第4章「郷を破る者」
ゼームがシーボームに戻って来たと言う知らせは、翌
日にはそこに住む精霊達の間に広まっていた。
セデトの家には、朝から様々な精霊達が詰め掛けたの
だった。
樹木や草花に関わりのある精霊を初め、石や土、泉や
沼の精霊達も居た。彼等はゼームの帰りを喜んではいた
が、その顔はやつれ、何処と無く精彩に欠けた者が多く
ゼームの目にとまった。
彼等は住処である森林を開発工事によって奪われた為
に、その住処から供給される生命力の素となるエネルギ
ーを得る事が出来なくなっていたのだった。
「ゼーム様、よくぞ戻って来られました!」
「どうか、私達をお助け下さい!」
口々に言い寄る精霊達の中には、ゼームの見知ってい
る者も多く居た。ゼームはまた、精霊達からも多大な信
仰を受けていたのだった。
だが、ゼームは相変わらず穏やかな表情を崩しはせず
に、彼等とさほど旧交を温める訳でもなかった。
「ゼメレの森の方は今どんな様子だ?他の場所も気にな
るので、今日は色々と見て来る。」
スコップや鍬を並べて今日の仕事の準備を庭先でして
いるセデトにそう言い置いて、ゼームはセデトの家を後
にした。
まだ余り体力の衰えていない幾つかの精霊達は、ゼー
ムの後に続いて歩き出した。
「ヒロト、今日の仕事はいいから、お爺ちゃんの代わり
にゼーム様と一緒に行って来てくれんかのう?」
玄関の引き戸にもたれたまま、生け垣の出口から外へ
出て行くゼーム達の後ろ姿を眺めるヒロトの肩を、セデ
トは軽く叩いた。
けれどもヒロトは躊躇う様にセデトの顔を見上げた。
「でも……、あの女神様、何だかコワイんだ……。」
昨日、盗掘者と間違われて睨み付けられた時の迫力だ
けでなく・・人間の日々の営みとは隔たった命を生きる
緑の幻神の姿は、幼いヒロトには、近寄り難い厳しさし
か感じさせなかった。
セデトは、既に生け垣の外に出て姿の見えなくなった
ゼームの居た辺りを指差し、言い聞かせる様に囁いた。
「ゼーム様は、確かに人間にとっては恐い所のある神様
じゃ。・・じゃがな、わしの様に植物を研究する人間に
とっては、とても大事な神様なんじゃ。」
セデトの言葉にも、まだヒロトは付いて行く事を迷っ
て俯いていた。
「本当なら、わしも今日はゼーム様に付いて行きたいの
じゃが。……わしの足ではとても無理なんじゃ。」
「分かったよ……爺ちゃん。」
ヒロトは渋々頷き、ゼームと精霊達の姿を完全に見失
わない内に駆け出した。
◆
ゼメレの森は、セデト達の住む集落から徒歩で一時間
位歩いた場所にあった。
百二十年前・・いや、三年前ならば、旧街道や藪に埋
もれ掛けた小道を辿って二、三時間は掛かっていたのだ
ったが、開発工事用に小さな舗装道が通っており、それ
を歩くと一時間で目的地に着いたのだった。
道の途中に立てられた看板で、ゼームを産み落とし、
育んだゼメレの森もまた、森林公園予定地の中に含まれ
ている事をゼームは知らされた。
緩やかな坂道の上から巨木の生い茂る場所が広がって
おり・・その奥にゼームの生まれた祠と円柱の据え付け
られた小さな広場がある筈だった。
坂道に取り付けられた石段も、その周囲に慎ましげに
白い小花を咲かせる低木の茂みも、百二十年前とは殆ど
変わりが無かった。
だが、それらも近い内に切り払われ、取り除かれる運
命が迫っていた事を、「公園予定地」と大きな字で書か
れた看板が告げていた。
誰に見せる為なのか、原色の入り混じった派手な色彩
と大きな字とが、賑やかに看板の上を躍っていた。
坂道への入り口にはロープが張られ、「関係者以外立
入禁止」という立て札があった。
ゼームはその前で立ち止まり、珍しく不愉快そうな表
情を露にして今迄来た道を振り返った。
