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灼熱の谷の葡萄酒

灼熱の谷の葡萄酒


**序章:エルム渓谷の悠久**


我が名は、オズワルド・ミュラー。ヴァルキア神聖帝国の南西、エルム山脈の奥深くに抱かれた、グリューネ村の村長を、父の代から引き継いで務めている。今年で六十二歳。私の皺だらけの顔は、この土地の灼熱の太陽と、長年飲み続けてきた自家製の葡萄酒によって、赤銅色に焼けている。


ここグリューネ村は、帝国の、そしておそらくは大陸の、あらゆる騒動から忘れ去られた土地だ。峻険な山々に四方を囲まれ、帝都ヴァルハラへと続く主要街道からは、馬車で三日も離れている。夏は、岩肌を焦がすほどの太陽が照りつけ、冬は、穏やかな風が吹く。この痩せた、しかし太陽の恵みを一身に受けた土地で、我々は代々、極上の葡萄酒を造るためのブドウと、良質な油を採るためのオリーブを育て、生計を立ててきた。


我々の暮らしは、悠久の時の流れそのものだ。春に種を蒔き、夏に草を刈り、秋に収穫を祝い、冬は、暖炉の前で、その年の葡萄酒の出来を語り合う。帝都で皇帝が代わろうと、貴族たちが権力争いを繰り広げようと、我々の暮らしは、何一つ変わりはしない。私の口癖は、こうだ。「嵐というものは、頑丈な石造りの家に籠り、過ぎ去るのを静かに待つのが、一番賢いやり方だ」


帝国暦853年の夏。行商人から、帝都で、東のパンドーラ魔法王国との間で、戦争が始まったという報せがもたらされた。村の酒場では、男たちが、その話題で少しばかり盛り上がった。

「パンドーラの魔法使いどもを、帝国の力で懲らしめてやる時が来たんだ!」

「いやいや、魔法は恐ろしいと聞くぞ。下手に手を出さん方がいい」

だが、その程度の関心だった。誰が、どちらが勝とうと、我々の畑のブドウが、それで酸っぱくなるわけでもあるまい。彼らにとって、戦争とは、遠い異国の、おとぎ話のようなものだった。


私もまた、同じだった。私は、村の平和と、この穏やかな営みが、何よりも尊いと信じていた。首都の連中が、彼らの都合で始めた馬鹿げた争いに、このグリューネ村を巻き込むことだけは、断じてあってはならない。私は、村長として、この谷間の楽園を、外の世界の嵐から、断固として守り抜くことを、心に誓った。


その決意が、後に、私自身の魂に、どれほど重い問いを投げかけることになるのか。その時の私は、知る由もなかった。私はただ、今日も変わらず照りつける太陽の下で、豊かに実ったブドウの房を、満足げに眺めていただけだった。


---


**第一章:遠い国の戦火**


戦争が始まってから、二年が過ぎた。帝都ヴァルハラからは、次々と、帝国全土に向けた勅令が発せられた。若者たちへの徴兵令、軍馬や食料といった物資の供出令。それは、帝国臣民としての、当然の義務であった。


しかし、ここグリューネ村では、それらの勅令は、巧みに、そして意図的に、骨抜きにされていった。その中心にいたのが、私、オズワルド・ミュラーだった。


徴兵官が、村にやってきた時、私は、満面の笑みで彼らを迎え、村で一番の葡萄酒と、焼いた羊の肉でもてなした。そして、村の若者たちの名簿を見せながら、こう説明したのだ。

「ご覧の通り、この村は、年寄りばかりでしてな。若者といっても、このルドルフは、うちの村の鍛冶屋のたった一人の跡継ぎで、彼がいなければ、村中の農具が駄目になってしまう。こちらのハインツは、ブドウ畑の管理を一手に担っておりまして、彼が抜けたら、来年の皇帝陛下への献上品のワインが、造れなくなってしまいますなあ」

私は、言葉巧みに、村の若者一人一人が、いかにこの村にとって「必要不可欠な労働力」であるかを説いた。懐に、そっと金貨の入った袋を握らされた徴兵官は、結局、「うーむ、この村から兵士を出すのは、国益にかなわんな」と、満足げに頷いて、帰っていった。


