第6章「空の孤影」
雲一つ無い空は、濃さを増し始めた茜と紫の色彩の黄
昏の中に沈もうとしていた。
神国神殿から北へ数キロ程離れた場所に、ドバーラと
言う町があった。この町並もまた、次第に迫り来る夕暮
れの中に浸りつつあった。
「・・全く、何て事なの……。」
人通りも無くなった裏通りに、息を弾ませて走る女神
の姿があった。
軽くロールした黒髪を振り乱し、くしゃくしゃに崩れ
たリボンを結び直す余裕も彼女には無かった。
書物の神エトラージュ・・彼女は今、追手から逃れよ
うと夕闇の田舎町を必死で走り続けていた。
暫くすると小さな公園に差しかかり、エトラージュは
後ろを振り返る余裕も無く駆け込んだ。
既に植え込みの木々は暗い陰を孕み、公園の中は頼り
なげな電灯の光が幾つか灯っているだけだった。
薄暗い電灯の側でエトラージュは立ち止まり、乱れた
呼吸を整えようと何度か大きく息を吸った。
が、こちらへと向かって来る追手の足音を感じ取り、
ゆっくり息を整える間も無く、エトラージュは再び慌て
て走り始めた。
まさか、自分がこうして狙われる事になるとは・・。
エトラージュは今日、ドバーラで開催された古書市に
招かれたのだった。書物を司る身である為に、神国各地
の書物に関する催し・・古文書の展示会や、出版社のパ
ーティなどに招待される事も多かった。
レウ・ファーの神国離反の騒ぎの折に、彼女の司る神
国国立図書館のコンピュータも破壊され、ドバーラに招
かれる直前迄その復旧作業に追われていた。
その作業を何とか終え、気分転換も兼ねて古書市の招
待に応じ、久し振りに楽しい一時をエトラージュは味わ
ったのだったが……。
「・・アナタの「深い闇」をもらいに来たワヨ!」
エトラージュが、花の終わって久しい椿の植え込みの
ある角を曲がったところで、野太い声と紫衣のゆらめき
が行く手を遮った。
「ファイオ……!」
エトラージュは驚きに息を呑み、反射的にあとずさっ
た。
その背が、何か硬い物へとぶつかり・・振り返ったと
ころで、ファイオの右手に絡み付いた幻獣の鞭が一閃さ
れた。
背後に居た邪神に驚いて気絶したのか、それとも「深
い闇」を奪い取られる時のショックなのか。
エトラージュは小さく悲鳴を上げたきり、その場へと
崩れ落ちた。
◆
神国神殿の麓の地域には、ヴァティと言う神国神殿へ
の参拝と観光で潤う町があった。
すっかりと辺りは夕闇の中へと包み込まれ、黄昏の名
残か、西の空に微かに赤紫の光が留まっていた。
町を行き交う者の数も、次第にまばらになりつつあっ
た。彼等の殆どが、神国神殿の参拝と観光に世界各地か
らやって来た人間と精霊達だった。
「はぁー!食った食った!」
「あの店、結構安かったなぁ!」
シャッターを下ろし始めた商店の連なる通りを、一杯
引っかけたのか、顔を赤らめて賑やかに歩く若者達の一
団があった。
その中に、バギルの姿もあった。
バギルを取り囲む様にして、人間の青年達は笑い声を
上げ、互いに機嫌良くお喋りを続けていた。
「まさか、バギル様も神国神殿にいらっしゃるとは思い
ませんでした!」
「てっきり、もう冥王様の所に行ったのかと……。」
小さな屋台で買った揚げ菓子を頬張り、賑やかに声を
上げるのは、ダイナ山麓のバギルの神殿で働く人間の若
者達だった。
観光旅行も兼ねて彼等は神国神殿に参拝に来ていた。
神国神殿でバギルと偶然に会い、そのままヴァティの
町に夕食を取りに下りたのだった。
「じゃあ、俺はもう神国神殿に戻るから・・。」
川べりの小道に差しかかり、バギルがそう言いかけた
