間話 はなまるの宿題
誰にも語られなかった……いや語られない話がある。
それは、とある女性が、先日ひとつの宿題を採点した話だ。
机もなければ、答案用紙もいらない。
赤ペンを握る必要もない。
提出期限さえ、とっくの昔に過ぎ去ってしまった、途方もない課題。
だが、彼女の心に響いた結果は、あまりにも明確だった。
──はなまる。
文句なしの満点だ。
人々はどんな宿題だったのかと怪訝に思うだろう。
それは、夏休みの自由研究でも、大学の難解なレポートでもない。
彼女の人生のほとんど、五十年という途方もない歳月のあいだ、胸の奥深くで形を変え、成長し続けてきた“人生の宿題”だった。
触れれば、過去の苦痛と決断の重みが手のひらに蘇り、痛む。
目を凝らせば、あの日々の別れの情景が鮮やかに蘇り、涙が滲む。
けれど、決して消えることのなかった、最も切実な問い。
──あのとき、私自身の手で手放した“未来”は、彼の人生を不幸にしなかったのか。
もう答え合わせは叶わない。
そう諦め、過去の箱の蓋を固く閉ざし続けてきた問いだった。
しかし、人生の終盤に差し掛かった彼女の油断を見透かすように、奇跡は音もなく、七十五歳になった彼女の心にふわりと舞い降りてきた。
フードイベントの喧騒の中で、若い青年の焼くキッシュの琥珀色の匂い。
そのまっすぐで、どこか懐かしい眼差し。
そして、その口から語られた名前。
それらすべてが、彼女の長い長い宿題の余白に、そっと、静かな「正解」の印を刻んでいった。
その瞬間、涙はこぼれなかった。
こぼれたのは、静かな微笑みだけだった。
それは、胸を締め付けていた過去からの安堵と、己の選択に対する誇り、そして失われた歳月への微かな切なさが混じり合っていた。
こうして彼女は、五十年ぶりに胸の内で宿題を提出し──彼女の選んだ人生の結末は、静かに、満点をもらえたのだ。
■二十歳の恋と、破れた未来
彼女が二十歳だった頃、世界は輝きに満ちていた。
彼女には、愛する男性がいた。
無骨で、口数は少ないが、愛用のオートバイと同じくらい彼女を愛し、その不器用な表情の奥には、驚くほど深く、純粋な心を持った人だった。
彼もまた、彼女だけを特別に想っていた。
二人の未来は、川の流れのように自然につながるものだと信じていた。
いつか結婚し、小さな家族を作り、共に歳を重ねるのだと、疑いのカケラさえ抱かなかった。
だが、運命は、時として人の幸福を許さない冷酷な顔を見せる。
父親が経営する会社が、傾いた。
オイルショックの余波に飲まれ、倒産の瀬戸際に立たされた、脆い家業。
そんなとき、父の会社の大口取引先の息子が、彼女に一目惚れしているという話が持ち上がった。
それを聞いたとき、彼女の胸は、恐ろしい予感にざわついたが、父は憔悴しきった顔で、迷いなく、彼女に懇願した。
「……頼む。会社を守るためだ。従業員を、家族を、守るためだ」
その一言が、彼女の未来を決定づけた。
彼女は震える手で、最も大切だった未来の扉を、自ら静かに閉じる決断をした。
愛する人との、共に描いていたささやかな未来を、犠牲にしたのだ。
すべてを悟られぬよう、彼女は彼に、最後の、そして、ただ一つのお願いをした。
「紅葉を見に行きたいの……」
鮮やかな赤と黄色に染まった山道を、彼はいつも通り、スタイリッシュで軽快なオートバイで駆けた。
彼女は彼の背中に頬を寄せ、風の音に溶けるように、心の中で永遠の別れを告げた。
感謝と、そしてどうか彼が幸せになってほしいという、切実な祈りをそっと置いてきた。
そして数日後、彼女は彼に、世界で最も残酷で、最も優しい嘘をついた。
「あなたは……強すぎるの。私は、あなたのスピードについていけない」
それは、彼が自分の人生をまっすぐ生きていけるよう、彼女が選んだ、精一杯の、そして、唯一の拒絶の言葉だった。
彼に「私を嫌いになってほしい」と思わせる嘘をつけば、彼は彼女を軽蔑することで、もっと早く立ち直れたかもしれない。
