犬じゃない
「ほら、太郎帰って来たよ」
三沙子は、母の声にゆるゆると顔を上げた。
まだ強い寒さの残る昼下がり。
庭を見れば、飼い犬の太郎が満面の笑顔で尻尾を振っていた。
ワン!
急かすようにそう吠えるのを、何処か重い気持ちで聞きながら、三沙子はゆっくりと太郎の許まで歩いて行った。
炬燵から出た体から瞬く間に熱が逃げ、手足が冷たくなる。
「おかえり、太郎。今年は何処に行ってたの」
ワン!
太郎は飼い犬だというのに、冬になるとふらっと姿を消す。家の中に入れておいても、家族が皆寝ている間に姿を消してしまう。家中の窓も扉も開いていないのに、忽然と。
突然庭に太郎が現れ、飼うこととなった最初の冬。居なくなってしまった太郎を探し、三沙子は随分と寒い中を駆け回ったのを覚えている。
実際、今よりずっと子供の頃の話で、駆け回ると言ってもたかが知れていたのだが、それでも懸命に駆け、探したのだ。
何処か他の家に飼われることになったのかもしれない。もしかしたら、事故に遭って死んでしまったのかもしれない。と考える内春が近づき、ふと太郎は庭に帰って来た。
少し遠くまで散歩してきただけです、というような顔をして。
泣きながら駆け寄った三沙子に、太郎はあの時も「ワン!」と鳴いた。
目の前で嬉しそうに尻尾を振る太郎を撫でながら、三沙子はぼんやりと昔のことを思い出していた。
そうするうち、太郎が段々と不気味なものに感じられてきていた。
「お腹空いてるんじゃない、太郎? おやつも沢山買ってあるわよ」
母は、もう太郎の失踪と帰還を年中行事に組み込んでいて、「そろそろ太郎の帰ってくる時期だから」とおやつや新しいおもちゃを買って来ていた。
嬉しそうに母の周りを歩き回る太郎。いくつものおやつを開ける母。
その姿を目で追っていた三沙子は、窓の外に目を向けた。
まだ雪化粧が残る山々。
「太郎はね、あの山で冬眠しているのよ」
かつての母の言葉が頭の隅に蘇る。
──犬が、冬眠する訳ないじゃない。
きっと、太郎は犬なんかじゃない。
そう思い始めたのは、数年前だった。
見た目はただの白毛の大きな犬でしかない太郎だが、どうにもその表情がただの犬とは違うのだと、ある時三沙子は気が付いた。
じと、と品定めをするような目を三沙子に向けるのだ。
不思議に思って見つめ返すと、うんうんと小さく頷いて見せる。
ただの偶然かと思ったが、その表情をしている時に見つめ返せば、決まって頷く。
そんな犬が居るのだろうか。
母は、太郎のどんなことも「お利口な犬なのよ」と言って、笑う。
そう言われても、思おうとしても、何処か胸の中に不安感が広がっていく。
その感覚の正体を、今の三沙子は知っていた。
ある時、電車に乗っている時に躊躇いがちに伸ばされた見知らぬ手が、三沙子の腰を撫で、そして徐々に下がり……。
思い出して吐き気を覚え、三沙子は顔を顰めた。
その感覚を、太郎から感じるのだ。
犬相手に、だ。
他の犬にそのような感情は微塵も湧かない。
飼い犬の太郎相手にだけだ。
何度もその感情を振り払おうとした。自分の中に原因を探ろうとした。
しかし、それは何の意味もなかった。
他ならぬ太郎からその気配が感じられるのだから。
ワン!
