第2章―(1)
俺の眼にぼんやりと写るのは、キャンパス一面に薄い青色を置いたような綺麗に広がる青空。
青空……? あれ、確か俺達はプライベートビーチに来たはずなんだが……。ああ、そうか。そういえば覗き(未遂)の罪に問われて砂浜に連行されて、三人そのまま生き埋めの刑にされたんだったな。
「生き埋めなんて人聞きの悪い!」
俺が砂のお布団で埋められている横で、体育座りをしながら頬を膨らませているのは、惜し気もなく煌めくような白い肌を披露している一葉だ。
人なんて俺達以外いないぞ。
「これが生き埋めじゃなくて何が生き埋めだろうか?」
「ハルキが覗こうとするからでしょ!」
ごもっともです。
そういえば、この旅行に来て一葉とまともに顔を合わせるのは初めてな気がする。一葉には常時サクマムシがくっついていたし、一葉は一葉で楽しそうにしていたから、話しかけるのを憚られた。まぁ、一葉が笑ってりゃそれでいいんだけどさ。
「それで……誰が目当てだったの?」
「は?」
「だ、だから! 誰の裸が目当てで覗いたのよ!?」
「ア、アホ!! べ、別に目当てとかねぇよ! 筑紫と佐久間に付き合ってやっただけだ!」
「うそ! だってカホなんか……私より、その……胸、あるし……」
その一葉の言葉に、思わず俺の視線は一葉の顔からちょっと下の膨らみへと移動する。
「ぐわ! 眩し!」
あまりの眩しさに思わずそっぽを向いてしまう。
「……なんでそっぽ向くの?」
一葉の太陽より眩しい肌が眼に毒……いや眼福です。なんて言えるか。
「……」
「……」
俺と一葉は暫しお互い眼を合わせず黙り込んだ。俺には見えない海の方からは、海の心地よい満ち引きの音と、数名の黄色い掛け声が合わさって聞こえてくる。きっと筑紫達が海で遊んでいるのだろう。
「――なーんてね!」
一葉の声に思わず振り向く。
「冗談だよ。ハルキがそんなことするなんて思ってないもん。一緒に住んでたって、そういうことは一度だってなかったしさ」
う……、少し罪悪感。そんな誰もを幸せにしそうな笑顔で言われると先ほどの俺の所業に心が痛む。
「うん、でも一回くらいは逆に覗いてほしいよね……やっぱり」
「え!? なんでよ!?」
「なんか私、全然色気ないのかなぁなんて思っちゃうもん……」
一度でも覗いたりしたら、家族の絆とか俺の理性とか他にも色々な物が壊れそうだったから、懸命に自重してただけです。
「……じゃあ、今度覗こうか?」
「うん、殴るね!」
「やっぱだめなんじゃん!?」
そんなやりとりをしながらも俺は少し安堵した。新幹線の時から何やら怒っているようだったし、俺が何かしたのだろうかとずっと引っ掛かっていたからな。
「それよりいつまで埋もれたままなの? 筑紫くんと佐久間くんは、もう向こうでビーチバレーしてるよ?」
あいつら釈放が早過ぎるぞ。
「いやぁ、案外心地よくて、面倒だからこのまま一眠りしようと……」
「そんなことだろうと思った!」
「一葉だって向こうで一緒に遊ばないのか?」
俺がそう言うと、少し視線を落として口を尖らせる。
「みんなのいるとこ、結構深いし、水怖いし……」
「あ……」
そういえば一葉はカナヅチだったな。
「ハルキは……泳げるの……?」
「おう、俺は結構泳ぎ得意だぞ」
「ふ、ふ〜ん、そ、そうなんだ……」
俺は適当に答えながら考える。
せっかく海にやってきたのに、泳げないって言うのは損だよな。……そうだ、佐久間だ。少し癪だが、ファミレスで佐久間のことを応援すると言った手前、何もしないわけにはいかないだろう。ここは少し助け舟を出してやるとするか。癪だがな。
「あ、あの……ハルキ、もしよかったら――」
一葉が何か言いかけたのが耳に入ったが、俺は勢いそのままに砂布団から脱出した。そして、大きく息を吸って、
「お〜い佐久間! ちょっと来てくれ!」
遠くの方でビーチバレーをしている四人の輪に声を掛けた。
「お〜! ハルキ起きたか〜!」
俺の声に気付いて、佐久間も大きな声で手を振りながらこちらへやってくる。