食料の供出令が来た時も、同様だった。私は、村の備蓄倉庫の、わざと底が見える古い台帳を見せ、「いやはや、今年は、夏の干ばつがひどくて、ご覧の有様です。我々が食べる分で、精一杯でして。帝国の皆様には、まことに申し訳ない…」と、涙ながらに訴えた。我々の倉庫が、豊作のおかげで、満杯であることを知りながら。


村人たちは、そんな私を「賢い村長だ」「あんたのおかげで、息子を戦場にやらなくて済んだ」と、口々に褒め称えた。私もまた、自らの知恵で、この村の平和と若者たちの命を守ったのだと、誇らしい気持ちでいた。これは、罪ではない。村を守るための、必要で、賢明な策なのだ、と。


時折、行商人が、帝都の新聞『帝国新報』を、村に持ち込んできた。その紙面には、アデルハイト・フォン・クラウゼヴィッツという、若く美しい女社長の署名で、扇情的な言葉が、毎日のように躍っていた。

「帝国臣民よ、銃を取れ! 邪悪なる魔法文明を、地上から抹殺せよ!」

「我らが英雄、ジークフリート卿の活躍を見よ! 彼の剣こそ、帝国の正義の象徴なり!」


私は、そんな記事を読むたびに、鼻で笑った。

「馬鹿げた話だ。首都の連中は、こんなものを読んで、血を上らせているのか。平和な暮らしを知らん、哀れな奴らだ」

私は、その新聞を、屑籠に放り込むか、あるいは、冬の暖炉の、格好の焚きつけにした。ジークフリートという騎士の、神がかった英雄譚も、私にとっては、酒の席で披露する、笑い話の種でしかなかった。「一人で、三日三晩戦い続けたそうだぞ! まるで、物語の主人公じゃないか!」と。


私は、自分の殻に閉じこもり、外の世界の情報を、自らに都合よく解釈し、あるいは、無視した。そうすることで、私は、自分の選択が正しいのだと、信じ込もうとしていた。遠い国で、どれだけの血が流れようとも、このグリューネ村の、ブドウ畑の緑が、失われることはない。それが、私の信じる、全てだったのだ。


---


**第二章:閉ざされた楽園**


帝国暦855年。西のリーム王国が参戦し、帝国は、建国以来の危機に陥っている、という噂が、風の便りに、この谷間の村にも届いた。帝都ヴァルハラが、パンドーラの魔法で、空襲を受けている、とも。


しかし、そんな危機的な状況も、我々にとっては、どこか他人事だった。我々の頭上には、魔法の火の玉ではなく、ただ、灼熱の太陽が、燦々と降り注いでいるだけだったからだ。


その年の秋、一人の若者が、村に帰ってきた。クラウスという名の、村で唯一、帝国軍に志願した青年だった。彼は、幼い頃から、この閉鎖的な村の暮らしに飽き足らず、帝都の華やかな生活に憧れて、数年前に村を飛び出していったのだ。


彼は、休暇で、一時的に帰郷したのだった。だが、彼の姿は、村を出て行った時の、快活な青年の面影をとどめていなかった。彼は片腕を失い、その目は、何か恐ろしいものを見たかのように、虚ろだった。


村の酒場で、彼は、村人たちに囲まれ、戦争の話をせがまれた。

「おい、クラウス。帝都は、本当に、火の海なのか?」

「英雄のリヒトホーフェン卿には、会ったのか?」


クラウスは、手酌で、葡萄酒を呷ると、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

「…地獄だ。帝都の半分は、瓦礫の山さ。配給に、何時間も並んで、手に入るのは、カビ臭いパンだけ…。俺は、東部戦線にいたが、敵の魔法は、まるで、天災だった。仲間が、目の前で、一瞬で、蒸発していくんだ…」

彼の言葉に、村人たちは、一瞬、静まり返った。だが、すぐに、誰かが、茶化すように言った。

「まあ、お前は、運が悪かったんだな。こんな平和な村に、ずっといればよかったものを」

その言葉に、他の者たちも、同意するように頷いた。クラウスは、それ以上、何も語ろうとはしなかった。ただ、黙って、酒を飲み続けるだけだった。


私も、彼の隣に座り、その肩を叩いた。

「まあ、ゆっくりしていくといい。ここには、戦争も、魔法もない。お前の好きな、母さんのシチューが、腹一杯食えるぞ」

私は、彼を慰めているつもりだった。彼の経験した地獄の重みを、本当の意味で、理解しようとはせずに。私にとって、彼の話は、やはり、対岸の火事の、気の毒な物語でしかなかった。


