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璃子の暴走と後悔

【読者の皆様へ】 本エピソードには、キャラクターの感情的な対立から生じる「暴力的な描写」および「流血の表現」が含まれています。 精神的にショックを受けやすい方や、暴力描写が苦手な方は、ご注意の上お読みいただくか、閲覧をお控えください。

──声がする。


 忘れ物を取りに急いでスタッフの楽屋へ向かうと、中から啓介と胡葉さんの声が聞こえた。

 どうやら、二人は仕事の話をしているらしい。啓介は、胡葉の話を真面目に聞いているようだった。


「啓介いるの?」

 私はそっとドアの隙間から中を覗いた。


 すると、啓介がこちらを向いて立ち、ただ胡葉さんの話に耳を傾けている。

 その向こうには、胡葉さんが背を向けて立っていた。


 息が止まる。

 胡葉さんはブラウスのボタンを止めかけていた。

 となりには脱いだ制服が無造作に置かれている。


 啓介は、そこで女性が無防備に肌を晒していたはずなのに、視線を厳密に壁に固定し、ただ淡々と彼女の話を聞いている。

 その落ち着きには特別な意味も熱もなかった。

 あらゆる状況を同じ温度で処理する、彼の日常そのままの反応に過ぎない。


「……な、なんで……?」

 思わず声が漏れた。


 胡葉さんが、ちらりと私の存在に気づいた。

 一瞬目を見開いたが、すぐに柔らかな微笑みに戻った。

「ああ、ごめんね、璃子ちゃん。啓介にカギ締めてって言い忘れていたわ。入ったらドア閉めてくれるかしら」

 軽い声だった。

「時間なくてね、次の打ち合わせまでに着替えちゃおうと思って」


「え……啓介がいるのに?」


「え? ああ、啓介くん? 別に平気だよ。後ろ向いててもらってるから。それに、何もしないし、興味もないでしょ?」


 軽く笑った声は、妙に自然だった。

 でも、私の心臓は強く跳ねていた。


──平気?

 何もしない?

 興味もない?


 その言葉が、胸の奥に刺さった。

 なぜなら、私は知っているから。


──啓介は、こういうとき、本当に“動じない”。


 中学のとき、私の部屋のドアが突然開いた、あの夕暮れが一瞬で蘇った。

 着替えの途中だった空気の中で、啓介はまったく動じていなかった。

 彼の“普通”が、私の“普通”を軽々と飛び越えてきた瞬間だ。


──私の記憶と同じ。

 あの日も夕方の光の中。

 あの日も啓介は無邪気で、私はただ苦しくて。


 今、楽屋で起きていることは、その“続き”みたいだった。


 あの頃から、何も変わっていない。


 変わっていないのに──

 私だけが、また置き去りにされたような気持ちになる。

──胸の奥がきゅっと縮む。



「……啓介、ちょっとは気にしなさいよ……」

 思わずこぼした私の声に、啓介が振り返った。


「あ、璃子?あれ、何で怒ってるの?」

 その笑顔は、昔のままの無邪気さで。

 だからこそ、胸がちくりと痛む。


 胡葉さんが、そんな私をじっと見て、ふっと微笑んだ。

 桜の香りがふわりと揺れたような気がした。


「あの子、あなたのことが好きなんだよ、啓介くん。……まだ、ちゃんと気づけないのね」


 その言葉に、私は息を飲んだ。


 啓介が目を瞬かせ、こてんと首を傾げる。

「え?えっと……どういうこと?」

 その反応に、私はまた、胸がぎゅっと縮まった。


──やっぱり何も変わってない。


 私は、なぜか涙が出そうになった。

(……私、何してるんだろう)

 怒っていいのか、恥じるべきなのか、自分でもわからない。



 こんなにも追い詰められている私に気づく様子もなく、胡葉さんはさっさと着替えを終えると、次の会議へ向かって歩き出した。

 その背中を見送るため、啓介も自然な足取りで後を追う。


──その瞬間、私は信じがたい会話を耳にしてしまった。


「僕だって、胡葉さんに“恋愛”というものを教えてもらって、少しはわかる様になってきたんですから」

「あら啓介くん、まだまだ初心者じゃないの。経験はこれからよ」


……え? どういう意味?


 恋愛感情どころか、男女の違いさえ“実感として”理解していなかった、あの啓介が──?


