第7章「出立」
飛翔板に、食料、路銀・・炎熱剣。レックスは神国神
殿の自室で荷物をまとめるとすぐ、遙か上の階にあるフ
ィアンの部屋を訪ねた。
星の瞬きと海を渡る船の明かりが、廊下の窓の外に浮
かび上がっていた。
フィアンの部屋の扉には、細やかな花の模様が彫刻さ
れ、それを開けたすぐ向こうで、暗黒の女神は若き火神
の訪れを待っていた。
「どうしたのレックス?こんな時間に……。」
ゆったりとソファに体を沈めたまま、フィアンはレッ
クスへとその美しい顔を向けた。
部屋の電灯は消されており、蝋燭の赤味がかった炎だ
けが、夜の暗闇にささやかな光を投げかけていた。
勝手知った調子で、レックスはフィアンの向かい側に
腰を下ろした。
「今度はシーボームへ行ってくる。例の幻神達がそこに
現れたって聞いたからな……。」
薄赤い闇の中で、フィアンの貌は白く冴々とした光を
放っていた。
「そう……、シーボームへ……。」
吐息に揺らめく薄明かりに、フィアンの微笑みもまた
揺れた。
レックスはいつも、魔物の討伐や冒険の旅など、何事
かを行う前には必ずフィアンの下を訪れていた。
フィアンへの思慕か、或いは道中の安全を祈る儀式め
いたものか・・既に習慣となって久しいレックスのこの
訪問を、フィアンはただ妖しい微笑を浮かべて迎えてい
た。
「ふっ。幻神如き、俺様の相手にはならねえが、久し振
りに大暴れ出来そうな感じがするぜっ!」
レックスは自らの血のたぎりを感じ、嬉しそうに笑う
とソファにふんぞり返った。
「・・お前にとっては、また新しい冒険の旅が始まると
言う訳ね……。」
何処か、寂しく・・憐れみの響きすら含んだフィアン
の言葉だった。
フィアンの紺碧の瞳は暗闇の中にあっても、その奥に
潜む全てのものを見通すかの様に輝いていた。
闇の中に座すレックスの心の奥もまた・・暗黒の女神
の眼力に晒されるものの一つに過ぎなかった。
「そう・・冒険だ!強敵との戦い!莫大な財宝!色んな
土地での旅!」
拳を振り上げそう叫び・・レックスは、ひどく寂しい
表情になった。
それは、傲慢で自信に満ち溢れた普段のレックスから
は想像も出来ないものだった。
自分の為の冒険は、また同時に、かつて共に歩んだ仲
間・・自らが想いを寄せた炎の女神の為でもあった。
光放つ金の髪と、深く澄んだ紺碧の双眸。夜の闇に冷
たく輝く美貌の女神は、燃え盛る炎の様な荒々しさを以
って神々に恐れられていた。
どの様な巡り合わせか・・レックスは、同じ姿をした
フィアンに、彼女の面影を重ねていたのだった。
「・・レックス。」
他の神々の前では若者らしく虚勢を張り、時には傲慢
にも振る舞うレックスの、その寂しげな心の空ろを、フ
ィアンは嘲笑うでも哀れむでもなかった。
フィアンは、ただ妖美な微笑に紅い唇を歪め、優しく
レックスへと声を掛けた。
「レックス……。今度の事は、お前だけの冒険には留ま
らないわ。きっと、多くの神々が巻き込まれる・・。」
「え!?」
レックスはフィアンの突然の言葉に、驚きの声を発し
た。
「・・しっかりおやりなさい……。」
初めて耳にするフィアンの励ましの言葉に、レックス
は一瞬耳を疑った。
だが、すぐにいつもの不敵で傲慢な笑みを取り戻し、
勢いよくソファから立ち上がった。
「・・じゃあ、行ってくるぜ……。」
その後に続こうとしたレックスの呼び掛けは、フィア
ンの名ではなかった。
フィアンと同じ・・かつての仲間の精悍で美しい貌が
一瞬、レックスの眼前をよぎった。
その名を呑み込み、レックスは決然とした表情でフィ
アンを見た。
「行ってくるぜ、フィアン。・・あんたの所に来るのも
もうすぐ終わらせるよ……。」
機械神レウ・ファーの神国への反乱や、幻神達の暗躍
・・。いつに無く血がたぎり、また緊張に引き締まる自
分の心に、レックスはどの様な予感を抱いたのか……。
フィアンはレックスの言葉の意味を問いもせず黙った
