた。俺は別に容姿が特別悪いわけじゃない。むしろ良い部類に入ると思ってるし、実際そう言われることの方が多い。容姿だけ見れば、多分優との釣り合いは取れていると思う。けれど、今の俺の生活は正直情けないとしか言いようがない。男の魅力は外面よりも内面が重んじられる。夢だけ見て、社会的な責任も果たせていない俺なんかは、そういった意味では魅力のかけらもない。

そう考えていると、優がすでに他に好きな男がいるような気がしてきた。きっと、近い未来にふられるだろうな。俺は夕食を作る気力もすっかりなくして、冷蔵庫からビールを取り出して一気に飲み干した。そして、仰向けでソファに勢いよく倒れこむ。俺は目にかかる髪の毛をかきあげ、両手を結んで額の上においた。

「こんなんじゃ、ほんとしょうがないよな」


「ただいまー」

 帰ってきた優が陽気な声で言った。

TVの上の時計が十一時を指している。

「あぁ、お帰り」

俺は無理に優の方を見ないように、さっきつけたばかりのTVから視線をそらさずに言った。

「あーぁ、やっぱり結構遅くなっちゃったかー」

そう言って俺の隣に腰掛ける。俺が横目でちらりと優を見ると、ほんのりと酒気を帯びた優のうっすらと赤くなった頬が目に映った。

「なんか、久しぶりにお酒多めに飲んだけどすっごく弱くなってた。三杯で完全に出来上がっちゃった」

俺は視線をTVに向けたまま凍りついたように無反応を装った。優はかばんの中から会社の書類を取り出し、書類をテーブルの上に起いた。

一瞬だけ時が止まった。十一時を過ぎているとはいえ、夜は蒸し暑い。一日中外にいたのであれば、やはり汗の匂いもするものだ。女はそれを気にして夏場は香水を少し多めに使う。夏場は温度が高いので当然気化しやすく、香水の香りが強くなる。肩が触れそうな距離、その香水の香りがはっきりと伝わる。しかし、それはタバコのヤニの臭いまでは完全に消し去ることはできなかった。俺は、優が男と会っていたことを確信した。何故なら、優の女友達は誰もたばこを吸わないからだ。友達と会ってくるっていうのは嘘だったのかな、と俺は思った。実際は、優にも男友達はたくさんいるのだが、俺と付き合っている間に優が男友達とだけ飲みに行くということはなかった。それでも、男女一緒に会った可能性もあるのだが、そういう時こそ必ず報告してくれた。俺は心で一つため息をした。問いただすことだってできるだろうが、今の俺にはそれができなかった。それでも、俺は自分の考えが正しいということを確信していた。

「あー、汗かいたからシャワーあびてくるね」

まるで、タバコの匂いに気付いた俺にはっとしたように優は言った。そしてすぐに立ち上がり、洋服ダンスから寝巻きをだした。寝巻きを片手に持って、浴室へ行くと思った優がまたソファに腰掛けた。俺はすぐ側で優の視線を感じたが、あえてそれに目を合わせなかった。すると、ほんの数瞬して、優は何も言わずに立ち上がって浴室へ行ってしまった。俺は、それの意味がまるで分からず、不愉快な気分にさえなったが、それを後で問いただす気にもならなかった。





唐沢と飲みに行ってから一ヶ月が過ぎていた。夏も本番を迎え、連日の真夏日と連夜の熱帯夜に誰もがへたばっていた。大地でさえ、こう猛暑が続くとへたっているように思える。こんな中で元気なのは、蝉ぐらいであろう。

この一ヶ月も、俺にとっては半年前と何も変らないひきこもり生活を続けていた。ただ、微妙にだが変化があった。優がお盆休みであったことと、唐沢と以前のメンバーで、二週間前に一度ファミレスで会ったことがそれだ。結局、俺の生活環境や精神面での変化は何一つないのだが、俺は唐沢達に会うのを想像以上に楽しみにするようになっていた。いや、正確には三木本さんと会うことを楽しみにしていた。三木本さんにファミレスで、俺が以前書きあげたファンタジー小説を渡した時、それをすごく嬉しそうに受け取り、大事そうにカバンにしまってくれた。何か、自分の作品が大事に扱われているのが嬉しかった。先日メールで感想をくれたときも、とても楽しかったです! とあって、俺の自尊心を満たした。小説が入賞できなくとも、こうして誰かに喜んでもらえるだけで幸せなのだな、と改めて実感できた。俺はそうやって自分の小説を素直に誉めてくれる、三木本さんのような存在を必要としていたのだろう。

幸い、唐沢と香奈も以前に増して親しくなっていて、付き合ってると言われてもなんら不思議ではないといった雰囲気であった。初めは唐沢と香奈の恋の引き立て役を楽しもうと思っていたが、それも必要なさそうだ。人見知りだった三木本さんも、二度目とあって、ファミレスで会った時は随分と口数も多くなっていた。一度しゃべりだすと、わりとおしゃべりで、初対面の時の印象とずいぶん変わったものだ。

優のお盆休みは一週間あったが、その間俺達は特に何もしなかった。一週間のうちの四日は、優は高校や大学の友人と出かけたり実家に帰ったりしていた。しかし、そうすること自体は通常優が仕事している時でも、土日や祝日を利用してやっていることである。元々友人が多い優は、土日に友達と出かけることが多いのだ。俺はてっきりこのお盆休みは、友人達とどこかに旅行でも行くのかと思っていたが、それはなかった。そういうわけで、優にとっては休みが多いということ以外は日常と何に変わらないお盆休みだったのではないだろうか。二人でいる間はいつものようにテレビを見たり、DVDをレンタルしてきたり音楽を聴いたりして過ごした。二人の会話もそれに関連する内容がほとんどだったし、それ以外のことは、唐沢達のことを話した程度で、あまり話さなかった。まぁ、俺の生活にこれだけ変化がないのだし、仕方がない。ただ、一日だけ下北沢と渋谷に行って、雑貨屋や洋服を見て回った。それが、ここ半年の間に二人で行った一番遠い場所というのだから、正直驚きである。何故か優が、少し興奮気味だったのが印象的だった。そして、二人でくまのぬいぐるみを二つ買った。優が可愛いと言って一目惚れしたくまのぬいぐるみで、恥ずかしいが俺も気にいって、ついつい二つ買ってしまったのだ。色違いで、一つはオフホワイト、もう一つは黄土色のものである。オフホワイトのくまはパル、黄土色のくまはパールと命名されて、我が家の寝室に飾られることになった。

大学のころの俺と比べたら、なんてつまらない休みの過ごし方であろう。以前の俺だったらどうしただろう。休みの一週間を、優を喜ばせるためにどんな計画をたてただろう。目を閉じると、活力と自信に満ち溢れていたかつての俺が瞼に浮かんで見える。俺は本質的に人を喜ばせたり楽しませたりするのが好きな性格だ。世話焼きで、時に度が過ぎることもあったほどだ。大学の頃の俺は、積極的に優を喜ばせようとした。色んなところに二人で行った。雑誌で良さそうなデートスポットを探したり、バイトも多めに入れて優がびっくりするようなプレゼントを贈ったりした。昔の俺だったら、どうやって今年のお盆休みに優を驚かせただろうと考えた。

昔の俺だったら、おそらく花火に行っただろうと思う。花火と言うと、一見誰でも行くし、普通のデートスポットだが、俺達はこの三年間で一度も花火に行った事がないのだ。二人とも、あまり人ごみがあまり好きではなかったせいかもしれない。だからこそ、それを突然今年実行すれば優は驚くに違いない。二人で浴衣を着て。俺は以前デパートで見た、紺色の浴衣を着る。紺地に小さな星のような模様がちりばめられた浴衣で、見た瞬間気に入ってしまったものである。そして、えんじ色をした帯を貝の口で結ぶ。俺はけして派手な格好が好きではない。基本的には形と素材にこだわるので、どちらかというと地味な格好をすることのほうが多い。それは浴衣でも同じことだ。そして俺は優の浴衣も買っておく。優はどんな浴衣が似合うのだろうか。俺は優が似合いそうな浴衣をぼんやりとイメージした。優は俺の影響か、俺と同じように形と素材にこだわるところがある。どちらかというと地味な色合いが多いが、俺としてはやや派手にしたくらいが似合うのではないかと思っている。白地に、紅色や濃いピンクなどの花が描かれた浴衣が良いだろう。俺はそれを事前に購入して、優にばれないように唐沢の家に預ける。そして浴衣の着付けを独学でおぼえて、花火の当日に優に着せてあげるのだ。その時の着付けの練習に唐沢を使うことは言うまでもない。浴衣を着て、川辺を、手をつないで歩く。わざと、いつもより無口になって、ただ花火と夏と二人の微妙な調和を楽しむのだ。俺は加速する妄想を止めようとせず、そのままにした。

金色の大輪が夜空に咲く。鮮やかな華が咲いたほんの一瞬後で、大きな祝砲の音が夜気にびりびりと伝わっていく。そんな情景を背景に、妄想の中の俺は右手の親指、人差し指、中指の三本の指で優の左手の人差し指と中指をちょこっと握っていた。妄想に浸っていると、何か不思議な懐かしさにも似た感覚がよみがえる。俺にはそれが遠い昔の実際の出来事のように思えた。妄想から覚めると、そこには現実のみじめな自分が醜態をさらしていた。何もするわけでなく、一日中家にいるだけの男だ。

ふられるのも時間の問題だよな。俺は、ソファに横向きになって、出窓から覗くどこまでも続く空の彼方を望みながら、大きなため息をついてうなだれた。無力な自分に落胆していると、テーブルの上に置いてある携帯電話のメールの着信音が鳴った。三木本さんからである。

『こんにちは、今日も暑くてやられてます。もしよかったら、今度買い物一緒しませんか?』

俺はソファに腰掛けてメールを読んだ。そしてこのメールの内容が、四人で行くということなのか、それとも俺と個人的に二人で行くということなのかで悩んだ。もしも前者であれば快く良いよと言えるが、二人で、となるとデートということになる。ふと思い出すと、俺は三木本さんに、俺には彼女がいて同棲しているという話をしたことがない。それを知らないで俺を誘っているのだとしたら、俺は当然断るべきなんだと思う。

優は他の男と会ってるんだよな…… 俺は、あの日優の服にしみついていたタバコの匂いを思い出した。なんとも言えない虚しさがこみ上げてくる。そして、優だって男と会ってるんだし気にすることないか、と優に仕返しをしてやりたい気持ちになった。

『うん、良いよ。いつ? 場所は?』

メールを送信して、ほんの数分で返信のメールが届いた。

『突然でごめんなさい。無理だったら、無理って言って下さい』という内容の後に、日にちと場所が書かれていた。

「ん? 明日じゃん」

思わず声に出していた。

俺は三木本さんに行けるということを告げると、ソファに仰向けになって横たわった。左腕を曲げて手の甲を額の上に乗せる。大きなため息をひとつつくと、ほんの数秒間だけ頭が空白になる。思考が停止すると、自分の呼吸や心臓の鼓動に注意が向く。ゆっくりと心音に注意を向けていると、呼吸がさらにゆったりとしていく。落ち着いた気持ちで、三木本さんとの約束の場所と時間を思い出す。渋谷の駅前、八月二十日、三時だったよな。ついたら連絡するって言ってたっけ……


時計の針が十一時を過ぎてからさらに十分が過ぎた。今日も熱帯夜になりそうだな。そんなことを考えながらベランダのガラス窓を閉めて、エアコンのスイッチを入れた。俺はソファに腰掛けるがじっとしていられず、そわそわと辺りを見回したり机の上のコーヒーを口に運んだりした。いつもの、この時間帯に必ずあるはずのものが欠落している。俺はそれが何かを思い出さないように、忙しそうに装っているのだ。TVの電源を入れては、わけもなくチャンネルを回し、すぐに電源を切る。このような動作も、もうすでに三回は繰り返されている。立ち上がって台所の周りをふらついたり、レンジ周りの小さな汚れを神経質に拭いたりもした。そのようにして過ぎる時間のあまりの遅さに苛立ちを覚えながら、俺は不愉快にソファの上で仰向けになった。十一時も半ばを過ぎたころ、ドアの鍵穴に鍵が潜り込むとき時の金属音が聞こえてきた。ガチャ、という硬い音がしてドアが開く。俺は、今までの、落ち着きなく動き回っていたことを隠すように、寝たふりをした。

