価値創世のレシピ──愛と経営の境界線にて
フードイベントでの騒動から数日が過ぎていた。
朝晩の風には少しの涼しさが混じり始めている。
あの日、啓介は「善意」という名の未熟さで躓いた。
誰かを救おうとして、結果的にトラブルを招き、自分自身も傷ついた。
胡葉に突きつけられた「市場理論」という言葉。
その響きは、当初、料理人である彼にとって無機質で冷酷なものに思えた。
しかし、突きつけられた冷たさの裏側に、自分にはまだ触れたことのない“構造”があると気づいた。
あの日、彼は初めて「善意だけでは不幸を招くことがある」ことを痛感したのだ。
その痛みが、翌日からの彼を動かした。
部屋の机には、図書館で借りてきた経済学の入門書、経営学の基礎理論、プリントアウトした論文の束が山のように積まれている。
深夜、デスクライトの明かりだけが灯る静寂の中で、啓介は活字の海を泳いでいた。
最初は、まるで異国の言葉のようだった。
「需要と供給の均衡」「機会費用」「限界効用」……。
馴染みのない単語が、彼の脳を上滑りしていく。
活字を追うたびに、胡葉の声と、過去にすれ違った誰かの表情が重なり始めた。
「あれも、これも……全部、構造を知らなかったせいだったのかもしれない」
意味がつながるたび、胸の奥で小さな痛みが灯り、それが逆に理解を促した。
──価値創世は、Win-Winの関係で成立する。
提供者が利益を得て、受取手が満足を得る。その循環だけが「持続可能」なのだ。
──ゼロサムゲームは、誰かが得をすれば誰かが損をして、長期的な関係維持は難しい。
──マイナスサムゲームは、双方が損をする状態で、深刻な全体の破綻に繋がる。
あの日の騒動は、まさにこれだった。
そして、最も重くのしかかった一文。
──無償提供は、条件や背景を十分に設計しないと、善意であっても、秩序を破壊する「毒」となりうる。
文字を目で追うたび、胡葉の声が脳内で再生され、その意味が色彩を持って補完されていく。
啓介は本を閉じ、天井を仰いで深く息を吐いた。
「……すごいな、胡葉さん。多分、教えてもらってなかったら一生理解できなかったと思う」
気持ちだけでは、世界は回らない。
気持ちを形にし、それを継続させるためには、強固な「骨組み」が必要なのだ。
そのことに気づいたとき、啓介の胸に渦巻いていた後悔は、静かな「決意」へと変わり始めていた。
■
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、ステンレスのキッチンを鋭く照らしていた。
トントントン、と軽快な包丁の音が響く。
啓介は慣れた手つきで、彩り豊かな食材を弁当箱に詰めていた。
学んだばかりの「市場理論」を、自分の生活にどう落とし込むか。
考え抜いた結果、たどり着いた答えはシンプルだった。
「まずは身近な働く仲間に、価値を還元しよう」
それが、今の自分にできる最初の一歩だと思ったのだ。
出汁を含ませた厚焼き玉子、照り焼きにした鶏肉、そして胡葉が好む季節野菜のピクルス。
彩りのバランス、栄養価、冷めても落ちない味の設計。
それらを計算しながら作っていく作業は、料理というよりも、ひとつの「建築」に似ていた。
これは実験であり、実践だ。
胡葉さんが伝えたかったことを、僕が正しく理解できているか、それを試すのだ。
そんな動機が、啓介自身ですら気づかないほど自然なものとして、胸の奥に芽生えていた。
■
昼休み。
会社の休憩スペースは、静かな喧騒に包まれていた。
窓際の席で、胡葉はいつものようにブラックコーヒーを片手に、分厚い洋書をめくっていた。
その姿は、周囲の空気から切り取られたように凛としていて、誰も容易には話しかけられない雰囲気を纏っている。
啓介は深呼吸をひとつして、その聖域へと足を踏み入れた。
「胡葉さん」
声をかけると、胡葉はゆっくりと顔を上げた。
長い睫毛が揺れ、知的な瞳が啓介を捉える。
「あら、啓介くん。お疲れ様。調子はどう?」
「おかげさまで、少しずつですが……。あ、それで、今日……」
啓介は背中に隠していた包みを、少し照れくさそうに差し出した。
