月光のソリストたち──祭りのあとの静寂で
祭りのあとの静寂には、不思議な重力がある。
つい数時間前まで、人々の歓声と食器の触れ合う音、そして幾重にも重なった香ばしい匂いが渦巻いていたフードイベントの会場。
今はそのすべてが幻であったかのように、ただ白いテントの骨組みだけが月明かりに浮き上がっている。
熱狂はすでに夜の底へと沈殿し、あとには心地よい疲労感だけが、波打ち際の砂のように二人の体に残されていた。
撤収作業を終えた啓介と璃子は、どちらからともなく足を向け、会場を見下ろす丘の上へとやってきていた。
夜空には、息を呑むほど美しい満月が鎮座している。
その光は、地上にあるすべての色を吸い取り、世界を蒼白と影だけの静謐な版画に変えていた。
「今日は……本当に、すごかったな」
啓介が呟く。
その声は夜気に溶け、深く染み渡るようだった。
肩越しに見上げる月は、どこまでも澄んでいる。
全身の筋肉が悲鳴を上げているはずなのに、胸の奥には、極上のスープを飲み干したときのような、温かく満ち足りた余韻が広がっていた。
隣に立つ璃子が、ふう、と小さく息をつく。
月光に濡れた彼女の横顔は、陶器のように白く、そして昼間の戦場のような厨房で見せていた険しい表情とは別人のように穏やかだった。
風が吹き抜ける。
汗ばんだ首筋を撫でる夜風は、秋の気配を含んだ冷たさで、高揚した二人の熱をゆっくりと奪っていく。
「啓介……」
不意に名前を呼ばれ、啓介は視線を巡らせた。
璃子は月を見上げたまま、動かない。
けれど、その声の響きには、いつもの事務的な鋭さはなく、どこか迷いと、それ以上の決意が滲んでいた。
「璃子……どうした?」
啓介が尋ねると、璃子はゆっくりと瞬きをし、視線を彼に移した。
その瞳は、夜の闇よりも深く、月の光よりも濡れて輝いている。
「私……今まで、歪だったの」
唐突な告白だった。
しかし、その言葉は不思議なほど自然に、この夜の静寂に馴染んだ。
「啓介を守ろうとする方法も、間違っていた。あの高校生のとき……私が事故に遭って、そこから命も、心も救い出してくれたときから、私はずっと考えていたの。どうすればこの恩を返せるのか。どうすれば、二度とあなたを壊さずに済むのかって」
啓介は黙って頷いた。
言葉を挟むべきではないと、思考が告げていた。
璃子の言葉は、彼女の心の深淵から汲み上げられたばかりの、混じりけのない雫だった。
「私、ずっと怖かったの。啓介が傷つくのが。世間の悪意や、理不尽なトラブルがあなたに触れるのが耐えられなかった。だから、あなたを傷つける可能性のあるものをすべて排除して、私の管理下に置いておけば守れると思ってた。そうすることでしか、私はあなたを支えられないって信じ込んでいたの」
璃子の手が、小さく震えているのが見えた。
握りしめられた拳。
それは、彼女が長年抱え続けてきた「守護者」としての重圧と、その裏側にあった「恐怖」の形そのものだった。
啓介は無意識に一歩踏み出し、その手に触れようとした。
だが、その手前で指を止める。
今の彼女に必要なのは、慰めではなく、彼女自身の足でその告白を完遂することだと感じたからだ。
璃子は一度大きく息を吸い込み、震える声を鎮めるように続けた。
「でも、違ったのよね。それは私のエゴだった……これからは、独り善がりにならずに、啓介が啓介らしく成長できるようにサポートしていく。壁を取り除くんじゃなくて、あなたが壁を乗り越えるための足場になる」
そこで彼女は一度言葉を切り、自嘲気味に微笑んだ。
その笑顔は儚く、しかし痛いほどに美しかった。
「正直、怖いのよ。もし啓介が強くなって、私の助けなんて必要としなくなったら……私の存在意義がなくなってしまうんじゃないかって。あなたの隣にいる資格を失うんじゃないかって」
風が強まり、草木の葉擦れの音がさわさわと響く。
その音は、彼女の不安を代弁するかのようだった。
「でも……今は考えが違うわ。啓介が私の側にいることが一番じゃない。啓介が、啓介自身の人生を自分の足で歩めるようになること。それが、一番なの」
璃子の言葉が、夜の空気に溶けていく。
それは一種の「手放す」宣言だった。
執着を手放し、支配を手放し、ただ純粋な信頼だけを残す。
啓介は、夜空を見上げたまま、しばらく沈黙した。
彼女の言葉の一つひとつが、胸の奥深くに沈んでいく。
そして、ふっと力が抜けたように笑みを浮かべた。
「うーん……僕には、そういう難しいことはよくわからないなぁ」
とぼけたような口調。
けれど、そこには一切の軽薄さはない。