ところで、突然、何処からか悲鳴が聞こえてきた。
まだ日も沈んだばかりの時間で、その悲鳴に通行人達
も不審げに辺りを見回し、小道に面した民家からも、何
事が起こったのかと住人達が姿を現した。
「・・向こうか!」
ほろ酔い気分も一気に冷めてしまい、バギルは悲鳴の
聞こえてきた方角の見当を付けると、若者達を置いて駆
け出した。
悲鳴は入り組んだ路地の奥から何度か上がっていた。
バギルが声の聞こえてくる方に近付くにつれ、その声
の主に聞き覚えがある様な気がし始めていた。
何度か道を折れた袋小路の先に、バギルは見知った雷
神の姿を認めた。
「・・雷公!?」
首から小太鼓を下げ、銀髪から二本の角を覗かせた雷
神の少年が、気を失って立ち尽くしていた。
バギルの声に振り返ったのは雷公ではなく、両肩に水
晶玉の縫い付けられたマントを纏った赤毛の少女神だっ
た。
雷公は、彼女に付き従う陶器の肌の化け物から伸びた
四本の腕に捕らえられ、無意識の内に呻き声を漏らして
いた。
「お前ら・・レウ・ファーの手下か!?」
赤毛の少女・・パラの額に第三の瞳があるのにバギル
は気付いた。彼女に従う化け物にも見覚えがあった。
邪神の腕から離され、石畳の上に倒れ込んだ雷公の様
子から、パラが「深い闇」を採取に来たのだとバギルは
理解した。
「ひどい事しやがってっ!!」
気絶した雷公へと駆け寄り、バギルは拳を握り締めて
パラを睨んだ。
「それは、「友情」とか、「思い遣り」というものなの
かしら?」
バギルの射る様な視線にも動じる事無く、パラは小首
をかしげて問い掛けた。
「?」
バギルはその問いに一瞬呆気に取られてしまったが、
問いを発したパラの様子には嘲りよりも、むしろ幼児が
物を尋ねる様な素朴さが感じられた。
パラを見つめるバギルの隙を突いて、刃状に変化した
手を振り翳し、邪神が二神の間に割って入った。
邪神がバギルの前に立ち塞がっている間に、パラはこ
の場から脱出しようと一、二歩、背後のレンガ塀へと後
退した。
バギルは慌てて手を伸ばし、パラを呼び止めた。
「おい!待ってくれ!・・俺をラデュレーに連れて行っ
てくれないか!」
バギルの呼び掛けに、パラは立ち止まった。
「何故?」
パラの問いに、バギルは叫ぶ様に答えた。
「友達を連れ戻したいんだっ!!」
バギルの紅い瞳は真っ直ぐにパラを見つめ、同時にラ
デュレーに居るザードの姿を追っていた。
「・・ヒウ・ザードの事ね……?」
やや俯きがちにパラは呟いた。
初めて、幼さを留める少女の顔に影が差し、捉え所の
無い苛立ちの様なものに感情が乱れた。
それが、ザードを想うバギルの持つ友情というものへ
の嫉妬と理解するには、パラは余りに生身の感情を知ら
なさ過ぎた。
乱れる感情を押し隠し、パラは努めて冷淡にバギルへ
と言い放った。
「昔と比べ、別人の様になってしまったと聞いたわ。あ
なたを傷付けたとも……。そんな奴に何の用があるって
言うの?」
仄暗い嫉妬の影を帯びたパラの問いにも、バギルは笑
みすら浮かべ、明快な口調で答えた。
「俺の大事な友達だからさ!・・それに、あいつは本当
は優しい奴なんだ!元に戻してやりたいんだ……!」
大切な友達を連れ戻す事だけを一途に強く思い続ける
バギルの様子に、パラは強く不思議な痛みや苛立ちを感
じ続けた。
「友情」「思い遣り」「好意」・・そうしたものは、
ラデュレーで孤独に生き続けてきたパラには、決して誰
からも向けられる事の無かった感情だった。
バギルやザード・・この者達は、自分が得られなかっ
