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啓介と老夫婦

 鉄板が温まりはじめる匂いと、テント越しの薄い光。

 啓介は計量カップを整列させ、ボウルの縁に残った水滴を布で拭った。

 周囲のざわめきは一定のリズムを刻み、彼の動きもまた、そのリズムに合わせて正確だった。


 そこへ白髪まじりの小柄な女性と、背筋の伸びた男性が、テントの影から現れた。

 奥さんは髪を後ろでひとつに束ね、穏やかな笑みを絶やさない。

 旦那さんは白髪を無造作に撫でつけ、低く響く声で言った。


「君が、鈴木くんだね。私は佐藤重雄という。そして、こちらが妻の和子だ。私たちはすぐ隣で即売所を開く。君の腕前を近くで見られるのが、まことに楽しみだよ」


「ええ。ありがとうございます。本日はよろしくおねがいします。」


 奥さんが、両手を胸の前で合わせた。

「あなたのレシピでね、この人が初めて台所に立ったの。簡単そうだって言って、ほんとうに作ってくれて。びっくりしたし…なんだか、胸がいっぱいになって」


 旦那さんが照れたように唇を引き結ぶ。

 古風な口調に、茶目っ気がにじむ。

「味は、まあ、及第点だったらしい」


「いえ、とても美味しかったですよ。きっと、レシピに込められた気持ちがそうさせたのね」


 啓介は、定型の笑顔で頭を下げた。

「お力になれたなら、光栄です。どなたでも作れるように、工程を最小化してありますから」


 彼にとって、このやり取りは社交の一部だった。

 胡葉の指導の成果である。

 相手の喜びを受け止め、過不足なく返す。恋愛感情という仕組みは理解できない。

 それでも、人が嬉しそうであることは、事実として認識できる。


 二人は「直売の準備があるから」と会釈し、去っていった。


 ほどなくしてスタッフが横から囁く。

「あのご夫婦ね、すごく仲がいいの。おしどり夫婦で有名なんだよ。見てるだけで憧れちゃう」


 啓介はうなずき、実演の段取りを反芻した。

 だが休憩の合間、無意識に目は準備室越しの即売所へ向かう。



■静かなる分業システム


 奥さんは陳列と会計、袋詰め。柔らかな声が行列の角を丸くする。

 迷い顔の来客が、あの笑顔に免じて財布を開くのを何度も見た。

 これは、顧客の心理的障壁を下げる「ブランド価値の最適化」だ。


 旦那さんは補充と箱の移動、質問対応。

 低い声と古風な言い回しが、山菜の信頼性を保証する。

 専門的な問いに迷いなく答える姿勢は「硬質なブランディング」。

 背筋の直線は商品への自信の可視化だ。


 奥さんが会計の手を休めずに、左手の指先で棚の端を一度だけ軽く叩く。

 言葉はないのに、旦那さんはすぐ裏から新しいパックを補充する。

 信号は最小限、解釈は誤差ゼロ。

 啓介は頭の中に書き込む。

「効率スコア95点。感情コスト0。」



■リソースの循環と心の粗利


 昼過ぎ、人波が薄まる。

 旦那さんが折りたたみ椅子を二脚出し、一つを奥さんへ。

 奥さんはカゴからお茶を二本取り出し、栓を開けた一本を旦那さんへ。

 会話はない。


 要求がないから、期待外れも起きない。

 相手の疲労と欲求を先読みし、自発的にエネルギーを供給する。

 受け取る側も戸惑わない。

 ここでは、見返りを前提としないエネルギーが循環している。

 摩擦係数は限りなく低い。

 だから、笑顔が長持ちする。


 ロマンスが燃焼なら、この二人は恒温。

 火力を抑え、熱を逃がさず、持続の制度設計を済ませている。

 奥さんの笑みは、その制度が潤沢に機能している証拠だ。



■複利成長としての微笑み


 再び列が伸び、旦那さんが山菜の旬と保存法を語っている。

 奥さんは袋詰めを終え、商品を手渡す。その時、別の客が横から割り込んだ。

 奥さんはほんの一瞬だけ驚き、すぐに笑顔に戻り、「少々お待ちくださいね」と声をかける。


 旦那さんは客のほうを向いたまま、わずかに口元を緩めた。

 視線も言葉も交わさず、ただ微笑の角度だけが、奥さんへ届く。


 大丈夫。ありがとう。完璧だ。

──その全てを圧縮した、無言の肯定。

 奥さんも背中越しに、短く微笑み返す。


 啓介は、息を呑んだ。

 思いやりの単発ではこの密度は生まれない。

 無数の小さな肯定が、長い時間をかけて元本に積み重なり、利子に利子が付くみたいに、関係の厚みを増していく。

 あの一瞬は、経済学で学んだ複利の受け取りだと直感した。

 以前、盆栽や日本庭園の松に感じた静かな感動と同じ構造が、ここにある。

 そして、そんな二人の関係に、自分のレシピが微力ながら作用している。

 そう認めた瞬間、胸の奥の温度がわずかに上がった気がした。



 胡葉の声が脳裏に蘇る。

「恋愛は感情で理解できなくても理論で学びなさい。経済を理解できれば、愛の理解へも応用できるわ」


 恋愛は咲く花。

 二人は、その後に続く盆栽の姿。

 剪定と潅水と季節の待ち方を、習慣で会得した樹形。

 啓介は、胸の奥が少し熱くなるのをはっきりと自覚した。

 熱の名前はわからない、しかし、確実な実感があった。


 二人が築き上げた持続可能な人生の構造は、数えきれないほどの信頼の積み重ねでできているのだろう。


 実演の鐘が鳴る。

 啓介は包丁を握り直し、呼吸を整えた。

 あの即売所は、今日いちばんの教室だった。

 幸せの持続性──理論でしか触れなかった概念が、香りと手触りを帯びて、目の前に立ち上がっている。


 この即売所こそが、彼にとって最高の恋愛理論の教室だった。



■後日談:胡葉の不可解な回答——「愛のインフラ化」という概念

 このことを胡葉に伝えると、彼女からは理解不能な回答をもらった。

「1日1回の感謝で、愛情が1日0.1%増えるとするじゃない。計算高い人は0.1%なんて誤差だと笑うわよね。でも、それが複利で積み重なると、初めの1ヶ月とかは殆ど変わらないのに、50年後には数千万倍になるの。もはや愛情という個人の感情ではなく、社会のインフラとか生態系に近い存在よ。もっとも、毎日続ければっていう理論上の話しなんだけどね」

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