自己崩壊と理性の救済
夜の帳が降り、街の喧騒が薄れた頃、璃子は啓介のアパートを訪れた。
数日前に起きた出来事、胡葉が負傷し病院へ運ばれたあの事件の真相を、璃子は啓介に告げなければならないと悟っていた。
テーブルを挟んで向かい合う二人。
啓介は、璃子を心配する優しさで、ハーブティーを淹れてくれた。
湯気が立ち上るカップからは、心を落ち着かせるための、淡い柑橘系の香りが漂っている。
しかし、その穏やかな光景こそが、璃子を最も苦しめていた。
啓介の無邪気な優しさは、いつも通り、何の疑いも偽りもなく彼女を包み込もうとしている。
まるで、目の前の彼女が、その優しさを破壊する「毒」の持ち主であることを、彼の純粋な心だけは知ろうとしないかのように。
璃子は、目の前のテーブルではなく、その先の汚れていない床を見つめていた。
顔を上げれば、その優しい眼差しに、自分が犯した罪の重さが耐え難いほど増してしまう気がしたのだ。
璃子は、深呼吸ひとつで、数年分に匹敵する重荷を吐き出す覚悟を決めた。
「啓介……あのね」
絞り出した声は、予想以上に掠れていた。
「胡葉さん、私を庇ってくれたけど……あれは、本当は私がやったの。私が、コーヒーカップを投げつけた。胡葉さんが、私をかばって嘘をついてくれたのよ……」
続けられる真相の告白の中、部屋の中、絶対的な沈黙が落ちた。
カップから立ち上る湯気の微かな音すら、耳に痛い。
啓介の瞳に、その言葉が意味するものの衝撃が走った。
彼の美しい瞳から、いつもの無垢な光が、ゆっくりと遠ざかっていく。
啓介は、言葉を探すように息を吐き出した。
「璃子……大変だったね。辛かったんだね」
その言葉は、啓介特有の、誰の心も傷つけまいとする「マナー」の言葉だった。
彼は、まず、相手が求めているであろう言葉をさがす。
それは彼の優しさの源泉だが、今の璃子にとっては、その優しさこそが、彼女の罪を矮小化し、真実から目を逸らさせる毒となる。
「でも、胡葉さんがそう言ってくれたなら、もうなにも気にしなくても大丈……」
その言葉を聞いた瞬間、璃子の胸の奥で、張り詰めていた何かが音を立てて弾けた。
「大丈夫じゃない!」
声は、怒りよりも、悲痛な叫びに近かった。
彼女は、床から強く視線を上げ、啓介の無防備な優しさを、真っ向から叩きつけるように見つめ返していた。
「啓介はまた、いつものように”マナー”で、私が楽になるための言葉を考えているだけでしょ!?
私が言っているのは、今回、私が”泥”になったって話なのよ!」
啓介は完全に言葉を失った。
彼の頭の中で、目の前の璃子と、幼少期から共に育った、冷静で、誰よりも自分にお節介を焼いていた「幼馴染の璃子」のイメージが激しく衝突し、理解が追いつかない。
「”泥”? 璃子が、何を言っているんだ?」
啓介の声には、純粋な戸惑いが滲んでいた。
■守護者の罪と、歪んだ論理
璃子は、目の前のカップを震える指でなぞりながら、とうとう堰を切ったように、長年の歪んだ愛の構造を吐き出し始めた。
「高校生のときに、啓介は私を交通事故から救ってくれた。命も、心も……私という存在のすべてを、あなたはあのとき救ってくれた。だから私はあの時、覚悟を持ったのよ」
瞳は潤み、過去の光景がフラッシュバックする。
あのとき、自分を救ってくれた啓介の温かさ。
あのときから、彼女の人生は、彼に捧げられた「第二の人生」になった。
「私は啓介の為に生きたい。それにはどうしたら良いか……啓介のことは良くわかっていたつもりよ。啓介の、昔と変わらない純真さが、一番の魅力だと。でも、その魅力は、男女の違いや恋愛感情を理解しないことと表裏一体だった」
璃子は、まるで自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「結果、あなたは無自覚に女性を傷つけて、傷つけられた女性は、今度は悪意を持って啓介を傷つける。それの繰り返し……。私は思ったの。これは啓介が悪いんじゃない。啓介を理解しないまま近づく女性達が悪いんだって」
それは「誰かを守るための犠牲」という名の、最も強固な自己欺瞞だった。
「そして、そんな女性を啓介から遠ざければいい。それが目的になった。そして、私は啓介を守るために、どんな手段でも使うって決めたの。その覚悟こそが、私にとっての存在意義だと決意したのよ。
でも結局今回、守るどころか、愛でも、使命でもない、ただの憎しみと混乱で、私は人を傷つけることになったの。あなたを守るはずの私自身が、新たな脅威になった」
璃子の顔は絶望に歪んでいた。
彼女の人生の根幹を支えていた使命感が、この瞬間、音を立てて崩れ去ったのだ。
「胡葉さんは言っていたわ。啓介はこれからも、世の中の悪意っていう”泥”を経験するって。でもそんな”泥”で啓介の才能を無くしたくないって。だから”泥”の中でも美しい花を咲かせる蓮の花にならなければならないって」
彼女の目に、あの完璧な女性、胡葉の言葉が焼き付いている。
「私はその”泥”のすべてから、啓介を隔離し、守るつもりだった。それなのに、今回、その”泥”を啓介の周りに撒き散らしたのが、私だったのよ!」
彼女の叫びは、自己嫌悪と罪悪感で満ちていた。
