静寂の支配者
「私、啓介の幼なじみです。彼とは愛し合っているんです」
彼女の髪がさらりとほどけ、風にさらわれていく。
どちらかが口を開くまでのわずかな沈黙が、初夏の陽射しの中で、永遠のように長く感じられた。
この言葉を投げつければ、大抵の女は動揺し、主導権は彼女の手中に収まる。
──それが、いつもの流れだった。
だが今、胸の奥で早鐘を打っているのは、彼女の方だった。
いつもなら、相手の表情のどこかに──嫉妬、怯え、あるいは動揺──そうした人間らしい揺らぎを見つけて、内心で静かに笑う。
それが、彼女のやり方だった。呼吸するように自然に、優位に立つ。
けれど、目の前の女は違った。
告白めいた宣言を受けても、その瞳は一切揺れなかった。
──私が、動揺している?
初めて経験する事態。
自分が支配する側から、支配される側に回った感覚
胸の奥に広がるのは、恐れか、いや──未知への戸惑いだった。
──目の前に立つ女は、ただものではない。
長くしなやかな栗色の髪が、風を受けてゆるやかに舞う。
その揺らめきが、まるで意志を持った生き物のように周囲の空気を撫でていく。
薄紅色のシアートップスは光を透かし、淡く肌を染めながら、その下に潜む体温までも仄かに伝えていた。
覆うことで、かえって隠されたものの輪郭が際立つ。
その微妙な距離感が、成熟と無防備さのあわいを作り出していた。
ドロップ型の透明な淡い桜色のピアスが揺れ、右手の薬指には、品の良いガーネットのリングが煌めいていた。
立ち姿には一切の無駄はなく、彼女の背筋が一本の強い意志のように通っているのがわかった。
ほんのわずかに上がった口角は、慈愛にも、挑発にも、怒りにも見える。
彼女の視線は桜の花びらが静かに落ちるように柔らかく、しかし確実に、心の奥に潜む小さな嘘や弱さを見透かしていた。
その恐ろしいほどの無垢な透明感。
清らかさと残酷さがひとつに融け合ったようなその存在は、見る者の理性をたやすく奪い去り、ただ、目を逸らすことすら許さなかった。
──その異様な魅力に引き寄せられ、璃子は目を奪われながら、抗いがたい嫉妬を覚えた。
──佐久夜 胡葉
「あら……そんなに可愛い顔をしてるのに、そんな大胆なこと言っちゃうのね、幼神璃子ちゃん」
胡葉の視線が自分を捉えた瞬間、璃子の胸の奥で何かがひゅっと音を立てて崩れた。
「どうして、私の名前を……」
それを聞き、胡葉は微笑んだ。
「大丈夫よ。心配することなんて起きないから。
啓介くんは男として魅力的だけど──」
彼女は少し間を置き、品良く小さく肩をすくめた。
「アタシの好みじゃないの──あなたみたいに可愛い人が、守らなければならないような男には、ね」
その声には、決定的な線を引くような、絶対的な冷徹さが混ざっていた。
「それに、啓介くんが、誰かを愛する? ──そんなこと、あり得ないわ」
胡葉は、璃子の凍りついた表情を、まるで稀有な美術品でも眺めるかのように、ゆっくりと、しかし徹底的に観察した。
その眼差しから、動揺した相手への怜悧な優越感と、支配できる対象を発見した子供のような無邪気な好奇心を璃子は感じていた。
「あら、図星だったかしら。……うふっ、本当にカワイイわね」
胡葉は軽く笑う。その笑みはどこか、哀しみに似ていた。
「ええ、そのことは、アタシが一番よく知ってること。
だって、彼も、そして昔のアタシも同質なんだもの」
その言葉に、璃子の指先がわずかに震えた。
「説明してほしい? ううん、“言葉どおり”としか言えないわね。
でもね──アタシは救ってあげたいの。
今までしてきたこと、そして、これからすることは、必要なこと。
信じてもらうしかないけど」
胡葉は、微笑を崩さぬまま続けた。
「──ねぇ、でも、なんでそんな嘘をつくのか、興味はあるわ」
璃子は言葉を失い、その女の前で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
怖い──けれど、美しかった。
世界のすべてが音を失い、ただ光だけが、ゆっくりと二人の間を漂っているように思えた。
彼女の存在が、この世のものではないように思えた。
その静寂の中で、璃子は──恐れと魅惑が同じ形をしていることを、理解した。
■
その夜のことだった。
璃子は、息を荒げたまま千春の部屋を訪れた。
「どうして胡葉さんなんて紹介したんですか!