ゼームの表情に、それが自分達に向けられている訳で
はないと分かってはいても、後ろに付いて来ていたヒロ
トや精霊達は、緊張に身を固くしてしまうのだった。
アスファルトで簡単に舗装された小道の果てをゼーム
は見通しながら、何事かを思索している様だった。
「・・この道が出来る前にあった霊木の類は、悉く刈り
取られていたな・・。」
ゼームの言葉に、体中に血管とも葉脈ともつかない緑
色の筋の浮き出た若い精霊が大きく頷いた。
「はい。メセル、ルテニ、シャルト、ロシウ、テラネト
……精霊を生み出した霊木は、この道を作る時に伐採さ
れてしまいました・・。」
緑色の精霊は、悔しさを隠す事無く、憎悪に満ちた目
で真新しい道を睨み付けた。
長い長い年月を経た古木、巨木の中には、時に神や精
霊を産み落とす霊木が現れる事もあった。そうした木々
は、普通、近隣の神々や人間の手によって保護され、敬
われていた。
霊木が伐採される事などは、枯死でもしない限りはま
ずあり得ない事だった。
が、ランタと言う土地神は一体どうやって手に入れた
ものか、あらゆる木々・・保護木、霊木に至る迄の伐採
も土地神の判断に任せると言う、シーボーム周辺の開発
を認める神国の許可証を盾に、暴虐とも言える伐採を行
ったのだった。
「・・レイラインか……。」
「は?」
突然漏らされたゼームの独り言に、精霊達は驚いた様
に顔を上げた。
精霊達に構わず、ゼームはその場に立ったまま霊木の
あった位置を思い浮かべ、点線で結んでみた。
今通って来た道筋は、丁度、その点線と合致していた
のだった。
あらゆる生物は、自分の命を生かし、活力を与えてく
れる場所に惹かれて集まって来る。人間が集まればそこ
に町や村が出来るし、植物が繁茂すれば森林が出来上が
る。幻神や精霊が生まれる場所についても同様の事が言
えた。
そしてそれらは、大きな地図の上で見れば、川の流れ
の様に、幾つかの道筋を形成していたのだった。
「ゼーム様?」
俄には声を掛け難いゼームの思索の様子に、精霊達は
ただ周囲に立って、次のゼームの言葉を待つしかなかっ
た。
伐採された霊木や、シーボームの町、ゼームの生まれ
たゼメレの森・・そして、その十数キロ彼方にある「神
々の森」……。
レイラインに関する詳しい知識は、一部の神々によっ
て厳重に管理されている為に、ゼームと言えども、レイ
ラインの事については殆ど知ってはいなかった。
この地上に生きる生き物の生命力を左右するエネルギ
ーだけに、その扱いについては神国も神経を尖らせてい
るのだろう。
だが、植物の命の営みに関与し、それによって年を経
た神々と同等の深い智慧と洞察を得たゼームにとって、
地上の生物を生かしめる根源的なエネルギーの存在は、
既に当然の知識としてあった。
そのエネルギーの流れ・・レイラインと、今回の理不
尽な開発の間には、何か関わりがあるのだろう。
ゼームはそう直観した。
「ゼーム様!あいつらですよ!」
灰色のざらざらとした肌をした岩の精霊が、道の向こ
うからやって来る何台かのトラックを指差して叫んだ。
精霊達は一斉に警戒と憎悪に顔を強張らせ、岩の精霊
はヒロトを庇う様に後ろに下がらせた。
トラックの群れはゼーム達の近くを通り過ぎると、僅
かに離れた、広場の様に山の斜面を切り崩した場所に停
止した。
「ランタ様、わざわざ御視察とは恐れ入ります。御覧の
通り、工事は予定通り進んでいます。」
「そうか、そうか。うん、結構結構。」
そんな話し声がゼーム達の耳にも届き、トラックと併
走していた小さな乗用車から男達が降り立った。
一人は作業着を着た現場監督らしき者で、その男に頭
を下げられてふんぞり返っている、仕立ての良さそうな
えんじ色の背広を着た男が、土地神ランタの様だった。
