肆。
肆。
兄モノローグ:――こうして、私は自由になった。
偽物の殻を脱ぎ棄てて、本物の成虫になったのだ。
あれは、運命だったという他ない。
不可避な出来事だったのだ。
長い長い間、地中をはいずり回っていた幼虫が、
成虫になるために必要不可欠なプロセスを経たにすぎない。
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことだったはずなのに……。
こうして毎年夏になると、何をするでもなく、ここへ来てしまうのは……
一体、なぜなのだろうか。
どうして、涙が出るのだろう?
どうして……私は泣いているのだろう。
【SE】蝉の鳴く声
弟「兄さん」
兄モノローグ:――弟の声がする。
弟「どうして泣いているの? 兄さんが泣く理由なんて、どこにもないのに。
もう一度、よく思い出して。
蝉の抜け殻を集めようと言いだしたのも、
油蝉の抜け殻を取ろうとして木に登ったのも、
手を滑らせて枝にぶらさがったのも
全部、
兄さんの方だったじゃないか。
兄さん。
兄さん。
哀れな兄さん。
まだわからないの?
あの時、必死で差しのべられた貴方の手を……
拒絶したのは……僕の方」
兄「何を言ってるんだ? だって、あの時、私は確かに……」
【SE】回想を促すフラッシュバックのようなSE
【演出】左右のスピーカーから各セリフがやや重なるくらいの感じで。
兄「ほら、見てごらん、これ。蝉の抜け殻だよ。まるで本物みたいだろ?」
弟「そりゃそうだよ、抜け殻なんだからさ。本体が抜け出すついこの前までは、
ちゃんと命があって、本物だったんだから。兄さん、いつまでも僕を子供扱いしないでよ」
兄「クスッ。そうだな。お前だって、いつまでもガキのままじゃないよな」
弟「それに僕、こんな抜け殻もらっても、全然嬉しくないし。だってこれ、本物みたいに見えるけど、その実、ただの抜け殻だろ? 所詮、偽物は偽物だよ。こうして握りつぶしたら……。ほらね? こんなにあっけなく 粉々になって消えてしまう……」
兄「……」
弟「あーあ。壊れてなくなっちゃったぁ。どーうしよう。
そういえば、それ集めて、夏休みの自由研究にしようと思っていたこと、すっかり忘れてたよ」
兄「だったら 兄さんに任せておけ。お前のために、見つけて来てやるよ」
弟「そう?じゃあ、あの木の上なんて、どうかな?さっきから鳴き声が盛んに聞こえてくるから、きっとあそこの枝の辺りに抜け殻も沢山あると思うな」
兄「そうか?よし、わかった。兄さんが今、あの木に登って取ってきてやるからな……」
【SE】できれば、何かが壊れるような感じの効果音
兄モノローグ:――何かが違う
兄「あっ……」
兄モノローグ:――私の記憶しているはずの 記憶とは。
兄「た、助けて……」
弟「……」
兄「な、何でだ? 何でなんだ……」
弟「フフフッ……」(黒笑い)
兄モノローグ:――弟は、無邪気に私を慕い、なついていたはずでは なかったのか……
【SE】ドスンと落ちる音
しきりに鳴く、油蝉の声がする。
じりじりと照り返す日差し。
吹きだす汗。
頬に貼りつく髪。
憎らしい日差しが木の葉の奥でゆらゆら揺れている。
私は、”しきりに鳴く蝉”のことをぼんやり考えた。
それからゆっくりと瞼を閉じた。
【SE】蝉の狂い鳴き




