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次の世代へ──胡葉の同級生

 フードイベントの喧騒が続く会場の一角で、胡葉はぼんやりとコーヒーを飲んでいた。


 数日前の夜──璃子が理性を失い、コーヒーカップを投げつけたあの瞬間。

 そのショックと、璃子と啓介を救う使命感とが、胡葉の心臓の奥で重い塊となっていた。

 額に貼った小さなガーゼの感覚が、その夜の出来事をリアルに思い出させる。


「あら、胡葉よね?」


 突然、聞き慣れた声がした。

 胡葉が振り返ると、そこにいたのは田中明日香。

 高校時代からの同級生で、胡葉とは非常に仲の良い友達、そして以前の事件で最も深く遠ざけてしまった女性だった。


 明日香は鮮やかな色のワンピースを着ており、隣にはまだ幼い男の子が立っている。

 その子は明日香の指をしっかり握りしめ、不思議そうな顔で胡葉を見上げていた。


「明日香……本当に久しぶりね。イベントに来てくれたの?」


 胡葉の声は、驚きでわずかに震えた。

 明日香の顔は、高校時代と変わらない無邪気な明るさを保っていたが、目元には母としての満たされた光が加わっている。


「ええ。うちの夫がね、このイベントのファンで。まさか胡葉がスタッフだったなんて、本当に奇遇だわ。……っていうか、あなた、その額どうしたの?」


 明日香は、胡葉の額のガーゼを指差した。

 胡葉は一瞬言葉に詰まり、すぐに笑みを作った。


「ああ、これ?ちょっと不注意でテーブルにぶつけちゃって。大したことないわ」


「もう、相変わらずね」


 その言葉は、まるで過去の自分の全てを知っているかのように響き、胡葉の胸を締め付けた。


■過去の事件、そして和解

 胡葉は明日香を人目につかない控え室の一角に誘い、テーブルを挟んで座った。

 会話が途切れ、沈黙が訪れる。

 そして明日香は、意を決したように息を吸い込んだ。


「ねえ、胡葉。実は、謝りたいことがあって」

「謝る?何のこと?」

 胡葉は作り笑顔を維持しながらも、心の奥底で明日香が自分を責めないでほしいと強く願った。


 明日香は真っ直ぐ胡葉を見つめ、静かに、しかしはっきりと言葉を紡いだ。

「あの事件があった後、私……しばらく、胡葉を恨んでいたの。私はその時、事件を起こした彼のことが好きだったから。彼があんな風に壊れて、社会のレールから外れて、私まであんなにつらい思いをしたのは、あなたが誰の想いにも気づかなかったせいだって……そう思ってた」


 明日香が深々と頭を下げると、肩からこぼれた髪が、静かに揺れる。

 胡葉の胸に、当時の明日香との関係と、複雑な罪悪感が重なった。

「でもね、それは筋違いだったのよね。あれが、あなたの人生を変えてしまったことだけは、私にも分かってるから。本当にごめんなさい」


 胡葉は動かなかった。

 ただ目を閉じ、その謝罪を受け止めた。


「そんなことはないわ」

 静かに言葉を紡ぎながら、胸の奥に想いをそっとしまい込む。

「あれは、私が彼の想いを受け止められなかった結果よ。誰も悪くないけれど……私には、ずっと償わなきゃいけない気がしてるの。あの事件であなたもつらい思いをしているのよね。だから、謝らないで。顔を上げて」


 明日香はゆっくりと顔を上げた。その目には、涙の跡が光っていた。

「そう言ってもらえると、少し心が軽くなるわ」


 胡葉は、十数年ぶりに親友と打ち解け、心に穏やかな温もりを感じながらも、ほんの少しの痛みを抱き続けた。


■愛のバトンと、諦念の告白

 二人の間に、ようやく穏やかな空気が戻る。

 胡葉は明日香の左手の薬指に光る結婚指輪を見つめた。

「そうね。あなたは結婚したのよね。よかったわ」


「そうなの、同級生の岸本と結婚したのよ」

 明日香は幸せそうに笑った。

「……ねえ、胡葉。これ、前から言うべきか迷ってたの。あなたを傷つけたくないし……でも、私たち二人の間に、過去の誤解が残ったままなのも嫌で」


 胡葉は静かに明日香を見つめた。

「大丈夫よ」


 明日香は小さく息を吐いた。

「……実はね。私の夫……昔、あなたに片想いしてたらしいの。私は岸本と胡葉が仲良かったから、付き合っているのかもしれないと思ったのに、違ったのね。あの事件の後、あなたがひどく落ち込んでいるのを見て、岸本も苦しんでいたのよ」


 明日香は、夫の過去の愛と、その愛がもたらした苦痛を、共感と配慮をもって胡葉に伝えた。

 それは、胡葉に「あなたの周囲の人は、皆あなたの苦しみを共有していた」という、深い愛を伝える行為だった。


 胡葉は静かに頷く。

「そうね。私が岸本くん(・・・・)に、恋をしていたってことは、なかったわね」

 だが、胡葉の内側では、別の思い出が浮かび上がっていた。

──私が持っていたのは、告白してはいけない恋だったのだもの。

 あの遠い日の熱が、まるで冷めきらない残滓のように胸を微かに疼かせた。


 明日香の膝の上では、幼い明斗が静かにおもちゃで遊ぶ。

 明斗というその子の名前は、明日香と夫の恭斗の名前から一文字ずつ取られている。

 そして胡葉は思う。その子の穏やかな顔立ちは、二人の面影を重ねているようだ。

 その小さな存在は、かつて胡葉が為し得なかった、愛の社会的に正しい循環の象徴に見えた。


 明斗が、胡葉を見て小さく手を振った。

 胡葉は、その子を見て優しくも、あまりにも悲しい笑みを浮かべた。

「……明斗くん。二人の子供だもの、とっても可愛いわね」


 その子の中には、胡葉の特別な親友(・・・・・)である明日香と、かつて胡葉に片想いしていたという岸本くんの愛が、社会的に祝福され、正しく循環し、結実していた。

 それは、胡葉が愛を手放す原因となった、あの事件後の世界に咲いた、最も美しく、そして自分には到達し得なかった花だった。


 胡葉は、自分の人生を思う。

 人からは、よく桜の様だと評される。

 お世辞と判っていたが気恥ずかしい……

 だが、胡葉は違う意味も感じていた。


──ソメイヨシノの花は、種に自分を託せない。


 愛の結実を目の当たりにした今、それを私自身に突きつけられている気がするのは避けられない。

 でも私は知っている。


──子孫は残せなくとも、咲いては散る花で、人々の心を豊かにできる。


 胡葉は心の中で、これが正解だったのだと自分自身に言い聞かせた。


 胡葉の使命は、自分が得られなかった愛を成就させるためのシステムを創造し、次の世代にバトンを繋ぐことだ。

 憎悪の連鎖は断たれた。

 あとは、璃子と啓介のリレーを走らせるだけだ。


 胡葉は立ち上がり、明日香と明斗に優しく微笑んだ。

 その目には、悲しみと、新しい覚悟の光が宿っていた。

 彼女の孤独な戦いは、今、最終段階に入ろうとしていた。

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