別に最初から寝とりゃせん。
海から上がり、水も滴る男は虹のような笑顔を振りまいてきた。
「碧原とハルキもやらないか? ビーチバレー」
「それもいいけどな、それよりも一葉に泳ぎを教えてやってくれないか?」
「……え?」
俺の言葉に一葉が振り向く。少し驚いたような表情を俺に向けてくる。
「泳ぎをか?」
「そう。前も言ったろ? 俺が溺れていた一葉を助けたってさ」
これは一葉による咄嗟の偽理由だ。火事と同居がバレないために作った偽の口実。
「だから、一葉に泳ぎを教えてやってほしいんだ。それに、せっかく海に来たのに水にも浸かれないんじゃ楽しくないだろ?」
俺は佐久間に眼で合図してやると、ようやく俺の意図に気付いたようで、更にミントのような笑顔を向けてくる。
「お、おう! 俺は勿論大歓迎だぞ!」
大海原のような心の広さで、自分の胸をドンっと叩く佐久間。
「一葉どう……だ?」
しかし俺が一葉に同意を得ようと振り向くと、目の前に驚きの顔があった。
「ひ、一葉……?」
タコのように顔を紅潮させて、ふぐのように頬を膨らませながら、うるうるとした上目遣いで俺を睨んでいた。若干肩も震わせているようだ。
「それでいい! いこ、佐久間くん!」
ぷいっと俺から視線を外すと、佐久間の手首を取りながら、ドスンドスンと音が響きそうなくらいに大股で海へと歩いていった。佐久間のありがとな、みたいなにやけ顔ウインクが鳥肌もんだ。
ていうか何で一葉はまた怒り始めたんだ? 俺何かしたかな? もしかしてまだ覗きを働いたこと怒っているんじゃ……。
そんなことを思案していると、遠くの方で、一葉たちが筑紫たちと何やら会話を挟んだ後、入れ替わりで筑紫たちが陸に上がってきた。
「ハルっちゃん! ナイスアシスト! 素晴らしいラストパスだぜ!」
「なんだいきなり、顔が近いぞ」
「またまたハルっちゃんったら〜。佐久間のために一肌脱いでくれたんだろ〜? つうわけでっ! 俺たちは邪魔にならないようにこれから夕飯の買出しにいきまーす!」
◇◇◇
フライパンの上で焼かれているような暑さの中、塗装もされていない山道を、俺・筑紫・葵・花咲の何やら珍しい四人で歩を進める。目指すは歩いて三十分弱の麓にあるスーパーだ。この近辺はだいぶ花岡町と似ている。
「なんだいなんだい!? さっきの話はっ!?」
後ろ歩きしながらの葵が、後ろで手を組ながら興味津々に筑紫と俺の表情を交互に覗き込む。
「ふっふっふ! アオイちゃんよくぞ聞いてくれた! この旅行ではね、ヒトハちゃんと佐久間をくっつけちゃおう大作戦が密かに進められているんだ!」
筑紫が片方の手を腰にあて、高らかに初耳な大作戦をあっさり宣言する。もう片方にはこの砂利道では明らかに使い道のなさそうな愛用スケボーを抱えている。砂浜でもボードは進まないぞ。
「うおお! マジかい作戦かい任務かいっ!? 佐久間くんがヒトハのことを? それともヒトハが佐久間くんのことを!?」
「なんとあの佐久間がヒトハちゃんに片想いなんだ!」
「おおおお! あの大真面目そうな佐久間きゅんが!? いいねいいね燃えてきた〜!」
葵は頬に伝う汗を気にすることもなく雄たけびをあげている。俺たちの後ろでは、くすくすと喉を鳴らす花咲もいる。
「それじゃ、なるべく二人きりになるように仕向ければいいのね?」
「そういうことだぜ! カホちゃんわかってるぅ!」
仕向ければって、花咲が言うと黒いイメージしかないんですが。
「ま、というわけでできるだけゆっくりと歩こー!」
「おー!」
筑紫が空にグーパンチをかますと、葵もそれに肖ってグーパンチを空に突き上げる。そんなノリノリな二人の様子を見て、俺は深く溜息をついた。
人様の恋愛なんかに顔を突っ込むのは、やはりなんとなく気に入らない。そりゃ今まで俺達腐れ縁の中でそういう話に縁がなかったから、冷やかしたくなる気持ちもわからんでもないが……。
「気に入らねぇ。そんな顔してるわよ」
