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19/21

あの月はアタシのものじゃない

 夜半、璃子は胡葉の訪問を受けた。

 それは、数日前のイベントの最終日が終わった後、イベント会場の隅で、二人の関係が「守護」から「自立」へと劇的に変化したことを胡葉が確認した、その直後のことだった。


 胡葉が璃子のアパートの玄関前に立っていた。

 街灯のわずかな光と、夜空の深い青に包まれた、静寂な時間帯。

 ドアを開けた璃子の目に映った胡葉の表情は、いつもの挑発的な鋭さを失い、すべてを理解し、すべてを受け入れたような、静かな安堵が漂っていた。


 璃子は一瞬、言葉を失った。

「…胡葉さん。どうして、こんな時間に」


 璃子の声は、まだ罪の意識を帯びて、微かに震えていた。


「ごめんなさい、こんな時間に。少し、話しておきたかったことがあって」


 璃子は、胡葉をアパートに招き入れ、二人分の紅茶を用意した。


「璃子ちゃん。あなたの目は、もう以前とは違うわね」


 紅茶の湯気の向こうで胡葉はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「璃子ちゃんの中で、”啓介を守る使命”と、”彼が望む真の幸福”の天秤が、ようやく傾いたんでしょう?」


 璃子は息を飲んだ。この女性は、常に自分の心の最も深い部分を見透かす。

 彼女の言葉は、まるで外科医のメスのように、璃子の魂の核心を正確に切り開く。


「……胡葉さんの、おかげです。私は啓介の幸せのために行動する事ばかり考えていて、それが自分の使命だとずっと信じ込もうとしていた。そうじゃなければ、彼が私にしてくれたことへの代償が払えないと、怖かったんです」

 璃子は、顔を覆いたくなる衝動を抑え、胡葉のまっすぐな視線を受け止めた。


「でも、啓介は……私自身の破綻を理解した。”僕のせいで君が壊れるのは見たくない”と。彼は、胡葉さんに教わった”理屈”で、私を救ってくれたんです」


 胡葉は、静かに頷いた。

 彼女の唇に、満足の色が浮かぶ。

 それは、長い旅を終えた探求者のような表情だった。


「ええ。彼には、愛を”本能”ではなく、”持続可能な理論”として理解する必要があった。そして、璃子ちゃんには、”愛とは、奪うことでも、閉じ込めることでもなく、相手を解き放つことだ”という真実を知ることができた。これで、アタシの役割は終わったの」


 胡葉は、顔を上げ、窓の外を見上げた。

 月が出ていることを確かめるような仕草だった。


「アタシは、近いうち、遠くに行くことになるね」


 璃子の心臓が、ドクンと音を立てた。

 知っていたはずの事実。

 だが、目の前で宣言されると、世界が静かに引き裂かれるような感覚を覚える。


「……遠くに?」


「ええ、そうね。とても遠くに行くつもりなのよ」


 胡葉の言葉は、断定だった。

 断ち切られた糸のように、潔い。


「これで、璃子ちゃんと啓介くんの間に、アタシという”触媒”は消えた。彼は、もう誰かの人生を犠牲にして、才能を燃やし尽くすような人間にはならない。璃子ちゃんは、彼に依存し、自分を凶器にするような悲劇のヒロインでいる必要はないのよ」


 胡葉は、一歩、璃子に近づいた。

 その距離は、初めて会ったときの挑発的な近さではなく、同志としての敬意を示す、穏やかな距離だった。



■月夜のプロポーズ?


