間話 愛の仕組み──胡葉の告白
作者注:
以下の間話は、もともと本編の一部として構想していましたが、内容がやや抽象的であるため、独立した形にしました。
この間話を読まなくても、本編の物語は問題なく理解できる構成になっていますので、読み飛ばしていただいても支障はありません。
本編では、胡葉がなぜここまで献身的に啓介と璃子を支え続けるのかについて、あえて深く語っていません。
それは彼女が、言葉にしきれない過去の経験を通じて、独自の価値観と考え方を形づくってきた人物だからです。
この間話では、その一端を垣間見せることを目的としています。
内容はやや哲学的で、断片的な構成になっています。
すべてを説明することはせず、いくつかの要素は他の場面に散らばっていますし、あえて書いていない部分もあります。
その余白を、読者の方それぞれの想像で補っていただければ幸いです。
すべての設定を明かせば、より強いカタルシスが生まれるかもしれません。
しかし同時に、物語の重心がこの間話に偏ってしまうことも避けたかったため、このような形を選びました。
昨晩の胡葉さんが話し始めたときの声が、いまでも耳の奥に残っている。
彼女は、全てを明確に表現してはいない感じがした。
それに、抽象的な話しで、私はまだ全てを理解できずにいる。
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「アタシの過去の話をするわね」
胡葉さんは、遠い星を見るように目を細めた。
「アタシはね、璃子ちゃんくらいの時、それは多くの男性から好意を示されていたわ。
別に自慢とかじゃないの。これは、アタシにとっては悲劇だったから」
私はただ、その声を聞くことしかできなかった。
「でも、アタシはその好意が理解できなかった。今の啓介くんみたいに、あの時のアタシは男性からの感情を、自分に向けられたものとして感じ取ることができなかったの。
心のどこにも、彼らが求めている”愛”を返せる場所がなかったのよ。だって私が恋をしていたのは他の人だったんだもの」
胡葉さんは言葉を切った。
私は息を飲んだ。
私は、その先を聞くのが怖かった。
「結局、好意を返してくれないと悟ったある男性は、アタシに心無い仕打ちをするようになった……それは、あまりにも辛い経験で、今も思い出すと胸が痛むわ。
そのことが原因で、私自身の恋も諦めることになった……ごめんなさい、この話は関係ないわね」
胡葉さんは軽く頭を振って、話を本筋に戻した。
彼女の過去の傷は、頭に当たったカップの衝撃なんかよりも、あまりに重かったのだろう。
私は顔を覆いたくなった。
「結局分かったのは、アタシが愛した人からは愛を返してもらえないこと。そして、アタシに好意を示した男性には、アタシは愛を返せないこと。それは、どうしようもない現実」
胡葉さんはそう呟くと、瞳の奥で千年前の氷が割れる音を立てた。
「その時、アタシは悟ったの。この”愛の仕組み”の中では、アタシはどこまでいっても異物なのだと」
夜の闇の中、胡葉さんの瞳が一層深く見える。
「そして、それに気づいてしまったのよ。愛は有限だって。だから、一方的に愛を与え続けるということはできない。愛を返してもらえないと、どこかでその愛は憎しみに変わる。
それは、変わるか変わらないかという問題ではないわ。いつ変わるかという問題。いずれ必ず起こるものよ」
私の心臓が、再び激しく鼓動した。
「ね、璃子ちゃん。好意に気づかなかったアタシは、今の啓介くんに似ているでしょう?
そして、好意を寄せても応えてもらえなくて、憎悪へ変わってしまったあの男性は……璃子ちゃん、あなたに被って見えたの」
胡葉さんは、静かに私を見つめた。
「だから、私は思ったの。啓介くんと、そして──あなた、璃子ちゃん。二人とも救いたいって。
あの時の過ちを、今度こそ繰り返させたくなかったのよ」
その言葉は、啓介と私自身に突きつけられているようで、私の胸を締め付けた。
「でも……」
私は絞り出すように尋ねた。
「母親が子供に与える愛は、一方的じゃないですか。そういう無償の愛もあるんじゃないですか」
胡葉さんはうつむいた。
その顔に浮かんだのは、私が今まで見たことのない、一つの感情だった。
悲しみ、怒り、憎しみ、後悔。
言葉の持つあらゆる感情を飲み込み、その音さえ奪い去った、形容不能な「空虚」の震え。
胸の奥底で、永遠に癒えぬ傷跡として燻る、存在そのものの痛み。
そんな感情は、とても短い時間で消えた。いや、胡葉さんが自ら消したのだ。
「そうね、母の愛は無償に見えるかもしれない。でも、私はそうは思わない。子どもの表情や仕草、ただ成長していくことだって、母にとっては返してもらった愛情になるの」
胡葉さんは、言葉を選ぶ様に話し続ける。
「でも、返してもらった愛情よりも、与えた愛情は、確実に大きいのよ。それじゃ、その足りない分はどこから来るのだと思う?それはね、多くの場合、母の母から受け取ったものなの」
「でも、母から子供に愛情のリレーができない事だってあるんじゃないの。母からもらえなかった愛を、子供に受け継ぐことはできるの?母からもらった愛を、子供に受け継ぐことができない場合もあるんじゃないの」
それを聞いた胡葉さんは、とても辛そうだ。
だが、それを続けることが、自分の義務であるかのように話し続ける。
同時に、その言葉を紡ぐこと自体が、今にも崩壊しそうな自分自身を支える、唯一の柱であるかのようにも見えた。
「そうね。愛の形は人それぞれだし、愛のリレーも厳密には同じ形のものはなく、それぞれ違うわ。でもね、母に愛をもらえなかったとしても、他の誰かから愛はもらっているのよ。そうじゃなければ、生きていくことはできなかったはずだもの」
その時、再びあの、形容しがたい感情が胡葉さんの目に現れた。
「それに、私は、こう信じたいの。生まれてきた子は、それだけで母から何かを受け取っているって。
そしてね、それどころか、子供が生きているという事実だけでも、それは愛情を返してもらっているのよ」
だが、次の瞬間、胡葉さんはそれまでの表情が消え、断固とした決意をまとっていた。
まるで、それを言う事が自分に課せられた使命であるかのように。
「そして、母からもらった愛を引き継げなかった女性はどうすると思う?愛を無駄にするしかないのか。私はそうは思わない」
胡葉さんは私を見た。
「別の誰かに、その愛をリレーする道も残っているのよ」
その言葉の意味を、私には完全に理解することはできなかったと思う。
けれど、胡葉さんの目に一瞬だけ宿った光──あれは、誰かを深く愛して、そして失った人の、静かで重い光だった。