後ろで微笑を浮かべながら歩いていた花咲は、いつの間にか俺の横に並び、俺の頭ひとつ下から微笑を浮かべてくる。
「……お前は心が読めるのか?」
「あら、否定しないのね?」
「質問に質問で返すなよ」
俺はまた一つ小さく溜息をつく。
「あーそうだよ気に入らないねー。なんていうかさ、やっぱ人の恋愛に首突っ込むほど野暮なことはねーよな」
「でも、今の二人きりの状況を作ったのはあなたじゃない」
「実際にやってみて、だよ」
心のもやもやを砂利道の石ころに篭めるように蹴飛ばす。
「なんかフェアじゃないっつうか、正々堂々としてないっつうかさ。恋なんて、他人に左右されて作られるもんじゃねえだろ」
俺らの少し前では筑紫と葵がやけに楽しそうに談笑している。性格が合えば、ああやって仲良くなったりするんだから。
「あなたのほうがよっぽど正々堂々としてないじゃない」
気づくと立ち止まっていた花咲は、目許を前髪で影を作りながら無表情でそう言った。
「……え?」
俺は振り返り花咲の読み取れない無表情を見つめる。少し寂しさも含んだような、憂いある表情。俺を突き刺すように見つめるいつもよりとろけるような奥二重の瞼が、一つぱしゃりとシャッターを下ろしたあと、花咲は口を開いて……、
「ハルっちゃん!」
不意に後方から俺の肩に覆いかぶさる筑紫。
「な、なんだよ?」
俺は動揺を隠すように、正露丸を飲んだような顔を向けてやると、筑紫は肩を回していない方の手を、自分の顔を半分に分けるように置く。
「頼む! 買い出し、カホちゃんと二人で行ってきてくれ!」
「は!? なんで!?」
「もうちょっと行った先にスケボーのパークがあんだけどさ、アオイちゃんもやってみたいっていうから、ちょっくら行ってきてもいいかな!?」
お前ぶっちゃけそれ目当てもあったろう。
「よくおわかりで!」
にっと白い歯を見せ「アオイちゃぁ〜ん」とルパンばりに緩い声を出しながら、足早に葵を連れて去っていった。
俺まだうんともすんとも言ってないんだが。ていうか集団の旅行でなんでそれぞれ別行動してんだ。
「……仕方ねえから行くか?」
俺が渇いた笑いを浮かべながら振り向くと、花咲は仕方なしといった表情で、こくりと一つ頷いて再び俺の隣に肩を並べた。
暫く二人無言で歩き、延々鳴きつづける蝉のお声を心配しながらも、漸く麓に降り立った。意外とこの辺りも栄えていて、カラオケやらゲーセンやらスーパーやらあるところを見ると、花岡町とあまり変わらないようだ。折角の旅行に普段と同じ環境の所に来るなんて勿体ないの一言であるが、海がある点こちらの方が避暑地としては向いているのかもしれない。
「……っしゃいませ〜」
この町のスーパー北村の自動ドアが開くと、天国のような冷気が俺達を包み込むと同時に、その冷気を更に凍結させるような無気力極まりない無表情の鼻ピアスロン毛兄ちゃんが定例句を口にする。
……なんかデジャブ感。そんなやる気のない店員を一瞥して、カゴを一つ手に取ると、俺は腕まくりをしたくなるような気分になる。
「おっしゃ、なんか久しぶりだぜこういう買い物!」
最近はショッピングモールのお上品な買い物しかしてなかったからな。ま、別にタイムサービス戦争に巻き込まれたい願望があるわけではないが、こういう小さいスーパーでの買い物の方が、一人暮らしの俺としては優越感に浸れるんだよな。わかるかな〜この気持ち。
さぁいざ行かん! というところで、俺の足は止まる。
「そもそも夕飯は何食うんだ?」
そういう計画は全て筑紫が担っていたため、メニューを聞くのをすっかり忘れていた。筑紫にメールすればいいのだろうが、今頃スケボーを操っている頃だろうから、気づかないだろう。
「あなたが新幹線の中で私を枕にして寝てる間に、筑紫くんがバーベキューやるって言ってたわよ?」
「……なんかトゲのある言い方だなぁ」
「ホントのことでしょ」
ぷいっとそっぽを向いて、さっさと野菜コーナーでピーマンやら玉ねぎやらを漁りはじめた。
なんか、花咲も怒ってないか? なんでよ旅行だよ? 楽しくやろうよ!
