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たかいたかいの先に

地鶏ソテー季節野菜のラヴィゴットソースがけ


 イベントコーナーに満ちていた賑やかな熱気は、夕方の風とともに薄れていった。

 今日の調理実演は成功裡に終わり、客のざわめきは、いまはもう遠ざかっている。


 胡葉が「悪いけど、残りの片付けお願いね」と手短に告げると、啓介は「はい、大丈夫です」といつものように笑って答えた。

 胡葉は電話で誰かに急ぎの連絡を入れながら、軽く片手を挙げて出ていく。

 その姿が会場の向こうに消え、イベントブースには、啓介ひとりが残された。


 静かなものだ、と啓介は思う。

 つい一時間前までは、調理台の前に人垣ができ、子どもたちが背伸びして覗き込み、大人たちがスマホを構えていた。

 しかし、片づけの時間になればこの通りだ。

 空気は落ち着き、シンクの縁で金属のボウルが触れ合う小さな音だけがカチャリ、と響く。



 そんなときだった。


「……あのっ」


 ふわりとした、少し震えるような声がした。

 振り返ると、若い女性と、その脚にしがみつくように立つ小さな女の子がいた。


 二十代の後半と思われる女性は、黒髪をひとつにまとめ、淡いベージュのコートを着ている。

 その横で、女の子は五歳くらい。女性の側で不安げな顔でこちらを見ていた。


「ごめんなさい、もう終わっちゃいましたよね……?」


 女性──一ノ瀬瑠美は、申し訳なさそうに言った。


 啓介は首を傾げつつ、優しく答えた。


「料理の提供は終わってしまったんですが……何かお困りでしたか?」


 すると、隣の女の子が堪えきれなくなったように、ぽろっと涙をこぼした。


「た、食べたかったぁ……っ」


「ルリ、泣かないの。ごめんね、ママが仕事で遅くなったから……」


 啓介は、涙をこぼす少女の様子に胸がつまるような気持ちになる。

 自分の料理をこれほどまでに楽しみにしてくれていたという事実が、胸の奥をそっと温かくした。


「もしよかったら……少しだけお作りしましょうか」


 一ノ瀬さんが驚いて弾かれたように顔を上げた。


「えっ……でも、もう終わりですよね?そんな、ご迷惑じゃ……」


「余っている材料が少しありますから。せっかく来てもらったのに、何も食べられなかったら寂しいでしょう?」


 その言葉に、ルリちゃんが涙の中から顔を上げた。


「つくってくれるの……?」


「もちろん。君のためにね」


 すると、ルリちゃんの瞳が一気に明るくなる。


 一ノ瀬さんは小声で「すみません……ほんとうに」と繰り返したが、啓介は気にしている様子は無かった。



 さっそく彼はまな板を整え、残った食材を並べる。

 今日の目玉として提供した、地鶏ソテー季節野菜のラヴィゴットソースがけ──子どもでも食べやすい味に仕上げた人気の品だ。

 ソテーに使ったバターが縁からほどけ、地鶏を焼いたフライパンが小さくジュッと応える。

 皿に添えられた季節野菜とハーブを刻んだラヴィゴットソースの、爽やかな酸味だけが、かすかに空気中に残っていた。


 ルリちゃんは、カウンターの端に顔をのせるようにして覗き込んでいた。


 「わぁ……」


 驚きと期待が入り混じった声。

 その視線を感じながら啓介は手を動かし続けた。


 フライパンを返すと、ルリちゃんは小さな手を胸の前でぎゅっと握った。


「すごい……パパみたい……」


 一ノ瀬さんが一瞬、息を呑む気配がした。

 啓介は、ただ柔らかく笑うだけだった。



 完成した皿を手渡すと、ルリちゃんはうれしそうに椅子へ座り、フォークを握った。

 最初のひと口を噛んだ瞬間、顔がぱっと花開く。


「……おいしいっ!」


 一ノ瀬さんもまた、ひと口食べて、目元を緩めた。


「……ほんとうに、優しい味ですね」


 その表情が、どこか救われた人のように見えた。


 食べ終わる頃、ルリちゃんが椅子を降りて啓介の前へやってきた。

 小さな手を背中へ隠し、もじもじと視線を揺らしながら。


「ありがとう……すっごく、おいしかった」


 啓介はしゃがんで目線を合わせる。


「喜んでもらえて、僕も嬉しいよ」


 するとルリちゃんは、なぜか言いにくそうに、小さな声でつづけた。


「……も、もうひとつ、おねがいがあるの……」


 一ノ瀬さんが慌てる。


「ルリ、それは……ダメ。迷惑になるから……」


「いいですよ。僕でできることなら、なんでも」


 啓介がそう言った瞬間、ルリちゃんは一気に顔を明るくした。


「じゃあ……たかい、たかいして!」


