英雄の帰還
建国記念日が、三日後に迫っていた。
その日の早朝、太郎は、いつもの上着ではなく、この日のためにミハドが用意した、簡素だが上質なコートを羽織った。
家の外には、あの黒塗りの高級車が停まっていた。傍らには、ミハドが影のように控えている。
太郎が後部座席に乗り込むと、車は音もなく滑り出した。
だが、その先の光景は、日常とは完全に異なっていた。
太郎が乗り込む車が向かう先、その視界には、他の車は一台も存在しなかった。
いつもは渋滞しているはずの交差点も、その先の高速道路も、まるでゴーストタウンのように静まり返っている。
信号は、彼らが通過するタイミングを完璧に把握しているかのように、全てが青だった。
人の影一つ、見当たらない。
それは、普段は日本に対して一切の要求をしないアナスル連合国から、日本政府に対して突き付けられた、ただ一つの明確な「要請」によるものだった。
『我が国の象徴たる太郎閣下に、建国記念日の式典に参加していただく。
ついては、閣下を万全の態勢で、我らの元へ送り出していただきたい。
そのために貴国が生じた全ての犠牲、全ての不都合には、我らが十全の対価を支払う所存である』
文面は丁寧だった。だが、その裏に潜む意志は、鋼鉄よりも硬かった。
英雄の帰還に際して、アナスル連合国はいかなる犠牲も労力も惜しまない。
もし、仮に。
この我々の「誠意」に意を唱え、閣下の御移動を僅かでも邪魔立てするのであれば、我々は、絶対の覚悟を持って事に当たる、と。
その日、太郎が通過する経路、その関連地域の住民には、厳格な外出規制が敷かれた。その対価として、行政からは莫大な額の給付金が、即日振り込まれた。
そして、警察と、その裏にいる暴力組織は、管轄下の全ての不穏分子に対し、この世のものとは思えぬほどの強い警告を与えていた。「今日一日、息をすること以外、何もするな」と。
太郎は、その全てを知ってか知らずか、ただ黙って、防弾ガラスの窓の外を眺めていた。
まるで世界の終わりのように、人気の無い景色を。
傍らのミハドが、静かな、しかし熱を帯びた声で言った。
「貴方の帰りを、皆が待っています」




