見えざる頸木
第十八章:見えざる頸木
霞が関の一室。アナスル連合国との調整を担う担当職員は、分厚い報告書から顔を上げられずにいた。
彼の国が今、享受している未曾有の好景気。
それは、決して日本が自力で掴んだものではなかった。
アナスル連合国の国民は、その勤勉さと真面目さにおいて、旧世界のどの労働者をも凌駕していた。
彼らは、広大な領土で完全なる自給自足を達成し、そこで生み出される膨大な余剰作物と資源を、世界各国に驚くべき格安の価格で輸出していた。
世界経済は、良くも悪くも、彼らの「恵み」によって成り立っていた。
そして、太郎が現在暮らしている「日本」には、その中でも破格の取り計らいが行われていた。
不景気に喘いでいたこの島国が息を吹き返し、今や好景気に沸いているのは、ひとえにアナスル連合国が、太郎の「仮住まい」の地に対して、戦略的な恩恵を与え続けているからに他ならなかった。
だが、太郎という存在は、あまりにも規格外過ぎた。
恩恵は、そのまま監視の目となり、見えざる圧力となっていた。
太郎が日本で過ごすようになってから、この国の風景は静かに、しかし決定的に変貌した。
日本の沿岸、その領海の外ギリギリには、アナスル連合軍の巨大空母が、まるで水平線の一部であるかのように、常に鎮座するようになった。
さらに、客観的なデータは、異常な現実を突きつけていた。
この数年で、日本全体で百万人以上、そして太郎の住むあの小さな郊外都市だけで一万人を超えるアナスル国民が、「合法的に」移り住んでいた。
それは、あからさまであった。彼らは、労働者でも難民でもない。
ただ、彼らの「神」の近くに仕えるため、あるいは守るためにやってきた、市民の顔をした護衛だった。
アナスル連合国からの直接的な要求は、何一つない。
書類上、彼らは常に友好的であり、寛大だった。
だが、もし。
もし、あのリフォーム業者のような愚か者が再び現れ、もし、学校のような場所で再びあの御方が侮辱され、万が一、太郎の御身に「何か」があれば。
その瞬間、この日本という国が享受している全ての恩恵は断たれ、空母は牙を剥き、一千万を超える「市民」が蜂起し、この国が瞬く間に崩壊するのは、火を見るよりも明らかだった。
担当職員は、移民統計の書類に目を落としたまま、深く、長い溜息をついた。
どうしようもなかった。
打てる手は、何もない。
彼にできることは、ただ願うことだけだった。
あの不格格好な片目の男が、日本のどこかで、今日も無事に、ただ静かに雑草を抜いていることを。
その日常が、一日でも長く続くことだけを。




