悪魔と奇跡のレシピ
ブランド豚の肩ロースソテー 季節野菜と地場産きのこのバルサミコソース
フードイベントを2週間後に控えた夕方、試作調理室には、期待と緊張の入り混じった空気が漂っていた。
ステンレス台の前に立つ啓介は、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「じゃあ、始めます」
胡葉と数名のスタッフが見守る中、包丁が軽快にまな板を叩く。
しかし、その軽やかさの裏には、絶妙な角度で刃を入れ、均等な厚さを保たなければならない緊張感があった。
野菜の断面から立ち上る香りは、瞬間ごとに変わる火加減と手の速度で決まる。
火にかけた油の音、食材が熱を抱く微妙な変化、ソースに加える地元産ハーブの微細な刻み、そして火を落とす直前の長期熟成バルサミコ──どれひとつでも狂えば、味も香りも壊れてしまう。
だが啓介の手の動きはまるで演奏のように滑らかで、すべての複雑な工程がひとつのリズムとなって流れる。
立ち上る香りは山の幸そのものの輪郭を鋭くし、部屋全体を満たしていく。
それは、プロの技術が結実した、完璧な一皿だった。
胡葉の表情にも、思わずやわらかな笑みが浮かんだ。
「これなら、うまくいきそうね」
そう言った彼女は、これから口にするセリフを楽しみにしているように指を立てる。
「ちょっとだけレシピ変えていいかしら。ほんのちょっと。啓介くんには……後で教えてあげるわ」
「え?」
「あ、それと──薀蓄は一皿につき“一言”までよ。話すのは調理中じゃなくて、試食を渡す直前だけ。それ以上話したらアタシがマイク奪うわ。どうしても言いたいことがあれば後で教えて。スタッフが伝えるし、必要ならレシピに載せるから」
胡葉は軽やかに笑い、啓介は苦笑した。
自分は「料理の専門家」。胡葉は「イベントを成功に導く人」。その役割分担が、少し誇らしく、少し悔しい。
■不意の違和感
イベント当日。会場は色とりどりの野菜や装飾で盛り上がりつつあった。
だが啓介は、ひとつのポスターに目を止める。
見た瞬間、わずかに空気の温度が変わったような、説明しづらい引っかかりが胸に残った。
「胡葉さん、あれ……地域の特産品じゃないですよね?」
大手企業の商品広告。ここにあるはずのないもの。
胡葉は、にやりと意地悪く笑ってみせた。
「あら、気づいた? 気にしなくていいわ。仕事よ、仕事」
何か企んでいる。
そう思ったが、実演の準備が押しており、啓介は思考をそのまま追い出した。
■盛況の裏で
イベントは驚くほど噛み合っていた。啓介の調理技術、胡葉たちスタッフの誘導。
そして、何よりも試食皿を前にした人々の、一瞬静止し、そして弾けるような笑顔。
それを見た瞬間、啓介は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……イベントって、こんなに凄いんだ」
観客の喜びこそが、自分が世の中に通じた証だと、彼は確信した。
だが後片づけの最中、啓介は配布されたレシピをめくって固まる。
「……この材料……僕のじゃない」
自分が一から作った特製ソースの部分に、きっちりと大手企業の商品名が記載されている。
味は落ちる。深みもない。
胸が締めつけられた。
そんな彼を眺め、胡葉は愉快そうに目を細めた。
「その顔よ。傷ついた芸術家って、本当に分かりやすい」
軽く揶揄したあと、彼女は指を三本立てた。
■胡葉の「三つの理由」
「レシピを変えた理由は三つ。
一つ。アタシはその企業と信頼関係があるの。味とコストのバランスもいいし、安定供給もできる。イベント後のレシピ普及にも協力的よ。
二つ。顔を売れる。啓介くんの評判、すごく良かったわ。企業の人も注目してた。
三つ。啓介くんのレシピは難しすぎるの。家庭で作れないと意味がないのよ。“できない”ってだけで諦めちゃう人、たくさんいるの」