広場には大型トラックや、それに積み込まれたショベ
ルカーや掘削機などが並んでいた。
どれも田舎町の常識では、まず滅多に見る事の無い物
ばかりだった。そんな機械の数々を導入しているところ
からも、今回の開発がただ事ではないとゼームは感じて
いた。
「ゼーム様!あの背広の男が土地神ランタです!」
岩の精霊は忌々しげに歯を剥いて、車から降りたラン
タを指差した。
ランタもまた、ゼメレの森の上がり口に立っているゼ
ーム達の姿に気付き、不審げな視線を送ってきた。
「おい!あそこの者達だが……。」
ランタはトラックから降りて準備を始めていた作業員
の内の二人程を呼びつけ、現場監督と共に自らゼーム達
のいる所へと向かって来た。
高価そうな飾りのボタンや、ネクタイピンの宝石が、
きらきらと日光に反射する様子がゼームの目に入った。
「おい、君達!この辺りは今から工事を始めるんだ。危
険だからすぐに帰りなさい!」
表向き、ランタの口調は優しげだったが、何処かゼー
ム達をうっとおしそうに感じ、見下している様な響きが
含まれていた。
「・・おや、シモサト博士の所の孫じゃないか。まだあ
そこから引っ越していないんだったな。」
岩の精霊の後ろで、不安げに立っているヒロトの姿に
ランタは気付いた。
ランタは精霊達を見渡し、この場所に来ているのが全
て森の精霊達だと分かると、困惑しつつも、侮蔑的な冷
たい視線を彼等に放ったのだった。
自分のやり方にいちいち小うるさい文句を付ける連中
が、また性懲りも無く集まってきたのか・・。そんな思
いが、ランタの顔には隠しようも無く表れていた。
「・・そちらは初めて見る方だが……。新顔かね?・・
私はランタ。三年前から、シーボームの土地神となった
者だ。宜しく・・。」
あくまで言葉遣いは紳士的に丁寧に、ランタは握手を
求めてゼームに手を差し出した。
その手には幾つか高価そうな指輪が輝いていた。
「お前が名前ばかりの土地神か。」
表情一つ変えず、ゼームは穏やかに言った。求められ
た握手に応じる事も無く、ランタの手は空中で凍り付い
ていた。
成り行きを見守るヒロトや精霊達、また作業員達から
の注視の中、ゼームは相変わらずの穏やかな口調で言葉
を続けた。
「・・早々に立ち去れ、卑小な土地神よ。この土地の草
一本、苔一片、これ以上お前達が踏み潰す事は私が許さ
ぬ……。」
それは交渉や話し合いではなく、命令だった。
ゼームの言葉は、ヒロト達には胸のすく思いをさせ、
ランタ達を呆然とさせた。
「な、何を寝言を……!」
ランタはゼームの言い放った言葉に対し、それだけを
やっと唸る様に絞り出した。
「・・何をしている。聞こえぬ筈はなかろう……。立ち
去れ!工事の済んだ土地も全て森林に戻す。お前達は邪
魔だ。」
広場のトラックを指差し、ゼームは一歩踏み出した。
それにつられて、ランタと作業員達は後退した。
ただ穏やかに口を開くゼームの何処に、男達を威圧す
る力が潜んでいるのか、ランタには理解出来なかった。
ランタは今にも怯えて震えそうになる足を踏ん張り、
歯を剥いてゼームに吠えかかった。
「何処の神か精霊か知らんが、ふざけるな!この工事を
完成させん事には、町は大損だ!・・第一、神国本部の
許可は下りているんだ!邪魔だてすると、神国に逆らう
事になるぞ!」
世界の神々の集う中心、神国の持つ力を思い、ヒロト
や精霊達は怯えた様に身をすくませた。
唯一、ゼームだけが、神国の威光もランタの剣幕にも
何の関心も示さずに、静かに受け流した。
「つまらん能書きはいい。早く帰れ。」
ランタはゼームの無反応ぶりを、驚くと言うよりも呆
れて見つめていた。
神国という名前に怯まない神など、まずいる筈が無か
った。ランタは狂神でも見る様な思いだった。
