対価と価値の物語──境界線の向こう側
夕暮れが、会場の白いテントを淡い茜色に染め上げていく。
空には一番星が瞬き始め、街は夜の静寂を受け入れる準備を始めていた。
今週のフードイベントも、ついにその幕を下ろした。
客の波が引き、祭りのあとの独特な空虚さが漂う。
テントの隙間から入り込む夜風が、吊るされた調理器具を揺らし、チリン、と金属の鈴のような音を奏でた。
「ふぅ……ついに、全部出し切ったな」
啓介は大きく息を吐き出し、空になった食材ケースを見つめた。
心地よい疲労感が肩に乗る。
完売。売れ残りはゼロ。
数字だけを見れば、文句なしの大成功だ。
それでも、料理人の性は業が深い。
手は無意識に片付けへと走る。
余熱がかすかに残る鉄板、拭ききれない隙間に入り込んだソースの痕跡、使い切ったスパイスの残り香。
指先にはまだ、イベントの熱狂と、料理を作り続けた確かな感触が残っていた。
そのときだった。その静寂を切り裂くような、湿り気を帯びた低い声が背後から落ちてきた。
「おい、あんたが鈴木啓介ってやつか」
空気が一瞬で澱む。
啓介が振り返ると、そこには無精ひげを生やした中年男性と、その背中に半分隠れるように立つ小柄な男の子がいた。
男の子の目は怯えたように揺れ、上目遣いでこちらを伺っている。
その服は薄汚れており、見るからに生活の疲れが滲んでいた。
「はい、そうですが……何かご用でしょうか?」
啓介は努めて穏やかに、しかし内心では警戒の色を強めて返した。
だが、男は最初から横柄さを隠そうともせず、眉間に深い皺を寄せていた。
「前回のイベントでさ。終わった後に、あんた、女の親子にタダで料理渡してただろ。俺らも見てたんだよ」
啓介の脳裏に、記憶が浮かび上がる。
一ノ瀬親子だ。
夫を亡くして間もない母娘。
イベント終了後、途方に暮れたように泣きじゃくる娘を見て、啓介はどうしても放っておけず、使い切れずに残っていた料理を渡したのだ。
母親は恐縮して代金を払おうとしたが、彼はそれを頑として断った。
「あのときのことですか。ええ、あの場では……」
「なら俺たちにもタダでくれよ。うちだって似たような境遇なんだよ。見ろよ、この息子の様子。かわいそうだと思わねぇのか?」
男は息子の肩を乱暴に掴み、前に突き出した。
男の子は小さく身をすくませた。
確かに、彼は空腹で、疲れ切っているように見えた。
だが、それ以上に男の瞳には、「弱者」であることを盾にした、強烈な“要求”と“貪婪”の色が濃くにじんでいた。
「申し訳ありません。今日はもう、材料がすべてなくなってしまって……」
「嘘つけ。ほら、そこに一食分残ってるじゃねぇか」
男の指先が、テーブルの端を指した。
そこには、ラップで丁寧に包まれた一食分の料理が置かれていた。
「あれは……スタッフが知人からの注文で……、取り置きしていたものでして。支払も終わっていて、提供できないん……」
説明しようとする啓介の声は、焦りと困惑で上擦った。
「結局よ、相手見て贔屓してるってことか? 前の母親にはタダでよ、俺たちにはダメ? 女には甘くて、俺たちみたいなむさ苦しいのは差別かよ?」
善意で行ったことが、なぜこんな形で責められなければならないのか。
「違います! 本当に、これは……」
「だいたい男が料理なんかして! 気持ち悪ぃんだよ! どうせ愛想振りまいて、女にだけ良い顔してんだろ!」
その言葉は、鋭利な刃物のように啓介の胸に突き刺さった。
料理への情熱、人々への誠意、それらすべてを汚されたような感覚。
言葉が喉に張り付き、呼吸さえも苦しくなる。
そこへ、背後から凛とした澄んだ声が割り込んだ。
「ちょっといいかしら」
胡葉だった。
イベントの会計処理を終え、戻ってきていたらしい。
彼女の足音は、静かだが力強く、その場の澱んだ空気を一瞬で払拭するような威厳があった。