「ただいまー」

元気よく部屋に入ってくる優に、俺は無言を返す。

「あれ? 寝てたかな?」

優が一言もらす。俺は、極力優を意識しないようにしているのに、それとは正反対に五感は研ぎ澄まされ、靴を脱いで部屋に上がる優の足音の一歩でさえも大音量で聞こえた。優は、俺が眠っていると勘違いしてか、忍び足になった。そして、俺が横になっているソファを通り過ぎ、寝室へと入った。

鼻腔に、微かにタバコの匂いがした。それを嗅ぎ分けた瞬間、俺の理性の半分は吹っ飛んでいた。

「どこ、行ってたの?」

口がひとりでに動いていた。俺はその自分の発言をなかったことにしようとしたが、一度口から出た言葉が戻ることなどない。

「あれ? 起きてたの? ちょっと、友達と飲んできた」

「そっか……」

そして会話は途絶えた。簡潔な会話。お互いに対する興味をまったく失ってしまった、まるで倦怠期の夫婦さながらの状態である。俺は言葉が消えてからの数秒の空白の時間、かすかに優が動揺するのを感じた。それが何を根拠にしているのか自分でもよく分からなかった。しかし、さっきの、たばこの微妙な匂いを嗅ぎつけた嗅覚といい、妙にとぎ澄まされた聴覚が優のわずかな動作が立てるどんな些細な音も漏らすことなく聞き分ける。服ずれの音、ハンドバッグを畳の上に少し乱暴に落とす音、それらが普段の優とは何かが違うと俺は直感した。俺はタバコの匂いと優の動揺の原因を想像した。すると、自分がさっきからずっと考えないように、と避け続けてきた言葉が思い浮かんだ。

男と会ってたんだろうな。俺は突然耳鳴りのように響いた心の声から逃れられることもできず、自分と直面するはめになった。まるで、密告者のように俺に告げ口した自分が、勝ち誇ったように卑屈な笑みを浮かべていた。その密告者が、反論する力さえなくうなだれる俺の耳元でささやく。お前は飽きられたんだよ。自分の状況を考えたら分かるだろう? それは、心の最も深い部分にまでに届く音色だった。

シャワーを浴びると言って浴室に行った優の鼻歌が聴こえる。それが聴こえる間、俺は悔し涙さえ流せず、ただ、自分の無力さに打ちひしがれていた。けれども、ふと、まるで復讐をするかのようにして、俺は優の浮気の証拠を調べようと思った。その方法はいたって簡単なもので、ただ優の携帯を調べれば良い。そう思った俺は、昔、人のプライバシーを覗くような人間は最悪だと言った自分の言葉を反芻しながら、寝室に優が置いたはずのハンドバッグを見つけるためにそこへ入った。それは優のたたまれた布団の上にあった。心臓が破れそうなほど、鼓動が速くなる。俺は、浴室のシャワーの音に細心の注意を払いながら、ハンドバッグの中をこっそりと覗いた。携帯はその中で俺を待ちかねていた。

『今夜約束忘れんなよー』

優の携帯メールの、一番新しい受信メッセージである。八月十九日、午後八時十分、つまりつい三時間前のことだ。その送り主の岡田とは、文体から見てどう考えても男であろう。飲んできたってことは、つまりこの男とっていうことだ。俺は、ため息を一つして、携帯を元に戻し、ソファに戻った。そして、プライドと引き換えにして掴んだ情報に涙のひとつも浮かべることができないでいた。


俺が渋谷に着いたのは、約束の時間から二十分前のことである。俺は待ち合わせ場所の、大きなケヤキのすぐ側にあるベンチに座った。今日も暑さが尋常じゃない。行き交う人々不機嫌に見えたのはそのせいだろう。約束まで十分以上時間が空いていたので、俺は暇をつぶす意味も含めて、三木本さんに待ち合わせ場所に着いたというメールを送った。そして、その後は雑踏を眺めていた。俺はそこで行きかう人々を見ながら、渋谷は不思議な街だと思った。そもそも、単一民族の国家で人々が同じ格好をしていたら個人差なんて本当につきづらい。街を一斉に、同じような格好で、同じような体格の人間が歩き回っていたら軍隊かなにかのように思えてしまう。ところがここでは、人々は様々な服装やヘアースタイルをしている。TVでニューヨーカーを見ていると、個人差が単純に人種の差のように思える。肌の色や髪の色が違うから、それがそのまま個性に映るが、いざ同じ人種だけでまとめたら、渋谷の人々ほど個性的な格好をしているとは思えない。おそらく、人種がさまざまあって、個人差が、肌、髪、体格などで表れるアメリカのような国では、いちいち服装や髪型で個人差を主張する必要性なんてないのであろう。日本人は単一民族であるが故の外見的な類似性を、服装の違いによって変化をつけ、個性化させているのではないだろうか。俺はそのようなことを、太ったゴスロリの格好をした少女を見ながら考えていた。視界から完全に消えるまで彼女を目で追っていた。

ふと、俺の前で誰かが立ち止まる気配を感じた。三木本さんである。

「東海林さん早いー」

三木本さんは俺に満面の笑みを浮かべて言った。

「よっ、三木本さんも早いじゃん」

俺は右手を軽く上げて言った。

「私、待ち合わせすると結構早いんだけど、東海林さん早すぎ! 約束の時間まで十分あるよ?」

「あぁ、俺待ち合わせ結構早いんだ」

「そうなんですか?」

「うん、なんか癖でね。唐沢のときは絶対遅れるんだけどさ」

「あはは、友達じゃないですかー」

「はは、だからかもね」

俺は三木本さんのしゃべり方が、敬語と普通のしゃべり方とが混ざっているのが内心面白かった。以前ファミレスで会った時、敬語じゃなくてもいいからと言って以降、敬語と普通のしゃべり方が混ざっている。三木本さんによれば、目上の人にはどうしても敬語を使いたくなってしまうらしい。

「それで、今日はどうしたん?」

 俺は三木本さんをベンチの隣に座るように手で合図を送った。三木本さんが、俺の横に座る。

「えっと、来週友達の誕生日なんです。男の子の友達だから、何が良いのかなって思って。こういうのって、女の子に聞くより男の子に聞くほうが良いじゃないですか。それで、東海林さんおしゃれだしって思って……」

 三木本さんは少しうつむきざまに言った。俺は三木本さんを深く知っているわけではないが、おそらく自分から男を軽々しく誘うタイプではないと思う。その彼女がこうして俺と二人で会おうというのは、俺をデートに誘うのが目的だったと考えてよいだろう。そう考えていると、彼女の微妙な仕草が意味を帯びてくる。

「そっか…… そういうのだったら俺に任せてよ」

「ほんとですか? ありがとうございます。なんか、気がついたら忙しい日が続いてて、今日くらいしか時間とれなかったんだ。急だったし、断られるかな? って思った」

 三木本さんの笑顔が零れ落ちる。

「いいよいいよ。俺もたまには外に出て気分転換したほうが良いし」

そう言いながら、いかにも自分も普段は忙しいような言い方をした自分自身に嫌悪した。

「ありがとうございます。そういえば、東海林さん、さっきずーっとあっちの方見てましたよね」

「あぁ、あれね…… なんか、ゴス系の太った子がいてさ。あれはどうだろうって思ってさ」

「あはは、なんか、すっごい見まくってましたよ」

「えー? マジで? けど、あれは普通見ちゃうって」

俺は笑い顔の三木本さんが可愛く思えた。そういえば、今まで会っても、顔や表情をこれと言って注意深く見ようとしたことはなかった。今、こうしてよく見ると、けして美人ではないし、すごく可愛い女の子というわけでもないが、素直で純粋な女の子に見える。いや、彼女は実際純粋だと思う。俺の小説を嬉しそうに受け取った時の仕草や、その後しっかりと感想を送ってくれたことなど、演技でできることではない。きっと、彼女のようなタイプは、男が守ってあげたくなるタイプだと思う。

俺のこと好きなのかな? 俺は自分の胸の鼓動が早くなるのを感じた。こんな感覚は久しぶりだった。俺はそんなことを思いながら、三木本さんに、暑いし喫茶店で何を買うか相談しようと言った。

渋谷の駅から歩いて五分くらい離れたところにおいしいデザートの店がある。俺はそこでチョコレートとバナナのアイスクリームを頼んだ。三木本さんはイチゴのミルフィーユである。

「東海林さんって、結構甘党なんですね。まさか、この店に来るとは思いませんでした」

「え? そうかなー。最近の男って結構甘いもん食うよ。ほら、唐沢もめっちゃ甘党だし」

「えー! 唐沢さん甘党なんですか!?」

俺は三木本さんの驚きかた、逆に少しだけ驚いた。

あいつも、相当自分を隠してるんだろうな…… そんなことを思っていると、「唐沢さんってすっごく男っぽいとこあるから、てっきり甘いものとか食べないのかと思った……」と三木本さんが続けた。

唐沢が男っぽいだって? 俺は唐沢の高校時代を思い出して、三木本さんの中の唐沢とのギャップに苦笑してしまった。唐沢と三木本さんの関係は、俺と三木本さんとの関係に毛が生えた程度であるらしい。俺が三木本さんに最初に下北沢で会った時、三木本さんと唐沢も会ってまだ三度目だったそうだ。

「そっか、あいつ男っぽいかー。唐沢がねー」

俺は面白くて思わずにやけていた。

「えー、違うんですか?」

「とりあえず内緒だけどさ。あいつ、高校時代好きな子に振られてさ。その日休日だったんだけど、うちに来たんだわ。それで、これからデザート食べ放題の店行くぞ! って言い出してさ」

「えー、そんなことあったんですか? 意外だな」

「だろ? ふられてデザート食いまくるとか、女みたいじゃん」

「ですよねー」

「で、そのままチョコパ食いすぎてさ。トイレの住人になってんの。超恥ずかしかったよ。んで、なんかトイレからふらふらになって出てきて、一言、俺、ふられちゃった…… なんか、トイレで泣いてたらしくて、目真っ赤にしててさ」

「あはははは、唐沢さん可愛いー!」

「あいつが男っぽく見せてんのって演技だから」

「へー、なんかすごいこと聞いちゃった」

そして、学校のことやプレゼントの話をしていると、注文したチョコレートとバナナのアイスクリームとイチゴのミルフィーユをウェイトレスが運んできた。

プレゼントを贈る友達は三木本さんと同い年の男の子で、サッカー部に入っているということだった。三木本さんと彼の関係を先に聞いておいたが、どうやら本当に友達でしかないという。それを聞いて内心ほっとしている俺がいた。


2~3千円では服は買えない。また、サッカーボールが必要なわけもないし。タオルか何かで良いという意見も出たが、それでは500円で済んでしまう。アクセサリーとかは勘違いされそうだし、趣味が分からないと難しい。いざ相談してみると、男への誕生日プレゼントというのはなかなか難しいものだと実感した。世の女達は、男にプレゼントするとき、きっと男が女にプレゼントを買うより何倍も、何を買ったら良いのか分からなくて悩むのだろうなと思った。ふと、優もそうだったのだろうかと思った。優の、俺への最初のプレゼントは万年筆だった。もう三年も前の話だが。やはり、悩んだんだろうか? 