「だが、帰るのは君達だ!」
ランタはトラックの方に残っていた作業員達も呼び寄
せた。どの男も土木作業員にしては、皆一様に冷たく鋭
い目付きをしていた。
「・・あ、あいつら、ヤクザなんだって。爺ちゃんが言
ってたんだ。」
怯えて岩の精霊の服の裾を掴みながら、ヒロトはゼー
ムに訴えかけた。
「この方達を、車に乗せてさしあげろ!シーボーム迄送
ってやれ!」
指輪が幾つか光る手を振って、ランタは作業員達に命
令を下した。
作業員達は無言のまま、ゼームや精霊達へと近付いて
来た。
「!」
だが、彼等が精霊達へと手を伸ばした瞬間、突然舗装
された地面から現れたつる草が、彼等の動きを封じてし
まったのだった。
「な……!?」
作業員の一人が驚きに表情を強張らせ思わず手を引っ
込めたが、つる草に絡み付かれたその手は微動だにしな
かった。
「何だ、一体!?」
驚いて飛びのく男達の目の前に、次々と緑色の綱の様
な、硬質の光沢を帯びたつる草が道の舗装を突き破って
伸び始めた。
「おい、逃げろ!」
「何々だっ、一体っ!!」
獲物を狙う蛇の様に立ち上がり、じわじわとつる草は
近寄って来た。
それでも作業用のナイフや槌を手に、反撃を試みよう
と身構える者も居た。が、ゼームの思念を受けて振り下
ろされたつる草の一閃に、彼等は一斉に後退し・・一目
散にトラックを目指して走り去ったのだった。
細く、何の変哲も無い植物の質感を持つつる草の何処
にそんな力が潜んでいたのか・・アスファルトの舗装に
は、作業機械で掘り取ったかの様な穴が残されていた。
ゼームの一瞥で、最初に作業員に絡み付いていたつる
草が緩むと、その男も半ば怯えた様な目をして逃げ去っ
た。
「おい、お前達!何をやっている!!待たんか!」
ランタは作業員達の不甲斐無さに、喚いて制止した。
しかし、元々ランタにそれ程忠実でも無いらしく、彼
等はランタの声を振り切って、次々とトラックに乗り込
んでいった。
すぐにエンジンの掛かる音が響き、トラックは走り去
ってしまったのだった。
「全く何て奴等だ!全員クビだっ!」
拳を振り回して喚いているランタの後ろで、今にも逃
げ出そうと、ランタと乗用車とを交互に現場監督が見比
べていた。
そうする内にも、ざわざわと音を立てて揺らめきなが
ら、つる草の群れはランタ達へと迫っていた。
「ゼーム様、凄い!」
「いい気味だよっ!」
「全くだ!」
ヒロトや精霊達の上げる歓声を背に、ランタは忌々し
げに声を荒らげて乗用車へと逃げ出した。
「覚えていろ!私の邪魔をした事を、きっと後悔させて
やるぞっっ!!」
もうもうと排気ガスと土煙とを巻き上げ、乗用車とト
ラックの一団はゼーム達の前を横切って行った。
排気ガスの臭いにゼームは僅かに顔をしかめ、静かに
呟いた。
「何とも胡散臭い土地神だったな・・。」
胡散臭い・・小悪党とでも言う様な印象を、ゼームは
ランタに抱いた。大した悪事をするでも無く、目先の大
金や権力しか頭に無い小者の様に思えた。
そんな者がレイラインの攪乱と関わりがあるというの
は、考え過ぎなのだろうか・・ゼームは知らず、首をか
しげていた。
レイラインと開発工事の推理は一先ず置き、ゼームは
ランタ達に向けたよりも遙かに柔らかな表情で、ヒロト
と精霊達の方を振り向いた。
「お前達もこの土地から逃げろ……。」
俄にはゼームの言葉の意味が理解出来ず、精霊達は訝
しげにゼームの顔を見つめた。
ゼームは憎しみも悲しみも、喜びも・・何の感情もそ
の目には浮かべず、ただ森の静謐を思わせる穏やかな声
で言葉を続けた。
「お前達も逃げろ。・・私はこれから、シーボームを含
む周辺の土地を全て緑に沈める。」
ゼームの言葉に、精霊達は呆然と立ち尽くしていた。