まま、闇の中で炎の様に翻る真紅のマントが、扉の向こ
うへと立ち去るのを見送っていた。
◆
レックスが立ち去ってどの位の時間が過ぎたのか、扉
の向こうから一条の白銀の光が差し込んだ。
天空の星々の運行を刻印した円板を頂く錫杖を手に、
フィアンのかつての夫は足音も無く部屋を訪れた。
「最近よく来るけれど、随分と天極の神様はお暇な様ね
ぇ……。」
冷たく笑うフィアンの態度にも、エンフィールドは気
分を害した様子は無かった。
白銀の長衣の裾を引き、エンフィールドはつかつかと
フィアンの横に近寄ると、無造作にフィアンの腕を掴み
上げた。
痛ましい、とでも言う様にエンフィールドは眉根を寄
せ、そのままそっとフィアンの細い腕をソファの上に戻
した。
「私の手を撥ねのける力も無いか。体力も落ちる一方だ
な……。」
静かにそう言い、エンフィールドは、蝋燭の灯火の中
に美しく輝くフィアンの顔の下の・・衰え、老いさらば
えた女神の姿を想起した。
そしてそれは、幼い少年の姿を保ちながらも既に老境
に近付いたエンフィールド自身の、いずれは迫り来る近
い将来の姿でもあった。
「レックスやティラル、バギル・・あの子達は、夜明け
にシーボームへ出発するそうよ。幻神がそこに現れたそ
うよ……。」
フィアンは表情一つ変えず、指一本動かさずに冷たく
言った。
全ての暗黒とそこに潜む者とを従えて座す、この昏く
冷たい美貌の女神に、指一本動かす体力すら残っていな
い事を、かつての夫だけが知っていた。
「シーボームか……。レウ・ファーの狙いは、「神々の
森」にあるレイライン集束点だ。そこに向かった幻神は
ロウ・ゼーム……。・・偶然か、必然か。」
エンフィールドの溜め息混じりに漏らした言葉に、フ
ィアンは微かに笑った様だった。
「運命の神のあなたが、そんな言葉を使うのね……。人
間臭い事……。」
エンフィールドはフィアンの横に立ち、生真面目な表
情で錫杖の星座板を見つめていた。
「ロウ・ゼーム……。あの者はシーボームの近くで生ま
れたのだったな。百二十年前、あの地方に虚空から呼ば
れた魔物が暴れ回った時、恐るべき神霊力を示したな。
・・彼女は再び戦うのか。この地上の緑を守る為に。」
「レウ・ファーとも、いいえ、レックス達とだって戦う
でしょうよ。・・あの子はむしろ、その本性は荒ぶる神
か・・地上に住む人間やそれに近しい神々の理法には属
さない、私達の様な神に近いもの……。」
自らを慕うレックスがゼームと戦うという想像にも、
フィアンは全く心を動かされた様子は無く、淡々と言葉
を発した。
シーボーム。「神々の森」。そして、かつてロウ・ゼ
ームが倒した魔物。
偶然か、必然か?フィアンもまた、心の中でエンフィ
ールドと同じ言葉を呟いた。
それらが、互いにつながりを持っていると言う事を、
フィアンとエンフィールドは見抜いていた。
かつての妻の容体が、取り敢えずは無事である事を確
かめると、エンフィールドは錫杖を突きつつ扉へと足を
向けた。
「レウ・ファーも、「奥の院」の連中も、その狙いはは
っきりとは分からんが・・。どちらもレイライン集束点
に手を出そうとしておるな……。星の運行にそう現れて
おる。」
扉へと歩むエンフィールドの背にちらりと目を向け、
フィアンは夫の言葉を繰り返した。
「偶然か、必然か?・・必然でしょうね。「奥の院」の
者達も道楽が過ぎるわ。」
冷たい侮蔑を含んだ笑いに、フィアンの紅い唇が歪ん
だ。
「全く。・・世界の美しさも、温もりも理解出来ぬ愚か
な年寄りの集まりだ。」
軽蔑に満ちた言葉を残し、エンフィールドは扉をくぐ
り妻の部屋を後にした。
訪問者の去った後、フィアンは蝋燭へと向けて息を吐
いた。
ささやかな一息が蝋燭を吹き消した後、フィアンの部
屋は深い暗黒の中に包み込まれた。
◆
水平線の向こうから姿を現した太陽が、群青の影の揺