あんな色気のある人、啓介にちょっかいかけるに決まってるじゃないですか!」
千春はテーブルの上でリンゴを転がしながら、まるでこの訪問を予期していたかのように穏やかだった。
「あらあら、どうしたの。そんなに慌てないで、落ち着いて」
その声音は、まるで湯気を含んだ紅茶のように温かく、しかし底にわずかな苦味が潜んでいた。
「私はね、ヒメちゃん──胡葉さんに、“いい料理人はいないか”って聞かれたの。
だから、啓介くんを紹介しただけよ」
ナイフの刃先が、リンゴの皮を滑らかに剥いていく。
千春の指先は、舞うように軽やかで、まるで果実と語らいながら、過去の自分と璃子の気持ちにもそっと触れているかのようだった。
赤い皮が一筋の帯のように、くるくるとテーブルに落ちていった。
──まるで、リンゴの皮とともに、嘘や虚勢までも丁寧に剥ぎ取るかのように、その手つきには、一分の迷いもない。
「彼女はフードイベントのコーディネーター。仕事として啓介くんを探していたのよ」
千春は、剥き終えた皮を指先で軽く丸め、皿の端に置いた。
「でも……胡葉さんって、ただ者じゃないですよね。あの人、絶対、啓介に──」
「あなたもどうぞ」
千春はそう言って、切り分けたリンゴを差し出し、微笑を含んだ声で続けた。
「私だって、余計な心配をしなきゃいけない人が、啓介くんのそばにいるのは望んでいないわ」
かつて璃子に揺さぶられ、少し動揺したこともあった──けれど今は違う。
経験が、千春を静かに、そして確実に落ち着かせていた。
彼女の視線は柔らかくも、確固たる決意を帯びていた。
動揺を誘う相手を前にしても、今の千春には一歩引いて状況を見守る余裕があった。
「ヒメちゃんは、啓介くんと一緒に仕事をするだけ。
それに、彼女は恋愛のプロよ。
自分が誰に惹かれ、誰に惹かれないかくらい、ちゃんと分かってる。
心配なんていらない。啓介くんに恋をするなんてことはないわ。
むしろ、彼に“いい影響”を与えてくれる。私はそう思ってるの」
「それに、私にまで『可愛い』なんて、あんな上から目線で言うんです。なんだか、馬鹿にされてるみたいで不愉快でした」
「あらら、たしかにヒメちゃんならいいそうね。でも誰かを貶めるような意図なんて、毛頭ないわよ」
璃子は悔しさに唇を噛んだ。
「……私は、啓介が悲しまなければ、それでいいんですけど。大丈夫なんですか、本当に、本当に」
「うーん、そりゃ、仕事をしていくんだもの。悲しいことのひとつやふたつ、あるかもしれないわね」
千春は肩をすくめて淡々と言いながら、艶めくリンゴをひと口食べた。
果汁の滴が、彼女の指先を、宝石のように伝って光った。
「でも、それは彼のためになると信じているわ」
その言葉に、璃子は思わず息をのんだ。
「……それ、どういう意味ですか」
千春は微笑を深めるまま、カチャリとナイフを皿の縁に置いた。
その瞳は静かに澄んでいて、まるで底知れぬ秘密を隠しているかのようでありながら、すべてを見通した上で、璃子の反応を含めた流れを待っているようでもあった。
「私にも、この流れが何を生み出すのかは、はっきりとはわからない」
その声は、慰めるように、あるいは誘うように、不思議なほどやさしく響いた。
「私は、啓介に恋愛目的で近づく人間は二度と許さない。あの人が傷つくのはもう見たくないんです。
もし、胡葉さんが啓介に恋愛感情を示すようなら、その瞬間に、トラブルが起きる前に私が止めます。
その覚悟の重さは、千春さんもわかっていますよね」
璃子の強い警告に呼応するように、窓の外から風が吹き込み、テーブルの上のリンゴの皮がふわりと舞い上がった。
淡い灯りの中で、その真紅の帯は、まるで蛇のようにゆらゆらと踊る。
それは、これから始まる不穏な何かの幕が、いま静かに上がろうとしている合図のようだった。
「……結構です。今日のところは、私はおとなしく帰ることにします」
璃子は堪えきれない熱と共に深く息を吐いた。怒りの熱はまだ胸の奥にくすぶっている。
それでも、千春の底知れぬ静けさの前では、それ以上は一言も言えなかった。
立ち上がり、ドアの方へ向かいかけたその足で、璃子は居たたまれずに振り返ってたずねる。
「──千春さん。最後にひとつだけいいですか」
「なに?」
千春はリンゴから目を離さず、穏やかに応じた。
「どうして胡葉さんのこと、親しげに“ヒメちゃん”って呼ぶんですか?」
千春は、少しだけ満足げに目を細めた
テーブルの上では、リンゴの皮がまだ風に遊ばれている。
「それはね──彼女は私の後輩。中学のとき、“かぐや姫”の役を演じたのよ。ヒメちゃんは」
千春の口調には、遥か昔を慈しむような懐かしさが混じっていた。
「本当に、物語から抜け出してきたようにぴったりだった。
あのときの彼女を見たら、誰もが自然と“ヒメ”って呼びたくなるわ」
ふっと優雅な微笑みを浮かべる。
けれど、その瞳の奥には、遠い記憶の光と、璃子の探るような視線に対するわずかな警戒の影が宿っていた。
「だからそれ以来、彼女のことを知っている人は、みんな愛着を込めて“ヒメちゃん”って呼んでるの」
「……そうですか」
璃子はそれだけ言って、わずかに会釈した。
玄関のドアを音を立てないように閉めるとき、部屋の中からは、千春がリンゴをナイフで正確に刻む軽い音が聞こえた。
その音がなぜか、祝祭を告げる鐘の音のように、あるいは不吉な予言のように、璃子の胸の奥に重く響いていた。
璃子が去ったあと、千春はしばらく閉じられた玄関の方を見つめていた。
「……璃子ちゃん。あなたのためでもあるんだけどね」
息のような小ささで呟くと、千春は鋭い果物ナイフをそっとさやに戻し、そのまま、テーブルの上のリンゴに視線を落とす。
胸の奥を、ひとつの記憶がかすめた。
──あの日、璃子が言った言葉。
“啓介を守るためなら、他人を傷つけることも厭わない”
あのとき胸に芽生えた動揺を、今の冷静さが優しく包み込み、彼女に対する思いやりと警戒心が同居する。
揺さぶられた経験が、今の千春を落ち着かせているのだ。
「……このままでは、だめよね」
千春は静かに誰にともなく呟いた。
窓からの風が薄いカーテンを揺らしている。
柔らかな布の揺らめきの奥で、不可避な運命が静かに動き始めている気配。
本音を言えば──他にも理由はあるのよね。
千春はそう心の中でつぶやき、すべてを抱え込むようにゆっくりと目を閉じた。




