虎の尾と正論
シュナイハの動きは、早かった。
太郎が「帰してやらないとな」と口にした時点で、ムガルペの息子の運命は、もはやアメリカ司法省の管轄下にはなかった。
アメリカ大使館を通じて得られた公式情報は、絶望的なものだった。ムガルペの息子。留学中。麻薬使用の上、殺人未遂の容疑で拘留されている。
シュナイハは、トップダウンでの解決を選んだ。相手は、新進気鋭のアメリカ大統領、バーネット。極秘裏に回線が開かれる。
モニターに映るバーネットは、交渉の主導権を握っていると信じ、余裕の笑みを浮かべていた。
案の定、アメリカの要求は、ラスマンカンパニーの望みそのものだった。「超法規的措置を望むのであれば、対外利権の一切をラスマンカンパニーに移譲すること」。
だが、シュナイハの返答は、大統領の想定を根底から覆した。
「罪を犯したのであれば裁けばよろしい」
老人は静かに、しかしきっぱりと言い放った。
「我々は、貴国で我が国民が起こした蛮行を、非合理に許してくれとは頼まない」
バーネットの笑みが、一瞬凍りついた。
「……さすが、誇り高きアナスル連合国の首長ともなると言う事が違いますね。しかしながら、我が国の刑務所は劣悪な環境でして……」
大統領が、新たな脅しを口に掛けた時、シュナイハはそれを遮った。
「時に、大統領」
その声は、氷のように冷たくなっていた。
「貴国がムガルペに、太郎閣下への直々の嘆願を要請した、というのはまことか?」
虚を突かれた大統領は、明らかに動揺し、モニターの外に控えているであろう担当職員に、視線で合図を送った。返答に窮しているのは明白だった。
シュナイハは、その隙を見逃さなかった。
「我が国であの方への直々の嘆願は、ご法度だ。……故に、ムガルペは自害しました」
シュナイハは、畳み掛けた。「これはひとえに私の監督不行き届きですが。ムガルペは遺書で、こう綴っておりましてなぁ。『自分の息子は決して愚かな真似などしない』と」
老人は、そこで初めて、モニターの向こうのバーネットを睨みつけた。
「我が国としては、何としても、いや、何があろうとも、ムガルペの息子には、貴国の公平明大な法の裁きを受けてもらい、無事に我が国に帰って来てもらう次第です。それはもちろん、可能ですな?」
大統領は、言葉を失っていた。
アメリカとしては、超法規的措置の「交渉」を入り口とし、条約を盾に事を進める腹積もりだった。
が、アナスル連合国は恩赦を望まない。
さらに、最悪の事態。アメリカが「事」を持ち掛けた大臣が、自害した。
交渉を「飛躍」させる――すなわち、交渉以外のステップへ移行させるわけにはいかない。それだけは、絶対に。
ここまで来れば、ムガルペの息子に「事故死」してもらい、次の機会を待つのが上策であろう。
だが、目の前にいる百戦錬磨の老人は、それを許さなかった。「五体満足で帰せ」と、明確に釘を刺した。
息子が国に帰れば、今回の利権目当ての「トラップ」であったことが、すぐに露見する。
かといって、国内にいるうちに秘密裏に処理すれば、アナスル連合国が、どれほど強硬な報復手段に出るか、想像もつかない。
そもそもが、この大帝国には、向こうから干渉しないからこそ、こちらが干渉「できる」余地があったのだ。これを機に経済的、外交的圧力を掛けられたら、アメリカ経済は破滅し、国は立ち行かなくなる。
万が一、まかり間違って武力行使の手段にでも出られたら、目も当てられない。
彼の国は隣国なのだ。我が国の十倍以上の軍事力を有する相手と、戦争になど、なるわけがない。
蛇を追い掛けて、虎の尾を踏むとは、まさにこの事だった。大統領は途方に暮れた。
しかし、シュナイハの「当たり前」の要求に、大統領が返せる言葉は、一つしかなかった。
「……イエス。我が国の名誉に掛けて、貴国の国民は裁判の後、仮に有罪であれば罪を償うまで、我が国がその生命の無事を約束し、五体満足で祖国に返すと誓いましょう」
大統領がそう答えた時、大統領執務室にいる全ての職員が、血の気を失っていた。
明らかなトラップだと分かっていながら、それを回避する小細工を一切使わず、恥も外聞もなく「公平な裁判」という正論だけで真正面から向き合ってくるアナスル連合国。
その、打算のない「誠実さ」こそが、最強の外交カードであるという事実に、彼らは改めて絶望していた。




