息継ぎのない女
深夜ラジオの女は、一度も息継ぎをしなかった。
そのことに気づいたのは、放送を聞き始めてから十分ほど経った頃だった。
高校三年生の秋、相馬悠介は毎晩、日付が変わってからも自室の机に向かっていた。第一志望は仙台市内の国立大学で、夏の模擬試験では合格圏まであと二十点ほど足りなかった。担任からは十分に挽回できると言われていたが、その言葉を信じられるほど悠介には余裕がなく、学校から帰れば夕食と入浴を済ませ、眠気に耐えられなくなるまで問題集を解く生活を続けていた。
家は東北地方の小さな町の外れにあり、周囲には田畑と低い山しかない。夜になると道路を走る車もほとんどなくなり、風のない日には、二階の自室から家族の寝返りまで聞こえそうなほど静かになった。
音楽を流すと歌詞が気になり、完全な無音では時計の秒針や自分の呼吸に意識を奪われる。そのため悠介は、勉強中には決まって古いラジオをつけていた。
机の隅に置かれた小型のラジオは、中学生の頃に祖父から譲られたものだった。銀色の筐体には細かな傷があり、選局も液晶ではなく、側面のつまみを回して赤い針を周波数へ合わせる古い方式だったが、地元のコミュニティFMを聞く程度なら不自由はなかった。
その夜も、英語の長文問題を解きながら、悠介は東北地方の小さなローカル局、FMあおば野を流していた。
普段なら、午前零時を過ぎると放送は終了する。簡単な局名告知の後、短い音楽が流れ、それから翌朝まで無音になるはずだった。
ところが、午前一時を過ぎても放送は続いていた。
最初、悠介は特別番組でも組まれているのだろうと思った。
女性が一人で話していた。
声の印象は若くも老いてもおらず、落ち着いているというより、感情を慎重に削り取ったような平坦さがあった。番組名も、自分の名前も告げないまま、彼女はリスナーから届いたという体験談を読み上げていた。
内容は、夜中に台所から聞こえる水音についての話だった。
一人暮らしの女性が、眠っている間に何度も水道の音で目を覚ます。蛇口を確かめても水は止まっており、流し台も濡れていない。それでも寝室へ戻ると、暗い台所から、誰かが水を飲んでいるような音が聞こえてくる。
よくある怪談だと、悠介は思った。
地方の小さな局が、季節外れの怪談特集を放送している。その程度にしか考えず、赤ペンで英文へ線を引きながら聞き流していた。
女性の読み方には抑揚がなかった。怖がらせようと声を潜めることもなく、奇妙な部分で間を取ることもない。ただ一定の速さで、句読点も改行も無視するように文章を読み続けていた。
そのため、かえって耳に残った。
話は台所から浴室へ移り、水を飲む音は、やがて人が喉を鳴らす音へ変わっていった。女性はそれを途切れなく読み、投稿者が浴室の扉を開ける場面に差しかかっても、声の調子を少しも変えなかった。
悠介は英文の途中でペンを止めた。
妙なことに気づいた。
女は、いつ息を吸っているのだろう。
意識して聞き始めると、それまで気にならなかった異常さが急にはっきりした。文章はすでに数分間続いている。短い文もあれば、途中で息を継がなければ読み切れないような長い文もある。それなのに、言葉と言葉の間には呼吸音が一度も混じらなかった。
鼻から静かに吸っているのかもしれない。
録音した音声を編集しているのかもしれない。
そもそも生放送ではなく、合成音声を使った番組なのかもしれない。
悠介はそう考えながら、ラジオの音量を少し上げた。
スピーカーからは、ごく小さな電波の雑音と、女の声だけが流れている。
「浴室の中には誰もいませんでした。しかし、曇った鏡には、口元から水を垂らした女の顔が映っていました。振り返っても誰もおらず、もう一度鏡を見ると、その女は先ほどよりも近くに立っていました」
読み上げは止まらない。
息を吸う間もないまま、次の文章へ移っていく。
悠介は無意識に、自分の呼吸を浅くしていた。女がどこで息を継ぐのか聞き逃すまいとするうちに、自分まで音を立ててはいけないような気がしてきたのだ。
「投稿者は鏡の前から離れようとしましたが、背後から肩をつかまれたため、その場から動くことができませんでした」
女の声が、ほんの一瞬だけ途切れた。
悠介はラジオへ顔を近づけた。
ようやく息を吸う。
そう思った。
そのとき、机の下から、誰かがゆっくりと空気を吸い込んだ。
「すううっ……」
悠介の背筋が硬くなった。
音はラジオからではない。
膝のすぐ下、暗くなった机の奥から聞こえた。
彼が身動きできずにいる間も、ラジオの女は何事もなかったように話し始めていた。
まるで、今の呼吸を使って息を継いだかのように。
悠介は反射的に椅子を引き、机の下を覗き込んだ。
鞄と延長コードが置かれているだけで、誰かが隠れられるような場所ではない。それでも、ラジオから流れる女の声を聞きながら暗がりを見つめていると、何もいないことが、かえって不自然に思えた。
「投稿者が鏡から目を逸らしたのは、ほんの一秒ほどだったそうです。けれど、再び顔を上げたとき、鏡には女も、自分自身の姿も映っていませんでした」
女はやはり息を継がなかった。
声量も速度も変わらず、肺の中に最初から尽きることのない空気が詰まっているように、次の文章、その次の文章へと滑らかに進んでいく。
悠介は電源つまみへ手を伸ばしたものの、すぐには切れなかった。放送が止まれば、女の声に覆い隠されている何かが、今度こそはっきり聞こえてしまう気がした。