話し合った結果、2~3千円以内で買えるものでサッカーに関係しそうなものが良いのではないかということでまとまった。あーでもない、こーでもないと話をしているうちに、誰か有名なサッカー選手のビデオか、サッカーの名勝負のビデオみたいのが良いんじゃないのかと俺が意見し、三木本さんはそれに同意した。

三十分ほど店で話をした後、その喫茶店に面した道路を渡った先にあるスポーツ用品店へ向かった。俺はスポーツに関してはあまり詳しくないのだが、三木本さんは何も知らないと言っていいくらいだ。そうなると、手っ取り早く店員に聞いた方がよい。俺は店員に、サッカーのビデオがないかたずねた。有名な選手のビデオがあることを確認し、どれが良いのかなんて俺にもわからなかったので、そのまま店員にお勧めを聞いて、それで良いかと三木本さんに確認した。三木本さんが「それでいいよ」と言ったので、そのままなんの障害もなくすんなりと買い物は済んでしまった。レジで支払いをするために、三木本さんが俺の前にすっと出た時、今まで彼女がずっと俺の後ろにいたことに気づいた。そんな自分を、まだまだマナーができてないなと叱っていると、ふと優と三木本さんが重なって見えた。優も歩くときは大抵俺の後ろにいる。手をつないだり、腕を組んでいたりすれば隣にいるのだが、そうでないと気がつくと俺の後ろにいる。俺の歩きが速いせいである。もともと歩くのが速いせいもあってか、どうしても、無意識に歩測が速くなってしまうのだ。そんな時はいつも、俺は後ろを向きながら、優に手を差し伸べた。その手は、優が少し冷え性なせいで、夏こそ少し冷たいくらいだが、冬だと氷のように冷たい。俺は夏だと普通に手を繋いだが、冬は自分のポケットに繋いだ手を一緒に入れて暖めたりした。

ほんの一瞬だけ、言葉にはならない懐かしい想いがよぎった。

 支払いを終え、手提げカバンにビデオをしまって三木本さんが俺の方に近づいてくる。三木本さんと優では、その見た目からしても何もかもが似ていないはずなのに、三木本さんの動作が、何故か優と重なって見えて戸惑った。

「終わりました。今日はホントにありがとうございます。なんか、良い感じの物買えた気がします。まさか、ビデオを買おうとは思わなかったし」

「あ、あぁ…… いいよ、そんなん」

そう話しかけられて、俺は一人どぎまぎし、三木本さんから視線をそらしながら小声になった。

「そうだ、良かったら、夕食一緒しようよ。忙しい?」

 俺は自分の中の何かをごまかすようにして、思わず食事を誘っていた。

「え!? そんなことないですよ! 東海林さんこそ……」

 そう言って、三木本さんは少しだけうつむいた。

「俺はぜんぜん平気だよ」

 優に仕返しをしているような気がした。三木本さんは俺を好きに違いない。そのことは、今日一日の三木本さんの態度で十分理解できる。このまま二人の時間を過ごせば、彼女はますます俺を好きになるだろう。そうやって、俺も他の人から好かれているんだと思うことで、優との関係を対等に保とうとしている自分がいた。しかし、実際はそれだけでなかった。今の俺にとっては、三木本さんが俺に向ける好意や関心が俺の生きる意味のようにさえ思える。俺はあまりに長い間自分を否定しすぎていて、肯定されることへの耐性が失われているのかもしれない。けれども、そう思うのは俺が三木本さんを少しずつ好きになりはじめているのかもしれない。今は、それがどっちなのか分からなかった。ただ、自分を誉めてくれる彼女を求めているようにも思えるし、好きになりかけているようにも思えた。

 クーラーが利いていた店を出ると、照りつけるような陽射しを予想していたが、さっきよりは幾分か和らいでいた。

「なんか、ちょっと涼しくなったね」

 俺はさっきよりも三木本さんを意識して見ていた。

「ほんと、さっきより少しはましですよね」

 そう言って、三木本さんが俺を見上げる。二人の視線があって、はっとしたように二人とも視線をそらしていた。

「やっぱ暑いね。そこのデパートでもいこっか!」

 俺は通りの先にあるデパートを指差して言った。妙に緊張している自分がいる。俺は、何故か初めてのデートでもしているようで、そんな自分が滑稽で笑ってしまいそうだった。





「それにしても暑いな」

俺がつぶやいたのは、九月二日の夕方のことである。その日は九月に入ったばかりということもあり、八月となんら変わらない残暑の厳しい日だった。そんな中、俺は唐沢達と会う約束をしていたので、下北沢の駅の改札の辺りで立っていた。そして俺は、もう二度と待ち合わせに早く来ないぞ、とイライラしながら辺りを見回していた。夏と冬の待ち合わせは、新宿の地下街にでもしてもらいたい。新宿は歌舞伎町や、よっぽど外れの方にでも行かない限り地下で移動ができる。夏は冷房が効いていて、冬は暖房が効いていることもあって、気候が厳しい季節は新宿に行くことが多くなる。そもそも、なぜ下北沢で待ち合わせなのだろうか。ファミレスもないし、小さくて一風変わった店が多いところには惹かれるが、みんなで集まってしゃべったりするには向いている町とは言えない。

あと二十分以上あるし…… 俺は携帯で時刻を確認した。今日は何故かいつもよりも焦って、早く家を出てしまった。そんな自分に後悔しながら、暑さを避けためにゲームセンターにでも行こうかと考えていた。

「あ、東海林さん」

後ろから呼ばれたので振り返ると、三木本さんがいた。

「おっす」

俺は、後ろを振り向きながら軽く右手を上げた。

「ほんと、早いですよね。今日こそ東海林さんより早く来ようと思ったのに」

「そうかな、三木本さんも早いじゃん」

ふと気づくと、鼓動が高鳴っていた。俺はこれを期待して今日早く来たのかもしれない。いつもより焦って早く家を出た自分の行動の意味づけができた気がした。彼女の服装を見ると、今日の三木元さんはいつになく可愛らしい格好をしていた。黄色のヘンリーネックのカットソー、白のプリーツのスカート、そして、スカートと同じ色のミュールは3cmくらいのヒールのものである。首元のハート型のネックレスも、女の子らしくて可愛いらしい。そして、俺は三木本さんの化粧が、以前よりほんの少しだけ濃くなっていることに気づいた。今まで俺が意識して見ていなかっただけなのかもしれないが、ピンクのリップグロスは今日が初めてである。俺に会うことを期待して、おしゃれな格好にしたのだろうか。そう考えた後で俺は、今までは汗で化粧崩れしやすかったんだろう、とうぬぼれそうな自分を蹴飛ばしてやった。

「そういえば、ミュールって初めてだよね。いつもスニーカーじゃない?」

「え!? そうでした?」

「うんうん、なんか珍しいなーって思った」

 そう言うと、三木本さんははにかんでそわそわしていた。

「最近、ちょっとだけいつもと服装変えてみようと思って。バーゲンで結構安かったし…… 分かりました?」

 そういえば、以前渋谷で三木本さんとデパートに寄った時に、色々と三木本さんに似合いそうな色や服を勧めた。その時の俺は妙に気分が高揚していて、うんちくをたれるようにファッションについて語ってしまった。今日の三木本さん服装を見ると、その時に俺が勧めたものによく似ている。

「いつもはジーンズ、スニーカー、Tシャツとかだったしさ……」

「そういえば、いつもその格好だったかも……」

頬を少し赤らめながら視線をそらす三木本さんを、俺は素直に可愛いと思った。

「いまの方が、かわいいよ……」

 何故か、俺はこういう台詞を棒読みに言ってしまう癖がある。そんな自分に、思わず赤面してしまった。こういう時はさりげなく誉めてあげたいのに、どうしてもうまくいかない自分が歯がゆかった。俺は三木本さんの反応がないのが気になって、そっと表情を見ようとしたが、視線が合ってしまいそうな不安で、どうしてもできなかった。こういう自分は、本当にかっこわるくて情けなくなる。

全身が熱くなる。けれども、それがまるで不快ではいのが不思議だった。

「ここじゃ暑いし、下のゲーセンで待ってない?」

俺は雰囲気が気まずくなったのと、さっき涼みに行こうと思っていたこともあって、そう三木本さんに提案してみた。三木本さんは唐沢と香奈とすれ違いになることを心配していたが、メールを送れば大丈夫だと言って説得した。

俺はゲームセンターで、三木本さんにプリクラを撮ろうと誘った。三木本さんは時間を気にしながらも同意して、二人でプリクラを撮った。女というのは、男に比べると断然写真を撮られ慣れていると思う。男は何故か葬式の写真のように無表情か、キメすぎて浮いているかのどっちかだ。女の表情のほうが自然だと思う。俺はプリントアウトされたプリクラの、二人の表情を見比べながらそんなことを思っていた。そして、プリクラをはさみで切って、三木本さんがそれを丁寧に手帳の間に挟んだときに、携帯メールの着信音がなった。

唐沢からである。

メールには『今着いた』と書かれてあり、それを見て俺と三木本さんは駅の改札に向かい、改札を出たすぐのところで唐沢と合流した。

俺は唐沢があからさまに不似合いなストリート系のファッションをしているのをからかうと、唐沢は少しふてくされた顔をした。そして、大学の話題を三木本さんにしながら、あっさりと服装の話題をそらした。俺達はさらに十分程待たされた。唐沢が香奈に携帯でメールを送ろうとしたときに、俺は自動改札機の方向に近づいてくる香奈を見つけた。暑さに参っていた俺は内心苛立っていたが、隣の唐沢は、遅れても来ていただければ満足です! といった雰囲気であった。三木本さんは小さく「香奈、大抵時間に遅れるんです」とすまなそうな顔をしながら言った。

「ごめんね! 用意に時間かかっちゃって!」

香奈が以前と同様に、まるで悪ぶれた様子もなく言った。

「良いよ良いよ、暑いし仕方ないよ」

唐沢がわけの分からない返答をする。俺は思わず、それ意味わかんねーし! と突っ込みたかったが、黙っていることにした。それに、こんな風なフォローをいれる唐沢が妙にかわいらしく思えた。それから俺たちは、暑さから逃げるようにしてカラオケに行くことにした。


カラオケでは、L字型に並んだソファに、奥から三木本さん、香奈、その隣に唐沢、そしてドアのすぐ側に俺が腰掛けた。

カラオケに行くと、真っ先に歌本を広げる人、まずはまったりする人、携帯チェックする人がいる。まぁ、歌いたい人がさっさと歌えば良いのだが、俺はカラオケで最初に歌わないようにしている。かといって、カラオケで最後まで歌わないのも微妙だ。できれば、三番目くらいに歌うのが良いと思っている。最初に歌うと、いかにも歌うのが好きなのが見え見えで嫌だし、最後まで歌わないのも遠慮しすぎているようで気に入らない。まぁ、そんな風に思っている俺は、正直気にしすぎだというのはよく分かっているのだが、自分が思う以上に周りに合わせる性格なのだと思う。唐沢はそういうことをまったく気にかけないで、我先にと選曲をする男だった。昔から、カラオケに行くとまっさきに歌いだすのは大抵唐沢だった。けして歌が下手ではないし、アップテンポでのりの良い歌を好んで歌うこともあって、唐沢はカラオケでも人気だったと思う。それに比べると俺は周りの雰囲気に合わせて歌う方だ。一人だけ周りと別の調子の歌を選曲することはほとんどない。音域の幅は広いほうだし、あまり歌えない歌もないので幅広くなんでも歌える。まぁ、それでもどちらかというとバラードに偏りがちなところがある。

今回も案の定唐沢が最初にマイクを握った。唐沢はアップテンポな、流行のROCKを熱唱する。俺は内心、一曲目からよくやるよと思いながら、久しぶりに唐沢の歌を聴いていた。唐沢は歌に集中しているせいか、よく目を閉じて歌う。そして、歌詞を間違えるのだが、俺はそれがおかしくて好きだ。とりあえず他の二人が選曲に戸惑っているので、俺は二番目に歌うことにした。数年前に結構流行ったJPOPである。

「東海林さん超うまくない?」

 香奈が三木本さんに言っているのを聞き逃さなかった。自分のことを話題にされていると、こんなカラオケで大音量で歌っていても聞き取れるのだから不思議なものだ。そして、誰だって誉められれば嬉しいものである。俺もその一人であって、聞こえていないふりをしながらも、内心照れていた。

香奈はいかにも歌い慣れている感じだった。それに比べると三木本さんは、最初は恥ずかしそうで、音程も少しはずしていたが、二曲目三曲目と徐々にペースがよくなっていくのを感じる。作曲をしていることもあって、絶対音感があるのだろう。緊張していなければ、この中で一番上手いだろうなと俺は思った。


カラオケに行った後、俺たちは最初に四人で会った飲み屋に行った。

「それにしても、東海林さん歌超うまいね!」

香奈が席につくなりさっきのカラオケのことを話題にだしてきた。

「いやー、そんなことないよ。香奈だってすっごい上手いよ。マジで」

 俺は照れながらもとりあえずは否定して、そのまま香奈の歌を誉めた。

「えー、そんなことないって!」

香奈は顔を赤らめながら手を横に振って見せたが、まんざらでもないという表情であった。そんな香奈の表情を、唐沢はまるで娘が誉められた父親のように嬉しそうな表情で見守っていた。

「うんうん、俺も香奈ちゃんの歌上手いと思うよ」

唐沢が何度も相槌をうつ。

「えー、唐沢さんって、自分の歌以外聴いてなさそー」

 香奈がいぶかしげに唐沢に視線を送る。

「なんでだよ! 俺はナルかよ!」

唐沢は笑いながら自分を指差して言った。

「違ったっけ?」

香奈にあっさり返されて、唐沢は一瞬考え込むような表情を見せた。

「あ、そうかも。やばい、だんだん自分が素敵に思えてきたぞ」

「あ、やっぱそうなんだー」

「って、冗談だよ!」

香奈に突っ込まれて、思わずまじめに返す唐沢に俺は思わず笑ってしまった。好かれたくて真剣なのだなというのが伝わってくる。

「そういえば、みきちゃんも上手いよね。さすが作曲やってるだけあるよ」

唐沢が話題をそらすように、さりげなく三木本さんを誉めた。

「え、そんなことないって! ほんとに!」

三木本さんは、それを首と手を大きく横に振りながら否定した。俺はそんな三木本さんの仕草がかわいいなと思った。

「けど、最初声裏返ってたねー」

唐沢が三木本さんの些細なミスを笑いながら指摘する。唐沢らしい、上げて落とすという会話の手法の一つだ。

「もー、それ言わないで下さいよー」

三木本さんはそのことは忘れてくれ、と言わんばかりに手をふってみせる。そんな三木本さんを見て、俺は三木本さんをネタにしようとしてる唐沢を、逆にからかってやろうと思った。

