祖父の同級生
春しいたけ・春タマネギ・ほうれん草・ジビエ塩漬けのキッシュ
イベント会場の一角。午後の光がカーテン越しにやわらかく差し込み、焼けたバターとキノコの芳しい香りがふわりと漂っていた。
来場者の列がひと段落したころ、啓介の前にひとりの女性が静かに立った。髪は銀に近い灰色で、整えられたウェーブが肩に触れている。柔らかい口紅の色が、笑みを浮かべた唇に品を与えていた。
「あなたが……鈴木啓介さんね?」
「はい、そうですが……」
「あなたが実演で作っていたキッシュ。露地物原木栽培の春シイタケ、香りが立っていて、地元食材との相性もよくて、本当に丁寧で……あなたの感性の豊かさが伝わってきたわ。こんなにも素材の味を引き出せるなんて、驚きました」
「あ、ありがとうございます……」
「あなたのこの丁寧さ、素材を大切にする姿勢……なんだか、お祖父さまの俊介さんを思い出したの。あの人も、いつだって、見えない部分にこそ気を配る人だったから。オートバイの整備でも、何でもね。」
「祖父が……ですか」
「私は、杉田信子といいます。お祖父さまの俊介さんとは、昔の同級生だったの。ホームページを見てね、あなたが“鈴木俊介の孫”だとすぐに分かったわ」
「祖父の、同級生なんですか」
「ええ、もう七十五歳になるわ。あの人とは、学生のころの友達だったんです」
そう言って、信子は懐かしそうに目を細めた。
「イタリアのオートバイに乗っていたのよね。マークスリー デスモだったかしら」
啓介は思わず笑っていた。
「はい、今でも乗っていますよ。父の信介が何度も“危ないからやめろ”って言ってますが、お前よりも付き合いが長いんだって聞く耳を持ちません」
信子は、すこし驚いた表情をしたが、すぐに懐かしそうに小さく頷いた。
「あの人、昔からそうだったわ。自分の信じたことは、誰に何を言われても曲げない人。でも、人の痛みがわかる、不思議な強さがあったの。でも、強いからこそ折れるのも早いのよね」
「それは……」
啓介は少し考え込むように視線を落とし、言葉を継いだ。
「ああ、なんとなく分かります。数年前に祖母が亡くなったとき、祖父は本当に小さくなってしまって……。家族みんなで心配したんです」
「奥様が……亡くなられたの?」
「はい。でも祖父は、結局あのオートバイでまた走り出しました。”あいつが背中を押してくれてる気がするんだ”って。頑固ですけど、家族思いの優しい人なんです」
信子の瞳が、一瞬だけ潤んだように見えた。
彼女は深く息を吐き、安堵したような、祈るような表情で微笑んだ。
「……あなたのお祖父さんは、きっと素敵な人生を歩んできたのね。人間ね長く生きていると、いろいろ経験する物なのよ。俊介さんのお孫さんなら心配ないわね」
信子は少し言葉を区切り、遠くを見て静かに微笑んだ。
「そういえば、あなたのお父さんは信介さんというのね……親子三代で“介”という字を使っているのね。そう思うと、あの人の時間の流れや、想いの痕跡が、こうして形になっているように感じるわ」
僅かな沈黙の後、信子は続ける。
「そう、懐かしいわね。一度だけ、あのオートバイに乗せてもらったことがあるの。紅葉を見にね。とても優しい乗り心地だったのよ」
空気が、わずかに秋の気配を帯びる。
「優しい……オートバイ、ですか」
「ええ、安心して背中に身を預けられる。あのときの風の匂いは、今でも覚えているの。あの頃、あのオートバイの上だけは、全てがゆっくり流れていたのよ」
しばらく沈黙があった。
信子は啓介をまっすぐ見つめ、微笑んだ。
「目元がそっくりね。俊介さんの若いころに。あの人も、何かを考えるとき、そんな顔をしていたわ」
信子は言葉を区切ると、ふと啓介の背後を見た。
その眼差しは、遠い親戚の子を見るような、愛しさと切なさが混じったものだった。
「……でも、僕は大学に入るまで祖父と暮らしてましたけど、信子さんには一度もお会いしていません」
「そうね、私、結婚して別の土地に行って、それからは、あの町にほとんど行かなかったの」
「そう言われてみれば、信子さんの話し方、祖父が時々する昔の話と似た雰囲気があります。普段は寡黙ですけど、昔の話をするときだけは、すごく楽しそうに話すんです」
その言葉の奥に、少しだけ時間の影が落ちた。
過去を悔やむでもなく、ただ静かに受け入れるような影だった。
会場の外では、風が通り抜け、落ち葉を一枚、舞い上げた。
信子はそれを目で追いながら、静かに立ち上がる。
「今日は会えてよかった。キッシュ美味しかったわ。ありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
信子は啓介に背を向け、ゆっくりと歩き始めた。
そのとき、誰にも聞こえない、風に溶けるような微かな声で、彼女はつぶやいた。
「私にも、あんな孫がいたのかもしれないわね」
彼女が去ったあと、胡葉は一瞬だけ寂しさを帯びていた。
信子が背負ってきた長い時間と、胡葉の過去の傷が重なったのかもしれない。
「昔のオートバイって、そんなに乗りやすかったんですか?」
啓介の素朴な疑問に、胡葉は即座に肩をすくめた。
「そんなわけないでしょ。今のバイクの方がずっと乗りやすいわよ。昔のは、じゃじゃ馬そのもの。今のバイクと同じ感覚で乗ったら、すぐに事故るわよ」
そう言いながらも、胡葉の声はどこか愉快そうだった。
そして、少し目を細めて続けた。
「でもね、本当に尊敬できる人ってのは、大切な人ができたとき、その“じゃじゃ馬”を、最高の“優しいオートバイ”に変えられる人のことを言うのよ」
啓介は頬をかいた。
胡葉の言葉が冗談なのか本音なのか、少し判断がつかなかった。
「……あの人、素敵ね」
「とても綺麗な人でしたね」
「違うのよ」
胡葉は首を振って、少し笑った。
「信子さんのね、“想いを受け止める強さ”が、素敵なの。さっき、時間の流れが形になったって言ったでしょ? 俊介さんって、それを息子さんの名前に込めたのかもしれない。50年前の美しい恋愛を見ているようで、私、少し感動しちゃったわ」
「えっ、そうなんですか。ただの同級生の話だと……」
「それは、もう少し勉強しないとね。それと覚えておいてね”強いからこそ折れるのも早い”。大事なことよ」
「うーん、難しすぎて、ちょっとピンとこないです」
「信子さんも言っていたでしょ。人間ね、いろいろ経験する物なのよ」
そして、誰にも聞こえないように胡葉の言葉は続いた。
「そして、私も今度こそ、大事な部分は折らないようにしないと……」
オートバイに乗り続ける、啓介の祖父のように、
“優しさ”というものが、時を超えて続いて欲しいという願いがこもっていた。