クラウスが村に滞在している間も、グリューネ村の時間は、穏やかに流れていった。その年は、稀に見るブドウの豊作で、村中が、収穫祭の準備で、活気づいていた。若者たちは、愛を語らい、子供たちは、小川で魚を捕って、はしゃいでいる。


外の世界では、何十万という人々が、死の恐怖に怯え、飢えに苦しんでいるというのに、この村は、まるで、神に守られた、閉ざされた楽園のようだった。そして、私は、この楽園の主として、自らの指導力に、深い満足感を覚えていた。私が、賢明な判断を下し、村人たちを、正しく導いてきたからこそ、この平和があるのだ、と。その平和が、誰かの犠牲の上に成り立つ、脆いガラス細工のようなものであることに、気づこうともせずに。


---


**第三章:平和の代償**


帝国暦857年の秋。戦争が、帝国の勝利で終わった、という報せが、村にもたらされた。


村人たちは、「おお、やっと終わったか」「これで、また、安心して商売ができるな」と、口々に安堵の声を上げた。だが、帝都で起きたという、熱狂的な戦勝祝いのようなものは、この村にはなかった。我々にとっては、ただ、遠い国で起きていた騒ぎが、ようやく静かになった、という程度の認識でしかなかったからだ。


しかし、本当の「戦争」が、このグリューネ村を襲ったのは、皮肉にも、平和が訪れた、その後のことだった。


終戦から、半年が過ぎた頃。帝都から、一人の役人が、数人の測量技師を連れて、村にやってきた。彼は、私に、一枚の勅令を見せた。そこには、こう記されていた。


「帝国の戦後復興事業のため、グリューネ村が所有する、エルムの森の木材を、国家に、全面的に供出することを命ずる。伐採は、帝国直轄の事業として、速やかに、開始されるものとする」


私は、愕然とした。エルムの森は、我々の村の、水源を守る、生命線だ。それを、根こそぎ伐採するというのか。

「お待ちください! この森は、我々の…!」

「村長殿。これは、皇帝陛下直々のご命令です。戦時中、貴村が、帝国臣民としての義務を、十分に果たしてこられなかったことは、我々も、承知しております。これは、その、埋め合わせ、とでも、お考えくださればよい」

役人は、冷たい目で、そう言い放った。


私は、何も言い返すことができなかった。戦時中、私が、あれほど誇っていた、「賢明なる策」が、今になって、巨大なブーメランとなって、我々に返ってきたのだ。これは、ごまかしの効かない、国家権力による、直接的な介入だった。


そして、追い打ちをかけるように、第二の「嵐」が、村を襲った。帝都の、戦災孤児たちが、養育先として、数十人単位で、この村に送られてくることになったのだ。


ある日、数台の幌馬車が、村の広場に到着した。荷台から降りてきた子供たちの姿を見て、村人たちは、息を呑んだ。彼らは、皆、栄養失調で、痩せこけ、その瞳には、年不相応な、深い絶望と、不信の色が、浮かんでいた。彼らは、我々が、豊かな食卓を囲み、葡萄酒を酌み交わしている間に、親を失い、家を焼かれ、飢えに苦しんできた子供たちだった。


彼らの存在は、この村の、穏やかで、調和の取れた空気に、静かな、しかし、深刻な波紋を広げた。村人たちの間に、戸惑いと、反発の声が、上がり始めた。

「なぜ、我々が、こんな、薄汚い子供たちの、面倒まで見なければならんのだ」

「戦争に行ったのは、我々じゃない。首都の連中の、勝手じゃないか」


彼らの不満は、村長である、私に向けられた。私は、村人たちの突き上げるような視線と、心を閉ざした孤児たちの、物言わぬ瞳の間で、板挟みとなり、苦悩した。


私が、必死で守り抜いたと信じていた、この村の平和。その、本当の「代償」を、我々は、今、まさに、支払わされようとしていたのだ。


---


**第四章:村長の罪と罰**


日々は、重苦しい緊張の中で、過ぎていった。エルムの森では、帝国直轄の作業員たちによる、樹々の伐採が、容赦なく進められていた。村に送られてきた孤児たちは、誰とも口をきかず、ただ、怯えた小動物のように、身を寄せ合っていた。村人たちは、そんな彼らを、遠巻きにし、腫れ物に触るように扱った。