「何言ってんだよ、お前だって人のこといえねーだろう」

「え? そうだっけ?」

唐沢は首をかしげて言った。

「お前なんて、歌にはいりすぎててさ、歌詞見ないで歌うだろ? たまに歌詞間違えてるぞ」

「え!? マジ?」

唐沢は香奈達のほうをちらっと見ながら言った。

「えー、気づいてなかったの?」

香奈が即座に反応する。

「うーん…… てか、よくやるだろう?」

「お前だけだし!」

俺はボケる唐沢に突っ込みを入れた。唐沢は腕を組んで、考えこんでいるような表情をする。

「――けどよ、お前だって90年代のアイドル系歌うじゃん」

「言うなよ! てか、関係ねーし!」

俺は唐沢のこういうコント的な切り替えし方が好きだった。そして、こういう時の突っ込みは一段と気合が入る。

「あははは、東海林さんアイドル系歌うの!? ちょー似合わないんだけど!」

香奈が、お腹を抱えながら笑っている。

「そういうお前は、振り付けできるじゃねーか。俺はそこまでできねーし!」

「ははは、何をおかしなことを、この男は」

 唐沢が、すっとぼけながら言った。そんな俺と唐沢のやりとりを、香奈と三木本さんは笑いながら聞き入っていた。

「――お、ちょうど酒来た」

俺は酒が運ばれて来たのを利用して、話をはぐらかした。アイドル系を歌うこともあるが、それはあまり詮索されたくないというのが正直な気持ちでもあったし、話を一区切りするのにちょうどいいと思ったからだ。


四人で乾杯し、酒を飲みながら色々話をしていくうちに、俺は香奈と唐沢の二人の会話の邪魔にならないように三木本さんと話をはじめた。

「そういや、三木本さんってプリクラ撮られるの上手いよね」

 俺はさっき撮ったプリクラを財布から出して、それをテーブルに並べた。

「なんかそれだと、写真の方が可愛いみたいですよね」

 そう言われて、俺は失言をしたことに気づいた。

「いやいや、そういう意味じゃなくってさ!」

 焦りながら俺は弁明しようとする。

「良いですよー」

 三木本さんはちょっとふてくされたような顔をした。俺はそれが冗談で言ってるのは分かっていたが、ばつが悪い気がしてならなかった。

「あー、いつプリクラ撮ったんだよ」

唐沢が俺達の会話に入ってきた。

「ちょっと来るの早くてさ、暇だったからそこのゲーセンで撮ってきたんだわ」

 俺は唐沢に助けられたと思いながら答えた。

「どんだけ早く来てんだよ!」

 唐沢が笑いながら言う。

「えー、見せて見せて!」

 そう言うと香奈は、俺の手元にあるプリクラを手に取った。

「そうだ! 後で、四人で撮ろうよ」

 唐沢が言う。俺は、本当は二人で撮りたいんだろ? と思いながら「あぁ、いいじゃん」と言って唐沢に同調した。

「あ、そういえば……」

突然何かを思い出したように三木本さんが言う。俺は首をかしげながら「何?」と彼女の会話を促した。すると少しうつむいて考えこんでから、俺に頼みたいことがあると告げてきた。前回のプレゼントのこともあって、言い出しづらかったのだろう。

「なんでも言ってくれよ」

 俺はなるべく三木本さんが気にならないように、微笑ながら言った。

「もし良かったらだけど、作詞をしてもらいたいなって思って……」

「作詞……」

「って、やっぱり駄目ですよね……」

「いや、ぜんぜんそんなことないって! なんか、俺なんかで良いのかなって思って……」

「え、もちろんです!」

「そっか、どんな曲なの?」

俺は話しながら頭が少し朦朧としていた。そのせいで、一歩間違えてとんでもない爆弾発言をしてしまいそうで怖かった。

「えっと、曲だけはできてるんですけど、口で説明するのちょっと苦手なんで、良かったらCD聴いてもらえますか?」

「あぁ、いいよ……」

「みき曲できたんだ!?」

「うん、けど、できたの一昨日だよー」

「すごいじゃん! 聞かせてよー」

「えー、これから歌入れるし、できたらね」

「できたらねって、二ヶ月前にも同じこと言ったじゃん」

 三木本さんと香奈の会話が、どこか遠くの席の会話のように聞こえた。いや、実際はそれだけじゃなくて、何か、現実のものが全てどこか遠くに感じる。今俺が居る場所は、俺の空想の世界のような気がする。そして、空想の世界の外に現実の世界があって、二つは薄い膜で隔てられている。俺は空想の世界から、その膜越しに現実の世界を眺めているような感覚がした。

小説家を目指そうと思って、簡単に挫折してしまった自分から目を背けるようにして、ただ無為な時間をむさぼってきたこの一年間。その間、俺はずっと自分の内面の世界に閉じこもっていた。現実の世界では俺は必要とされていないという感覚が、俺をそこに追いやっていたのかもしれない。それが、三木本さんに作詞を頼まれたことで、まだ、必要とされている自分がこの現実の世界にも居るような気がしてきたのだ。しかし、徐々に不安がこみ上げてくる。俺なんかに作詞ができるのかよ? もしうけいれられなかったらどうしよう。最悪、それで嫌われるかもしれない。不安を象徴するような、悲観的な心の声である。そして、それとは別の軸で、俺を鼓舞する声がする。もう一度、0からやってみるチャンスかもしれない。今の俺だったら、ひょっとするといい物ができるかもしれないじゃないか。悲観的な声に、楽観的な声が重なって、頭がパニックになりそうだった。

「東海林さん? 大丈夫ですか?」

三木本さんが不安そうな顔で俺の顔を覗き込む。

「え? あぁ、大丈夫。いや、作詞ってのはやったことなかったからさ。どうだろうって思って……」

「そうなんですか、ほんと、もし時間がとれたらで全然良いんで!」

「あ、うん。大丈夫だよ。とりあえず家に帰ったら聴いてみるから、CDちょうだい」

 三木本さんは嬉しそうな顔で、CDを俺に手渡した。俺はそれが恐ろしいほど重い鉛の塊のようで、思わず腕が震えていた。


俺は家に帰る電車の中で、そのCDがどのような音楽なのか想像しては、どのような歌詞にするのかを考えていた。その音楽がPOPなのか、ROCKなのか、はたまたR&B、HIPHOP、テクノ、それとも違うのかと考え続けた。三木本さんの雰囲気から、あまりHIP-HOPやROCKは考えづらかったから、おそらくはPOPだろうと推測した。そして、ためしにPOPの歌詞を頭の中で作る。自分の記憶の貯蔵庫の中の、POPの膨大な情報が、作詞作りに大きな役割を果たしていた。とは言っても、POPにも色々な種類がある。バラード、アップテンポ、というのでも全然違うし、男性ボーカルか、女性ボーカルか、というのでもまったく異質なものになる。結局は想像するだけ無駄だなと冷静になろうとしても、湧き上がってくる創作意欲は衰えを見せなかった。結局、最寄りの駅に着いて改札を出るまで、歌詞作りは延々と続けられた。その間、自分が乗るべき電車に乗り、降りるべき駅で降り、切符を自動改札機に通し駅を出るという一連の動作は、ほとんど無意識で処理されていたようだ。

駅を出て周囲を見渡すと、ようやく思考以外の感覚が徐々に目覚めてはじめた。肌にじんわりとまとわりつく、夏の残り香のような夜気。すぐ裏の茂みで鳴く鈴虫。仰ぎ見る夜空には、月とごく僅かの星だけが瞬いている。俺が肌で感じている季節、耳にする虫の音、目に映る平凡な夜空、どれもつまらない日常の一部なはずなのに、何故か真新しくて、とても大切なもののように思えた。

気がつくと、先ほどまでの悲観と楽観の入り混じった吐き気のしそうな思考も、一つの思いにまとめられている。ただ、自分をもう一度試したい、という思いだ。そして、三木本さんを喜ばせたい、そのためにも優れたものをつくりたいと思った。


家に着く。時間は十一時を回っていた。家の電気がともっていることは、外から見て分かっていた。優、起きてるんだな、と俺は心の中で思った。今回は、前と違って、優にあらかじめ唐沢達に会ってくるから遅くなるというメールを送っておいた。俺は階段を上がってすぐ右手にある、重いドアのドアノブに鍵を差し込む。鍵を回すと、錠が冷たい金属の音を立て、開いたことを俺に告げる。ドアを開けると、涼やかな心地よい、クーラーによって程よく冷やされた空気と、TVの音が俺を出迎えた。

「ただいま」

「おー、お帰り。案外早かったね」

「そっか?」

俺はドアの鍵をかけ、部屋へ上がった。いつもの部屋なのだが、いつもと匂いが違う。柑橘系の香りがする。

「あれ? 新しいフレグランス買った?」

「ん、ちょっとね。ルームスプレイ買ってみたんだ。オレンジのやつ。あんまりすきじゃなかった?」

「そっか……」

俺は半分上の空で答えた。以前、優の服にしみついたたばこの臭いを思い出していたのだ。そして、フレグランスはその臭いを隠すためかな? と邪推した。浮気なんてするわけないだろう、と優を信じようとする自分。優の心はもう俺には向いてないんだ、と諦めを促す自分。二人の自分がぶつかり合う。けれども、そうしていると、いつもの劣等感にさいなまされている自分が目を覚ましそうになる。ついさっきまで、新たな力を取り戻しはじめてきた自分に、虚無感が津波となって襲いかかろうとする。

「今日さ、唐沢達と会ってきたんだけどさ」

俺は本能的に、それを避けるために優に話しかけていたが、本当はなるべく優と話をしたい気分ではなった。

「うんうん、どだったの? 唐沢君」

「唐沢、すっげー似合わないストリート系の格好しててさ。超笑った。似合わないって言ってやったけど、なかなか頑固な奴だからなー」

「はは、ほんとだよね」

優は黄色のキャミソールに、以前暑いからといってはさみでざっくりと切った部屋着用のデニムのパンツをはいて、ソファの上で胡坐をかいていた。ついさっきお風呂に入ったのだろう。髪の毛が生乾きの状態で、チョコレートブラウンの髪がほとんどど黒に見える。

「それで、唐沢君うまくいきそうなの?」

 優が視線を俺に向ける。俺はその視線を半ば無視して、寝室へ向かう。風呂に入るための寝巻きや下着を取りにいったのだ。

「うーん、どうだろ。結構話合ってるみたいだけど、このままだと良い友達で終わりそうかもなー。あいつ不器用だし」

「そっかー……」

俺はトランクス一枚になって、右手に寝巻きを抱えて寝室から出た。すると、俺の姿をじっと見つめている優に気づいた。

「なんだよ……」

半裸の状態で、あまりに直視されているので、俺はなんとなく気恥ずかしくなって、くぐもった声で言った。

「ん? なんでもないよ。うまくいくと良いね」

 そして、なんでもなかったように優は視線をTVに向けた。

「あぁ、そうだな……」

俺は何か話しをはぶらかされたように感じたが、そのことを深く追求することはしなかった。

「じゃ、ちょっとシャワー浴びてくるわ」

 俺は優の横を通り過ぎながら言った。

「はーい」

優は気のなさそうな返事をした。

蛇口を回すとシャワーヘッドから、シャー、という音をたてながら冷たい水が勢いよく出る。徐々に水温が上昇して、すぐに湯気を立ち込め始めた。俺は程よい暖かさになってから、シャワーを頭から浴びた。肌に居残っていた、汗が乾いてべたつく不快感が洗い流されていく。俺はそんな爽快感を全身で感じながら、三木本さんのことを思い出していた。