れる海原に白と茜を纏った暁光を照らし始めた。
神山半島の岬を洗う海の面にも、岩に砕け散る波頭に
も、夜の名残の薄闇は退いて、朝の訪れを告げる陽光が
活き活きとその上で躍っていた。
神山半島・・神国神殿を包み込む森の木々もまた、朝
もやと暁の輝きの中で、芳しい緑の香りを放ち始めてい
た。
神域に建ち並ぶ神殿の石材の白、森の緑、空と海の青
・・全ての色が、朝の到来に再び輝きを取り戻していっ
た。
「・・朝早くに済まなかった。何しろ、急に出発が決ま
ってしまってね……。」
神国神殿本殿の自室で、ティラルは通信球の上に映し
出されたラノに笑いかけ、すまなそうに頭を掻いた。
神州大陸から遠く離れたチェルロ大陸に居るラノの姿
を、神々の技術は目の前に居るかの様な、鮮やかな色彩
と質感さえ伴って、掌に乗る程の水晶玉の上に出現させ
ていた。
「・・そう……。ゼームが、シーボームに……。」
かなり早い朝食の並ぶテーブルの上に置かれた通信球
の上で、美しい胸像の様な像を結ぶラノの姿は、悲しく
暗い翳りを帯びていた。
それが早朝に起こされた疲れだけではない事を、ティ
ラルは充分に分かっていた。
「もう……百二十年経つんだな。ゼームがシーボームか
ら神国に来て……。」
友を想うラノとはまた別の感慨が、ティラルの胸中に
は溢れていた。
百二十年前、シーボームの周辺を含む「神々の森」で
魔物が暴れる事件があった・・。その討伐にティラルは
シーボームを訪れ、そこで初めてゼームと出会ったのだ
った。
「・・レックスは、幻神達をぶっ倒すとかって、息まい
ていたそうね……。ティラル、あなたもなの……?」
立体映像の中でラノは悲しげに俯いたまま、ティラル
を見ようともしなかった。
レックスも決して、血生臭い事を好む野蛮な神ではな
かった。傍若無人に振る舞ってはいても、むしろその本
質は情け深い青年なのだと、ラノもティラルも長い付き
合いの内に見抜いていた。
しかし、それでも・・ひと度戦闘という事にでもなれ
ば、双方共無傷で済むという訳にはいかないだろう。望
まなくとも、互いに殺し、殺される事態になる事もあり
得る・・。
「いや・・そんな事は。……とにかく私は、出来るだけ
の事をしてみるつもりだ……。」
かつての・・いや、今も大事な友である事には変わり
の無いゼームを、このまま神国への反逆者として討たせ
る訳にはいかない。彼女と殺し合いを演じるつもりもさ
らさら無い。
強い決意を抱きつつも、その思いをラノへと表すティ
ラルの言葉は、ありきたりの空疎なものとなってしまっ
ていた。
そんな思いがラノへ届いたかどうか。ラノは悲しみに
うちひしがれた顔をやっと上げると、ゼームを連れ戻そ
うと決意を固めるティラルにとっては意外な言葉を発し
たのだった。
「・・あのね、ティラル。ゼームはもう……私達の所に
は、戻って来ないの……。でも、お願いよ……。ゼーム
を傷付けたり、殺したりしないで……。」
「ラノ!?」
今にも涙のこぼれ落ちそうなか細い声がティラルの耳
に届き・・ラノの方から通信は打ち切られてしまった。
自分の親しい友同士が刃を交わし、傷付け合う事態に
ラノは絶えず胸を痛めていたのだろう。
既に映像の掻き消えた宙空に、ティラルは慈しみのこ
もった視線を向けた。
・・ゼームを殺させはしない。ティラルはラノの傷付
いた心を想い、強い決意を抱きもう一度通信球を見つめ
たのだった。
◆
太陽が空高く上り、昼を少しだけ過ぎた頃に、植物採
集からセデトとヒロトが家に戻って来た時も、ゼームは
生け垣に囲まれた庭の片隅で瞑想に耽っていた。
生け垣の向こうに時折、ゼームの様子を窺いにそっと
歩く精霊達の姿が見えた。
早朝に二人が出掛けた時も、いつ起き出したのか、既
にゼームはそこに腰を下ろしていたのだった。
昨日、ゼームは精霊達やヒロトの前で、明後日にこの