疑問と驚愕とが彼らの中に溢れ、岩の精霊は困惑の表
情でゼームに問い掛けた。
この土地で誕生したこの女神は、三年前迄の生活を望
む人間や精霊達に、元の緑豊かな土地を復元してくれる
のではなかったのだろうか。
「・・シーボームと言っても……。それでは、人間達の
元々の住処迄なくなってしまうのではありませんか?」
岩の精霊の横で、ヒロトはゼームの言葉の意味がよく
飲み込めないまま、精霊達とゼームの顔を交互に見比べ
ていた。
「人間だけではない。この土地の精霊も、ここには住め
なくなるかも知れない……。」
森のかつての同胞とも言える精霊達を目の前に、恐ろ
しい事態の到来を語るゼームの穏やかさは、いささかも
変わる事は無かった。
「ゼーム様……。あなたは一体……、何の為にその様な
事を……?」
緑色の肌をした精霊が、愕然と尋ねた。
緑豊かな土地が素晴らしい場所だといっても、それに
は限度があった。過剰な量の植物の繁茂は、却って虫や
動物などの生きる空間を奪い、植物同士にしても多くの
植物が競争に敗れ、少ない種類のものだけに偏った空間
を作り出してしまうのだった。それは、むしろ緑色の砂
漠とでも表現するべき世界だった。
「・・私は、この地上の全てを深き緑に沈める神……。
私は、その為にシエゾに戻って来たのだ。」
幼いヒロトには、ゼームの語る言葉の殆どが理解出来
ていなかった。
ただ、森の精霊達が、凍り付いた様にゼームを見つめ
続けているという事だけが、何とか分かったのだった。
「ゼーム様……。」
ヒロトの肩に手を置き、岩の精霊は、ただ呆然と呟い
た。
精霊達は、戦慄と驚愕を以って、恐るべき女神がこの
土地に帰還して来た事をようやく悟り始めた。
◆
ラデュレーから、レウ・ファーによって打ち上げられ
た偵察衛星は、シーボームに立ち寄ったゼームの様子の
一部始終をレウ・ファーへと伝えていた。
精霊達の前に佇むゼームを空中に映し出しながら、レ
ウ・ファーは不愉快な感情を味わっていた。
ゼームには、「神々の森」の集束点の占拠を命じてい
た筈なのに、一体何処へ寄り道をしているというのか。
ザードと言い、ゼームと言い扱いにくい幻神共め・・
内心苛々としながら、レウ・ファーは立体映像のスイッ
チを切った。
「こンなコトなら、アタシが森へ行った方がよかったわ
ネ!」
レウ・ファーの立つ祭壇の近くで、ファイオは気だる
げに黒髪を掻き上げ、呆れた様に溜め息をついた。
「まあ、いいんじゃないの?・・それより、後もう少し
だけ、邪神を作る「深い闇」が必要なんでしょう?」
黒ずんだ大理石の石段に腰を下ろし、パラもまた軽く
溜め息をついた。
パラの言葉に、レウ・ファーはラデュレーの底部に設
けた邪神の格納庫の映像と、幾つかの数字を空中に映写
した。
製造された邪神は卵状に丸まった姿になって、休眠状
態に置かれて保存されていた。その数も着実に増加し、
当面必要な数にはほぼ達していたのだったが、格納庫の
収納の限界にはまだ余裕があった為に、もう少しだけ邪
神を作る事となったのだった。
「お前達は「深い闇」の採取に行け。ゼームを咎めるの
はそれからでもよかろう。」
レウ・ファーは触手の絡まり合った腕を振って、ファ
イオ達に「深い闇」採取の標的の資料の入ったカードを
放った。
「わかったワ。」
カードを受け取ると、ファイオとパラは揃って広間を
後にした。
「・・そう言えば、ヒウ・ザードは今日は見掛けないわ
ね……。」
パラは扉に足を向けつつ、ふと広間を見回した。
殆どいつもの様に、この様な神国への侵略に関する話
の場には、パラやファイオよりも早く現れ、レウ・ファ
ーの側でふんぞり返っている筈だった。
「あァら、放っときなさいよン。あンな偉そうなヤツ!