「……でも、味はかなり落ちますよ」
「そりゃそう。でも“60点でも1000人が作れる”ほうが、“100点で1人が作れる”より意味があるの、ね?」
胡葉は声の調子を少しだけ落とした。
「家庭料理で一番大事なのは、味より“続くこと”。啓介くんの料理は、一回で終わる“奇跡”を求めすぎ。最終的には“80点で1000人が作れる”レシピを目指してもらいたいんだけどね。」
その言葉に啓介はハッとし、ふと太輝の顔が浮かんだ。
──アパートで太輝を目の前に練習したとき、目を輝かせながらも少し悔しそうに言っていたことを思い出した。
「料理ってさ、難しいんだよな……」
■帰路の苦味と再挑戦
納得したつもりでも、啓介の帰り道は重かった。
部屋に戻り、使い慣れたフライパンを見るたびに胸が痛む。
苦い気持ちを紛らわせるように、啓介は胡葉からもらった企業商品でレシピを再現してみた。
「……あれ? もう終わり?」
驚くほど早く終わった。洗い物も少ない。
そして、味は──
「……美味い、な」
自分の方が複雑で深い。でもこれは、真正面からストレートに“旨い”。
簡単なのに、香りと旨みがすぐに立つ。
味が落ちたのではなく、ベクトルが違うのだ。
啓介のソースは全パートが絡むフルオーケストラ、企業のソースは、ただ旨味だけが一直線に響くソロだった。
それを認めた瞬間、胸の重さが少しだけ軽くなった。
■広がるレシピと笑顔
後日、胡葉から届いたメッセージ。
啓介がSNSの口コミを覗くと、再現写真や【美味しかった!】という声がずらりと並んでいた。
その光景に、思わず息をのむ。
「……こういうこと、だったのか」
完璧じゃなくても、人を笑顔にできる料理。
その夜、啓介自身も静かに写真を一枚投稿した。
【 #フードイベント #レシピ再現 】
誰の目にも止まらないまま、同じタグの下に。
そして通知が鳴る。
【──お前のイベントのレシピ、作ったぞ!】
太輝からだった。
ごろごろの野菜。ちょっと焦げた肉。
けれど添えられた絵文字は満面の笑み。
【ソースを混ぜるだけなのに、この味!】
【洗い物が少なくて助かったわ!】
【これ俺でもできた。……なんか料理って遠くなかった。俺って天才か?】
啓介は笑いながら返した。
【天才じゃないよ。多分、胡葉さんが天才】
【誰それ? 彼女?】
【違う、悪魔】
【は?】
【……でも、いい悪魔】
画面越しの太輝が、今日はいつもより近くに感じた。
料理はもっと個人的な作業だと思っていた。
けれどレシピになれば、誰かの食卓へ旅立ち、知らない誰かを笑顔にする。
それこそが、自分が料理をする理由なのかもしれない──。
■プロとしての名刺代わり
数日後、啓介はイベントの報酬を受け取るよう案内された。
「え、いや……僕、本当に受け取っていいんですか? 今回は経験というか──」
言いかけた瞬間、胡葉が鋭く制した。
「プロってのはね、対価を受け取るところから始まるの」
彼女の声は低く、しかし温かかった。
「魂でもお金でも、責任には必ず対価が発生する。無給でやった仕事は誰も真剣に検証しないの。啓介くんのレシピには価値がある。その価値を一番最初に認めて、適正な対価を払う。それがアタシの義務よ」
啓介は言葉を失い、封筒を受け取った。
思ったより重い。印字された宛名を見て息を呑む。
「鈴木啓介・料理実演担当」
「……これ、僕の名前?」
背中越しに、胡葉が静かに答えた。
「プロとしてね」
それだけ告げると、彼女は窓の外を見たまま動かない。
──良い仕事には、責任が生じる。
そして、その責任を負おうとする人を、私は放っておけない。
その沈黙が、何より雄弁だった。
悪魔のようで、しかし確かに師匠のような存在。
啓介の胸の奥に、静かに火が灯る。