土地の全てを植物で埋め尽くすと宣言した。その時の体
力や精神力を蓄える為に、ゼームはずっと瞑想を続けて
いたのだった。
閉じる事の出来ない額の瞳の上で、のどかな田舎の民
家の景色が揺れていた。
ゼームは瞑目したまま微動だにせず、その体の内側で
行われている筈の体力や精神力、神霊力の凝縮の様子を
窺い知る事も出来なかった。
瞑想に没入するゼームの姿は草花や樹木の様な趣すら
漂わせ、その横をヒロトは集めた苗の入った袋を抱えて
恐る恐る通った。
セデトとヒロトが注意深く体を動かしても、古い木戸
はがらがらと開き、苗袋はどさどさと大きな音を立てて
土間の上に落ち着いた。
暫くの間を置いてゼームが両目を開き、二人の方に顔
を向けると、ヒロトは申し訳無さそうに眉を寄せた。
「もう帰って来たのか……。早かったな。」
ゼームはそう言って立ち上がった。立ち上がり様に、
肩から伸びた葉と蕾とがかさかさと音を立てて風に揺れ
た。
「ゼーム様、もうお昼過ぎだよ。」
土間に入り、ヒロトは袋から苗を取り出しながら、ゼ
ームに笑い掛けた。
ゼームもまた、あるか無きかの微かな笑みを返した。
「ヒロト、昼飯を食ったらすぐ仕事じゃ。急げよ。」
疲労に痛む腰をさすりながら、セデトはヒロトに呼び
掛けた。この土地へのゼームの訪れと、全てを緑に沈め
るという恐るべき宣言により、セデトは全ての仕事を明
日迄に終わらせなくてはならなくなった。
明後日、ゼームの力によってセデト達の住むこの地区
も森林に沈んでしまう筈だった。
ゼームの力が、必ずしも三年前の森林の状態に戻す訳
ではない事を、老学者は見抜いていた。
だが、彼はゼームのしようとしている事を批判するで
もなく、かと言って卑屈に怯えるでもなかった。
ゼームは神なのだった。その神の力の前に、人間の身
であるセデトに一体何が出来るのか。
明後日起こされる事をそのままに受け入れ、セデトは
今自分に出来る事に専心する事を選んだのだった。
彼が今迄収集した植物の内、その何割かはゼームの力
を受けて活性化しても、他の種類の植物との競争に敗れ
て枯死してしまうと予想された。
それを防ぐ為に、セデトは昔の人脈を辿り、苗の引き
取り先を探していた。
友人や知人の働く植物園や、森林公園、また信頼の出
来る園芸家や種苗業者達・・。彼等に宛てた荷物の発想
を明日には終えなければならなかった。
苗の分与は開発工事が始まった頃から考えていて、各
地の知人と連絡を取り合っていた事だったので、セデト
の大急ぎの発送にも彼等は快く応じてくれた。
彼等はシーボームの乱開発に関心を寄せ、協力を申し
出てくれたのだった。
パンとスープだけの昼食を済ませるとすぐ、セデトと
ヒロトは午後の作業に取りかかる事にした。
「わしは苗の植え付けをしておるから、お前はガニュモ
の森の工事現場に行っておくれ。もう、あそこで苗の採
取は終わりじゃ。」
黒いビニールポットを括った紐を解きながら、セデト
は小さな植物図鑑と手書きの地図をヒロトに渡した。
図鑑には採取する植物に丸印が付いていた。
「うん、夕方迄には戻るよ。」
背負い袋に図鑑と地図とを放り込み、ヒロトは玄関を
出た。
その前に立つゼームの姿を認め、ヒロトは不思議そう
に顔を上げて立ち止まった。
ゼームはセデトの方を向き、
「ガニュモの森か。・・私も行こう。」
ゼームの意外な言葉に、セデトもヒロトも驚きに目を
丸くした。
「ガニュモの森も懐しい。今どうなっているか、見てお
きたい・・。」
二人の驚きを意に介する様子も無く、ゼームは先に立
って歩き始めた。
ゼームの同伴に、漠然とした緊張や戸惑いを感じなが
らも、ヒロトは慌ててゼームの後を追った。
◆
赤土が剥き出しとなり、整地はされたもののまだ舗装
はされていない道を歩きながら、ゼームは辺りの眺めに
溜め息をついた。
「・・全く、ことごとく変えられてしまったな・・。」