だが、彼女にはそれができなかった。
彼が命のように愛する「強さ」と「真っ直ぐさ」を、彼女自身の手で否定してしまうことになると思ったからだ。
だから彼女は、自分を「ついていけない弱い人間」にしてみせる道を選んだ。
彼の非を一つも作らず、いつかまた、その「スピード」で走れるようにするために。
しかし、その言葉は、まるで鋭利なナイフのように、彼の心臓に突き刺さった。
彼は心が折れ、生きる気力をなくし、あれほど命のように愛していたオートバイにも触れられなくなったという。
彼女は知りたくなかった。
耳を塞ぎたかった。
しかし、人づてに耳に入ってきた彼の惨状に、彼女の胸は張り裂けるほどに痛んだ。
それでも──それでも、彼女は引き返さなかった。
一度選んだ道。
父を、家族を、従業員を、守るという選択。
彼の未来が、いつか必ず別の幸福につながることを、ただ天に祈り、毎日、涙を拭いながら生きた。
■義務から始まった結婚と、静かな愛
やがて彼女は取引先の息子と結婚した。
世間から見れば、それは身売り同然の結婚──そう思われても仕方なかった。
だが、彼女の献身と、運命の皮肉は、彼女に別の形の幸福を与えた。
夫は、彼女の心の奥底に秘められた影を知ってか知らずか、誠実で、穏やかで、深い敬意をもって彼女を大切にしてくれた。
それでも、夫の寝顔を見つめながら、彼女はかつて彼を手放した夜の冷たい風を思い出す。
愛する人の未来を守るために選んだ嘘は、こんなにも心を裂くものだったのか。
そして、二人は手を取り合って会社を立て直し、長い長い年月を夫婦として寄り添って生きた。
世間から見れば、仲睦まじい、理想的な夫婦だった。
ただ、子供には恵まれなかった。
時折、本当にふとした瞬間に、「もし、あの人と結ばれていたら……」と、胸の奥を過去の幻影がよぎることがあった。
それは、まるで夢の名残のように、甘く、そして苦い。
だが、彼女はそれを口にすることは、自分の人生と、そして何より隣にいる誠実な夫への、最大の裏切りだと知っていた。
彼女は選んだ人生を全うしようと決めた。
夫への敬意と、時間をかけて育まれた静かな愛情が、若き日の激しい後悔を静かに上回っていたからだ。
■七十五歳──奇跡の交差点
そして昨年、人生を共に歩んだ最愛の夫が、静かに旅立った。
広い家に一人残され、会社も甥に譲った。
彼女は、「誰かの妻」でも「会社の経営者」でもなく、ただ一人の女性へ戻った。
時間だけが静かに流れ、その静寂の中で、長年封印していた記憶が、まるで古い映画のように、静かに顔を出し始めた。
そんなある日、偶然故郷の同級生に再会した。
「あんた、知ってる? あの人、まだ生きてるわよ」
胸の奥が、激しい鼓動を打ち始めた。五十年ぶりに。
「それにね……孫がフードイベントで料理人をしてるんだって」
同級生が見せてくれたスマートフォンの中の写真。
そこに写る青年は、驚くほど彼、若き日の恋人に似ていた。
口元の穏やかな優しさも、目標を見据える真っ直ぐな視線も。
気づけば、彼女はイベントの会場へと向かっていた。
七十五歳。
それは、人生が最終コーナーを回り、ゆっくりとゴールへ向かう最後の直線。
もう何も変わらないと誰もが思う年代。
だが、彼女にとっては、人生が“もう少しだけ動ける”奇跡の交差点だったのだ。
■運命のキッシュ
最初は、遠くからその青年の姿を見るだけのつもりだった。
誰かに見つかるのが怖かった。
自分の過去が、あまりにも鮮やかに蘇って、今この瞬間に壊れてしまうのが怖かった。
しかし、青年──彼の孫が焼き上げるキッシュの匂いを吸い込んだ瞬間、彼女の胸の奥深く、石のように固まっていた何かが、そっと目を覚ました。
オートバイで駆けた紅葉の山道の途中にあった、小さな休憩所の鉄板焼き。
あの時、彼と二人で分かち合った、地元のキノコと豚肉のバター炒め。
それは、土の香りがするキノコの濃い旨味と、豚肉の脂が焦げ付く香ばしさが、バターの甘い香りに包まれた、永遠の別れを悟った日の、温かい体温の記憶と、未来への憧れの匂いだった。