誘うように鳴く声に、少しの間を置いてから振り返る。
──気持ち悪い……。
「なぁに、太郎」
駆け寄ってきた太郎は、愛らしい犬の顔で口に咥えたおもちゃを見せびらかす。
──気持ち悪い。
三沙子は、おもちゃを遠くに放り投げた。嬉しそうな顔をした太郎がそれを追いかけていった。
「修治さん、三沙子ももうこんなに大きくなったよ」
母が、ケーキやとびきりのご馳走に埋もれるようにして置かれた写真に向かって、笑顔で話し掛けた。
あれは、太郎がやってきた年のこと。
父の修治が、何者かによって惨殺されるという事件が起きた。
朝、庭に血まみれで倒れる父の姿は、記憶から消そうとしても、そう易々と消えてくれる筈がなかった。
それからというもの、母は昔と少しだけ様子が違ってしまった。
よく写真の中の父に話し掛け、それはまるで今でも父が存在しているというような振る舞いだった。
子供心に何かが可笑しい、壊れてしまったのだ、と感じながらも、何も出来ることはなかった。だが、母の様子を見ていると、三沙子は悲しみに飲み込まれてしまいそうになる気持ちが、ふと掻き消えていく気がしていた。
そうして歪に、それでも日々を過ごし〝こんなに大きくなった〟。
「もう、あっという間に成人式ねぇ」
ご馳走に手を付けながら、母がしんみりとした様子で言った。
「まだ早いよ」
そう返す三沙子に、母は幾つかのパンフレットを取り出してくると、嬉しそうに差し出した。
「早すぎるってことはないでしょ。振袖だって決めないとならないし。今から情報収集しなくちゃ」
差し出されたパンフレットをパラパラとめくりながら、ふと背後に気配を感じた三沙子はゆっくりと振り返った。
太郎だ。
太郎が、興味深そうな目でパンフレットを覗き込んでいる。
「太郎も、三沙子の振袖姿、楽しみよねぇ」
母が言うと、まるで話を理解しているように「ワン!」と鳴く。
──犬に判る訳ないじゃない。
その夜、いつもと変わらず寝入っていた三沙子は、ふと目を覚ました。
まだ部屋は真っ暗で、夜が明ける様子はない。
再び眠ろうとした三沙子の耳が、微かな音を捉えた。
ゴリ……ゴッ……ゴリリッ……。
奇妙な音が途切れ途切れに続いている。
その音は、確かに家の中から聞こえているようだった。
三沙子は、ベッドを抜けると、その音の許へと足を忍ばせて向かった。
ゴリ……ゴリリッ……ゴッゴッ……。
何か硬い音が徐々に大きくなっていく。
薄く開いた扉の隙間から居間を覗くと、月光が差す中で太郎が床に蹲っていた。
「……太郎」
扉を開けながら呼び掛けた三沙子は、振り返った太郎の顔と、その向こうに見えた光景に動きを止めた。
「お母さん!」
太郎の向こうには、血に塗れ、薄く目を開けた母が横たわっていた。首の向きが横たわる体と合っていない。奇妙な向きで転がっている。
駆け寄った三沙子に、太郎は驚いたように後退り、そうしてから口の周りを舐めた。
お母さん、お母さん、お母さん。
そう何度呼び掛けても、答える筈はなかった。
どう見ても、母はこと切れていた。──死んで、いた。
「お前! 何をした!」
三沙子はすぐ横に佇む太郎を振り返った。
その口は真っ赤に汚れている。
「なんで! こんなこと!」
三沙子は叫んだ。
明らかだった。この母の惨状は、太郎がやったのだ。頸に噛みつき、ちぎり、殺した後で少しずつ食らっていたのだ。
許さない。許さない。許さない。やっぱり、こいつは犬なんかじゃない。
太郎に掴みかかろうとした時、ふいに太郎がクッと声を上げた。
そのあまりに人間のような声に、三沙子は動きを止めた。
口の周りを舐め終わった太郎が、ニンマリともいえる笑みを浮かべる。
「お前ももう十八。人間の常識まで待ってやったんだ。感謝して欲しいくらいだ」
「……え?」
三沙子は耳を疑った。
急いで辺りを見回し、何者かが潜んでいないか確認する。
居る筈はない。その声は、確かに太郎の口から発せられたものなのだから。
太郎はゆったりとした動きでその場に座ると、グッと背を伸ばした。
「お前、犬は好きだろう」
「……アンタは、犬じゃないでしょ」
太郎はうーんと首を曲げ、渋い顔をする。
