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青空と琥珀色の香り

 朝の光が街の輪郭を優しくなぞる頃、広場はすでに予感に満ちた喧騒に包まれていた。

 空は見事なまでに晴れ渡っている。

 雲ひとつない蒼穹から降り注ぐ陽光は、広場に並ぶ白いテントを輝かせ、そこから立ち上る湯気や煙を神々しいものに変えていた。


 これが、最後。

 数ヶ月にわたり、この街の週末を彩ってきたフードイベントも、今日がいよいよ最終回だ。


 会場の空気には、終わりを惜しむ寂しさと、最高の一日を作り上げようとする熱気が複雑に混じり合っている。

 炭火が爆ぜる音、鉄板の上でソースが焦げる香ばしい匂い、新鮮なハーブの爽やかな香り。

 それらが風に乗って混ざり合い、道行く人々の鼻腔をくすぐり、食欲という根源的な喜びを刺激する。


 その中でもひときわ賑わいを見せているのが、啓介のブースだった。

 開始の合図とともに、彼の料理を目当てにした人々が列をなしていた。

 無邪気に背伸びをする子どもたち、休日のデートを楽しむカップル、そして味にうるさい地元の食通たちまで。

 彼らの表情には一様に、期待と笑顔が浮かんでいる。


「いらっしゃいませ! 今日のスペシャリテ、ぜひ味わってみてください!」


 啓介の声が、澄んだ朝の空気に響いた。

 彼の手元は、まるで魔法のように動く。

 肉に焼き色をつけ、彩り豊かな野菜を添え、最後に特製のソースをひと回し。

 その一連の動作には無駄がなく、流れるようなリズムがあった。

 しかし、人々を惹きつけているのは、その手際の良さだけではない。


 以前の啓介は、まるで誰にでも尻尾を振る子犬のように、無防備な愛想を振りまいていた。

 それが彼の魅力であり、同時に危うさでもあった。

 だが、今の彼は違う。


「シェフ、このハーブは何ですか? すごくいい香り」

 年配の女性が尋ねると、啓介は作業の手を一瞬だけ緩め、しっかりと相手の目を見て微笑んだ。

「それはタイムとローズマリーです。アクセントに少しだけレモンの皮を削っているんですよ」

「あら、素敵なおしゃれねえ」


 親しみやすさはそのままに、そこには確かな「品格」とも呼べる落ち着きが備わっていた。

 若い女性客が頬を染めて話しかけてきても、彼は舞い上がることなく、あくまで「料理人とお客」という美しい境界線を保ちながら、丁寧に言葉を返す。

 その変化は、彼自身を守る鎧であり、同時に周囲の人々を安心させる柔らかい壁でもあった。

 知恵と経験が、彼の笑顔に大人の深みを与えていたのだ。




 正午が近づき、太陽が真上に昇る頃、人混みの中に懐かしい色彩が見えた。


「啓介お兄ちゃん!」


 鈴を転がすような愛らしい声。

 啓介が顔を上げると、そこにはルリちゃんの満面の笑みがあった。

 その隣には、穏やかな笑みをたたえた一ノ瀬さんが立っている。

「こんにちは、啓介さん。今日は有給をとって来ちゃいました」


「一ノ瀬さん、ルリちゃん! よく来てくれましたね」


 啓介は手を拭き、ブースのカウンターから身を乗り出すようにして二人を迎えた。

 ルリちゃんは以前よりも少し背が伸びたように見えるが、その瞳の輝きは変わらない。

 むしろ、以前よりも安らいだ、温かい光を宿しているように見えた。


 啓介はいつものように、いたずらっぽく笑って両手を広げた。

「さあルリちゃん、また高い高いしようか? 今日は特別高く飛べるよ」


 かつて、彼女にとって啓介は、父親の不在を埋めるヒーローのような存在だった。

 だから今日も、彼女は歓声を上げて飛び込んでくると思っていた。


 しかし、ルリちゃんは首を横に振った。

「ううん、いらないの」


 拒絶の言葉ではない。

 それは、とても満足げで、落ち着いた響きだった。


「え、どうして?」

 啓介がきょとんとして問い返すと、ルリちゃんは少しだけ小首をかしげ、それからくすくすと笑った。