そして、彼女の恐怖の核心が露呈する。
「啓介が、胡葉さんから”恋愛を教えてもらった”って聞いて、怖くなったのよ。まるで、私の知らないどこかへ行ってしまうみたいで……。結局私は、啓介の無垢な美しさを、自分だけの箱に閉じ込めたかっただけだったの」
彼女は両手で顔を覆い、しゃくりあげる。
涙は、過去の執着と、それが破綻した絶望の味だった。
■脅威への転落と、理性の光
璃子の嗚咽が続く中、啓介は黙って、深く考える表情を見せていた。
彼の頭の中では、感情の混乱とは裏腹に、胡葉から教わった「価値創世」の理論や、「無償の気遣いには、曖昧な期待がくっついてくる」という教訓が、まるでパズルのピースのようにカチカチと組み合わさり始めていた。
彼は感情論で璃子の罪を許すことをしなかった。
それは、彼の「成長」の証だった。
「……璃子。君が、僕のためになにかしてくれているというのは、なんとなく知っていたんだ」
啓介の声は、先ほどよりも、明らかに低く、落ち着いていた。
それは、感情の波に飲まれることなく、理性の錨を降ろした声だ。
「でも……その行動が、君自身の人生を崩壊させてしまうなら、それは僕の”無自覚な凶器”で君を傷つけているのと同じじゃないか」
璃子の泣き声が止まった。
啓介は、彼女が自己嫌悪に陥っていた”泥”という言葉を、”凶器”という別の言葉に言い直し、今度は自分自身の胸へと突き返していた。
「胡葉さんに言われたんだ、愛情のルールを知らないで行使する僕の”優しさ”は”凶器”になってしまうって。”優しさ”が”凶器”って、普通は無いことだよね。僕もよく判らなかったんだ」
啓介は、遠い目をして夜の窓の外を見つめた。
「でも、今回のことで、はっきりと判った。優しさかどうかは判らないけど、”僕の行い”は、確かに”凶器”となっていたと」
この啓介の言葉は感情的な慰めではなく、倫理と論理によって璃子の苦悩を理解しようとするという、胡葉が望んだ通りに啓介の魂が成長した兆しだった。
そして、璃子にとっては、自分の愛のシステムが破綻したことを、啓介自身から、冷静に指摘された瞬間でもあった。
それは最も聞きたくなかった、けれど最も必要としていた指摘だった。
璃子は顔から手を離し、啓介を見つめた。その瞳には、混乱と、そして戦慄が混じっていた。
「……啓介、あなたは、本当に変わったわね」
その言葉は、悲しみではなく、驚嘆だった。
彼女の知っていた、いままでの”マナーで作られるだけの優しさ”に流されるだけの無垢な啓介は、もういない。
救済の理屈と、愛の新しい形
啓介は、静かに結論を口にした。
「胡葉さんが言っていたんだ。”愛もwin-winの関係が大事”だって。誰かを救うためには、まず自分が破綻してはいけないだろ?」
彼は璃子の目を見つめた。
その視線は、かつての戸惑うものではなく、対等な人間として、真剣に向き合おうとするものだった。
「璃子……僕は、あの事件の見返りなんて期待していなかった。そういう見返りを求めない行為だけで生きていたら、どこかで問題が起きる。胡葉さんから言葉だけ聞いて、なんだか判った気になっていた。でも本当に知らなければならないのは、こういうことだったんだろうなと思う。まだ、何となくしか判らないけど……」
啓介は一度、言葉を区切った。
そして、最もシンプルな、しかし最も強い真実を口にした。
「ただ、これだけは判る。君が僕のせいで壊れるのは、見たくないんだ」
その瞬間、璃子の胸の奥に、理性の光が差し込んだ。
彼女は涙を拭い、初めて冷静に、守るべき存在ではなく、対等な人間として啓介の顔を見た。
「胡葉さんが、あなたに、私を救うための”理屈”を与えてくれたんだね」
璃子は悟った。
胡葉は啓介を奪いに来たのではない。
啓介と璃子、二人の魂を、それぞれが自立した上で結びつけるための、新しい「愛のルール」を教えに来たのだ。
「そうかもしれない」と啓介は答える。
「君がそこまでして僕を守ろうとしてくれたことは、僕にとって大きな”価値”だよ。でも、その価値を、君自身の代償で支払うのは、もうやめてほしい」
二人の間には、感情的な混乱だけでなく、胡葉が説いた「倫理と救済」の境界線が明確に横たわった。
璃子は、啓介の愛を”闇雲に守る”という、閉鎖的で歪んだ役割から、胡葉が目指した”主体的に愛を循環させる”という、開放的で持続可能な役割へと移行する、その決意を固めた。
彼女の顔に、諦めではない、解放の光が灯る。
「……わかったわ。私は、啓介に許される必要はない。でも、胡葉さんが助けてくれた意味を、ちゃんと考える」
彼女の姿勢は、もう啓介に依存していない。彼女自身の足で、この罪と向き合おうとしている。
「……ごめんなさい。そして、ありがとう」
璃子の心の中で、長い間近く続いた「守護者」としての役割が、静かに幕を閉じた。
それは、啓介への告白であり、胡葉への感謝であり、そして何よりも、自分自身への「解放」の宣言だった。
二人の間には、風がさらさらと通り抜けた気がした。
その風は、冷たさではなく、自由を運んでいた。
璃子は、今、精神的な自立という、最も困難な第一歩を踏み出したのだった。