「正直、今でも自分は自分の人生を歩んでいるつもりだからさ。誰かに操られてるなんて思ったこともないし」
啓介は視線を月から戻し、真っ直ぐに璃子を見た。
「だけど、僕にとっても大事なことがあるんだ。璃子」
「……なに?」
「それは、璃子が”璃子として”生きられることだよ」
啓介の言葉に、璃子の目がわずかに見開かれる。
「僕を守ってくれるのは嬉しい。本当に感謝してる。でも、それが璃子の人生のすべてになっちゃいけないんだ。僕のために生きるんじゃなくて、璃子が璃子自身の幸せのために笑ってくれること……それが、僕にとっての一番なんだ」
意趣返しのような、けれどあまりにも温かいその言葉。
璃子の瞳が大きく揺れた。
胸の奥で固く結ばれていた何かが、音を立てて解けていく。
「啓介……」
名前を呼ぶ声が震えた。
それ以上の言葉は不要だった。
二人はただ、月明かりの下で見つめ合った。
その瞬間、啓介の心の中に、ある確信が満ちてきた。
これまで感じていた窮屈さも、時折感じた璃子の過干渉も、すべては彼女からの「愛」だったのだ。
形は不器用で、時に鋭利で、自分を傷つけることもあったかもしれない。
けれど、その根底にあったのは、底なしの、見返りを求めない献身だった。
胡葉から聞いた話、これまでの衝突、成功と失敗。
それらすべてのピースが嵌まり込み、一枚の絵が完成する。
自分は、溺れるほどの愛の中にいたのだ。
空気のように当たり前に側にいて、呼吸するように当然だと思っていた璃子の存在。
その「当然」が、どれほどの覚悟と情熱によって支えられていたのか、啓介はようやく理解した。
璃子もまた、啓介の瞳の中に自分の新しい居場所を見つけていた。
守るべき対象としてではなく、対等な人間として、互いの人生を尊重し合う関係。
「必要とされること」で自分の価値を測るのではなく、ただそこに在ることが許される安らぎ。
それは恐怖を伴う変化だったが、同時に、かつてないほどの自由を彼女にもたらしていた。
二人の間を吹き抜ける風が、優しくなった気がした。
二人の会話の余韻の中で、啓介は軽く笑った。
璃子もまた、小さく頷く。
会話の内容はわからなかったが、互いの気持ちは確かに伝わっていた。
二人の魂は今、この月明かりの下で、新しい契約を結んだのだ。
依存から自立へ。
守護から共闘へ。
二人の影が月光に長く伸び、一つに重なり合うように揺れていた。
■
その静謐な光景を、少し離れた木陰から見つめる人影があった。
胡葉だった。
彼女はイベントの撤収を手伝った後、二人の様子が気になり、こっそりと後を追ってきていたのだ。
しかし、彼女は足音を立てることなく、その場に立ち尽くしていた。
聞こえてきた会話の内容、そして二人の間に流れる空気。
それらがすべてを物語っていた。
……ああ、そうか
胡葉はポケットに入れていた手持ち無沙汰な手を出し、夜空を仰いだ。
彼女の胸に去来したのは、寂しさと、それ以上に大きな安堵だった。
二人はもう、大丈夫だ。
歪だった歯車は噛み合い、自分たちで油を差し、回し始めている。
そこに、外部の人間が口を出す余地など、もう一ミリも残されていない。
「もう……私はここにいちゃいけないのかもね」
胡葉は独りごちた。
その言葉は、自分への引導であり、同時に二人への祝福でもあった。
自分の役割は終わったのだ。未熟な二人を見守り、時に背中を押し、時に壁となる役割は。
胡葉は微かに口角を上げ、音もなく踵を返した。
背中に浴びる月明かりが、優しく彼女を送り出しているように感じられた。
それは、「お疲れ様」と世界が囁いているようだった。
■
丘の上には、再び二人だけの時間が戻っていた。
啓介と璃子は並んで立ち、眼下に広がる街の灯りを見下ろしている。
街は眠りについているが、明日の朝にはまた新しい一日が始まる。
そこには、今日とは違う二人が立っているはずだ。
「さあ、帰ろうか」
啓介が伸びをしながら言った。
「そうね。明日からのことも考えないとね」
璃子がいつもの調子で答えるが、その声には以前のような棘はなく、どこか楽しげに弾んでいた。
自然と二人の歩幅が合う。
肩が触れ合うほどの距離。
手は繋いでいない。
けれど、繋ぐよりも確かな温度が、二人の間を行き来していた。
無償の愛、互いを思いやる心、そして自立した信頼。
それらは目に見えない宝石となって、二人の胸の中で静かに輝き続けている。
帰り道を照らす満月は、まるで二人だけの未来を祝福するように、夜空の頂でいっそう眩しく、優しく輝いていた。