「……怒ってないわ」
◇◇◇
三十分ほど買い物と涼みで一休み。大量の肉と野菜を買い占め、俺達はまた地獄の炎天下に逆戻りする。早く帰らないと新鮮な食料が傷んでしまう。ちくちくと刺されるような暑さの中を、苦虫を噛んだような表情で帰りの上り坂砂利道を登っていく。
両手のビニール袋が指に食い込んで痛い。木陰なのが唯一の救いだな。
「二日目ってどこか観光しに行くのかな?」
「さぁね」
「……筑紫たち、いつごろ帰ってくんのかな?」
「さぁね」
「…………1+1=?」
「さぁね」
隣を歩く花咲の態度は相変わらず冷たい。先ほどから話しかけても、返ってくる言葉は「さぁね」の一言。
「なぁ、花咲さっきから何怒ってんだよ~」
「怒ってないって言ってるじゃない」
俺が視線を花咲に移すと、その視線から逃れるようにそっぽを向く花咲。
「なぁ、折角の旅行なんだぜ。ぎすぎすしてたら息が詰まるよ」
「ぎすぎすしてるのはあなたが……――!」
と、言いかけて慌てて口を塞ぐ。
「やっぱり怒ってんじゃん」
「……じゃあ言わせて貰うけど、あなたはただヒトハを失いたくないだけでしょ?」
「は? いきなり何の話だよ?」
「あなたとヒトハが一緒に住んでること、佐久間くんに――――、」
このままでは口喧嘩になるだろうと思った刹那、甘えるようなか細い声が俺たちの耳に届いた。視線は自然と俺たちの前方の足元に向かう。木の根っこの傍に佇む段ボール箱の中からこちらを伺うように顔を出しているのは小さな茶トラの仔猫だった。まるで「ケンカしないで」と訴えているかのように、甘い鳴き声を囁いてくる。
俺たちはお互い顔を見合わせて、眼と眼でひとまず休戦の意を汲み取ると、二人してその仔猫の前にしゃがみこんだ。
「来る時はいなかったのにな」
「私達が買い物してる間に飼い主が捨てていったのね」
仔猫は不安そうにダンボールの中を鳴きながらぐるぐると歩き回っている。
「ねぇ、仔猫は確かミルクってあげていいのよね?」
「ああ、だけど懐いちゃうと可哀想だぞ。俺たちは旅行にきてるんだ。連れて帰ることはできないよ」
「そう……よね……」
花咲はおもちゃを買ってもらえなかった子供のように目を伏せて、目の前のか弱い命を見つめている。
「猫、好きなのか?」
「好きでも嫌いでもないわ」
ちらりと俺の方を一瞥した後、花咲は仔猫の前足の下から持ち上げて、自分の鼻っ面に猫の鼻っ面を近づけた。
「あなた、捨てられたのね……。でもね、あなたは連れていけないの。ごめんね……――」
そう呟いた花咲の横顔は、とても悲しそうに見えた。大事な形見を失くしてしまったかのようなその表情に、俺はかける言葉が見つからなかった。代わりに理解しているのか否か、仔猫がどこか嬉しそうな鳴き声を発してくれたのが救いだ。
花咲は仔猫をダンボールにそっと置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「行きましょ、草野くん」
「あ、ああ……」
仔猫に背を向けた花咲はどこか早足で、仔猫の悲痛な鳴き声にも振り返ることもなくその場を去った。その背中はどこか憂いを帯びて、とても小さく見えた。