三木本さんは、なんで俺に作詞を頼んだんだろう? 俺は、三木本さんの作詞に自分が選ばれたことが信じられなかったのだ。初めは理由はいたって単純なものだと思っていた。たまたま、普段BGMを作っているのが、歌のある音楽を作った。そして、自分は作詞に自信がなくて誰かに頼もうと思っていたが、それを頼めるような人が俺以外にいなかった。だから俺に頼んだ。しかし、本当にそうなのだろうか? と疑問を抱く。もしかすると、俺がいかにも小説を書いて生計を立てているようなことを言ったから、過度に期待しているのかもしれない。もしそうだとしたら、俺は三木本さんを騙していることになる。騙しているような罪悪感を覚えつつも、俺はこのことがきっかけで自分が変われるかもしれない、という淡い期待を抱いていた。だからこそ、良いものを作らなければならないのだ。それが、今まで社会から不必要とされてきた俺にできるのかわからない。それでも、今は自分を試してみたかった。

俺はとりあえず作詞のことを考えるのをやめて、体を洗うことに専念することにした。淡いモモの香りのボディーソープは、優と俺のお気に入りで長年使っているものだ。ボディーソープをレーヨンの材質の垢すりに含ませ、泡を立たせる。以前、無駄に雑学の多い唐沢に正しいからだの洗い方を話されたことがあり、俺は半分無視していたが、何故か今、そのことを思い出しながら手の先から柔らかく円を描き、マッサージをするようにして体を洗っていた。それが、何か可笑しくて苦笑してしまった。

風呂場から上がり、ベージュのショートパンツに黒のタンクトップというラフな格好に着替えた。そして、ソファに座ってテレビを見ている優の隣に腰掛けた。

「そういえば、作曲家の女の子? 君と同じ名前の子も来てたの?」

 バスタオルで頭を乾かしてる俺に、優が話しかけてきた。

「ん…… あぁ、来てたよ」

「そっか」

沈黙がやけに重い。エアコンの音とテレビの音がやけに大きく聞こえた。TVのお笑い芸人のボケに、スタジオ内から笑いが起こる。その笑い声が、エアコンの涼風に混ざって、妙に乾いて聞こえた。肌は触れ合うほど近いのに、俺は、優との間に永遠程の距離を感じた。それは、すでに他の誰かを好きになっていて、俺に対して妙にクールに接している優と、隠す必要もないはずなのに、三木本さんのことを隠したい自分自身との間の距離であった。

もう駄目なんだろうな、俺らは。そして、優と冗談を言い合えていた頃を思いだしていた。

それから十分近くの時間が経過した頃、二人の沈黙に耐えかねて、泣き出すようにして俺の携帯メールの音が鳴り出した。三秒ほどして、俺は立ち上がった。寝室の携帯を開くと、差出人は『淳也』とあった。

『無理なお願いしてたらごめんなさい!』と書いてあった。

俺はすぐに返信しようかと考えたがやめて優の傍に戻った。優は両膝を両腕で抱える格好で、ソファの座面の前の方に座っていた。それに対して俺は、背もたれにもたれかかって両腕を組んでいる。さっきよりもさらに気まずさが増した気がする。ついさっきは重い程度だったはずの空気が、今では鉛のように感じる。優はすぐ隣にいて、今にも優の左腕と俺の右腕が触れんばかりだというのに、俺は限りなく近い距離のまま、絶対に触れないように努めていた。優もそれを望んでいるように思えて仕方がなかったからだ。

自分からそのメールについて話すべきなのだろうか。それとも、優からメールについて問われるまで待つべきなのだろうか。俺は本当に些細なことで悩んでいる自分が、あまりにも器の小さい男に思えて恥ずかしかった。

「さっき話してた三木本さんからメールだった」

 先に沈黙に耐えかねたのは俺の方だった。

「へー、なんだったの?」

「うん、今日はありがとうございますだって」

「そうなんだ。なんで?」

「作詞、頼まれてさ」

「へー、それで?」

「一応引き受けたんだ……」

 何か、優には自分の才能や、考え、全てが見透かされているように思えるときがある。優のしらっとした声が、なんとなく、あんたまだ小説家とか考えてるの? と俺を見下しているようにさえ思えた。

「そっか。がんばってね……」

ほんの一瞬、さっきまでと違って、優の声が俺を包み込むように優しく聞こえた。ソファに深く腰掛けている俺の視線からだと、ひざを抱えて座っている優の横顔が見えない。見えるのは優の背面ばかりで、背中と肩の曲線が何か頼りなげなに見えた。俺は優がどんな顔をしているのか気になったが、わざわざ顔を覗き込むのも変だと思った。頼りなのは、TVの画面で僅かに反射する優の姿だが、そこからでは、何も分からないと言ったほうがよいだろう。優は、どんな思いでいるのだろう。俺はそのことが気になってしかたなかった。

テレビ番組が終わると「明日あるし、そろそろ寝るね。クーラー、タイマーにしておいてね」と言って優が立ち上がった。そして、隣の部屋に移る。優は、俺の方を一度も向かなかった。俺も眠かったこともあって、優が薄手のタオルケットをかける前に「あぁ、俺も寝るよ」と言って、TVの電源を切って、エアコンをタイマーに設定してから部屋の電気を消した。

俺は横寝しながら、仰向けに眠っている優の顔をぼんやりと眺めていた。優はどちらかというと平らな顔をしている。鼻はやや小鼻だ。唇も薄い方だろう。輪郭は少しだけえらがはっているが、別段気にするほどのものではない。今まで長いこと一緒にいたのに、これほど優の横顔をじっくりと観察したことはなかった。俺は、優の唇を見ながら、それが、昔、俺が何度も何度もキスをした唇だという事実が信じがたかった。

優とキスをしなくなって、もう半年以上がたっている。セックスだって、同じ期間していない。セックスレスな夫婦なんていうのが話題になっていたが、俺と優はそれ以上と言って良いだろう。

昔は何もかもが違ったな…… 俺は学生の頃を郷愁した。初めて二人で温泉に行ったこと。車で、二人で初日の出を見に行ったこと。俺が、優が浮気をしてると勝手に思い込んだときのこと。今の俺からは想像ができないほど、色んなことをしたものだ。そのたびに、何度も熱いキスをしたし、きつく抱きしめた。あの頃の俺だったら、今でも好かれてるだろうな。現状の自分の姿とはあまりにもかけ離れた過去の自分。今の自分を支点にして見渡した過去の光景は、あまりにも現在とはかけ離れていて、夢か他人の出来事のように思えた。

こんな俺が好かれてるわけはないんだよな。優は良い子だと思う。可愛いし、優しいし、頭だって良いし。俺がいつまでも束縛してちゃいけないよな。正直な気持ちであった。目を閉じると、瞼に浮かんでくる優との思い出がいつまでも離れずにいた。


俺は半ば暑さで目が覚めた。時刻は十二時を少し回っている。昨晩、なかなか眠れずに、結局眠りについたのはずいぶん遅かったのだ。

「優、起こしてくれてもよかったのにな」

俺は呆然としながら半身を起こし、布団の上で胡坐をかいた。大きなあくびを一つして、伸びをした。半ば霞がかかったような視界が少しずつ晴れて、目先のパルとパールを見つけた。

「おはよ……」

 俺は、ぬいぐるみに朝の挨拶をした。現実に対応し始めてきた意識が、昨日の三木本さんとの会話を思い出す。俺は、せかされたようにバックの中から、三木本さんのCDを取り出し、隣部屋の出窓にあるコンポにCDを入れた。

「へー、良いじゃん、これ」

三木本さんの曲を聴きながら、俺は正直な感想をもらした。それは、メロディーとしてはポップだが、どこかジャズっぽい特徴がミックスされている曲であった。ピアノ、アコースティックギター、アコーディオン、それとバイオリンが優しげに調和をとりあっている。ピアノのパートが単調に奏でられ、それが主旋律であることが分かる。

「ここの部分が歌になるってことかな?」

俺は、右手の人差し指で胡坐をかいた右のひざ頭を軽くタップしながら拍子をとった。

「良い感じじゃんな」

一回聴いて良い曲だと思い、リピートして三回聴くころにはこの曲が好きになっていた。聴いていると優しい気持ちになれる曲である。なんとなく、三木本さんの雰囲気に似ているな、と思いながら俺は心地よくなっていた。その曲をリピート設定にして、俺は布団をたたんで遅めの朝食の準備を始めた。優が作ってくれた目玉焼きがあったのでそれをテーブルの上に置き、冷蔵庫から冷えたアイスティーを取り出し、六枚切りの食パンを一枚オーブントースターに入れた。バターとブルーベリージャムをテーブルにおいて、俺は一度ソファに座った。そして、曲に再度意識を集中すると、ふと、この曲調に合うような香りが欲しいと思った。俺はアップルのルームスプレイを部屋に数回スプレイした。ほんのりと甘いりんごの香りが鼻腔を漂う。内心、ちょっと違うんだよな、ラベンダーの方が良かったな、と思いながらも、一応は満足した。焼きあがった食パンにバターを乗せ、満遍なく全体に塗る。全ての動作を、この曲のリズムにのるように軽やかにこなしていく。食事を終えて、食器を洗って片付けるまで、俺はその曲と一体になっていた。俺は、朝食の後片付けを全て終えてソファに戻ると同時に、その曲のサビの途中で停止ボタンを押した。そして、紙とペンをテーブルに用意した。そこまでの動作が、半自動的に行われたのに正直驚いた。紙とペンを目の前にして、それが自然に感じられるのは久しぶりのことである。つい先日までは、まるでトラウマか何かのように紙やペンを遠ざけていた。しかし、実際に紙とペンを前にすると過去のトラウマのような感覚がよみがえってくる。急に気持ちが重くなり、注意散漫になる。そして、自分がするべきことを全て放棄したくなる。周りをきょろきょろと見回し、何か別のことを探しはじめる。やっぱり俺は駄目か、と思っていると携帯電話が鳴った。メールと電話で着信音の設定を変えてあるので、それがメールでないことはすぐに分かる。俺は、駆け出すようにして携帯を取りに行った。三木本さんからである。そして、ほんの一瞬だけ間をあけて、高鳴る鼓動を感じながら電話に出た。

「もしもし」

「あ、三木本です。昨日は、無理言ってごめんなさい」

「え? 何が?」

「――作詞のこと。やっぱ、迷惑でしたよね。つい酔った勢いで頼んじゃって……」

俺は昨晩のメールにすぐ返信しなかったのが、三木本さんを不安にさせたんだろうと推察した。

「いや、そんなことないって。正直、すごいよ。びっくりした。かなり俺の好みだったよ。アコーディオンと、アコースティックギターの感じがすごくいいよね。優しいかんじで、三木本さんっぽいって思ったよ」

「ありがとうございます……」

俺は三木本さんの機嫌を取る以上に、率直に思ったことを伝えた。

「正直さ、作詞するの俺で良いのかな? って思ったよ」

「え? なんでですか?」

「俺さ、正直言うと自分に自信なくてさ。小説家とか言ってるけど、今何気に全然書けてないんだ」

「……」

 俺は自然と本音で話していた。普段人に自分の本音を話すことの少ない俺が、これだけあっさりと言ってしまったことが驚きだった。けど、後悔はなかった。三木本さんには才能があると思ったからである。そんな才能を、俺なんかが手を加えて駄目にしたくないという気持ちが働いたのだ。

「そんなことないです。私も、ずっと進まなくって。この一ヶ月くらい前まで、ほんとまったく駄目だったんです」

「え、そうなんだ?」

「スランプってやつなのかな? けど、なんか東海林さんに会ってからすごくやる気が出て……」

俺の鼓動が早くなる。そして、何を言っていいのか分からなくて、ただ黙ってしかいられなかった。

「あの、だから、東海林さんに作詞してもらいたくって…… 迷惑かな? って何度も思ったんだけど……」

三木本さんの声が、たどたどしく、そしてかすんでしまいそうなほど小さくなっていった。きっと、三木本さんは俺以上に緊張しながら、そう言ってくれているに違いない。俺は、緊張すると無口になってしまう自分を責め立てながら、貝のように閉じてしまっている自分の口をなんとかしてこじ開けようとした。

「――いや、そんなこと。えっと、ありがとう……」

俺がなんとか口にだせたまともらしい台詞はこれくらいのものだった。後は、二人とも黙りこくって、最後には三木本さんが、出かけるからと言って電話を切った。携帯電話を放り投げ、俺は布団を上げたばかりの寝室の畳の上で大の字に寝転んだ。

蝉の鳴き声がする。八月頃は、やかましい雑音だったが、九月の上旬になると、散り際の儚い旋律に聴こえる。その儚い旋律が、走り去る一台のトラックの音と重なって二重奏になる。俺は天井の小さな染みをぼんやりと見上げながら、その二重奏に耳を傾けていた。

目を閉じる。ふと、頬に当たる光に気づく。暑いことには変わりないが、なにか、夏の盛りとは陽射しの強さ違う。ほんの少しだけ落ち着いた太陽の鼓動を感じる。そして、それが自分の鼓動と同じリズムであることに気づいた。