「事情はだいたい聞こえました。あなたのご家庭の事情もあるのでしょうけど、いまは話を整理する必要がありますね。まず、こちらのスタッフの取り置き分は、正規の代金を支払った個人の所有物です。店としては、勝手に第三者に提供する権利を持ちません」
理路整然とした言葉。
感情を挟まない、冷徹なまでの事実。
男は一瞬たじろいだが、すぐに顔を赤くして言い返そうとした。
「……ちっ、なんだよ偉そうに」
「この場ではお話しを整理することが難しいため、改めて落ち着いた場でご説明させていただければと思います。失礼とは存じますが、お名前とご連絡先をお伺いしてもよろしいでしょうか」
胡葉は手帳を取り出し、ペンを構えた。
その視線は、男を射抜くように鋭い。
「そんなもん言う義理はねぇだろ……」
男は分が悪いと悟ったのか、ぶつくさと言い訳を呟きながら、息子の腕を乱暴に引いた。
「帰るぞ。こんな店、二度と来るか」
捨て台詞を残し、男は振り返ることなく会場の出口へと消えていった。
男の子が一度だけ振り返り、悲しげな目で啓介を見たのが、痛いほど心に残った。
残された沈黙のなかで、啓介はただ立ち尽くすしかなかった。
善意とは何なのか。
優しさとは何なのか。
足元の地面が揺らぐような、深い徒労感が彼を包んでいた。
■
それから三日後。
胡葉が「見ないほうがいい」と忠告したにもかかわらず、啓介は見てしまった。
──飲食店口コミサイト。
そこに並んでいたのは、目を覆いたくなるような悪意の羅列だった。
【女には媚びを売る最低な店】【店主の人格が破綻している】【衛生管理も怪しい】
根拠のない侮辱。
歪曲された事実。
人格否定。
それらの言葉は、鋭い棘となって視覚から脳へと突き刺さる。
啓介は、胃の奥に冷たく重たい鉛が沈んでいくような感覚を覚えた。
そして、その鉛は時間とともに溶け出し、毒のようにじわじわと胸全体へ広がり、心を蝕んでいった。
■
「それで、全部読んじゃったのね」
オフィスのソファで膝を抱える啓介を見て、胡葉はため息をついた。
だが、その瞳には呆れではなく、どこか母親のような優しい色が宿っていた。
「ごめんなさい……胡葉さんに止められたのに」
「いいのよ。気にするなっていう方が無理だもの。でもね、こういうことは時々あるの。飲食業ってね、どうしても“感情”が絡む商売だから。といっても、あの口コミはサイトの規約違反よ。削除申請は出してあるから、すぐに消えるわ」
「……僕のせい、ですよね」
啓介の声は震えていた。
「どうしてそうなるの?」
「僕が、あの日、一ノ瀬さん親子に料理を無料であげたから……。あの時の僕の行動が、こんな結果を招いたんだ」
啓介は、ぽつりぽつりと話し始めた。
夫を亡くしたばかりの母親のやつれた顔。
泣きじゃくるルリちゃんの姿。
イベント終了後のあの空気の中で、どうしても放っておけなかった自分の感情。
差し出されたお金を断った時の、自分なりの正義感。
話を聞き終えると、胡葉は腕を組み、少しだけ考えるように目を細めた。
そして、静かに口を開いた。
「本当は、もうちょっと後で説明する予定だったんだけど……こうなったら話すわね」
「え?」
「市場理論よ。あなたたち料理人にとっては、包丁の使い方と同じくらい大事なこと」
胡葉は、テーブルの上に指で二本の線を描いた。
「まずね、今日の件。あのクレームをつけた男性が一番悪いの。それは間違いないわ。あの人は、自分の不幸を盾にして他人を攻撃する、相手をしてはいけないタイプよ。でもね──啓介くんにも、まったく悪いところがないわけじゃないの」
啓介の肩が、びくりと揺れた。
「料理を無償で提供したこと。その優しさ自体が悪いんじゃないわ。でもね、仕事に“無償の好意”を持ち込むと、境界線が崩れるの」
「境界線……?」
「そう。“対価による線引き”よ」
胡葉の視線が、啓介の目を真っ直ぐに捉えた。
