総理の諦念
太郎が日本から「いなく」なった日。
総理大臣官邸の執務室は、奇妙な静けさと、張り詰めた緊張感に包まれていた。
総理大臣は、アナスル連合国の建国記念日の中継映像が消えたモニターを、苦々しい表情で見つめていた。
もし、仮に。
あの男が、式典が終わった後も、アナスル連合国に留まる事を決めればどうなるか。
日本政府としては、いつ爆発するか分からない「厄介事の種」が、ようやく消えることになる。常に彼の国の顔色を窺い、国民の愚行に怯える日々が終わる。
だが、その一方で。
日本が今享受している莫大な経済的恩恵の全てが断ち切られ、想像を絶する損失を被ることは、火を見るより明らかだった。
もちろん、日本に、太郎の意思決定を左右する権限も権利も、何一つない。
ましてや、日本はそもそも、太郎という存在に対する一切の干渉を認められていなかった。
総理は深く椅子に身を沈めた。
そもそも、あの男がこの国に住み始めてから、日本の「完全なる自治」は失われたのではないか? 我々は、常に崩壊の危機――あの大国の逆鱗に触れるという危機に晒されてきたのではないか?
だが、一方で。
我が国は、破格の享受も得た。今や、日本に悪意を持って干渉しようとする国は皆無となった。国内も、あの「護衛部隊」の暗躍の結果か、異様なまでに穏やかになった。そして何より、未曾有の好景気を得た。
「うむむ……」
どちらに転んでも、茨の道。
思わず、低い唸り声が総理の口から漏れた。
「どうされましたか?」
控えていた秘書官が、その声を聞き咎め、思わず尋ねた。
「いや、何でもない」
総理は、顔の皺を一層深くして、内心の葛藤を押し隠した。
「それより、アナスル連合国の建国記念日への祝辞は、間違いなく届いているかね?」
「もちろんです」
秘書官は、完璧な事務口調で答えた。
「先方からも、丁寧な謝辞が届いております。……また、閣下が『ご帰還』される際の手筈も、前回同様、万全に整えております」
「ご帰還」。その言葉の響きに、総理は微かに眉を寄せた。
「わかった。……下がっていい」
秘書官が音もなく退出すると、執務室に再び重い沈黙が戻った。
総理大臣は、天井を仰いだ。
なるようにしかならないな。
彼は、そう諦めた。
どうしようもないのだから、と。
一国の宰相でありながら、その国の運命が、遠い国にいる一人の男の「自由」という気まぐしれに、完全に握られている。その途方もない無力感を、彼は噛み締めるしかなかった