どおでもイイじゃないのン!」
コンパクトを覗き込んでルージュを引き直し、ファイ
オはパラの疑問をつまらなさそうに受け流した。
二神の話し声が薄くくすんだ大理石の扉の向こうに遠
去かると、レウ・ファーはおもむろに顔を上げた。
広間の照明が落とされ、白磁の仮面は水晶の天蓋から
差す薄い陽光にぼんやりと輝いた。
レウ・ファーは神経配線を通して伝わって来る情報の
処理に、自らの精神を集中させた。
既に、ラデュレーのほぼ全域に、レウ・ファーの本体
から伸ばされた神経配線は張り巡らされていた。ラデュ
レーの内部で起こる出来事は、全てレウ・ファーへと伝
えられる様になっていたのだった。
・・扱いにくい幻神め。レウ・ファーが疎ましく思っ
ていたザードは、今自室で独り、もがき苦しんでいた。
「まだ充分には、私の神霊石はあやつの中には取り込ま
れてはいない様だな・・。」
ザードから神霊石を取り戻す事よりも、それがザード
に与える影響に興味を持ちながら、レウ・ファーは冷た
い視線を画面の中のザードへと向けた。
◆
最初は、何かが刺し貫いたかの様な鋭い痛みが額に感
じられた。
「・・うゥゥッッ!!……がァッッ!!」
ザードは突然起こった激痛に、頭を抱え部屋の中での
たうち回った。
その痛みが治まったかと思うと、次の瞬間には、神霊
石ごと心臓が抉り出されるかと錯覚する程の胸の痛みが
床の上にうずくまるザードへ襲い掛かった。
「ひっっ!……うぅっ!」
強い怯えと、荒れ狂う憎悪と嫉妬・・胸の激痛はまた
心の痛みをも伴って、ザードの精神を混乱の渦の中に巻
き込んでいたのだった。
・・今、自分は何と言う恐ろしい心に侵されているの
だろうか。
バギルへの残酷で乱暴な振舞をした事への罪悪感や、
ラデュレーでの傲慢で傍若無人な自らの様子への怯え。
そうした元々のザードの心が持っていた感情が、泡の様
に精神の表層に浮かび上がっては、また、奥底へと押し
込められていった。
元々持っていた筈の、穏やかで優しいザードの心は失
われてしまった訳ではなかったのだった。
「バギル・・!助け……てっ!」
頭を掻きむしり、床の上でもがきながら、ザードは苦
痛に喘いだ。
「・・なっ、何がバギル……だっ!」
同じ体で、同じ声で、そのすぐ後には別の心から、血
を吐く様な叫び声が上げられた。
ほんの一瞬前には苦痛に流していた涙が、そのまま自
分の無力さとバギルの存在を呪う悔し涙へと変わり、ザ
ードはふらふらと幽鬼の様に立ち上がった。
レウ・ファーの神霊石との結合のずれが生み出す激痛
をも呑み込み、ザードは憎悪と怨念に顔を歪めて歯を剥
き出した。
・・何がバギルだ!自分はまだ、あんな奴に助けを乞
うと言うのか。もう、何者にも卑屈になる事の無い強大
な神霊力を手にしたというのに。
「……誰にも、誰にも渡すもんかぁぁっっ!!」
まだ激しさを増す額と心臓の痛みを、ザードは憎悪と
憤怒とで強引にねじ伏せた。
・・もう、力の無い幻神として差別され、見下される
のは沢山だ。バギルに取り残され、独り寂しい思いをす
るのも・・。
ザードは、憑かれた様な目で宙の一点を見据え続け、
ぶつぶつと呟き続けた。
……お前は幻神なんだからさ。……人に幻覚を見せる
のってちょっとズルイよなぁ。……あいつ、お前より凄