まだ鼓動が高鳴ってるんだな。左胸に手を当てる。俺は、身体の変化を内観しながら、三木本さんとの会話を思いだしていた。好きなのか、それとも自尊心を埋めてくれる彼女の好意や関心が嬉しいだけなのかで迷っていたそれまでの俺。けれども、今になって自分の本当の気持ちが分かった。

「――好きなんだろうな」

まるで他人事のように、天井を見上げたままつぶやく。少しだけ罪悪感がする。それは、優に対してのものだ。俺はその罪悪感を打ち消すための言い訳を考えていた。

優は俺のことをどうにも思ってないんだし、俺が三木本さんを好きになったって、何も悪いことはないだろ。それに、三木本さんは俺を必要としてくれてる。優は俺がいなくたって平気だし。ていうか、むしろ俺がいないほうがいいし。そう考えていると、徐々に自分の中の罪悪感が退いていく。そして、平静さを取り戻す。けれど、心の奥の方では、それが見せかけのものであることは分かりきっていた。何故なら、本当に優が俺を必要としていないのか、そして本当に優は他の男を好きになってるのかといったことの証明をしていないからだ。しかし、そんなことはどうでもいいことであった。今はただ、俺は三木本さんを好きで、三木本さんも俺を好きなんだという思いでいっぱいだった。


気がつくと、三木本さんの電話があってから日が陰るくらいまでの時間が経過していた。その間俺は、ずっと落ち着きなくしていた。ソファに座ってTVをつけては、チャンネルをいじってすぐに消す。そして、立ち上がって、部屋中をぐるぐると歩き回る。空腹でもないのに冷蔵庫を開けて見たりした。俺は三木本さんから電話なり、メールなり来ることを期待していたのである。俺は昔から好きな人に対しては、どうしても不器用になってしまう性格だった。いざ、積極的になろうとすると、妙に意識してうまくいかなくなる。高校や大学の時は、そういう性格が災いしてか、自分から好きになった人との恋愛は必ずといって良いほどうまくいかなかった。

俺はかつての苦い経験を思い起こしては、昔とは違うということを心で主張した。昔に比べれば社交的だし、女を口説くくらい簡単だ。そう思ってはみるものの、どうしても積極的になれない。むしろ、過去に、告白しても断られてきたという経験の方が大きな比重となっていて、俺の行動を抑えつけているようだった。

長い葛藤の末、やっと一言『作詞のことは、しっかり引き受けるから。がんばるよ』という内容のメールを送ったのは、時計の針が七時を回った頃のことだった。すると、そのメールの返信が、一分と待たずに、まるで俺のメールが来るのを待っていたかのように届いてきた。

『ありがとうございます。無理しないでください……』

そのメール一つで、俺は今日一日の不安定な心理状態が癒されたように思えた。俺はソファに浅めに腰掛け、携帯メールを三度も読み直した。

「三木本さんか……」

俺はつぶやいて、三木本さんのことを思い浮かべた。気がつくと、彼女の存在が、昨日までとはまるで違っていた。三木本さんを好きだと気づいたのは今朝のことだったが、その時は気持ちが高揚しすぎていて、三木本さんのことを想っている余裕なんてなくて、ただ一人で舞い上がっていた。ただ、俺は三木本さんを好きだ、という想いだけで頭がいっぱいだった。こうして、三木本さんのメールを読んで、さっきよりは少しだけ冷静になることができた。今になってようやく、三木本さんのことを考えられるようになった。そして思い出すのは、作曲をしているという話を、俺が誉めた時の三木本さんのはにかんだ時の仕草。唐沢のデザート話で見せた笑い顔。俺の小説の話を聞いている時の興味深げな態度。彼女と俺が送った時間はごく僅かだけれど、その短い時間が、言葉では言い尽くせない程貴重に思えた。それは、三年以上付き合ってきた、優と送ってきた時間よりもはるかに大切に思えた。

「がんばらなきゃな」

そう言って、俺は天井を仰ぎ見ながら、これからの自分の変化を神に誓わんばかりの気持ちになった。そして、机の上にさっき広げて、そのままにしていたノートと白紙の上に転がっているボールペンを睨みつけた。彼女が俺にかけてくれている期待、彼女に喜んでもらいたいと思う気持ち、それらを総動員して俺は自分の士気を限界まで高めた。

物質は、初動のために大量のエネルギーを必要とする。重い荷物の載った台車を動かすとき、車のエンジンをかけるときなんかがそうだ。このような物理の法則は、不思議と人間の行動にも当てはまる。人間の場合は、習慣化したことをやめて、新しい行動を起こすときに特に強いエネルギーを必要とする。たとえば、愛煙家が禁煙をすること、過食気味の人がダイエットをすること、そして、俺のように何もしないで居ることに慣れてしまった人間が何かを始めること。一度身についた習慣から離れるために必要なエネルギーというのは、そう簡単に自分自身で捻出できるものじゃない。必ず、外的な力や要因が必要なのだ。禁煙をするのに、医者に脅されて禁煙を始めるように。好きな人ができたからダイエットをはじめるように。そして、三木本さんの喜ぶ顔を見たくて、腐りかけていた俺が作詞をはじたように。

人は自分自身では動機を作れない生き物だと思う。誰かに頼られて初めてリビドーを得るのではないだろうか。しかし、実際多くの人はただ自分のためだけに膨大な時間と労力を費やせるのも知っている。自分で目標を決め、行動し、そしてそれを成し遂げられる人。どんな孤独であっても負けない人だ。俺は、大学の頃までは、自分もそういう人間の一人であると信じていた。しかし、実際はそんな大層ものではなくて、ただ自分を必要としてくれたり、周りから誉められたりしなければ何もできない弱い人間だった。現に、今こうして俺は、三木本さんから頼られたということで、彼女の期待を裏切らないような作詞をしたいという大きな原動力を得、そのために俺は自分自身を成長させなければならないと感じ、今こうして積極的に行動している。不思議なもので、自分の弱さを知ったことで、自分の弱さから脱出することができた。

人にとって最も危険な状態とは、自分自身を勘違いしていることなのだろう。そのような状態にあると、人は、本当は苦手なことを得意なことであると錯覚して、その通りにならない自分に苛立ちと焦りを覚えるのだ。また、その逆に、本当は才能があるのに、自分には才能がないと最初からあきらめてしまうこともある。


その夜、優が帰ってきた後も俺は作詞を続けていた。優とは二言葉交をわした程度である。「ただいま」と言われたから「おかえり」と返した。着替えやシャワーを浴びるために俺の横を行き来する優がものすごく邪魔に思えた。俺は一切の雑念を断って、集中して作詞を続けた。元々一つことに打ち込むと没頭する性格だったせいか、眠くなり始めた一時くらいまでの間、ただひたすら作詞に打ち込んでいた。結局、俺が布団に入ったのは深夜の一時半を過ぎた頃だった。いざ、寝ようと目をつむっていると様々な思いがこみ上げてくる。作詞はまだ完成したわけではない。正直、自分の納得のいくようなものではないし、まだまだ時間がかかりそうだ。自分の作詞の未熟さに嫌気がさす。しかし、それを除けば、長い霧が晴れた後の青空のような、なんともいえないすがすがしさがあった。俺は自分の内面が大きく変わったことを実感した。そして、今になってようやく、これまで無駄にしてきた時間があまりにも大きな損失に思えた。

三木本さんがいなかったら、今の俺は無かったんだろうな。きっと、今までと同じ、何にもやる気がない俺だったんだろうな。そう思っていると、三木本さんに対する気持ちが大きく膨らんでいく。鼓動の高鳴が、眠気を完全に圧倒していた。俺は何度も寝返りを打っては、眠ることに集中しようとしたが、目が冴えてどうしようもなかった。そして、作詞のこと、これからのこと、三木本さんとのことなどを、延々と考え続けた。すると、隣で寝ているはずの優が、何度かもそもそと動いた後、俺の方を向いた。

「作詞、上手くいってる?」

小さい声でつぶやいた。俺は、三木本さんのことを考えていたせいか、後ろめたいことでも見られたような気がした。

「あぁ、大丈夫」

 俺は冷静な口調で返した。そして、仰向けに寝ていた俺も横寝になって、優と視線を合わせた。

月明かりが優を照らしている。薄暗闇の中、少し潤んだような優の瞳は幻想的ですらある。りー、りー、と鈴虫の鳴く音が聴こえる。俺と優の間だけ、時に置き去りにされてしまったようだった。俺は、その間、全ての言葉を失って、ただ、優と見つめあっていた。

「そっか、良かった……」

わずかに微笑んで、優は俺と反対の向きに寝返ってしまった。時が、また何事もなかったかのように過ぎていく。それでも俺は、視線を優からはなすことができず、ただ優の肩の辺りを見つめていた。優はなんで起きていたんだ? 俺はこんな時間まで優が起きている理由を考えた。眠っていたが、たまたま、目が覚めただけなのかもしれない。ひょっとすると、俺がうるさくて眠れなかったのかもしれない。しかし、それだったら一言くれればいいはずだし、それ以上に眠るのに邪魔になるようなことはなかったはずだ。ひょっとすると、俺が三木本さんを好きなことがばれてしまったのかもしれないと思って焦った。しかし、それには無理がある。結局は、どれも憶測の域を出ないことだけが明確だった。俺は頭が冴えていて、どうも眠れそうにはないなと思ったが、幸いなことに、思考の無限ループにはまる前に、徐々に睡魔に導かれていった。


その日は、ほんの少しだけ散歩していた真夏日が帰ってきたかのよう残暑であった。俺はその暑さから逃れるためにいつもの図書館に足を運んだのだが、今日は何もすることもなく、来るたびにただ憂鬱だった今までとは違った。それは、作詞を仕上げるという一つの目標があったからである。俺は図書館にいる間、黙々と作詞に打ち込むことができた。

夜の十一時過ぎ、俺はTVを見ながらほぼやり終えた作詞の作業の完成度に満足を覚えていた。俺は三木本さんに頼まれた作詞のために、無数の言葉をノートに綴り続けた。たったの数日で、すでに二冊のノートが作詞で埋まった。そのノートのページをめくりながら、驚きと喜びの入り混じった感情を覚えた。あとは、それなりに良いと思った作詞の候補をいくつか清書して、三木本さんに渡すだけである。その作業は後日に譲ることにして、俺はソファに座ってくつろぎながら缶ビールを飲んだ。

「ねぇねぇ」

十時時半頃に家に帰ってきて、その後シャワーを浴びて髪の毛を乾かしていた優が、ドライヤーのスイッチをオフにすると同時に話しかけてきた。

「ん、何」

俺は、浴室に届く声で答えた。

「今日すっごい暑かったよね」

「あぁ、暑かったな。てか、優ずっと職場で涼しかったんじゃないの?」

「そんなことないよー、何を思ったか職場で省エネとか言い出してさ。暑かったよ」

「そっか、まぁ、そういや図書館もあんま冷房効いてなかったかもな……」

何気ない会話。しかし、優とこんな風に何気ない話をするのは久しぶりな気がする。そんなことを思っていると、優がおもむろに俺の隣に座ってきた。優の二の腕が、ほんのわずかに俺に触れる。優の香りがする。俺と同じシャンプーを使っているはずなのに、俺とはまったく違う香りになるから不思議だ。俺は、微かに鼓動が早くなっている自分に気づいたが、それを否定するように珈琲カップに手を伸ばした。珈琲カップをテーブルに戻すと、カップがテーブルに触れる無機質な音が部屋に響いた。

「あのさ」

優がぽつりと言う。まるで穏やかな水面に投げ込んだ小石が起こす波紋のように、優の声が部屋を伝っていく。

「うん?」

俺は不必要なまでに身構えながら答えた。

「私の先輩の友達の話なんだけどね。なんか、付き合ってて、すっごく仲良かったはずなのに彼女にふられちゃったんだって」

「うん、それで?」

俺は話の内容が、自分と三木本さんに関することではないことに安堵感を覚えながら答えた。

「すっごくいい感じだったんだけどさ、なんか結婚しようとかって話してたこともあったみたいだし。それで、なんか、すっごく傷ついてたんだけど、そのことを他の女の子の友達にいつも相談してたんだって」

「うん、それで?」

「そしたら、ふられた彼が、突然告ってきたんだってさ」

「へぇ…… ふられたばっかなのにもう心変わりか?」

俺は優の話に真面目に耳を傾けた。昔から、相談は真剣に聞く性格なのだ。自分が逆の立場だったら、やはり真剣に聞いてもらいたいと思うからだが、元々人の話を聞いているのが案外好きなのかもしれない。