道の途中に、「木材加工工場・予定地」と言う立て看
板があった。
看板に目を向けたゼームに、ヒロトは自分達の進む方
角を指差して説明した。
「もう、この辺りからガニュモの森迄は、殆ど整地が終
わってるんだ。工事中は立ち入り禁止で、採集が出来な
かったんだ……。」
小石を蹴飛ばし、ヒロトは看板の前を通り過ぎた。
「・・ガニュモには、サモレテの花の変種の自生地があ
ったな……。」
懐かしむ様な口調でゼームは、ヒロトの背負い袋から
僅かに覗く植物図鑑へと目を向けた。
「かなり昔には、サモレテの前には野生のポセネがあっ
た。人間にとっては珍しかったのだろう。採掘やサモレ
テとの競争に負けて絶えてしまったな……。」
無口とも思える物静かな女神の、しみじみと懐かしそ
うに昔の事を語る様子に、ヒロトは少しずつ親しみを感
じ始めていた。
「へえ!シーボームにもポセネが生えてたんだ!」
小石が無数に転がる赤茶けた道を踏みしめ、ヒロトは
ゼームを見上げて尋ねた。
「ゼーム様はシーボームを出て、何処に行ってたの?」
ヒロトの問いに、ゼームは静かな声で答えた。
「・・神国神殿で暮らしていたよ。チェルロ大陸の方に
滞在する事も多かったな……。」
チェルロ大陸・・そう答えた時に、ラシル湖の畔に豊
かな髪をなびかせて佇むラノの面影が、ゼームにははっ
きりと見えた様な気がした。
そんなゼームの思いとは別に、神国神殿と言う答えに
ヒロトは華やかで美しい場所を想像して目を輝かせた。
神州大陸の中とはいえ、田舎で暮らす幼い少年にとって
は、世界の全ての神々が集い暮らす場所など直に見る機
会は全く無かった。
そんなヒロトへと目を向けながら、ゼームは、今脳裏
をよぎったばかりの、たおやかな水の女神の姿を何度も
思い返していた。
ラノは今頃どうしているのだろうか?ほんの数日前に
別れたばかりなのに、もう何百年も前に別れたきりの様
な錯覚がゼームにはあった。
「ねえねえ、ゼーム様は今何歳なの?いつシーボームか
ら出て行ったの?」
「そう・・だな……。」
子供らしい好奇心に目を輝かせて次々と問いを発する
ヒロトに、あるか無きかの微かで柔らかな笑みを浮かべ
て、ゼームはぽつりぽつりと答えていった。
ガニュモの森迄はまだ暫くかかり、道中の気晴らしに
セームの昔話はヒロトにとって面白いものだった。
◆
・・ゼメレの森でゼームは誕生し、二日後には既に今
と変わりの無い姿となっていた。三日目には人間の少女
程の知能と自我とを獲得していたのだった。
森の精霊達も、この新参者を快く受け入れ、ゼームは
彼等の仲間として暮らし始めたのだった。
森の中で気ままに暮らす内に、やがてゼームは植物を
巨大化させたり、活性化させたりする力に目覚めていっ
た。荒れ地は瞬く間に森林や草原に変貌し、森林は巨樹
の立ち並ぶ密林へと成長していった。
植物の成長に関与する能力の為に、ゼームは森の精霊
達から一目置かれる存在となった。
やがて、長ずるに従い、植物の命の営みから多くの深
遠な智慧を授かり、またその神霊力も神と呼ばれるに相
応しい強大なものとなっていった。
そうして、ロウ・ゼームと言えば知らぬ者の無い緑を
司る幻神として、土地の精霊や人間から敬われる神とな
ったのだった。
しかし、広く知れ渡った名前に反し、ゼームの姿を人
間が見た事は殆ど無かった。
そのゼームが、多くの人間達の前に姿を現し、人里に
やって来たのは百二十年前が初めての事だった。
「?……じゃあ、それ迄は、村にはやって来た事が無か
ったの?」
ヒロトの素朴な問い掛けに、ゼームはゆっくりと頷い
た。
「ある・・正体も知れない魔物が、「神々の森」やその
周囲の土地を荒し回った事があった……。私は、その魔
物と戦う為に、シーボームの村へとやって来た。」
当時を振り返るゼームの瞳の上で、森を焼き払おうと
する魔物の炎が揺らめいていた。