いんじゃねえのかな。
他愛の無い、何気無いバギルとの会話の数々は、どう
言う精神構造の組み替えが行われたものか、全てザード
を否定し、認めないかと言っている様な言葉としてザー
ドの精神を蝕み続けた。
「違う……!違うっ!ボクはずるくない……。幻神だっ
ていいじゃないか……!」
不安感や劣等感は大きく歪められ、煽られ、ザードの
心の中を一面の暗黒に塗り潰していった。
・・我等を見下す者を、今度は我等が見下す為に。
ドミュスティルの空から宣言されたレウ・ファーの言
葉が、ザードの頭を掠めた。
「はははっ!……そうだ、見下すんだ!……見下せるん
だ!!」
焦点も最早定まらない充血した目を剥き、ザードはゆ
らゆらと酔った様な足取りで部屋の中をさまよった。
・・確かに、ザードは酔っていたのだった。
潜在していた幻神である事への悲しみや、差別への憎
しみ、無力な自分への劣等感を強引に心の奥底から引き
ずり出され、狂気に迄高められた感情に、酔い潰されて
しまっていた。
「バギル……!お前なんか、お前なんか……!」
優しく微笑みかけるバギルの面影が、いつ迄も消えな
い事にザードは苛立ち、悲鳴とも絶叫ともつかない声を
張り上げて部屋の壁を殴りつけた。
衝撃波が壁の向こう側へと突き抜けた。
黒ずんで多少はひび割れてはいたものの、強固に組み
上げられていた石の壁は、砂山を突き崩したかの様に粉
々に砕け散った。
「誰が……っ!誰が、この力を渡すもんかっっ!」
ザードはぱらぱらと崩れ続ける石の壁を睨み据え、ぶ
つぶつと呟き続けた。
いつしか、額と心臓の激痛も治まっていた。
◆
・・神霊石は、再びザードと結合し、安定。
コンピュータの分析結果がレウ・ファーの内へと伝わ
って来た。
ある程度予想していたとは言え、再び自分の神霊石が
ザードと結合してしまった事に、レウ・ファーはいくば
くかの落胆を感じた。
ザードが取り敢えず落ち着いた様だったので、レウ・
ファーは観察を打ち切り、先程のザードの様子を詳しく
分析する様にコンピュータに命じた。
ザードが錯乱した様子は、全てレウ・ファーとつなが
るコンピュータに記録されていたのだった。
・・分析が終われば、何か、ザードと神霊石の分離に
役立つ事が分かるかも知れない。
レウ・ファーは期待を抱きつつ、目まぐるしい計算を
始めたコンピュータの様子を眺めていた。
◆
「……誰が……、この力を……。」
時折思い出したかの様に呟きながら、ザードは床の上
に力無く横たわっていた。
そこには既に、神国で暮らしていた頃の様な気弱で心
優しいザードの姿は無かった。
今や、ザードの内で、その心の全ては逆転していた。
穏やかさは激しさに。優しさは残酷さに。好意は憎悪
に・・。
そんなザードの様子を見つめる者の目が、レウ・ファ
ーだけではなく、もう一つあった。
それは、ザード自身の中に・・精神の果てし無いとも
思われる奥底に、冷やかに、ひそやかに見通す者の目が
あった。
そんな不思議な感覚を、ザードは漠然と感じ取ってい
た。だが、それは殆どザードの意識の上には上らないも
のだった。
・・ヒウ・ザムデン。それは、誰の名前だったのか。
それは、ただじっと、ザードの様子を見つめていた。