「それ以来、投稿者は鏡を見ることができなくなりました。自分が映らないことよりも、自分の代わりに何が立っているのかを知ることが怖いのだそうです」
そこで女の声が途切れた。
「すううっ……」
机の下から、湿った空気をゆっくりと吸い込む音がした。
聞き間違いではなかった。女が黙るたび、代わりにこの部屋のどこかで、何かが息を吸っている。
呼吸が終わると同時に、女は何事もなかったように告げた。
「今夜のお話は、これで終わりです」
悠介は電源を切り、ラジオから電池を抜いた。
―――
翌朝、FMあおば野の番組表を確認すると、放送は午前零時で終了し、午前一時台は休止時間になっていた。臨時番組の告知もなく、昨夜聞いた怪談番組の痕跡はどこにも残っていない。
悠介は迷った末、SNSへ投稿した。
«昨夜の午前一時すぎ、FMあおば野で女性が怪談を読む番組を聞いた方はいませんか。女性がずっと話していたのに、一度も息継ぎをしなかったのが気になっています。»
机の下で聞いた呼吸については書かなかった。
最初についた返信は、番組表を確認したらしい地元の利用者からのものだった。
«その時間、放送休止ですよ。»
同じ番組を聞いたという者は現れなかったが、投稿は「深夜にだけ聞こえる存在しないラジオ番組」として引用され、数日のうちに広がっていった。
中でも多く拡散されたのは、見知らぬ人物が書き込んだ一文だった。
«女が息継ぎしていないんじゃなくて、聞いている人の部屋で、誰かが代わりに呼吸していたんじゃないですか。»
悠介はその返信を見た瞬間、スマートフォンを伏せた。
机の下の音について、誰にも話していない。
投稿を消そうとしたが、表示回数はすでに数万を超え、休憩のたびに増えていく反応を確かめることが習慣になっていた。もう一度同じ時刻に聞いてほしいという声も増え続けたが、放送を聞いたという報告だけは、一週間が過ぎても一件もなかった。
ラジオは電池を抜いたまま、机の端へ伏せて置いてある。悠介は二度と電源を入れないつもりだった。
一週間後の夜、悠介はラジオに触れないまま、日付が変わっても机に向かっていた。
模擬試験の過去問題を一通り解き終え、凝り固まった肩を回しながらスマートフォンを手に取ると、通知欄に未読のダイレクトメッセージが一件残っていた。送り主は、FMあおば野の公式アカウントだった。
メッセージ自体は、その日の夕方に届いていたらしい。
«弊局に関する投稿を確認いたしました。
ご記載の時間帯、弊局では放送を行っておりません。また、投稿内で言及されている番組についても、弊局が制作・放送した事実はございません。
実在する放送局をもとにした創作、または事実と異なる内容の発信は、弊局および関係者への誤解を招くおそれがございます。投稿の削除、もしくは創作である旨の明記をご検討くださいますよう、お願い申し上げます。»
責め立てるような文面ではなかった。事実関係を確認し、誤解が広がらないよう対応を求める、丁寧で事務的な連絡だった。
だからこそ、読み進めるほど胸の奥が冷えていった。
臨時番組ではなかった。放送予定への記載漏れでもない。少なくともFMあおば野は、あの時間に電波へ何も乗せていなかったという。
それでも一週間前、悠介は確かに女の声を聞いた。息継ぎを一度もせず、淡々と怪談を読み続ける声を、机の前で最後まで聞いていた。
嘘ではないと返信しようとして、入力欄へ触れた指が止まった。
画面上部に表示された時刻は、午前一時十三分。
一週間前、あの放送を聞いたのと同じ曜日、同じ時刻だった。
悠介が机の端へ目を向けたとき、電池を抜いたラジオは伏せられたまま、何の音も発していなかった。
代わりに、机の下から湿った空気を吸い込む音がした。
「すううっ……」
続いて、背後から細い息づかいが重なった。
「すうぅ……」
一週間前、女がどれほど長く話し続けても聞こえなかった呼吸――もし、あの声の主が息をするのなら、こんな音だったのかもしれない。
そう思った途端、二つの息が近づく感覚を覚えた。
机の下に潜んでいたものは左側から、背後にいたものは右側から、椅子に座った悠介の顔を挟み込むように距離を詰めた。逃げようとしても脚に力が入らず、首を振って遠ざけようとするほど、生温かい吐息が頬と首筋を追い、やがて左右の耳へぴたりと貼りついた。
「すうぅ…すうぅすうぅ…」
左耳には、濡れた唇を耳殻へ押し当てるような重い呼吸があり、右耳には、細い息が耳の穴へ入り込むように流れ続けている。
悠介は息を止めようとした。
しかし胸はすでに苦しく、喉が勝手に空気を求めた。浅く吸っただけのはずなのに、左右の何かはその音を聞き逃さず、悠介の呼吸へ重なるように速度を上げていった。
息を整えようとするほど胸が狭まり、肺へ空気が入らない。焦りに押されて呼吸はさらに乱れ、両耳に密着した二つの息づかいも、それを真似るのではなく、前から知っていた速さへ導くようにぴたりと揃っていく。
どれが自分の息なのか、もう分からなかった。
息を整えようとするほど乱れ、呼吸を止めようとしても、喉が勝手に空気を求めてしまう。
「すううっ、すうぅ……すうっ、すぅ……」
呼吸が早く、荒くなってしまう。
「「「はぁ、はぁ、はぁはぁはぁはぁ……はぁ!」」」
もう抑えることができなくなった自分の息づかいを、左右の息づかいが、じっとりと包み込んで掴むようにぴたりと重なった。
耳たぶには、湿った何かが触れたような感触がある。片方だけではない。左にも、右にも…。
次の息を吸うのを、耳元に触れたままのなにかが今か今かと待ち続けている。




