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泥乃生此華

「あなたは、啓介を傷つけた。だから、私はあなたを許さない」


 その言葉は、強い思いを押し隠すように震えていた。

 それは、胸の奥で煮えたぎる怒りと、目の前の相手への微かな恐れが混ざり合った、自分でも判別のつかない震えだった。


 璃子は、傷ついた啓介の表情を見た瞬間、胸の奥が裂けるような痛みに襲われたのだ。

 胡葉が関わらなければ、あんな苦しむ顔をさせずに済んだのに。

 守らなければ──その純粋な一念だけに突き動かされ、彼女はここに立っている。


 だが、胡葉は、璃子の声の震えにわずかも動じない。

 薄い唇に浮かぶのは、穏やかで変わらない微笑。

 その声は静謐で、どこか冷ややかに澄み渡っていた。

 まるで、経験の浅い生徒に、世界の不動の理を諭す教師のように。


「あら、璃子ちゃんは、啓介くんを恋愛トラブルから守るのが信念じゃなかったの? でもね、アタシは啓介くんとそんな安っぽい揉め事なんて起こしていないわよ」


「……何を、言って……」


「これはね、啓介くんにとって必要な“泥”なの。世の中にはね、私たちが望もうと望むまいと、普通に“泥”が潜んでいるのよ──悪意って言うんだけど」


 胡葉の目が細くなる。

 その奥には、柔らかさも厳しさも、どちらともつかない、ただ真実を見通すような静かな層が潜んでいた。


泥乃(でい_すなわち_)生此華(このはなを_しょうず)って言葉、知っているかしら?……例えるならね、蓮の華は、乾いた高原の陸地では決して咲き誇ることはできない。けれど、卑しく湿り、濁りきった泥の中だからこそ、この華は深く根を張り、その命を宿すことができる──そういうものなのよ。啓介くんも同じ。どれだけ汚れた場所にいても、彼らしく生きられる。アタシは、そう信じているの」


 璃子の全身が細い針で逆撫でされるように緊張する。


「だからって、啓介を巻き込んでいい理由には……ならないでしょ」


「もちろん、わかっているわよ。璃子ちゃんが啓介くんを守りたい気持ちも。彼に近づく脅威を、一粒残らず摘み取りたいんでしょ? でもね──」


 胡葉はふっと吐息を漏らし、璃子の瞳を射抜くように見つめた。

 その視線は、有無を言わせぬ重力のように璃子をその場に押しつける。


「璃子ちゃんの“手”には、限りがあるのよ」


 その一言は、璃子の胸のいちばん脆い部分を容赦なく突き刺した。

 反論しようと口を開いたが、喉に何かが詰まったように声が出ない。

 敗北ではない、認めたくなかった真実の、強制的な受容だった。


「例えばさ、中学のときの啓介くんと、今の啓介くん。女の子への対応、変わったでしょう? 何をしてはいけないか、マナーとして身につけたのよね。痛い思いをして、怒られて、学んだ。それで彼は変わった。でも──」


 胡葉はゆっくりと、残酷なほど優雅に首を横に振る。


「本質は変わっていない。彼の良さも、危うさも、ぜんぶそのまま」


 夕風が、二人の間に滞る重たい空気をかすめ取るように通り抜ける。

 遠くで、運動部の荒削りな掛け声が割れて響いた。

 璃子の胸の奥は、荒波のように激しく脈打つ。


「それって……啓介が悪いって言いたいの?」


「いいえ。むしろ素晴らしいことよ。彼の持つ“美しさ”は、どんなことが起きても損なわれない。でもね、世界には、そんな彼の美しさなんてお構いなしに襲いかかる“泥”があるの。そこに晒された時、璃子ちゃんひとりのやり方には、必ず限界が来る」