たものを、全く当たり前の事として享受していた。
そう思うと、パラは嫉妬に強く唇を噛んでいた。
「誰が・・案内してやるもんですか!下らないトモダチ
ごっこに付き合うつもりは無いわよッ!」
低く唸る様に声を発し、パラは片手を振って邪神に合
図を送った。
縦に裂けた邪神の顔面の亀裂が広がり、その奥にある
眼球から白光が迸った。
バギルが身構えるより早く、邪神の目から光線が吐き
出され、石畳が大きく抉り取られた。
それと共に吹き飛んだ石の破片が、幾つかバギルの肩
や頬を掠めた。
バギルとザードの事に、パラが何故こうも苛立つのか
当のパラにも分からないまま、パラは邪神の背に飛び乗
った。
コウモリの様な翼が四枚広がり、邪神は瞬く間に空高
くへと飛翔した。
「待てっ!!」
バギルは地面を蹴って跳躍し、邪神の足へと手を伸ば
した。
しかし、邪神は僅かに膝を曲げて、掴みかかるバギル
の手を躱してしまった。
「畜生っっ!」
地面へと叩きつけられた背中の痛みも構わずに、バギ
ルは起き上がって空を見上げた。
「逃げられたか……。」
星々の瞬きが夜の始まりつつある空にあるばかりで、
パラと邪神の姿はもう、そこには無かった。
ラデュレーへの手掛かりに逃げられ、バギルは悔しさ
に石畳を殴りつけた。
◆
空中城塞都市ラデュレー・・レウ・ファー達が拠点と
して使用している神殿の前庭で、ゼズは崩れかけた石の
ベンチに腰を下ろしていた。
植え込みも、池の水も、全ては枯れ果てて崩れ去り、
今はただ、石の敷き詰められた道や、大小の彫刻、アー
チや円柱が、何かの死骸の様な白い姿を並べているだけ
だった。
雲一つ無い鮮やかな青空と、容赦無く降り注ぐ陽光に
晒される白い石材。
全てはただ、乾いて白々とした光の中に浮かび上がっ
ていた。
そんな目の前の光景に、ゼズは七千年前の空中都市の
栄華の様子を想像すら出来なかった。
幻獣創造のアトリエとしては、この上も無く静かで理
想的な環境なのだが・・。ゼズは頬杖をつき、溜め息を
漏らした。
漫然と物思いに耽るゼズの視界の片隅に、二つの影の
様なものが出現し・・気付いたゼズが顔を向けた頃には
前庭の入り口に降り立っていた。
両肩の水晶玉が日の光に強い輝きを返し、ゼズはそれ
がパラと邪神だとようやく分かった。
水晶の反射に、パラの顔は白く照らし出されていた。
「・・日光浴なの?」
ゼズの座るベンチに差しかかると、パラは小首をかし
げて声を掛けた。
「まあ、そんなところだ……。」
ゼズは答えながら、パラの背後に従う邪神へと目を向
けた。
平面的な模様を思わせる瞳や、粘土を伸ばした様な体
の突起など・・元々の幻獣の姿を幾らかは留めつつも、
レウ・ファーの細胞の力によって作り変えられた邪神の
姿は、見る度にゼズを不快にさせた。
そんなゼズの表情の変化に気付き、パラは、何処か軽
蔑した様な響きを含む声を掛けた。
「あなたの気が知れないわ。どうして、レウ・ファーの
手伝いをしないの?」
少女の問いは何処迄も、幼子が物を尋ねる様な素朴な
感情に支配されていた。
その幼さは、自分達の行為が地上の神々や人間の生活
や命を脅かす危険なものだとは、充分には理解していな
い様だった。
「・・私はね。自分の創ったものを誰にも渡したくはな
いんだ……。私の作品は、誰の物でもない・・私だけの
物だからね……。」
相手が幾つか年下というせいか、ゼズはいつしか、妹
に言い聞かせるかの様な口調になっていた。
今頃、ファレスとファリアの二神はどうしているのだ
ろうか?