「お弁当、作ってきたんです。一緒にどうかなって思って」
「お弁当?……あら」
胡葉は驚きに目を丸くした。
だがすぐに、口元に楽しげな笑みを浮かべる。
それは、予期せぬプレゼントを受け取った少女のような、あるいは弟子の成長を喜ぶ師のような表情だった。
「啓介くんが?わざわざ?」
「はい。理論の実践というか……あ、いや、口に合うかわからないですけど」
啓介が向かいの席に座り、包みを開く。
現れたのは、見た目にも美しい二段重の弁当だった。
蓋を開けた瞬間、ふわりと出汁と柚子の香りが立ち上る。
「……なるほど。見た目は合格ね」
胡葉は割り箸を割り、まずは厚焼き玉子を一切れ口に運んだ。
啓介は固唾を飲んでその様子を見守る。
咀嚼する音が、やけに大きく聞こえる気がした。
やがて、胡葉が箸を止め、小さく息をついた。
「……おいしいじゃない」
「本当ですか!?」
「ええ。悔しいくらいにね」
胡葉は少し拗ねたように、もう一口、次は鶏肉を口にした。
「えっ、なんで悔しいんですか?」
「……プロとして、負けた気がしただけよ」
彼女の眉が、ほんの数ミリだけ上がる。それは分析モードに入った合図だった。
「なるほど……。啓介くん、これのレシピまとめてもらっても良いかな」
「そういうと思って、もう用意してきました」
「あらあら、気が利くじゃないの。どれどれ……なるほど、これは“70点”の料理ね。でも1000人が作れるレシピよ」
啓介の顔が、ふわっと明るくなった。
「そう言ってもらえると、嬉しいです。でも僕は……“90点を1000人が作れるレシピ”を目指したいんです」
その言葉を聞いた瞬間、胡葉の目が少し見開かれ、そして柔らかく細められた。
「あら……生意気言ってぇ」
彼女は笑った。その笑顔は、どこか誇らしげで、そして眩しかった。
「ちなみにね、この前の”60点で1000人が作れるレシピ”だって企業のプロに監修してもらったんだからね」
真っ直ぐな視線。
胡葉は一瞬、箸を止めて啓介を見つめ返した。
そこには、以前のような「危なっかしい子供」を見る目ではなく、確かな成長を認める眼差しがあった。
■
弁当を食べ終え、湯気の消えた紙カップが机に並ぶ頃。
窓から差し込む光の角度が変わっていた。
胡葉が、ふっと表情を変えた。
リラックスした空気から、鋭利な刃物のような、あの「講師」の顔へと。
「啓介くん。あなた、経営についてかなり調べたでしょう」
「はい。意外と面白いですね、これ……。最初は数字の羅列かと思ってましたけど、需要と供給だけじゃなくて、価値の流れとか、人の心理とか……奥が深くて」
「そう。経済は心理学でもあるの。だからこそ……この前の話の続きもできるわね」
胡葉は、背筋を伸ばし、啓介の真正面に座り直した。
その纏う空気が、ピリリと張り詰める。
「いい? 市場理論ってね……恋愛にも応用できるの」
「え……恋愛……?」
啓介は、片付けようとしていた手を止めた。
唐突な話題転換に、思考が追いつかない。
「価値創世の最たるものは、恋愛よ。市場理論では金銭が対価だったけど、恋愛での対価は”愛情のやりとり”なの」
胡葉の声は静かだったが、ひとつひとつの言葉が重りを伴って心に沈んでいく。
「愛情が一方通行だったり、枯渇したりすると、人は壊れる。その人の人生も、相手の人生も。恋愛は、お互いが継続的に愛情や信頼、安らぎなんかの価値を生み出し続け、交換し合う関係なの。だからこそ、システムとして成り立つのよ。値段で表せないから、理論だけで解釈するのは難しいんだけどね」
胡葉は、啓介の目を逃がさないように、しっかりと見据えた。
「啓介くん。あなたの優しさはね……人を包む布にも、切り裂く刃にもなるの」
啓介の喉が、ごくりと音を立てて動いた。
心臓を素手で掴まれたような感覚。
「……僕が? 切り裂く刃?」
「そう。あなたの優しさはね、“恋愛というシステム”の構造を知らないまま行使されると、凶器になるの」
凶器。
その言葉はあまりにも重く、鋭く、啓介の胸の最も柔らかい場所に突き刺さった。
優しさが、武器になる?
人を傷つける?
