最も美しい報酬
夕暮れ時、千春のオフィスは、静寂に包まれていた。
窓の外の空は、一日の仕事を終えたような、深く澄んだ紫に染まりつつある。
その時、ノックもなく、ドアが開いた。
夕闇を背景に現れたのは、胡葉だった。
彼女は、いつもの服装ではなく、シンプルなチャコールグレーの、旅立ちを思わせる軽やかなコートを纏っていた。
その手には、旅行用の小さなキャリーケースが握られている。
「随分と、急ぎの荷造りね」
千春は驚きを隠さなかったが、動揺を見せずにペンを置いた。
彼女は、胡葉がこの街を去ることを、予感していた。
あのフードイベントの終焉は、すべての「仮の役目」の終わりを意味していたからだ。
胡葉は、オフィスの中心まで静かに歩みを進めた。
彼女の足音は、硬い床に澄んだ響きを残し、その一歩一歩に、もうこの場所に未練がないという潔い決意が込められているようだった。
「ご挨拶に伺いました、先輩」
胡葉の声は、いつになく穏やかだった。
「ご挨拶?随分と丁寧ね。あなたの辞書に”ご挨拶”なんて言葉があったかしら」
千春は皮肉を込めて言ったが、椅子から立ち上がることはしなかった。
互いに、この仕事が終わったことを理解しているからこその、最後の余韻の確認だ。
「私が去った後も、よろしくおねがいしますね。璃子ちゃんも啓介くんもアタシにとって大切な人だから」
真面目に寂しそうにしていた胡葉は、ふと、茶目っ気のある表情を浮かべた。
「あーあ、やっぱりこうなっちゃうか。本当は、アタシもあそこにいたかったんだけどなぁ」
璃子を助けるためには、啓介に社会のルールを知ってもらわなければならない。
でも、それを知った啓介は璃子を呪縛から解くだろう。
だがその瞬間、胡葉は二人のそばを離れねばならない。
そこにいてはいけないと、胡葉は確信せざるを得ないから……
つまり、彼女の居場所は、その瞬間、必然的に消える──
「もしかして、先輩、わかっててアタシに啓介くんを紹介したんですかぁ?」
胡葉は自嘲ぎみに笑う。
けれど胸の奥では、覚悟と微かな安堵が芽を出していた。
「さて、なんのことやら。私はヒメちゃんに、料理人を紹介しただけなんだけどなぁ」
胡葉は冗談めかして千春へ笑みを返す。
「まったくぅ。それじゃあ、今回の報酬はもらわなきゃね」
千春はおもむろに首を振り、少しの間の後、静かに言った。
「いいえ、あなたはもう報酬を手に入れているのよ」
その言葉の真意を、胡葉は理解できなかった。
「ヒメちゃんは昔、大切なものを失ったとき、女神にはなれなかったと涙をこぼしていたわよね。あの時のあなたの悲しみは、計り知れないほど深く、そして重かったのを知っている」
静かに千春は続けた。
「でも、いまは……激情の炎のなかで、愛を繋いだ。過去の自分を焼き尽くした炎も、今はもう熱くない。むしろ、誰かを温める光に変わっている。それはもう現代の女神そのものよ。ねえ、コノハ 名ノ サクヤ ヒメ ちゃん」
千春の言葉は、胡葉の心にゆっくりと染み入った。
永い祈りの末に千春は胡葉へ、新しい魂の居場所を贈ったのだ。
呪いだと信じていた自らの名が、これ以上ない祝福の光となって全身を駆け巡り、凍てついていた心を一瞬で溶かしていく。
──胡葉は目を伏せ、言葉もなく涙をこぼす。
千春が用意した“最も美しい報酬”を、確かに受け取った。
「……そっか。アタシ、やっと……女神になれたんだ」
千春はそっと胡葉の頭に手を添える。
微かな吐息が胡葉の髪を揺らし、祝福の温もりが降りた。
もはや過去を罰するための呪いの名ではなく、愛を繋いだ者へ授けられる祝福の真名。
肩に背負っていた重荷が、静かにほどけていく。
千春の微笑は静かで、限りなく優しかった。
それは、役目を終えて安息へ向かう女神を見送る微笑──
──胡葉の涙。
抑えていた感情──悲しみ、苦しみ、後悔、安堵、歓喜──が一気に溢れ、胡葉の涙は止まらない。
千春はその涙をそっと拭い、胡葉の肩に手を置いた。
「もう大丈夫よ。あなたはもう女神なんだから」
胡葉は目を閉じ、何度も頷いた。
啓介の成長と璃子の解放を見届けたのち、そっと背を向ける。
そこに自分の居場所はもうない。けれど、それでいい──そう思える。
一片の花びらが風に舞い、星の囁きが彼女の背へ寄り添う。
東の月はあんなに遠いのに、今の背中は夜明けの太陽を待つように温かい
胡葉は静かに歩き出した。
その一歩は芽吹きの音のように確かで、
過去を解き放った女神の歩みは、軽やかで誇り高かった。
コノハナノサクヤビメ(木花開耶姫)
日本神話に登場する女神
ニニギノミコト(天照大神の孫)の妻
初代天皇とされる神武天皇の曾祖母である。
姉には、岩のような永遠性・不老長寿を象徴するイワナガヒメがいる。
日本神話で最も美しい女神の一柱と言われている。
ニニギノミコトに一目で見初められ一夜の契にて受胎するが、あまりにも早いと不貞を疑われる。
身ごもったのが天照大神の直系の子であることの証として、炎に包まれる産屋で三柱の神を無事出産する(火中出産)。
その後、富士山の権現である浅間大神となる。
名前を現代風に言えば、「木の花が咲き誇るような姫」となる。
木の花は、一瞬で輝く美である「桜」を指していると考えられている。
そのため、桜、縁結び、子授け、安産、火難除けなどの神様として祭られている。
富士山というキーワードを介して、作者としては、かぐや姫との関連も想像してしまうところである。