彼女は気づけば、まるで何かに導かれるように青年の前に歩を進めていた。
そして、絞り出すように声をかけていた。
「……あ、あのお祖父さんは、お元気?」
青年は、突然の問いに驚きながらも、彼によく似た優しさで笑った。
「ええ、元気ですよ。まだ古いオートバイにも乗ってます」
その一言が、彼女の胸を、深い感動で震わせた。
──あの人は、今も、走っている。
一度は心を折ってしまったと聞いた彼が、あの人生そのものだったオートバイと共に、まだ力強く生きている。
彼女の犠牲は、彼を殺さなかった。
彼の孫である青年は、誇らしげに続けた。
「祖母に先立たれて、しばらくは落ち込んでいましたけど……でも、僕ら家族の前ではいつも強くて。頑固ですけど、すごく優しい人なんです」
彼の語る「祖父」の像は、若き日の彼と、寸分違わず重なっていた。
彼女は、涙の代わりに、静かな笑顔を浮かべた。
「……あなたのお祖父さん、きっと素敵な人生を歩んできたのね」
──私のあの選択は、間違いじゃなかった。私の苦悩は、無意味ではなかった。
その安堵と喜びは、五十年間の重荷を一瞬で消し去る力を持っていた。
「私にも、あんな孫がいたのかもしれないわね」
そう口に出した瞬間、胸の奥がカラリと軽くなった。
これは、後悔ではない。
これは、彼女自身の、別の世界線の“夢”を、彼女が優しく見届けた、静かな儀式だったのだ。
■宿題の終章
会場を後にする彼女の歩幅は、来たときよりも格段に軽かった。
まるで、体に張り付いていた重力が、そっと解除されたかのように。
「ありがとう……」
誰に向けた言葉か、彼女自身にもわからなかった。
過去の恋人にか。愛する伴侶だった夫にか。
彼の孫にか。
それとも、あのとき、苦渋の決断をした、若き日の自分にか。
それは、すべてに向けた、心からの「ありがとう」だったのだろう。
五十年もの歳月がかかった宿題は、ようやく静かに、そして完璧に終結した。
風が優しく吹き抜け、彼女の白髪を揺らした。
その揺れ方は、あの日、オートバイの後ろで別れを悟り、涙を堪えた少女の髪の揺れ方と、寸分違わなかった。
けれど、もう涙はない。
彼女は胸の内でそっと呟く。
──これで、私はようやく、私の人生を誇れる。
残りの日々を、後悔という名の影に怯えることなく、穏やかに過ごすための、静かで、あたたかい終章が、そこには確かにあった。
人生の宿題に、自身で満点の”はなまる”を付けた女性の背中は、夕暮れの残光の中で、どこまでも優しく、そして潔かった。
■彼の人生の終章
彼の話もしよう。
あの日、失意のどん底に沈み、オートバイにも触れられなかった彼。
けれど、運命は彼のそばに、別の光を用意していた。ある女性が、彼のそばに寄り添い、献身的に支え続けた。
彼女は、彼の心の傷を決して否定せず、時間をかけて、再び彼の人生そのものだったオートバイに乗る力を与えてくれた。
やがて彼はその女性と結婚し、長男が生まれた。
名付けの日、彼の妻は言った。
「あなたが、反対するのもわかっている。
でも、私と出会ったとき、あなたは信じていたから傷ついていたのよね。
いいえ、あなたは今でも信じている。
でもね。私は過去も現在も含めて、そんなあなたを愛しているのよ。
そして、あなたは、私にとって、未来の”俊れた仲介人”なの。
これからも、私はそれを信じていきたい。
だから、それを介けてくれるようになって欲しい、そういう願いを息子の名前に託したいの。」
その妻は、彼より先に、七十歳で病に倒れ、この世を去った。
葬儀では、人目を憚らず声を上げて泣く、無骨な彼の姿が印象的だったという。
それでも今なお、彼は走り続けている。
傾きはじめた陽が水平線へと沈んでいく中で、その影を長く長く引き延ばしながら。
人生そのものだったオートバイと、愛してくれた妻と家族の思い出と共に、力強く。
──彼の人生もまた、間違いなく満点だった。