 璃子は拳を握りしめた。

 爪が手のひらに食い込み、じんとした痛みが彼女の意識をつなぎとめる。


「私は……啓介を守れる」


「ええ、守れるわ。でも、それは“全部”からじゃない。璃子ちゃんが彼をどれだけ愛していようと、それは有限なの。一度に守れる範囲も、あなたが耐えられる痛みもね」


 璃子は息を呑んだ。

 胸の奥で輝いていた“絶対”という名の信念に、ピキリと亀裂が入る音がした気がした。


「……見てきたようなこと、言わないでよ」


 璃子の問いに、胡葉は初めて、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 その一瞬の翳りが、彼女の言葉を、単なる理屈ではなく血の通った経験則へと変える。


「それはね──昔のアタシだからよ」


「……え?」


「啓介くんが今経験している“泥”。アタシも経験したの。いいえ、今も続いている。だから、その先に何があるのか、どんな脅威が迫るのか、だいたい想像がつくの」


 胡葉の声には、遠い過去を見下ろすような、あるいは未来を思い描くような孤独な影が忍んでいた。


「起きるかどうかじゃないの。いつ起きるか──ただそれだけの話。啓介くんは、遅かれ早かれ“本物の泥”に触れるわ。その時までに知ってほしいの。自分がどんな世界で生きているのか。どれほど希少で、脆くて、そして……美しいのか」


 璃子は口を開きかけたが、言葉が出なかった。

 胡葉の言葉は、まるで巨大なパズルのピースのように、璃子の世界観を強引に、しかし正確に組み替えていく。


 胡葉は静かに微笑んだ。先ほどまでの冷徹さはなりを潜め、どこか哀切を含んだ笑みだった。


「ごめんなさいね。啓介くんをアタシと同列に語るのは失礼だったわ。彼は……間違いなく美しい花を持っているのよ。その花が、泥をかぶったくらいで枯れて欲しくないだけ」


 胡葉が、一歩、璃子の方へ近づいた。

 たった一歩なのに、世界が圧迫されたような錯覚を覚える。


「それにね、アタシは、そんな可愛い璃子ちゃんのことも守りたいと思ってるのよ」


「……守る? 私を?」


「そうよ。璃子ちゃんの気持ちは、誰よりも強い。でも、強いからこそ折れるのも早いの。全部を抱え込んだら、いつか壊れてしまう。啓介くんも、そして守ろうとした璃子ちゃん自身もね」


 璃子は息を詰まらせた。

 胡葉の立つ空間だけ、空気が濃密で、甘い毒のように肺を満たす。


 胡葉は優しく、しかし確固とした声で続けた。


「璃子ちゃんがどれだけ頑張っても、次から次へと起きるすべてに対処はできない。限界は来る。これも、来るかどうかじゃない。いずれ必ず来るの」


 その言葉は、もはや予言ではなく、確定した未来として璃子の鼓膜を震わせた。


 璃子は思考を必死に巡らせる。

 胡葉の真意を読み取り、言葉の裏に潜む毒を探ろうとする。

 だが、見つかったのは毒ではなく、苦い薬のような事実だけだった。


 すべてを飲み込むには、まだ心が追いつかない。

 だが、この場で掴めた、唯一の救いがあった。


──胡葉の言葉の裏に、啓介を本気で壊す意図はないということ。


 今は、その微かな確信だけを命綱にするしかない。


 璃子は小さく息を吸い、肺の底からゆっくりと吐き出した。

 身体の震えは消え、その代わりに、冷たく硬質な決意の熱が宿る。


「……わかったわ。今は……引く。でも、勘違いしないで。私は啓介を守る。必要なときには、必ず」


 胡葉は静かに頷いた。

 その表情には、テストに合格した生徒を見るような、どこか満足げな色が浮かんでいた。


「ええ。それでいいのよ。璃子ちゃんの覚悟、ちゃんと受け取ったわ」


 夕日が最後の光を放ちながら、窓ガラスを深い茜色に染め上げていた。


 璃子は胡葉に背を向け、一歩、また一歩と迷いなく歩き出す。

 胸の奥には、ひとつの揺るぎない、しかし、より現実的な決意だけが静かに燃えていた。


──本当に啓介を守るべき“その時”が来たなら、私は迷わない。

──ただ、今はまだその時ではない。

 胡葉の言う限界を知り、その時を待つ。

 なぜか、それだけは、彼女の心の奥底で、確かな予感として響いていた。

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