「仕事で無償を安易に許さないのはね、お金という対価を介在させることで、お互いの関係をクリアにするためなの。そうしないと、相手は勝手に“自分は特別な好意を受けた”と勘違いする。あるいは、周りの人間が“なぜあいつだけ特別なんだ”と不公平感を抱く」
あの男の言葉が、脳裏に蘇る。
──前はタダで渡したくせに。
──相手を見て差別してるんだろ。
「いい? 啓介くん。無償で提供されるものには、必ず“見返り”という名の曖昧な期待がくっついてくるの。そしてその期待が裏切られたとき、それは感謝ではなく、憎しみやトラブルの種に変わるのよ」
「……そんなつもり、なかったのに。ただ、喜んでほしかっただけで……」
「わかってるわ。あなたの心は純粋よ。でも、相手がどう受け取るかはコントロールできない。そこが問題なの。だから、もし無償提供しようと思ったら、誰にも見られないようにやるか、あるいは全員に公平に行うか、かなり慎重にやらなければならないわ」
胡葉は、次に二本目の指を立てた。
「もう一つは“持続可能性”。あなたが作った料理は、例えば材料費が500円かかっているとする。お客さんが1000円払って、その美味しさから1500円分の満足を得る。お店もお客さんも得をする。これが価値創世。商売の基本よ」
「はい……」
「でも、あなたがずっと無償で提供し続けたらどうなる?」
「……材料を買うお金がなくなる。店が潰れる」
「その通り。価値創世とはWIN-WINの関係でなければならないのよ。プラスサムってやつね。どちらもプラスにならないと、基本的には続けることができないわ。店かお客さんがのどちらかが損をするゼロサムにしたら、そのままではどこかで破綻するの。
さらに、今回の件はあなたも傷つき、相手も不満を持った。つまり、どちらも損をするLOSE-LOSEだった。これでは、誰も幸せになれない」
啓介は黙り込んだ。
自分の「良かれと思ってやったこと」が、実は自分自身と、そして結果的には周囲をも傷つける刃になっていたという事実。
「啓介くん。あなたは優しいのよ。だからこそ、その無償の好意にも価値がある。でもね、仕事となると話は別。“対価”はね、冷たさじゃなくて“線引き”なの。お互いの尊厳と関係を守るための、大切なルールなのよ」
その言葉は、とても静かに、深く胸へと沈んでいった。
お金を受け取ることは、決して汚いことではない。
それは、自分の技術への誇りを守り、相手との健全な関係を維持するための、必要な儀式なのだ。
「……僕、間違ってたのかな」
「間違ってはいないわ。ただ──プロとしての振る舞いを、少し学ぶ必要があっただけ」
胡葉の声は優しかった。
それは、失敗を責める教師ではなく、共に歩むパートナーとしての声だった。
「少しだけ付け加えておくと、さっき言った価値っていうのは、お金に限ったことではないんだけどね。”料理の味で1500円分の満足”を得るって言ったのはわかりやすくするため。そういうものは目に見えないから理解しにくいってのもあるのよね」
啓介はゆっくりと息を吐いた。
胸の中にあった鉛のような重みが、少しずつ形を変え、苦いけれども必要な「教訓」という名の石に変わっていくのを感じた。
「すぐには納得いかないと思うけど、時間をかけてじっくり考えていく必要があるわね。料理の味と同じで、経験を重ねて深めていくものだから」
胡葉がそう言って立ち上がると、啓介も少し遅れて立ち上がった。
ふと見れば、窓の外はすでに黄昏に沈みかけていた。
──ブラインドを透過した薄明かりは、啓介の影を細長く、ゆがませた。
そのねじれた像は、彼の心の混乱をそのまま映しているようだった。
自分がつくる料理の価値。
その価値を守るために必要な境界線。
優しさだけでは、守れないものがある。
そして、守るためには強さと知恵が必要なのだ。
その日の啓介の背中は、以前よりも少し小さく、けれど確かに一歩、大人への階段を登ったように見えた。