 胸の奥に抱いていた、あの日の無垢で真っ直ぐな啓介の残像が、音もなく崩れていく。

──私は、いったい“誰”の啓介を知っていたと言うのだろう。


 深い海の底にひとり閉じ込められたみたいに、出口のない不安がじわりと胸を満たしていく。

 彼の「成長」。

 それを導いた胡葉さんとの、あまりにも近しい距離。

 そして、私の前に立ちふさがる、絶望的なまでの高さの壁。


 胡葉さんは、一体どんな方法で啓介に「恋愛」を教えたというのか。

 想像するほどに現実味を失い、考えまいとしても思考が暴走する。

 頭の中は、これでもかというほどの混乱で満ちていた。


 いや、ただ一つだけ、はっきりとわかることがある。

 このままでは、啓介が私の知らないどこか遠くへ行ってしまう。




 啓介と胡葉さんの会話を聞いて、私の頭の中は沸騰していた。

 胡葉さんのマンションに乗り込んだのは、もはや冷静な話し合いのためではなかった。

 啓介を守るための、私の最後の抵抗だった。


「あなたの行動はプロとして不適切です!」

 私は声を荒げた。

「啓介への影響を考えなさい!社会的なルール、契約、全てを無視している!」


 胡葉さんは、桜の香りのする部屋で、ただ静かに微笑んでいる。

 その余裕が、私を余計に追い詰めた。


「璃子ちゃん、そのルールはあなたの愛を守るためのもの?それとも啓介くんを、あなただけの箱に閉じ込めるためのもの?」


 もう、言葉が通じない。

 私のルールが通用しない。

 このままでは啓介が壊れる……。


 心臓が張り裂けそうに脈打つ。

 頭の中は雑音ばかりで、冷静な判断はどこかに消えていた。

 けれど、怒鳴ったところで何も変わらないことも、わかっていた。

……わかっているのに、体が熱い。息が苦しい。


 この人から啓介を遠ざけるには、もう一歩、踏み込まないと。


 私の手は、自分の意思より早く動いた。


 目の前のテーブルに置かれた白いコーヒーカップに手を伸ばした。


 警告のつもりだった。「これ以上、啓介に踏み込むな」という、理性を失った最後の警告。

 投げた瞬間、自分の手ではないみたいだった。


 一瞬、胡葉さんの瞳に、覚悟のようなものが宿ったのが見えた。

 その時、胡葉さんは避けなかった。

 いや、避けなかったというより、まるで胡葉さんの頭がコーヒーカップの方へ飛び込んだようにも見えた。


 静寂


 カン、という鈍い音と、飛び散る褐色の液体。


 そして、胡葉さんのこめかみから、赤黒い血が細く流れ落ちた。




 私は、自分が一線を越えてしまった事実により、後悔と混乱に打ちのめされた。

「ああ……」声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。


 大変なことをしてしまった。

 手を震わせながら救急車を呼ぶが、涙が止まらない。

 後悔、自責、謝罪──ありとあらゆる感情が爆発し、私はただ泣き崩れた。


 病院に着いても、私は胡葉さんのベッドから離れられなかった。

 頭を包帯で巻かれた胡葉さんは、意識がはっきりしている。

 私に向けられたその瞳には、大切なものを見るような、深い優しさがあった。


「大丈夫だよ、璃子ちゃん。私の不注意だから」

 周囲のスタッフや、駆けつけた啓介と千春に対して、胡葉さんは軽く笑った。


「璃子ちゃんのバッグに足を引っ掛けて、転んでテーブルにぶつけちゃったの。全く、ドジよね」

 そう言って、私を庇ってくれた。


 私は、その優しさが苦しくて、胡葉さんのベッドサイドにうずくまり、頭を埋めて泣き続けた。

 心配した啓介が「璃子、もう大丈夫だよ。家に帰ろう」と促しても、私は首を振る。

 千春さんが何か話しかけているのも聞こえない。

 胡葉さんは、ただ「このままでいいわ」と静かに言った。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 私は、夢を見た。

 それは、鮮烈な色彩と、鋭い衝撃が満ちていて、あまりにも劇的だった。

 しかし、それはすぐに意識の奥底へと消えていった。

 涙の後だけが残っているのが判った。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 夜中、目が覚めると、胡葉さんがじっと私を見ていた。