私は、村長として、この状況を、どうすることもできずにいた。村人たちの不満も、孤児たちの悲しみも、痛いほど分かる。だが、その両者を、結びつける言葉を、私は、何一つ、見つけられずにいたのだ。


そんなある日の夕暮れ。私は、村の広場のベンチで、一人、頭を抱えていた。そこに、一人の少女が、おずおずと、近づいてきた。年の頃は、十歳くらいだろうか。帝都から送られてきた、孤児の一人だった。彼女は、私の前に立つと、一冊の、古びた本を、黙って差し出した。


「…なんだね、これは?」

少女は、答えなかった。ただ、その本を、私に読んでほしい、というように、じっと、私を見つめているだけだった。


私は、ため息をつきながら、その本を受け取った。表紙には、『ヴァルハラの手記』と、記されていた。著者は、エーリヒ・シュルツ、という、聞いたこともない名前だった。


私は、何気なく、そのページを、めくり始めた。それは、帝都で、パン屋を営んでいたという、一人の老人が、戦時中の五年間を、淡々と綴った、日記だった。


私は、読んでいくうちに、言葉を失った。


そこには、私が、豊作を祝って、村人たちと、宴会を開いていた、まさにその同じ日に、帝都の人々が、木の皮をかじり、草の根を煮て、飢えをしのいでいたことが、記されていた。

私が、クラウスの話を、他人事のように聞いていた、まさにその同じ時期に、帝都の親たちが、我が子を、戦場や、軍需工場へ、断腸の思いで、送り出していたことが、記されていた。

私が、酒の肴に、笑い飛ばしていた、あの「白銀の英雄」ジークフリートが、血反吐を吐きながら、文字通り、その身を盾にして、国を守っていたことが、記されていた。


一ページ、また一ページと、読み進めるうちに、私の手は、小刻みに震え始めた。


私は、何という、勘違いをしていたのだろう。


私が、守り抜いたと信じていた、このグリューネ村の「平和」。それは、断じて、私の知恵や、努力によって、もたらされたものではなかった。それは、この手記に書かれている、名もなき人々、そして、私が笑い飛ばした英雄たちの、想像を絶する、犠牲と、苦しみの、 바로上 に、偶然、成り立っていた、ただの「幸運」に過ぎなかったのだ。


私は、村を守ったのではない。帝国という、一つの、大きな家が、燃えている時に、自分の部屋にだけは、火が入ってこないようにと、ドアに鍵をかけ、同胞たちの、助けを求める声から、耳を塞いでいただけの、ただの、卑劣な、臆病者だったのだ。


雷に打たれたような、衝撃だった。六十二年間、積み上げてきた、私の人生そのものが、その価値観が、根底から、覆された。胸の奥から、熱いものが、こみ上げてくる。それは、深い、深い、罪悪感の塊だった。


その夜、私は、村人たちを、広場に集めた。そして、私は、生まれて初めて、大勢の前で、自らの過ちを、認めた。


私は、震える声で、『ヴァルハラの手記』の一節を、読み上げた。そして、こう言ったのだ。

「…諸君。我々は、間違っていた。我々は、同胞の苦しみから、ただ、目を背けていただけだった。この村の平和は、我々が、自らの手で、勝ち取ったものではない。ただ、幸運にも、与えられていただけのものだ。そして、今、我々は、その代償を、支払う時が来たのだ」


村人たちは、静まり返っていた。誰もが、私の言葉に、そして、私が読んだ、手記の言葉に、打ちのめされていた。


「我々は、彼らの犠牲の上に、生きてきた。ならば、我々が、今、すべきことは、一つしかない。彼らが、守ろうとした、この国の未来を、今度は、我々の手で、育んでいくことだ。この、子供たちと共に」