「うん、なんかさ、それってどうなのって感じしない? 告られた子には彼いるんだよね。なんか、彼もさ、大好きだったのに、ふられたからってすぐに乗り換えようって思うのが、なんだかなーって思ってさ」

優は両腕で両膝を抱えながら、レースのカーテン越しに、ぼんやりと窓の外を眺めていた。俺は、返答に微かな間を置くように、珈琲カップに手を伸ばし、一口、ほんの少し口に含ませる程度に珈琲を飲んだ。

「まぁ、あんま良いことじゃないよね。けど、なんか勢いで好きになっちゃったりとかはあるんじゃない? いつも相談のってくれてたんだし」

「そうだけどさ、君がその子だったらどうする?」

「ん? 彼女って、こくられた女の子のことだよな」

「うん」

「そりゃー、二人の関係次第なんじゃないの? その子に彼がいるって言っても、心変わりはありうるし? ま、聞いた感じ無理っぽいけどさ」

 俺は無理なのが当然に思えた。誰だって、昨日ふられた奴に、今日いきなり好きだ、なんて言われて良い気がする分けがない。

「で、告られた方の子と、彼の関係はどうなわけ?」

「うーん、その子の彼が、ちょっと色々問題があるみたいで、結構苦労してるみたいだよ。なんか、夢があるとかって言ってて、頑張ってるみたいだけど上手くいってないんだって」

「そっか……」

俺は何か心にひっかかるものを感じた。その子の彼氏が、自分のことのように思えたからだ。自分に対する嫌悪感が彼に投影される。

「だったら、心変わりしちゃってもいいんじゃん? なんか、めんどくさそうじゃん。その彼」

心に思ってもないはずの言葉が口から零れ落ちた。それは、ほとんど弾みで出た言葉だったが、今更訂正ができるはずもない。

「え……」

優が驚いたような顔で俺の方を向いた。

「けど、その子は彼のこと大好きなんだよ? 愛してるって言ってたくらいだし」

 優は語調を強めて言った。

「愛なんて、生ものみたいなもんだよ。時間がたてば腐るよ。そんな何してるんだか分からないような彼氏なんかより、将来を考えたら、振られた彼のほうがいいだろう。ちゃんと仕事にもついてるみたいだし」

俺は内心自分でも嫌悪するような言葉を吐きだしていた。愛なんて、生ものみたいなものだよ。時間がたてば腐るよ、という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

一瞬、時が凍りつく。俺はそんなことを言うつもりではなかった、ということを伝えたかったが、今更できるはずがない。

「そっか…… そう思うんだ」

優の言葉が俺の胸に突き刺さる。きっと、優は、ただ自分の考えに同調してもらいたかっただけなんだ。俺は自己嫌悪に阻まれて、優の聞き役に徹していられなかった自分にいらだちを覚えた。


俺も優も無言のままで、TVを見つめていた。けれど、その視線の先にあるTV番組の内容なんてほとんど頭に入ってこなかった。秒針が、いつにもましてゆっくりと時を刻む。全てがスローモーションになったようだった。この沈黙は、優が「ちょっとコンビニに言ってくるね」と言い出すまで続いた。俺には、その言葉が発せられるまでの約三十分近くの時間が、まるで一日のように長く感じられた。TVの上の時計も、何度みたことか分からない。そのたびに、時間の遅さにいらだった。それから、さらに一時間ほどして優が戻ってくるまで、俺はどことなく不愉快に辺りを見回したり、TVのチャンネルを変えたりした。

「ただいまー」

 優はさっきと打って変わって明るい口調だった。まるで、さっきの二人の言い合いなんてなかったかのように。

「あぁ、お帰り……」

 俺は態度ががらりと変わった優を、少しだけ訝しく思いながら答えた。優は部屋に上がると、おもむろに俺の前のテーブルの上に、雑誌とミネラルウォーターの入ったビニール袋を置いた。なにかその素振りが、俺にコンビニ行ってきましたと言っているように思えた。

「ちょっと、コンビニ行ってきたんだ。立ち読みしてたら遅くなっちゃった。明日も仕事だからそろそろ寝るね。寝るとき電気消しといてね」

 そう言って、優は寝室のふすま開ける。一瞬だけ、暗闇が口を開く。それは、優が部屋の電気をつけてすぐに色を取り戻した。そして、次の瞬間にはふすまが閉められる。何か、優が俺から逃げるようにして、寝室に行ったように思えた。俺は優と俺が、空間的に完全に区切られたように思えて仕方なかった。何か、隣の部屋にいるはずなのに、まるで別の世界に存在しているような感覚がする。

 俺は一つ大きなため息をしながら、優を恋人としてではなく、ただの同居人としてとらえるように努めた。そして、さっきまでのことを、もっと単純なこととして考えるようにした。OLをしている同居人と言い合いになって、彼女はその後コンビニに行った。そこでファッション誌を立ち読みして、その雑誌とミネラルウォーターを買って帰ってきた。そして、明日仕事があるからと言って、今床についたのだ。ただそれだけのことなのだ。そう考えれば気が楽になる。俺と優は、もう終わっているのだから。

俺は布団で仰向けになりながら三木本さんのことを想った。今何をしているんだろう? 本当に俺のことを好きだと思ってもかまわないんだろうか? 好きだとしたら、一体俺の何が良いと思ったんだろう? 時間の経過とともに、膨大な数の疑問が沸いてくる。そして、三木本さんを想う気持ちの高まりが頂点まで達した頃、いわゆる結びのような言葉が心に浮かび上がってきた。三木本さんのことが好きだ…… そこで、疑問が途切れる。そして、それと入れ違いで、今度は俺の欲求や願望の言葉が溢れる。三木本さんに会いたい、抱きしめたい、キスをしたい。そして、セックスをしたい。俺は三木本さんを想う恋心と、その裏側の性欲も感じながら、高熱にうかされたように身悶えた。



九月下旬の頃、季節はもう夏のものではなくなっていた。暑い日が数日に一度あっても、真夏のそれとは違い、暑さの中にもどこか季節の変化を感じる。落日に鳴く鈴虫は、ただ儚くて、間近の死に思いをはせているように思える。それが、日本人特有の感性なのかは俺には分からない。ただ、俺はその鳴く音が寂しくて、ベランダから夕闇の空を、遠く、遠くと望んでいた。

俺が三木本さんを好きだと気づいてから三週間近くが過ぎていた。三木本さんに頼まれていた作詞を終えたのが、二週間前のこと。俺のできる全ての能力で、作詞した。そう、ほとんどど一冊の小説を書き上げるくらいの勢いでやったのだ。それだけ力を入れたのだ。達成感はひとしおのものだったし、作詞としても中々上出来だったと思う。三木本さんも大喜びしていた。

この三週間に、俺は三木本さんと三回会った。一回は唐沢達と。残りの二回は二人きりで会った。二人でいる間、俺はどうしてもうまく自分の気持ちが伝えられなくて、正直優柔不断な自分に苛立ちを募らせた。三木本さんも同じような気持ちだったのか、と思うと俺は早く自分の気持ちを打ち明けたいと思う。三木本さんはそれまでと比べると随分と雰囲気が変わった。その変化が、最もよく表れているのが彼女のファッションだった。以前のように、ジーンズにTシャツ的な格好は、もうない。女は、好きな男の前では最大限に自分をきれいに見せようとするもののようだが、三木本さんは少し極端なところがある気がした。俺自身はそこまで相手のおしゃれは気にしないつもりなのだが、どうも三木本さんは、俺がおしゃれでない人間を嫌っていると思っているらしい。三木本さんの服装は以前に比べると、どこかおねえ系っぽい格好になってきている。ファッションの方向性に関しては、香奈の影響が大きいのかもしれない。ピンクのニットカーディガンのインナーに白のキャミソールを入れたり、ワンピースを着たり、随分と様変わりしたものだ。正直、それらが三木本さんに似合う服装か? と問われると微妙なのだが、まぁ、それは人それぞれの価値観というものだろう。

この三週間で、俺と優の関係もまた変わったように思える。俺が、優を同居人として捉えるようになったせいだろうか。今では、以前ほど優の言動が気にならなくなった。このまま俺達の関係が消滅するまで、俺は今のような接し方を続けていればいいのだろうなと思った。優にも好きな奴がいるのだから、その日はそう遠くないだろう。最近、優が料理に気合を入れている。エビのチリソースや、今までに作ったことのない料理が随分と増えた。これはきっと、今優が好きな男に作っているんだろう。俺を試食係りに使っているのが内心腹立たしかったが、優もうまくやってるんだなと思うことにしている。

優と俺のどちらが出て行くことになるのだろう? 今の状況から考えれば、正直俺が出て行くことになるのだろうが、できれば実家には戻りたくなかった。

仕事、アルバイトでも良いからはじめないとな。そう思ったのはつい先週のことである。いい加減貯金の残高もそこをつき始めたこと、それ以上に三木本さんとの関係から再燃し始めたやる気が、日々図書館と家を往復し続けることに我慢できなかったのだ。しかし、就職活動をしようとは思わなかった。俺は自分の人生を仕事に費やすことだけは避けたかったのである。たとえそれで人からなんと言われようとも、やはり小説家として成功したい。そのため、あまり時間をとらないでもよさそうなアルバイトをしようと考えていた。まぁ、条件としてはコンビニかファミレスということになりそうである。俺はある程度用意されている選択肢から、より良いものを選ぼうと心がけた。すでに三つほど候補を選んだので、それらの書かれたアルバイト誌のページの欄をはさみできりとってある。俺が作業をしていると、優の帰ってくる気配がした。

「ただいまー」

俺は優の方を見るでもなく「あぁ、お帰り」とそっけなく返した。はさみで広告を切っている俺に気づいた優は、サンダルを脱ぎながら興味深げにそれを見ていた。優が3cmヒールの白いサンダルを脱いで、部屋に上がってくる。今日の優は、白地で、縫製の良いブラウスに、幾何学模様のスカートをはいていた。幾何学模様は、初秋らしく、黒地に、茶色や紫の色合いのものである。ハンドバックも、ブラウスと同様の白地のものであった。

「何してるの?」

優は寝室にむかう足で、テーブルの上の広告を覗きこみながら俺に尋ねた。

「あぁ、そろそろバイトしようと思ってさ。金もそろそろないしさ。それに、俺みたいのってNEETっていうらしいじゃん。NEEDだったらかっこいいけど、NEETじゃださすぎるしさ」

「はは、そっか」

優は俺の冗談に突っ込みを入れるわけでもなく、愛想笑い程度に笑った。俺はそれがなんとなく俺を馬鹿にしているように感じて少し腹が立った。実際、人に言って自慢できるような現状ではけしてないし、むしろ恥ずかしいような立場なのだから、そう思われるのも仕方ない。優は隣の部屋で服を着替え、俺の隣に座って、俺の作業をじっと観察した。

「どんなバイトにするの」

「あぁ、コンビニにしようかな、思ってさ」

「コンビニ?」

「うん。週に四日くらいで深夜バイトにしよう思ってさ。それだったら、だいたい月12万くらいになるし。ちなみにこれ」

 そう言って、俺はバイトの広告の切り抜きを優に手渡した。

「へー、良いじゃん良いじゃん」

そう言って、切抜きをテーブルにもどして、優は立ち上がった。

「ねぇ、夕ご飯なんにする?」

「あぁ、そうだな、なんか適当でいいよ。てか、俺作るって」

 基本的に俺達は、交互に料理を作るようにしている。最近優が作ってくれることが多いが、それに甘えるようではいけない。同居人なのだから。

「え、いいよ、君作業してるしさ。私やっとくよ」

そこまで言われると、これ以上は意地を張るのもくどいと思ったので、優に任せることにした。

「ねーねー、冷蔵庫にご飯あまってたし、チャーハンで良いかな?」

優は、冷蔵庫開けて中を覗き込みながら言った。

「あぁ、良いよ。棚にわかめスープのやつが残ってだろ」

俺は内心今日の料理は平凡だな、と想いながら、インスタントで作れるわかめスープの素が棚に入っていることを、棚を指差して教えた。それを確認した優は、換気扇を回してからやかんに水を注ぎ、それをガスコンロの上に置いて火をつけた。

優がチャーハンをいためている間、俺は黙々と作業を続けた。優がごはんをつくり終える頃には、作業は終了し、四つのアルバイトの切り抜きをクリップでまとめ、ノートに挟んで、不要になった広告の残りをごみばこに捨てた。