 一ノ瀬さんは両手で口元を押さえた。小さな悲鳴のように。


「ちょ、ちょっと、ルリ……!その、さすがに……」


 啓介は笑った。心の底から楽しそうに。


「いいですよ。お安い御用です」


 そう言ってルリちゃんを抱き上げると、少女は身体を預けるようにきつく腕を巻きつけてきた。


「いくよー」


 ひょいと、天井に向かって持ち上げる。

 ルリちゃんは、弾けるように笑った。


「きゃははっ!もっとー!」


 もう一度、もう一度。

 彼女は嬉しさを全身で表して、まっすぐ啓介を見つめる。


「……っ」


 その光景を見ていた一ノ瀬さんは、そっと目元をぬぐった。その指先がわずかに震えていた。



 啓介が少女をおろすと、ルリちゃんは「ありがと!」と跳ねるように言った。

 その笑い声が引いていくと、会場の奥で油の匂いだけがかすかに残った。


 やがて、一ノ瀬さんが少し落ち着いた声で話しはじめた。


「……娘が、こんなふうに笑うのは、久しぶりなんです。半年くらい……見ていなかったかもしれない」


 啓介は黙って耳を傾ける。


「陸が……夫が、半年前、事故で亡くなりました。出張先での急な事故で……私たちは、死に目にも会えなくて」


 言葉は行儀よく並んでいるのに、句と句の継ぎ目から痛みが滲んでいた。


「ルリも……ずっと塞ぎこんでいました。イベントのホームページを見て、あなたの写真を指さして、パパだって言ったんです」


「僕が……?」


「実際には、ぜんぜん似ていないんです。でも、娘には……あなたが料理をしている姿が、陸に重なって見えたんだと思います。高い高いをするところも……夫が、よくやっていましたから」


 ルリちゃんはその言葉を聞いても泣かず、ただ静かに啓介の顔を見ている。

 まるで、ほんとうに父親を前にしているかのように。


「だから……今日ここへ来たいって、どうしても言うから。……娘が、あなたに会ったら、あの日の一歩を踏み出せる気がして」


 一ノ瀬さんの声は震えていたが、涙はこぼれなかった。

 ただ深く息を吐いて、そっとルリちゃんの頭を撫でた。



 ルリちゃんは啓介に向かって、小さく手を振る。

「ばいばい……またね」


 その声は、不思議なほど静かで、凛としていた。

 まるで、「パパ、もう行くね」と告げるような優しさを含んだ、新しい別れだった。


 一ノ瀬さんは立ち上がり、財布を開こうとする。


「お代を……払わせてください。本当に助けてもらったから」


 啓介は首を横に振った。


「いりません。喜んでもらえたのが嬉しいんです。僕の方こそ、残った食材を無駄にせずにすんで助かりました」


「でも……」


「大丈夫です。気持ちだけで充分ですから」


 しばらく押し問答のような形になったが、最終的に一ノ瀬さんは息をついて諦めるように微笑んだ。


「……それじゃあ、お言葉に甘えます。本当に、ありがとうございました」


 ルリちゃんの手を握り、二人は出口へ向かう。

 名残惜しそうに振り返ったが、悲しい顔ではなく、小さく微笑んで満たされた表情だった。


 イベント会場の向こうに、二人の姿が消える。



──そして、

 少し離れた場所から、その様子を見ていた者がいた。


 胡葉でも、スタッフでもない。


 璃子だった。


 啓介を探しに来たところで、三人のやりとりが自然と目に入ったのだ。


 啓介が少女を抱き上げる瞬間の、あの柔らかい笑み。

 料理を差し出すときの穏やかさ。

 母親が震えた声で感謝を述べるとき、真剣に耳を傾けていた姿。


 どれも、啓介にとっては“特別な感情”ではない。

 ただ、喜んでもらえることが嬉しいだけ。

 いつもの啓介。


 それでも、あの親子は啓介の優しさに救われていた。


 璃子は胸の奥がきゅっと締めつけられるような気持ちになった。


──この仕事が、啓介のためになるというのはこういうことか。


 その優しさが、恋愛とは無関係の愛情として機能する。

 ただ、喜ぶ顔のなかの、ほんのひとときの温もり──そんな形で。


 啓介は食器を片付けながら、彼女に気づかないまま呑気に笑っている。



「あれっ、璃子、どうしたの?」

 璃子は、そっと息を整えると、笑って言った。

「啓介、なんかヒーローみたいでカッコよかったね」


 啓介は首を傾げる。

「うーん、ヒーローってあんななのかなぁ。でもルリちゃんが笑顔になってくれたのは僕も嬉しいかな」


「さぁてね。片付け手伝うから、一緒にやるよ」


 夕暮れのフードコートに、皿の触れ合う音だけが小さく残った。

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