影と符牒
土埃が舞った。
少年の一人が放った蹴りが、太郎の背中を捉える。肉を打つ鈍い音ではなく、硬い何かを叩いたような、乾いた音が響いた。
太郎は前のめりに倒れ、無防備な背中を夏の陽光に晒す。
その背には、衣服の下、汗に濡れた皮膚に刻まれた「太陽と黒い星」の双紋が、まるで生きているかのように蠢いていた。
「なんだよ、こいつ。避けもしねえ」
「気味悪い」
暴力は、抵抗の無さによって加速する。
石が投げられ、義足が蹴られ、生身の肩が踏みつけられる。
だが、太郎は呻き声一つ上げなかった。
ただ、土に突っ伏したまま、片目を開き、アリの行列が目の前を横切っていくのを、虚ろに見つめている。
その姿は、打ち捨てられた機械人形のようだった。
その時だった。
少年たちの背後に、陽光を遮る巨大な影が、音もなく落ちた。
まるで、アスファルトの染みからそのまま隆起してきたかのように、一人の男が立っていた。
灼けた肌は、この国のどの光とも馴染まぬほどの深い黒。
膨れ上がった筋肉は、上質なスーツ越しにさえ、その圧倒的な質量を主張している。
ミハドだった。
彼は、ただ腕を組み、そこに立っていた。
その瞳は、少年たちを責めるでもなく、倒れた主人を憐れむでもなく、ただこの場所で起きている「事象」を淡々と観測していた。
その静けさは、嵐の前の大洋の凪よりも不気味だった。
少年たちの一人が、背後に射す視線の圧力に耐えかねたように、ゆっくりと振り返った。
そして、凍りついた。
生物としての本能が、理解不能な「死」の気配を嗅ぎ取った。
「……や、べえ」
一人が呟くと、それは伝染した。彼らは、先ほどまでの威勢が嘘のように、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
物言わぬ巨躯の黒人男性という存在は、彼らの矮小な日常が許容できる恐怖の限界を、遥かに超えていた。
静寂が、蝉の声と共に戻ってくる。
太郎は、ゆっくりと義肢に力を込め、不器用な動作で身を起こした。
服についた土を、指の欠けた左手で無造作に払う。
ミハドが、滑るような歩法で近づいた。
その巨体からは想像もつかないほど、軽い足取りだった。
彼は主人の前に立つと、その厳つい顔に、ほんのかすかな笑みの形を浮かべた。
「お望みとあらば」
その声は、地響きのように低く、それでいて奇妙なほど穏やかだった。
「あの少年たち。その家族、親戚に至るまで、今夜のうちに全て処分いたしますが」
それは、天気の話でもするかのような、軽やかな口調だった。
だが、その言葉が孕む真実の重さを、太郎は知っている。
ミハドは、決して冗談を口にしない。
ただ、彼の「冗談」とは、実行可能な選択肢を、あえて実行しないと決めた時にのみ使われる、彼ら二人だけの符牒に過ぎなかった。