「あなた、自分は普通だと思っているかもしれないけれど……あなたの“普通”は、世間一般とは違うのよ。あなたの純粋さは、時として異常なほどの引力を持つわ」
「そんなぁ……僕が普通じゃないみたいに言わないでくださいよ……」
啓介は力なく笑おうとしたが、頬が引きつっただけだった。
「違うの。変人扱いしてるわけじゃないわ」
胡葉の声は、むしろ慈愛に満ちて優しく沈んだ。
「いい? 完全に“普通”の人なんていないの。誰しも、少しは規格から外れている。あなたにはあなたの、特出した“特別なところ”があるだけ。でも、その自覚がないことが問題なのよ」
啓介は黙った。
言い返す言葉が見つからなかった。
自分の無自覚な行動が、何かを取り返しのつかない方向へ歪めてきたという感覚が、じわじわと足元から這い上がってくる。
■
「無償の気遣いには、曖昧な期待がくっついてくる──」
胡葉が紡いだその言葉は、啓介の耳に届いた瞬間、過去の記憶の扉をこじ開け、別の女性たちの声へと変換された。
──あなたは私のこと、特別だと思ってくれてると思ってた。
──なんで私だけ違うの? 優しくしたくせに!
──ひどい人……
過去、投げつけられた悲痛な言葉たち。
涙で滲んだ顔。
啓介はずっと、自分の親切心が単に「誤解」されたのだと思っていた。
自分は良かれと思ってやったのに、なぜ怒られるのか分からなかった。
でも、違ったのかもしれない。
誤解させたのは、相手の勝手な思い込みではない。
境界線を引かなかった、自分自身の罪だったのだ。
「……僕は、“対価のない好意”を無差別に渡して、相手に勝手に“特別な関係”だと誤解させていたって……ことですか」
啓介の声は震えていた。
認めるのが怖かった。
「そうよ」
胡葉は、逃げ道を塞ぐように即答した。
「あなたは善意のつもりでやっている。見返りなんて求めていない。でも、受け取る側は違うの。”これだけのことをしてくれるなら、私のことを好きなはずだ” ”私だけに特別なんだ”と思ってしまう。それが人間の心理よ」
胡葉の言葉は容赦がなかった。
「そして、その期待が裏切られたとき、それは愛情から憎悪へ反転する。相手は傷つき、あなたも傷つく。それは、どちらにとっても不幸なマイナスサムゲームよ」
「……そんな……つもりは……本当に……なかったんです……」
啓介はうつむいた。
テーブルの上で握りしめた拳が白くなっている。
自分の優しさが、誰かを切り裂くナイフだったなんて。
「知ってるわよ」
ふわりと、頭上から柔らかい声が降ってきた。
顔を上げると、胡葉が穏やかな、すべてを許すような目で彼を見ていた。
「だから、今こうして学んでいるんでしょう? あなたは気づいた。それが何より大事なことよ」
啓介は言葉を失い、ただ深く、深く息を吐き出した。
胸の中に澱んでいた黒い霧が、胡葉の言葉で少しずつ晴れていくのを感じた。
■
「でも安心しなさい」
胡葉は軽やかに立ち上がり、空になった弁当箱の蓋をそっと閉じた。
カチリ、という音が、ひとつの授業の終わりを告げるように響く。
「あなたは変われる。理解しようとしている。理屈を知れば、感情の暴走を止める手立てができるわ」
「……胡葉さん」
「ねぇ啓介くん。恋愛も、経営も、料理も、生きることも……全部一緒なのよ」
胡葉は窓際で振り返り、逆光の中で静かに微笑んだ。
その姿は、啓介を導く女神のようにも見えた。
「価値を生み続ける関係だけが、続くのよ。恋愛も、経営も、人との距離も……全部ね。だから私たちは、学んで、選んで、少しずつ形にしていくの」
その言葉は、啓介の心臓に楔のように打ち込まれた。
それは痛みではなく、これから生きていくための揺るぎない「軸」となる重みだった。
「……はい。その通りです」
啓介は立ち上がり、深く頭を下げた。
ただの感謝ではない。師への、そして未来の自分への誓いを込めて。
窓の外では、雲がゆっくりと流れていく。
自分の持つ優しさという強大な力を制御し、正しく使う術を学ぶ方法の手がかりを元に、彼は確かに歩み始めたのである。




