10.スポンジの効能
びっくりして一瞬手が止まってしまった。ちょっとちょっと、どうすればいいの!心の準備なんてできてない顔上げられない!
……いや、上げるけどね。ってことで、上げた目線の先、ドアのところに立ってちょっと驚いたようにこっちを見てるのはやっぱり穂坂くん。切れ長の目がちょっと見開かれてて、かっこいいんだけどなんか可愛い。うわあ、何考えてんの私!
自分の混乱ぶりに苦笑してしまいそうになりながら、頑張って平然としてみる。
「こぼれた墨汁拭き取ってるだけ。穂坂くんは?何か忘れ物?」
「うん、筆箱忘れた」
そう言って穂坂くんは自分が使っていた席に近づいて、机の中から筆箱を取り出す。そして、何かに気づいたようにこちらを振り向いた。
「そこ、江本さんの席じゃなくない?」
穂坂くんの登場への驚きがまだ消えてない私は、ちょっと反応に遅れてしまった。ってか、穂坂くん私の席がどの辺か知ってるんだ……。
「う、うん。でも汚れてて。こういうの、超気になっちゃうんだよね。まだ乾いてなかったぽかったし、今なら拭いたら消えるかなぁって思って」
「…………」
え、無言?なんで?私ヘンなこと言ったっけ。ちょっと焦る。
そしたら穂坂くんは声を出さずにちょっと笑った。え、ますます謎。なんか嬉しいけど。
「や、ごめん。なんか、江本さんらしいなぁと思って」
……どういう意味だろ。気になる。
「で、きれいになった?」
「……それが。全然」
墨汁の威力をナメていた!生乾きの部分が広がっただけだった!余計悪くしてんじゃんね、私……。ごめんなさい。
すると穂坂くんは、教室の棚をごそごそし出して、教室を出て、すぐに戻ってきた。何か白い物を手に持ってる。
何だろう、と私が見守っていると、その白い四角い物で、机の墨汁が付いた部分を少しこすった。
「うぇ?ぇええ!?なんで!?」
は、これ何のマジック!?あっという間にぴっかぴかになったんですけど!
「……魔法です」
「いや嘘じゃん!何それ!」
「江本さん。ここ、そのティッシュでちょっと拭いて」
「ああ、はい」
さっき穂坂くんがこすった部分が若干濡れていたので拭き取りました。これでほんとにぴっかぴか。じゃなくて!
「それ何なの?なんかわかんないけどすごい」
「魔法のスポンジです」
「いや、真面目に!」
「メラミンスポンジ。知らない?魔法のスポンジみたいなもんだよ。ちょっと濡らして使う。こういう汚れもすぐ落ちる」
と言って穂坂くんは手に持っていた白くて四角い物を見せてくれた。うおお、ほんとにスポンジだ。さっき一度出て行ったのは、これを濡らすためだったのか。こんなの初めて知った。すごい。
「下に何か敷いてても、やっぱ机汚れちゃうから、ここに常備してんだよ。俺も何回か使ったことある」
へー。知らなかったー。私はいっつも、絶対机汚さないように気をつけてるからね!
「でも学校の机とか備品って、汚しても気にしないやつ多くて。初めて見たわ、人が汚した机拭いてる人。軽く感動」
ん?……これは、なんかいい評価を、もらって、る?穂坂くんに?いやいや、でも、そんな!
「そんな大したことじゃないし!なんかちょっと気になっちゃっただけで、通りがかりに一拭き、みたいな軽い気持ちで。でもなかなか消えなかったからムキになっちゃっただけで!結局、役に立たなかったし。穂坂くんが来なかったらもう放置して帰っちゃってたと思うし……」
感動してもらえるようなことじゃないし。過大評価とかされてしまったら後で絶対幻滅されるし。
「んー、でも俺は、偉いなーと思ったよ」
穂坂くんが後ろの棚にスポンジを片付けながら言う。
「普通、誰も見てないところでこんなことできなくね?」
「いや、私は誰かが見てたらやんなかったかも」
「え、なんで」
「なんか恥ずかしい。目立ちそうで、嫌」
「何それ意味わからん」
わかんないだろうなぁ、この人には。私にも、なんで恥ずかしいと思うのかはわからないけど、なんか恥ずかしい。
「ってか、結局穂坂くんのおかげだし」
「俺、多分気づいても見て見ぬふりすると思うけど。今回は江本さんが頑張ってたから手伝っただけで。だからこの机がきれいになったのは江本さんのおかげ。よかったなぁ、きれいになって」
戻ってきた穂坂くんは机に話しかけるように、トントンと叩く。
ね?とこっちを向いた顔は1メートルも離れてない場所にあって、こんなに近いのはあの日、ノートを運んでもらった日以来じゃないかな、とか思って。いきなり思考が止まった。今さらだけど私、好きな人と一緒に教室にいる。ふ、ふたりきりで!知ってたけど!知ってたけど!今やっと身をもって知った!
「やべ、もう掃除始まってる」
出よっか、と穂坂くんが言う。そうだ、掃除。行かなきゃ。え、やだ、一緒に出るの?同じ方向に行くの?一緒に行くの?無理!
教室を出て、廊下を通って、そしてやっと、まだお礼も言ってなかったことに気づく。
「あ、あの」
「ん?」
「ご協力、ありがとうございました」
「どういたしましてー」
斜め前を歩く穂坂くんは振り返らない。それでいい。今振り返られたら困る。何が困るかはわからないけど、とにかく困る。
「あ、そういえばさ。仲直りした?」
振り返らないまま穂坂くんは聞く。千佳たちとのことか。きっかけはこの人がくれたんだった。
「うん。ごめんねって謝って。ジュース奢って、許してもらった」
「はは、結局貢いだんだ」
「うん、だって、なんか沈黙が怖くて。下手に出るしかなくて」
「結果オーライってことっすね」
「そうっすよ」
階段を下りながら、私のドキドキは増していく。下ってるのに、どんどん高くて空気の薄い場所に上がっていってるみたいな気分だ。私、ちゃんとしゃべれてるかな。声、上ずってないかな。
「あの、その時も、ありがとう。穂坂くんのおかげ、かも」
「俺何もしてないって。事情も知らないし。ちゃんと謝ったのは江本さん自身でしょ。偉いじゃん」
「でも、アドバイス、くれたから。助かった、から。……ありがとう、ございました」
「いや、俺ほんと何もしてないけどね。でも、まぁ」
と言って、ちょっとだけこちらを振り返った。
「よかったね」
そう言ったときの穂坂くんは少し微笑んでいて。
私より二段下にいた穂坂くんの目線は、私より少しだけ低い位置にあって。硬めに見えるけど意外とやわらかそうな短い黒髪もすっと通った鼻筋もシャープな顎のラインも。切れ長の目が少し細められてるのも、薄い唇が笑みの形を作っているのも、しっかり見えてしまった。
「う、うん。ありがと」
なんとかしどろもどろにそう言って、階段が終わるや否や、じゃあ私こっちだから!と反対方向に駆け出した。これ以上一緒にいたら心臓壊れる!
何なのあれ、何なのあれ!何なの、あの破壊力は!
……何なの、この感覚。
……笑顔が見れて、すごく嬉しくて、それが私に向けられてることがすごく嬉しくて。
でも同時に、すごく怖かったのは、なんでなんだろう。