南北の方角も分からない青空を見上げ、適当な方を向
くと、ゼズはその先にハルバルン島を思い浮かべた。
ふとゼズの目に湧き起こった優しげな色を、パラは不
思議そうに眺めた。
ゼズが何処を向いて、何を見ているのかと、パラもま
たゼズの横に屈み込んで同じ方角へと顔を向けた。
「わたしが、あなたの言う事を理解出来ないのは、きっ
と……地上での生身の生活経験が無いからだと思うの…
…。」
空を見上げるパラの視界の片隅で、邪神は次の命令を
待ってただずっと同じ場所に立ち続けていた。
「・・でもね。」
立ち上がるパラから漏らされた声には、幼さを感じさ
せる彼女にはそぐわない、暗い感情が渦巻いていた。
その声にゼズが隣に立つパラを見上げると、そこには
悲しげに俯く少女の可憐な顔があった。
「私はずっとここで日光浴をしてきたの。もう、そんな
生活は・・いいえ、こんなもの生活とも言えないわ!そ
んな毎日はうんざりなのよ!」
二百年以上この空中都市で、世界の何処からも切り離
され・・ただ時間だけを食い潰して生きてきた少女の、
悲しみと憎しみに満ちた叫びだった。
パラは言い終えると、そのまま踵を返して神殿への入
り口へと足を向けた。
邪神もまたパラの動きに合わせ、その後に続いて歩き
始めた。
ゼズはただベンチに座り続け、石段を上がって神殿の
玄関へと吸い込まれるパラの後ろ姿を見送っていた。
◆
手当てをしなければならない怪我などは無いと、ラノ
が襲われた時の経験で分かってはいたが、バギルは倒れ
た雷公を念の為、ヴァティの医者に預けて神国神殿へと
戻って来た。
バギルが神殿に帰り着いた頃には、すっかり夜も更け
て、神々の大半も眠りに就いていた。
そのまま眠る気にもなれず、中途半端な眠気を持て余
しつつ、何をするでもなくバギルは自室で起きていた。
どの位時間が経ったのか、少しずつ眠りの中にバギル
が身を任せ始めたところで、部屋の扉をノックする音が
響いた。
軽く欠伸をしながらバギルが扉を開くと、紫昏、レッ
クス、サウルスの三神の姿があった。
「・・何だ、紫昏か。どうしたんだ?こんな時間に。」
気だるげに尋ねるバギルに、レックスは嬉しそうに笑
いかけた。
「喜べ!護法庁に、シーボームとか言う町の警察から連
絡があったぜ!そこに幻神が居るってな!」
「本当かっ!?」
喜びに眠気も消え失せ、バギルもまた嬉しそうにレッ
クスの方へと身を乗り出した。
「明朝・・いや、もう時計は今日か。夜明けに出発する
事に決めた!遅れんなよ!」
「ああ!そっちこそな!」
レックスは一方的に段取りを仕切り、その場の面々に
言い渡した。
レックスがリーダーを気取るのはいつもの事だったの
で、バギルもさして反発せずに請け合った。
「お、おい、話はまだ……。」
紫昏が口を挟む間も無く、レックスは荷物をまとめて
来ると言い残して自室へと走り去ってしまった。
「全く……。」
呆れて溜め息をつく紫昏に、サウルスはがははと笑い
声を上げ、
「まあ、いつもの事だ。」
紫昏はもう一度溜め息をつき、バギルを振り返った。
「・・まあ、レックスの言った通りだ。今回はすまない
が、シーボームへは君とレックス、ティラルの三神で行
ってもらいたい。」
急な連絡でもあり、シーボームへ行ける頭数を揃える
時間が紫昏には無かった。
「それに、護法庁は地元の活動を尊重すると言う事で、
今回は派遣の人手も割けない・・。」
苛立ちを押し隠し、紫昏はバギルへと説明した。
明らかに、護法庁にはレウ・ファーの動きへの対応を
する動きに対して圧力がかかっていた。
長官である筈の紫昏の動きすら封じようと、足を引っ
張る部下の数は日毎に増えていったのだった。
機密保持の建前を持ち出し、戦神達への情報提供すら
批判する部下も現れ始めた。
「ティラルには俺から連絡しとくよ。もう神国神殿に来
てるんだろ?」
既に心はシーボームへと飛び、そわそわと落ち着かな
い様子でバギルは部屋を出た。
「ああ、頼むよ。私が協力出来るのはここ迄だ。・・後
は君達にかかっている。」
「おう!任せとけって!」
バギルは頼もしげに拳を振り上げ、紫昏にそう答える
と、ティラルの部屋へと駆け出した。
バギルとレックスの走り去った廊下を眺めながら、初
めて紫昏は苦々しい表情を浮かべ、溜め息をついた。
サウルスは哀れむ様な眼差しを向け、
「その様子では、かなり立場が悪くなっている様ですな
ぁ・・。」
「ええ。レウ・ファーの事件の対策本部は当分出来ない
そうですよ……。やはり、「奥の院」の息の掛かった連
中が動いている様です。」
バギルやレックス達の意気を挫かない様に、彼等の前
では口一つこぼさなかったが、紫昏もまた、はらわたの
煮える思いを護法庁でしてきたのだった。
目的すら分からない「奥の院」の者達の姑息なやり方
を許す事は、彼には出来なかった。