「あぁ、そういえばこのタレント今度結婚するんだってね」

TVを見ながら優の炒めたチャーハンを食べていると、優がTVのお笑いタレントを指差しながらいった。

「へー、俺、てっきり男専門かと思ってた」

「あはは、それっぽいよね」

 俺の冗談に優は少しだけ笑った。最近は、こういう風な会話もごく自然になってきている。きっと、別れた後でも友人としてやっていけそうな気がする。

「そういや、仕事どうなの?」

 俺は自分が随分久しぶりに優の仕事について聞いてるな、と思った。それだけ、心に余裕ができたということなのだと、そのことが嬉しかった。

「うーん、最近だいぶ暇になったかな?」

「そっか、良かったじゃん」

「うんうん」

 優はそう言ってわかめスープを口に含んだ。

「なんか、新しいことでも始めたら?」

「ん? なんで?」

 優は俺の言葉の意味が理解できない、という風に少しだけしかめっ面になった。

「いや、別に深い理由はないけどさ。俺も一からやりなおそうと思うからさ」

「うん、そっか」

「だから、優も自分の好きにしたらいいよ」

俺は遠まわしに、俺はいつ別れて平気だから、という意味を込めて言った。優はやさしいから、もしかすると現状の俺を心配して、一緒に居てくれているのかもしれない。そもそも、優のようになんでも揃っている人が、俺のことをいつまでも好きでいるはずがないのだ。今までは、優に好かれていると思うことで、なんとか自尊心を保っていた。けれど、今は違う。今なら、俺は、俺の知らない誰か、優が好きな男に「優のことをよろしく」と言って優を送り出してあげることだってできる。

「うん」

優はさも無関心そうに視線をTVに向けながら答えた。それまで会話があったのに、急に無言になる。二人の部屋には、TVの音と、チャーハン用のレンゲが、お皿にあたる時の音だけが響いていた。


アルバイト誌を調べた日から数えて四日後の昼、俺はコンビニの面接を受け、その場で合格、あっさりとシフトまで決めてきた。元々昼間のアルバイトが一人辞めてしまったので、それの穴埋めに一人入れる予定で出した広告であったのだが、つい先日、突然夜間のアルバイトが二人も辞めてしまったのだそうだ。そのせいか、コンビニの店長は極端にあくせくしていて、夜間で入れる人なら誰でも良いという感じたった。店長に聞かれたことと言えば、夜間入れるか? というのと、責任感はあるか? という二点だけだった。責任感があるかと聞かれて、ないと言う奴なんてこの世にはいないだろうと思いながら、俺は責任感は人一倍ありますと自信たっぷりに言った。そんなわけで、過去に受けたどんなアルバイトの面接よりもすんなりと受かってしまった。内心、自分の現在の境遇からも良い印象は与えにくいと思って心配していたが、たかがコンビニのアルバイトでは、あまり関係ないようだ。何はともあれ、晴れてアルバイトの面接に合格したわけであり、それ自体は就職活動ほど苦労するものでもなんでもないものなのだが、これまでの、自信を喪失していた俺にとっては、少なからず自尊心を充たすものであった。この程度で充たされる自尊心とは、なんて情けないんだという気持ちもあったが、それよりも、面接に受かったことが素直に嬉しかった。それが、自分自身の、良い意味での変化に繋がると思うからこそのことである。

俺はアルバイトに受かったということをまず三木本さんに報告した。電話をかけてそのことをつげようと思ったが、たかがアルバイトの面接に受かっただけのことだと思い、メールを送った。すると、すぐに返信が来た。『おめでとう!』というメッセージには、顔文字が添えられていた。俺はそれに対して『なんだか、三木本さんのおかげで俺は自分を取り戻せた気がする。本当にありがとう』と打って送信した。それに対する返信がすぐに来るだろうと思った俺は、ほとんど十秒に一度メールボックスを開いたり、メールが遅れているのかもとセンターにメールがないかを確認したりした。

返信のメールは十分くらいして来た。その間に一体何回メールのチェックをしたのだろうか。俺は高鳴る鼓動を感じながら、メールの送り主が三木本さんであることを確認し、メールを開いた。

『良かったら、会ってはなしたいことがあるんだけど……』

俺はそれを読んで、思わず笑みがこぼれた。ひょっとすると、三木本さんは俺に告白でもするんじゃないだろうか? 俺は、疑問符をつけるような言い回しをしつつ、内心それが確信的であると感じていた。

『うん、もちろん! いつがいいかな?』

俺は間髪要れずにメールを返す。こういう場合、少しじらす方が良いと俺は思っているのだが、自分の気持ちを抑えられる余裕はなかった。今は、ただ三木本さんに会いたくて仕方ないのだ。

いつが良いかという話をしていくうちに、お互いの時間が合う日が、近日中だと今日しかないことがわかった。そして、今これから、学校帰りの三木本さんと落ち合うことになった。急ではあったが、俺もバイトの面接を受けた帰り道で、他にすることもなかったし、何よりも、今すぐ三木本さんに会いたかった。今日の俺の服装は、バイトの面接の帰りということもあって地味だった。こげ茶色のパンツ、黒と白のチョークストライプのワイシャツに、カーキのジャケットである。内心、三木本さんに会うのならもう少しおしゃれにしたいのだが、帰って着替えてくる時間もなかったので、直行することにした。


「おっす、学校おつかれー」

 俺は待ち合わせの二時ちょうどに、三木本さんと渋谷の駅で落ち合った。三木本さんは左胸に英語のロゴが書かれている茶色のパーカーに、デニムのタイトミニ、それにスニーカーという服装だった。こういう格好ならば、比較的最初あった頃の三木本さんを連想するのだが、それでも、カジュアルな格好も以前に比べておしゃれになったようだ。

「ごめんね、待たせちゃった?」

三木本さんが時間ちょうどに着いたのにすまなそうな顔をして言った。

「いや? どうせ暇だったから、その辺ふらふらしてたし」

「そっか、それなら良かった」

「今日さ、代々木公園の方行かない?」

 俺は今日の天候が良かったこともあって、渋谷に着いたときに今日はそこに行こうと思っていたのだ。

「うん、いいよ」

「それじゃ、いこっか」

 俺はそう言って、なるべく三木本さんに歩調を合わせるように意識しながら歩いた。通り道、微かにだが、いつもの三木本さんとは何かが違うのを、俺は感じ取った。それが、天候のせいなのか、三木本さんの具合が悪いのか、はたまた俺が一人でうかれすぎているせいなのか、理由は分からなかった。ただ、いつもと比べると無口だし、どこか表情が暗いように思えて仕方なかった。三木本さん、大丈夫なかな? そんな、一抹の不安を抱きながら俺は代々木公園の園内に入った。

 代々木公園は、都心でも、特に変わった場所だと俺は思う。正直、よくもこれだけ違う種類の人たちが集まったものだ、と感心するほどだ。休日ともなれば、犬を散歩する人、フリスビーをする外国人、戯れるカップルや、幸せいっぱいの家族などがいる。まぁ、おそらく彼らだけならとても平和な公園、とだけ思えるのだが、社交ダンスやストリートダンスを踊ってる人たち、発声練習に明け暮れる声楽家、総合格闘技をしている武道家、もう、何をしているのかまるで分からないような人たちまで含め、本当に様々な人たちが一同に会している。きっと、大都会の真ん中の広大な緑地は、その存在そのものが奇異なもので、このような不可思議な環境の元には、やはり変わった人たちが集まりやすいのだろう。

俺は中央公園より少し奥まったところの、落葉樹が程よい間隔で植わっている辺りを指差した。そして、イチョウの木の下のベンチに二人で腰掛けた。

そよ風が吹いて、イチョウの枝葉が踊る。それに合わせて木漏れ日も踊っているようだった。その光の芸術に半ば心を奪われながら、その視線は、本来はすぐ隣の三木本さんの瞳に向けられているべきなのに、と気恥ずかしくてそれができない自分が情けなかった。

「好きです……」

俺は突然のその言葉にすぐに反応できなかった。その言葉は、今の俺にとっては何よりも嬉しいものだし、何よりも望んでいたもののはずだったのに、いざその言葉を聞くと返す言葉を失う。公園のベンチで、緑林に囲まれながら、ただ、下を向いたままになってしまっていた。葉風が上枝の葉を微かに鳴らす。

「分かってます。無理だって…… だけど、どうしても伝えたかったから」

俺はその瞬間全てを覚った。三木本さんは、知っているのだ。俺に彼女が居ること。そして、その彼女と同棲していること。考えてみれば、唐沢の友人なのだから、どこかで唐沢が俺と優の関係を話したとしても不自然ではない。三木本さんは、それをわかった上で、本当にふられることを覚悟して、告白してくれたのだ。きっと、俺に直接ふられることで気持ちを整理したいのだろう。

俺の三木本さんを想う気持ちは極限に高まっていた。横目で見た彼女の目は潤んでいて、今にも泣き出してしまいそうだった。本当に、今すぐ抱きしめて、俺も好きだと叫んでしまいたかった。けれど、今の俺にはそれは許されていない。俺には彼女がいる。その上で、俺が三木本さんを抱きしめても、俺と優の関係を知るはずもない彼女には、俺が三木本さんを、ただの浮気相手程度にしか考えていないと伝わってしまう。だからこそ、今は、言葉でしっかりと伝えなければいけない。

「そっか…… 俺も、三木本さんのこと好きだよ」

一番伝えたかった言葉を伝えたはずなのに、何故か胸が痛かった。その言葉を、素直には信じてもらえないということが辛かった。

「え、けど……」

そう言って、三木本さんは口ごもった。俺は、その後の言葉を言えないでいる彼女の変わりに、自分の口から直接うちあけることにした。今彼女が居て、同棲しているということを。

「俺には彼女がいる。その彼女と同棲してるよ」

俺はまるで懺悔でもしているような気分だった。

「唐沢さんから聞いて知ってました。彼女さんがいるってこと。それに、同棲もしてるってこと。なんか、唐沢さんと東海林さんの同じ大学の頃からの付き合いなんですよね」

「――うん」

「なんだか、その話を聞いたときに、あぁ、無理だなって思ってたんです。だけど、歌詞作ってくれたこととか、すごく親切にしてくれたりとか嬉しくて、なんだか、分かってても離れられなくて……」

 うつむいた三木本さんの声は、ますますくぐもって、今にも嗚咽しそうだった。

「確かに、付き合ってる彼女が居て、同棲してるけど、彼女浮気をしてるし、俺もその彼女のこと、別に好きじゃないんだ」

「え……」

その言葉にほんの一瞬だけ期待して、だけどそれを信じていいのだろうかという不安を含んだ一言を漏らした。

「なんか、女の子の友達と会うって言ってて、帰ってきたらすっごくタバコくさかったりとかさ、彼女の女の子の友達って、タバコ吸わないし。まぁ、そういうのが続いて、なんだか信用ないし。それ以上に、こういうの恥ずかしいから言いたくないけど、こっそり携帯メール見たら、男と会ってるメールあったし。もう、ほんと随分前から俺と彼女の関係って終わっててさ。彼女のこととか言わなかったのは、なんか、心配かけたくなくて。どうせ、放っておいてもすぐ終わっちゃう関係だからさ。波風たてるのも変だと思って」

 俺はそこまでを言い切って、三木本さんの方を向いた。うつむいていた三木本さんが、少しだけ顔を上げて上目使いになる。その瞳は、本当に信じて良いのか分からない、という不安に満ちていた。

「俺がさ、今まで腐ってたのに、なんとか頑張れそうになったのって、三木本さんのおかげなんだ。以前、三木本さんが、俺のおかげで作曲できるようになったってって言ってくれたけど、俺も同じなんだ。ほんとに。今日だって、バイトの面接受けたのだって、三木本さんがいてくれたからだよ。俺には三木本さんが必要なんだ……」

 俺は全てを言い切った。これで、俺が三木本さんを失ったとしても、それはもう仕方のないことなのだと思う。そして、やはり、同棲していながらではいけなかったんだな、と思った。三木本さんと好き合っていくのに、同居人という感覚で優と生活していることに甘んじていた自分が許せなかった。

「私は、東海林さんのこと信じたいし、好きだし…… なんだか、今日はさようならを言うつもりだったのに…… 好きって言われて嬉しいし、けど、なんだか、私、私……」

 三木本さんの想いが、涙になって零れ落ちた。両手で顔を押さえて嗚咽する三木本さんを、俺は抱きしめた。強くではなくて、優しく。そしてできることなら、三木本さんの不安も悲しみも全て包み込んでしまえるように願いを込めながら、誰よりも優しく抱きしめた。

続編があるのでいつか書こうと思いつつ10年。


来年こそ書こう。

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