 その優しい目に、うっすらと涙を浮かべている。


「夜風に当たりたいわね」胡葉さんが静かに言った。

 私は無言で頷き、二人で病院の庭に出た。




 花の香りが漂う病院の庭で、頭に包帯を巻いた胡葉さんが、うずくまる私の横に静かに座った。

 胡葉さんは星空を見上げ、静かに話し始めた。


「始めに言っておくわ。璃子ちゃんが私の家に来た理由はね、大体わかっているつもりよ」


 そう言ってこちらを見た胡葉さんは、いつもと変わらない穏やかな目をしていた。

 逃げず、強がらず、ただ事実だけを受け止めるようなまなざし。


──啓介が「恋愛を理解し始めている」と言っていたこと。

──その“理解”の裏には、胡葉が啓介に実体験を与えているのかもしれないと、疑っているのだろう、と。

 ゆっくりと、ためらいなく、胡葉さんは語りかけたのだった。


「はい、今までとは、全然、違っているから、啓介が変わってしまったようで、怖かった……んです」


 私の声は震えていた。

 怖かった。

 無垢な啓介が、私から遠く離れてしまうことが。


「でもね、そうじゃないのよ。私が教えたのは、恋愛を感覚ではなく、理論で理解する方法。いまでも彼は、恋愛の欲求は持っていないわ」


 彼女は知っていた。

 昔、啓介は男女の違いがわからず起こしていた問題を「マナーという理論」を取り込むことで減らしたという話を。


「それでね、これはその延長なのよ。そういうマナーを理論的に理解しても、啓介くんは本質的には変わらなかったわよね」

 胡葉さんの問いかけに、私は言葉を詰まらせる。

 その通りだ。本質は変わっていない。


「今回もそう。楽屋での出来事は普通じゃなかったわよね」

「はい、私には信じられない出来事でした」

 私の胸が締め付けられる。


 彼女は、私の動揺を知りながら、淡々とした声で核心を突く。

「でもね。アタシにはわかっていた。別に啓介くんは変わった訳ではない。昔のまま、心では理解してないけど、頭で少しずつ判ってきたってだけよ。面白いわよね、そういう時期って、全てが判った気になってしまうものなの。彼なんて言っていたと思う?──恋も愛も価値創世ということが大事という視点で考えると理解しやすいです──だって」

 楽屋での啓介は、本当に何も分かっていなかったのだ。

 私の感情も、胡葉さんの着替えも、ただの情報として処理していただけ。

 啓介の意味深な言葉も、実体験ではなく理論で処理し始めただけの証拠だったのだ。




「アタシの昔の話をするわね」

 その声には、普段の明るさはなかった。


「昔、ある男性から好意を向けられたことがあったの。でもね、アタシは気づかなかった。その男性からの気持ちに鈍くて」


 淡々と語られる声の奥に、深い影があった。

「アタシが気づかないことに苛立ち、その男性は次第に憎しみを抱くようになった」


 私は息を飲んだ。夜風が一瞬、止まったように感じる。


「そして、アタシはとても重い、そして苦しい決断をするしかなかったの」

 静かに微笑む顔は、儚くもあった。

「そのときアタシを絶望の淵から救ってくれたのは千春先輩だったわ。それでね、今回なぜ先輩がアタシに啓介くんを紹介してくれたのか、今ならわかる」


 真っ直ぐに見つめる胡葉さんから、私は目が離せなかった。

「寄せられる好意に気づけなかったアタシは、今の啓介くんに似ている。

そして……応えてもらえなかった相手の憎しみは、璃子ちゃん、あなたの近い未来に重なって見えたの。

あなたたちには、この苦しみを背負わせたくない」


 胡葉さんは、そっと私の手のひらに手を伸ばし、触れる寸前で引っ込めた。

「だからね、アタシは二人とも救いたいと思った。啓介くんも、あなたも」

 私は目頭が熱くなるのを感じる。

「あのとき私は"女神"にはなれなかった。だからせめて、人として──あなたたちのために、生きてみたかったのよ」


「大丈夫よ。啓介くんは、あなたのことは誰よりも信頼しているわ。彼は今、あなたの持っている感情の意味を、頭で理解しようとしているはず。感情ではなく、彼の理解できる理屈で、教えてあげて」

 その言葉は温かく、そして私の心に染みこみ、止めどなく涙があふれてくる。


 そしてそれは、次にしなくてはならないことを、私がはっきり理解した瞬間だった。

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