「こりゃ、しくじったなぁ」
そう言って、ちらと血まみれの母を一瞥する。
「お前の心残りにならないように。そして、何より女の肉は美味いからなぁ。ハレの日の前祝いだ。お前の父は骨ばかりでとても食べられるものではなかったが」
こともなげに吐かれた声に、三沙子はついに太郎に掴みかかった。
ひっくり返った太郎が、一瞬驚いてからニヤニヤと笑う。
「お前……なんなんだ。なんで、こんなことを……」
「なんでって、お前を手に入れる為さ。あぁ、俺はお前を守ってやってたんだぞ。ほら、お前の体を無遠慮に触った男。あいつを嚙み殺してやった」
太郎は犬の姿で出来る限りの形で胸を張った。
「それで、お父さんも殺した……って?」
太郎はフンッと鼻を鳴らした。
「子を育てるのに二人も要らないからな」
そう言い終わらない内に、三沙子は太郎の横面を力強く叩いていた。
一瞬呆けた太郎は、可笑しそうにクックッと笑う。
「良い目だ。俺達はそういう目が堪らなく好きなんだ。お前は俺達の世界に相応しい」
「俺達の世界……?」
太郎は三沙子の下から抜け出すと、ぶるぶると体を振った。そうして、窓の外の山に目を向ける。
「そうだ。俺達の世界。あの山に在る。この間の宴で『やっと嫁子を連れてこられるなぁ』と話したばかりだから、早く連れて行かなければ俺の面目が立たない。もう、いいだろう。お前の親は俺が殺した。お前に近付く者達も殺した。お前は一人だ。もう俺と共に来るしかないだろう」
そう言って、三沙子の服の裾を咥えて引っ張ろうとする。頭が痺れたように床に膝をついてた三沙子は、慌てて太郎を振り払った。
一切、犬でないことを隠さなくなった太郎は、はぁと溜め息を吐いた。
「跳ねっ返りは魅力だが、そうも聞き訳が悪いのは困ったものだ。もうお前に選ぶ道はない。来るんだ」
「あんたが……全部やったことでしょ!?」
歪な、悲しみの沈んだ、耐えることの多かった日々。それでも、三沙子にとっては掛けがえのない生活だった。
それを全て壊した怪物が、平然と「来い」と言う。
すっくと立ちあがった三沙子は、整えられたキッチンへ歩いて行くと包丁を取り上げた。
「おい、何も持ってはいけないぞ。お前も俺達のように──」
そこで言葉を止めた太郎は、三沙子の手に握られた包丁を見つめた。
「お前に何が出来る。いいから俺と──」
そう言って鼻で笑う太郎目掛けて、三沙子は包丁を突き立てた。
ギャアァと声を上げて太郎が後ろに跳び退る。
「何をやってるんだ、お前は」
「煩い! この怪物! お前のせいで……お前のせいで……!」
三沙子は、室内を逃げ回る太郎に向けて包丁で何度も切り付けた。
そうして幾度も切り付けた太郎の白い体は、流れ出た血で赤く染まっていた。
はぁはぁと荒い息をした太郎が、小さく唸ると、するりと窓を通り抜け、庭に駆け出した。
「待て!」
追いかけた三沙子から遠く離れた樹の上で、太郎は恨めしそうな顔をした。
「折角此処まで育てたものを……とんだ骨折り損だ。まぁ、いい。お前が落ち着いたらまた来よう」
そう言って、ふっと太郎は姿を消した。
暫くその場で立ち尽くしていた三沙子は、重い足取りで居間に戻ると、静かに横たわる母だったものに視線を落とした。
全てを失ってしまった。
そして、その原因は自分だった。
たった少し、自分の手の中にあったものを持ち続けることも出来ず、今はただ一人、冷たい部屋で立ち竦むしか出来ない。
ガランと音を立てて包丁が床に落ちた。
静かな部屋に、その音はいつまでも反響する。
「……あ」
三沙子の喉から絞り出された声は、静寂を切り裂くようにして続いた。
お母さん……お父さん……。
三沙子はもう何も考えられなかった。
全てが壊れ、崩れ去った。
身悶える内、床に広がる母から零れだした血に足が滑る。
急に笑いが込み上げて来て、三沙子は高らかに笑っていた。
「また来よう」
ふと、太郎の声が蘇った。
──また来る? 何のために? 私は、お前達の世界になんかいかない。
三沙子は床に転がる、月光を跳ね返す包丁に目を留めた。
アハハ、と笑い声が漏れる。
──絶対に、行かない。
包丁を手にした三沙子は──。