 まるで、素敵な秘密を打ち明けるように。


「あのね、ルリのおうちに、あたらしいかぞくができたの」


 その言葉に、周囲の音がふっと遠のいた気がした。


「パパにつくってもらったみたいな、おいしいごはんをつくってくれる人。それにね、たかいたかいもしてくれるの。とってもやさしい人なんだよ」

 ルリちゃんは小さな手で、自分の胸のあたりをトントンと叩いた。

 その仕草が、彼女の心がいかに満たされているかを物語っていた。

「ママもね、すごくうれしそうなの。ルリも、うれしいの。でもね、パパとはちょっとちがうの」

 ルリちゃんは悪戯っぽく声を潜める。

「ちょっとふとっているんだよ。おなかがぽよんってしてるの。でも、そんなところも大好きなの」


 一ノ瀬さんが、照れくさそうに、しかし幸せそうに微笑んでルリちゃんの頭を撫でる。

 その光景を見た瞬間、啓介の胸の奥で、張り詰めていた何かが静かに溶けていった。


──自分はもうヒーローじゃなくてもいい。

 それは敗北感でも寂しさでもなかった。

 琥珀色の蜂蜜がパンケーキに染み込むような、じんわりとした温かい安堵感だった。


 自分じゃなくてもいい。

 自分が全てを背負わなくても、彼女たちは幸せになれる。

 自分は、ただ美味しい料理を作る「啓介お兄ちゃん」として、この場所から彼女たちの笑顔を見守っていればいいのだ。


「そっか……。それは、すごいニュースだね」


 啓介は心からの祝福を込めて微笑んだ。

 その笑顔は、かつてないほど自然で、優しかった。

 ルリちゃんの瞳に映る啓介の顔は、もう「代理のパパ」ではない。

 信頼できる一人の友人としての顔だった。

 言葉以上の幸せが、春の日差しのように二人の間を行き交った。




 ブースの奥では、璃子がその光景を静かに見つめていた。

 洗い物をし、オーダーを通し、ドリンクを用意する。

 忙しく立ち回りながらも、彼女の神経は常に啓介の周囲へと張り巡らされている。


 以前の璃子なら、啓介の周りに女性が集まるだけで、胃のあたりがキリキリと痛み、鋭い視線で牽制していただろう。

 まるで抜き身のナイフのような、痛々しいほどの独占欲と不安。

 だが、今の彼女からは、あの頃の刺々しさは消え失せていた。


 代わりに彼女がまとっているのは、春の海のような穏やかな(なぎ)だ。


 ふと、ブースの前に一人の女性ファンが近寄ってきた。

「あの、啓介さんと少しお話ししてもいいですか? 握手してほしくて……」

 以前の璃子なら、むき出しの敵意を向けていたかもしれない場面だ。

「ちょっと待っててくださいね」

 しかし、璃子は微笑みながら啓介の方を見た。


 啓介が、調理の手を止めて璃子を振り返る。

 言葉はいらない。

 一瞬の視線の交錯。


──大丈夫?──啓介の目がそう問いかける。


──ええ、問題ないわ。行ってあげて──璃子はゆっくりと瞬いた。


 その合図を受け取った啓介は、安心して女性ファンに向き直り、笑顔で握手に応じる。

「ありがとうございます。熱いので気をつけて食べてくださいね」

 ファンの女性が嬉しそうに歓声を上げる様子を、璃子は母親のような、あるいは長年連れ添ったパートナーのような慈愛に満ちた目で見守っていた。


 そこにあるのは、諦めではない。

「啓介はもう、軽率な行動で私を心配させたりしない」という、揺るぎない信頼だった。

 そして啓介もまた、「璃子が大丈夫だと思える範囲」を正確に理解し、彼女への敬意を忘れない。


 二人の間には、まるで熟練の漫才コンビか、あるいは芸能人とその敏腕マネージャーのような、阿吽の呼吸が生まれていた。

 それは幼なじみという関係では無かった。

 もっと太く、しなやかな絆だった。


 イベントは佳境に入り、会場の熱気は最高潮に達していた。

 次々と舞い込むオーダー。

「オーダー! スペシャル2、サラダ1!」

