蜂起の揺籃
太郎は、ミハドの言葉に答えなかった。
その目は、先ほど少年が蹴り倒した植木鉢からこぼれた、黒い培養土を見つめている。
彼はゆっくりと義足に体重を移動させ、不格好に身をかがめると、指の欠けた左手でその土を掬い、鉢に戻し始めた。
その姿は、世界の均衡を左右する男のそれではなく、ただ、定められた小さなルーティンをこなすだけの、初老の男のものだった。
ミハドも、それ以上は何も言わず、主人の背後、数歩下がった位置に影のように佇んだ。
太郎。
その名は、この極東の島国で、自らを隠すために得た仮初のものだ。
彼の始まりは、アメリカという旧世界の帝国にあった。
マフィアの「ビッグ・ボス」と呼ばれた男。
その権力者の影で、正妻とは別の女から生まれたのが彼だった。
愛人の子。その出自は、経済的な不自由こそ知らなかったものの、彼という存在に生涯消えぬ屈折を刻み込んだ。
彼は、父が支配する裏社会の富によって、表社会の最上級の教育を受けた。皮肉にも、彼が選んだ道は、父とは対極にある「秩序」の象徴である、軍隊だった。
彼は優秀だった。
生まれ持った冷徹なまでの洞察力と、満たされぬ渇望が彼を突き動かし、瞬く間にエリートたる幹部将校の地位へと上り詰めた。
そして、彼はアフリカへ送られた。
当時、その大陸は無数の内戦によって引き裂かれ、大地は血を吸い続けていた。
太郎に与えられた任務は、ある地域の武装勢力から、まだ息をしている村々を守るという、教科書通りの「正義」の執行だった。
だが、彼は見てしまった。
彼が守るべき「弱者」たちが、あまりにも整然と、効率的に殺されていくのを。
彼が討つべき「武装勢力」が、常に一歩先んじて最新の装備と正確な情報を手にしているのを。
疑念は、やがて確信に変わる。
上層部。彼が所属する「秩序」そのものが、より大きな利権と引き換えに、武装勢力と裏で手を結び、この虐殺を意図的に手助けしていた。
彼が守るはずだった村は、大義のための「必要悪」として、地図から消されることが決定していた。
その欺瞞を知った夜。
太郎は、鉄の規律を、己の半生を、静かに捨てた。
彼は軍を離脱した。
報告も、抗議も、脱走の弁も残さなかった。
ただ消えた。
彼は、死臭の漂う荒野をたった一人で歩き続けた。そして、見つけた。
搾取され、虐げられ、声も上げられずに死んでいく、大多数の「弱き人々」。
彼は、その絶望の只中に立った。
その時、彼の片目はまだ失われていなかった。
彼の両足は大地を踏みしめ、両手には十指が揃っていた。
彼は、エリート将校として培った戦術の全てを、彼らに授けた。
それはもはや、軍隊の反乱ではなかった。
大地そのものの蜂起だった。
虐げられた者たちの、沈黙の怒りが、太郎という触媒を得て、大陸全土を焼き尽くす業火へと変わった。
その炎こそが、旧世界の秩序を焼き払い、やがて「アナスル連合国」という新たな巨人を産み落とす、始まりの揺籃となったのである。
土を戻し終えた太郎が、静かに立ち上がる。
義足が、ミシミシと軋んだ。