私は、広場の隅で、固まっていた、孤児たちの集団を、まっすぐに見つめた。

「彼らは、もはや、帝都の孤児ではない。この、グリューネ村の、我々の、子供たちだ」


それが、私の、そして、この村の、本当の意味での、戦後の、始まりだった。


---


**後日談:芽吹きの葡萄酒**


私の、あの夜の告白の後、グリューネ村は、少しずつ、だが、確かに、変わり始めた。


もちろん、すぐに、全てが、うまくいったわけではない。長年、閉鎖的な環境で生きてきた村人たちと、心を閉ざした孤児たちの間には、見えない壁があった。だが、村の女たちが、孤児たちに、温かいシチューを根気よく振る舞い、男たちが、不器用ながらも、遊びを教えていくうちに、その壁は、ゆっくりと、溶けていった。子供たちの、凍てついていた瞳に、少しずつ、光が戻り始めたのだ。


我々は、エルムの森の木材が、帝国の復興のために、伐採されていくのを、ただ、黙って見守った。それは、もはや、不当な収奪ではなく、我々が、果たすべき、当然の「贖罪」だと、誰もが、理解していたからだ。


そして、我々は、伐採された跡地に、新たな、ブドウの苗を、植え始めた。それは、村の子供たちと、孤児たちが、一緒になって、行う、初めての、共同作業だった。泥だらけになりながら、笑い合う子供たちの姿を見て、村人たちの顔にも、以前とは違う、深く、そして、優しい笑みが、浮かぶようになっていた。


グリューネ村は、以前のような、閉ざされた、自己満足の楽園ではなくなった。傷つき、失われたものを、抱えながらも、互いに支え合い、未来に向かって、歩み出す、真の「共同体」へと、生まれ変わりつつあったのだ。


終戦から、十年が過ぎた。

村に、一人の、風変わりな旅人が、ふらりと、立ち寄った。年の頃は、六十前後だろうか。身なりは良いが、その瞳には、全てを見透かすような、冷徹な光と、同時に、何かを探し求めるような、深い孤独の色が、浮かんでいた。彼は、サイラス・ヴェーンと、名乗った。


私は、村長として、彼を、我が家へと招き、もてなした。彼は、大陸中を、放浪しているのだという。彼は、多くを語らなかったが、私は、彼が、ただの旅人ではないことを、直感していた。彼からは、金と、血と、そして、深い悔恨の匂いがした。


その夜、私は、彼に、一本の葡萄酒を、差し出した。

「これは、今年、初めて、瓶詰めされた、新しいワインです。十年前に、あの、子供たちと、一緒に植えた、ブドウから、造ったものです」

私は、この十年間、村で起きたことを、静かに、語って聞かせた。


サイラスと名乗る男は、黙って、私の話に、耳を傾けていた。そして、グラスに注がれた、深紅の液体を、ゆっくりと、口に含んだ。


彼は、しばらく、その味を、舌の上で、転がすように味わうと、ただ、一言、こう呟いた。


「…悪くない、味だ」


その言葉には、何の感情も、こもっていないように聞こえた。だが、私には、その短い言葉の中に、彼の、万感の思いが、込められているように感じられた。


私は、静かに、微笑んだ。

我々の、この、ささやかな贖罪の葡萄酒が、もしかしたら、この、大陸で、最も罪深い魂を持つ男の、乾ききった心にさえ、一滴の潤いを、与えることができたのかもしれない、と。


旅人は、翌朝、誰にも告げずに、村を去っていった。


私は、彼が去っていった道を、しばらく見つめた後、あの、新しいブドウ畑へと、足を向けた。そこでは、かつての孤児たちが、今や、たくましい若者へと成長し、村の若者たちと、一緒に、汗を流していた。


嵐は、遠くで待つものではなかった。

嵐が過ぎ去った、荒れ果てた大地に、立ち、自らの手で、新たな種を蒔き、育んでいくこと。


それこそが、私が、この、六十余年の人生の、最後に、ようやく見つけ出した、本当の意味での、「村を守る」ということだったのだ。


灼熱の谷の太陽が、芽吹いたばかりの、若々しいブドウの葉を、黄金色に、照らし出していた。

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