「はーい、すぐ出ます!」

「璃子ちゃん、あっちのテーブル片付いた?」

「今拭いてきたわ。次のお客様ご案内して!」


 忙しさは快感だった。

 啓介はフライパンを振りながら、自分が巨大な循環の一部であることを強く感じていた。

 生産者が育てた命ある食材を、自分が調理し、人々に届ける。

 人々はそれを食べて笑顔になり、その対価としてお金を払い、また次の食材へと還元されていく。

 利益も、愛情も、喜びも。

 全ては留まることなく循環し、世界を豊かにしていく。

 その流れの中に、自分がしっかりと根を張って存在していることの充足感。


 そして、隣には璃子がいる。

 彼女は言葉少なく、的確に啓介をサポートし続けている。

 皿を出すタイミング、水を差し出すタイミング、客足を見て下準備をする判断。

 すべてが完璧だった。


 ふと、料理を盛り付ける一瞬の隙間に、啓介は小さく呟いた。


「……ありがとう、璃子」


 調理の音にかき消されそうなほどの小さな声。

 だが、璃子にははっきりと届いていた。

 彼女は作業の手を止めず、横顔のまま、ふわりと口角を上げた。


「いいから、手を動かして」


 素っ気ない言葉とは裏腹に、その声色は甘く、柔らかかった。

 互いの存在が、何よりも強い心の支えになっている。

 来場者の笑顔の波に押されるように、啓介のブースは過去最高の盛り上がりを見せていた。




 午後のピークが過ぎ、ようやく訪れた短い休憩時間。

 啓介と璃子は、喧騒から少し離れた木陰のベンチに並んで腰を下ろした。


 重労働のあとの気だるさが、心地よい疲労感となって体に染み渡る。

 風が吹いた。

 頬の汗を冷やしてくれる風は、もう朝のような冷たさはなく、陽の匂いを含んだ温かいものになっていた。


 目の前には、まだ多くの人々が行き交っている。

 皆、片手に料理を持ち、満たされた表情をしている。

 子供の笑い声、乾杯の音、楽しげな会話の断片。

 それらが一つのBGMのように、穏やかに響いていた。


 啓介はペットボトルの水を一口飲み、大きく息を吐いて空を見上げた。

 吸い込まれそうなほどの青。

 雲ひとつない空は、どこまでも高く、澄み渡っている。


「やっぱり、こういう瞬間が一番いいな」


 啓介の言葉には、飾らない本心が宿っていた。

 大きな成功や名声よりも、ただこうして誰かの日常を彩り、その余韻に浸る時間。

 そして、隣に信頼できる誰かがいること。


 璃子もまた、同じ空を見上げながら、静かに頷いた。


「うん、最高ね」


 二人は手をつなぐわけでも、寄り添うわけでもない。

 ベンチの上には、拳一つ分の距離がある。

 けれど、その隙間には冷たい風は吹いていない。

 お互いを縛り合う鎖も、依存し合う重さもない。

 ただ、互いの存在を尊重し、背中を預けられる安心感だけが、目に見えない糸となって二人を繋いでいた。


 全てが報われた気がした。

 過去の失敗も、誤解も。

 それら全てが、今日という日のための隠し味だったのだと思えるほどに。


 人々の笑顔、料理の薫香、そして璃子との心地よい距離感。

 すべてが一つになって、このフードイベント最終回という美しい円環を描いている。


「さあ、ラストスパートだ」

 啓介が膝を叩いて立ち上がる。

「最後まで、最高の料理を出そう」


 啓介が差し出した手に、璃子は触れることなく、けれど力強い視線で応えた。

「ええ、行きましょう」


 啓介の満面の笑みが、午後の日差しの中で輝く。

 それは、かつての子供っぽい笑顔ではない。

 一人の料理人として、そして一人の人間として成熟した男の、自信と優しさに満ちた新しい笑顔だった。


 空はどこまでも青く、二人の新しい関係の始まりを祝福するように広がっていた。

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