「それにね。あのとき、あなたたちの話を聞いちゃったのよ」


 ふいに明るく胡葉がそう切り出すと、璃子は肩をびくりと揺らした。

 胡葉の声がやわらかく響く。


「”こんな綺麗な満月は見たことがなかった。僕はこれからも綺麗な月を見ていきたい”って啓介くんが言って……」


 璃子は聞いているだけで、胸の奥がくすぐったくなる。

 啓介は恋愛感情というものを理論的に少しは理解できるようにはなってきた。

 だが本質的には、なにも変わっていない。

 彼の言葉にはときどき驚くほど真っ直ぐで、無意識な残酷さと、天使みたいな純粋さをふくんでいる。


 その夜も、まさにそうだった。


「で、璃子ちゃんが赤くなって、真剣に”大丈夫よ。月はこれからもずっと綺麗なんだから”って言ったのよね。きゃーってなったわ。あれってプロポーズとその返事よね」


「ぷ、プロポーズなんて……啓介は、きっと、ただ月の話を……」


 否定しながらも、璃子の頬はゆっくり染まる。

 啓介が“綺麗な月”と言ったとき、彼が本当に見ていたものが何か、璃子にはわかっていた。


──二人の間に見たその甘さが、胡葉の奥にきりつくような、言葉にできない感覚を走らせる。

 微笑みながら、ふっと視線を逸らした。


「璃子ちゃん、そんな顔するんだ……。ああ、可愛いわね」


「もう、胡葉さん、か、からかわないでくださいよ」


「からかっている訳じゃないわ。ほんとにね、あの瞬間、月よりも眩しいのは璃子ちゃんだったわ。でも啓介くん、あれ絶対わかってないのよね。自分の言葉がどれだけ甘いか」


「……うん。でも、それでいいんです」

 胸に手を当てる仕草がとても柔らかくて、胡葉は息を呑んだ。


「うん、そうよね」

 返した声は、思っていたより小さかった。


 啓介の気持ちは、以前よりもはっきりと璃子に向いている。

 そして璃子の啓介への愛も変わってきて、少しずつ彼の不器用な心を受け止めることができるようになった。


 その様子を見るだけで、胡葉の胸の奥がひりついた。


「胡葉さん? どうかしたんですか?」

 璃子が心配そうに首をかしげる。


「ううん、なんでもないわ。啓介くん、ほんとにいい男になったわね。これも璃子ちゃんがいたからよ。……二人が羨ましいわ」


「また、もう……」

 照れて顔をそむける璃子。その横顔を、胡葉はそっと見つめる。


──ほんとうは……アタシは心のどこかで、なんとなく素直に喜べない自分を見つけてしまったのよね。

──そんな自分が嫌になる。

──でも、嬉しそうに笑っているなら、自分の気持ちなんて、胸の奥深いところに沈めておけばいい。

 胡葉は唇を噛み、気づかれないように微笑む。


「ねえ、璃子ちゃん」


「はい?」


「啓介くんのことは、璃子ちゃんに任せるしかないわ。大事にしてあげてね。あの子、恋愛感情を本当に理解できるようになるのはもっと先だから……きっと。それまでは全部璃子ちゃんに預けるから。啓介くんの美しい花を咲かせてあげて。蓮のように、泥の中でも、潔く、そして永遠に」


「はい……。預けてもらえるなら、全部、ちゃんと受け止めます」

 その言葉に、胡葉は胸が締めつけられるほど切なくなった。


 満月の夜の、あの甘い時間。

 二人の間に流れる、透明で眩しい光。

 胡葉には、そこに触れる資格はない。


 でも、それでいい。


 二人が幸せなら、それだけで十分だ。


「……ほんと、幸せそうね、璃子ちゃん」


「えへへ……はい」


 璃子の笑顔は、月よりもずっと眩しかった。

──だからもう、あの夜の月は、アタシのものじゃないの。

──あの光を、アタシはもう見上げない。見ちゃいけないの。

 声にならない言葉が、淡い痛みといっしょに喉の奥で消えていく。

──ねえ璃子ちゃん、これからもあの月を、ちゃんと見てあげてね。

 胡葉はそっと目を細めて、胸の痛みをごまかした。


「これで、アタシの仕事は終わりかな。」


 それを聞いて、璃子は少し肩を落としながらも、柔らかく微笑んだ。

「胡葉さんは啓介のことをよくわかっているし、胡葉さんにとっても都合のいい関係なんでしょ。ずっと啓介の近くにいてもらった方が、お互いのためになるんじゃ……。私も、胡葉さんのこと好きですし」


 胡葉はその言葉に思わず顔をほころばせた。

「璃子ちゃんに、そんなこと言われたら、アタシうれしくて迷っちゃうわよ」


「またもう、胡葉さんったら、からかうんだから」

 璃子が笑うのをみて、胡葉の胸はぎゅっと締めつけられた。


 でも、その笑顔の裏にあるやわらかな光を思うと、胡葉は言葉を続けずにはいられなかった。

「でもね、アタシはきっと二人の邪魔になる存在なのよ」


「邪魔になるなんて、そんなことないですよ。胡葉さんは啓介の一番の理解者だから、ずっと啓介の側にいて欲しいんです」

 璃子の声には、信頼と愛情がまっすぐに込められていた。


 胡葉は目を細め、少し遠くを見つめながら小さく息を吐く。

「いいえ、いずれ必ずアタシは、二人にとって“異物”になる。それはね、今までに何度も経験してきたことだから。それに……昔、演劇でアタシが演じた“かぐや姫”は、月に帰らなきゃいけないのよ」


 夜風がカーテンを揺らし、月光が胡葉の横顔を淡く照らしたように見えた。

「ほんとに綺麗ね。ずっと見ていたいくらいよ。啓介くんが羨ましいわ」


 その声は、遠くの光を見つめるように静かで、璃子にはその意味がわからなかった。

 ただ、背中に漂う寂しさが胸の奥に刺さり、思わず手を握りしめたくなる気持ちになった。


「啓介に、挨拶はしたんですか」

 璃子の問いに、胡葉は微かに微笑んでうなずいた。

「もちろんしたわよ。でも彼、全然判ってなかったと思うけど。璃子ちゃん。あなたには、ちゃんとしておかないとね。これまで、ありがとう。出会えて本当に良かった。これからもお幸せにね。それじゃ、さようなら」


「胡葉さん、大げさですよ。いつでも会えるんですから。はい、胡葉さんも元気で」

 璃子の笑顔は春の陽光のように明るく、無邪気だった。

 その瞬間、胡葉の胸に痛みが走る。

──ああ、この子は知らないんだ。

──別れには、笑顔の奥に隠された痛みがあることを。

──言葉にしないままの想いは、月の光のように遠ざかっていくことを。


 胡葉は小さく息を吐き、視線を外した。窓の外の月が静かに光を放っている。

──だからもう、あの夜の月は、アタシのものじゃないの。

──あの光を、アタシはもう見上げない。見ちゃいけないの。

──ねえ璃子ちゃん、これからもあの月を、ちゃんと見てあげてね。


 胸の奥でつぶやく声は、誰にも届かないまま夜に溶けていった。

 ふっと立ち上がると、窓の外から桜の香りが揺れた。

 その香りは、胡葉の存在そのものが、儚くも鮮烈であったことを思い出させる。


 いざよいの月の光を浴びながら、胡葉は静かに背を向ける。

──こんな思いほど、綺麗に輝くものはないのよ、と。


 そして、璃子の笑顔を胸に刻みながら、夜の静寂の中にひっそりと溶けていった。

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