黄金の天秤、あるいは錆びた心
黄金の天秤、あるいは錆びた心
**序章:黄金の天秤**
私の名は、サイラス・ヴェーン。自由都市ロロスに拠点を置く、ヴェーン商会の会頭だ。人は私を「死の商人」と呼ぶ。あるいは「戦争のハイエナ」とも。私は、どちらの呼び名も、特に気にしてはいない。それは事実の一面に過ぎず、そして、彼らの感傷的な道徳観が生み出した、意味のないレッテルだからだ。
私の執務室の壁には、魔法技術でリアルタイムに更新される、巨大な大陸地図が飾られている。私は、その地図を眺めながら、最高級の葉巻を燻らせ、ブランデーを嗜むのが日課だ。帝国暦853年、春。地図上の、ヴァルキアとパンドーラという二つの領域が、不吉な赤色で明滅を始めた時、私の口元には、自然と笑みが浮かんだ。
多くの人々は、戦争を悲劇と呼ぶ。正義と悪の戦いだと信じる。愛国心やイデオロギーのために、喜んで命を投げ出す。私に言わせれば、その全てが、壮大な欺瞞であり、自己陶酔に過ぎない。
歴史を動かすもの。それは、正義でも、神でも、愛でもない。ただ一つ、利害だ。富と、権力と、資源を巡る、剥き出しの欲望。それこそが、人類史を貫く、唯一不変の真理なのだ。そして、私は、その真理を誰よりも深く理解し、利用する術を心得ている。
私は、戦争をビジネスとして捉えている。ヴァルキアの掲げる「神聖なる秩序」も、パンドーラの謳う「魔法の自由」も、私にとっては、顧客に商品を売り込むための、魅力的なキャッチコピーにしか聞こえない。私の仕事は、彼らの「物語」に必要な「小道具」――剣や、鎧や、魔法の触媒――を、公平に、そして適正な価格で、供給することだ。私の天秤は、常に黄金で均衡を保っている。どちらの皿が重くなろうと、私の利益が揺らぐことはない。
この徹底した現実主義は、私の出自に起因する。私は、かつて大陸の片隅で起きた、小国の紛争で、全てを失った戦災孤児だった。「正義」を叫ぶ兵士たちが、私の村を焼き、父を殺し、母を陵辱した。私は、瓦礫の下で、悟ったのだ。この世界に、神などいない。いるのは、奪う者と、奪われる者だけだ。そして、私は、二度と奪われる側にはならないと、固く誓った。
私は、自らの才覚だけを頼りに、この地位までのし上がってきた。今や、私の富は、小国の国家予算を凌駕し、その影響力は、各国の宮殿の奥深くにまで及んでいる。
赤く明滅する大陸地図を眺めながら、私は、新たなビジネスの計画を練り始めた。ヴァルキアには、伝統的な、高品質の鋼鉄を。パンドーラには、魔法の威力を増幅させる、希少な魔力合金を。私は、この戦争で、過去最大級の利益を上げることになるだろう。兵士たちが流す血は、私にとっては、黄金を鋳造するための、溶鉱炉の炎に過ぎなかった。
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**第一章:双方向への投資**
開戦と同時に、私の商会は、かつてないほどの活況を呈した。
ヴァルキア帝国からは、兵士百万人が装備するに足る、剣、槍、そして鎧の大量発注が舞い込んだ。私は、大陸中の鉄鉱山と工房を、密かに築き上げたネットワークを通じて支配下に置いていたため、この巨大な需要に、独占的に応えることができた。帝国の軍需大臣とは、長年の「友人」だ。彼の愛人が好む宝石を、定期的に「贈り物」として届けるだけで、入札は常に、私の商会に有利に進んだ。
一方、パンドーラ魔法王国からは、高純度の魔力結晶や、魔法の指向性を高めるための希少金属の供給依頼が、秘密裏にもたらされた。私は、中立国の地質学者を買収し、まだ知られていない鉱脈の情報を独占していた。パンドーラの魔法研究者たちは、私の提示する法外な価格に顔をしかめながらも、他に選択肢はなく、国庫の金銀を私の金庫へと移し続けた。
私のビジネスの真髄は、この「双方向への投資」にある。私は、どちらか一方の国が、早々に勝利することを望まない。戦争が長引き、両国が互いに消耗し、憎悪を募らせるほど、私の天秤に載せられる黄金の重みは、増していくのだ。
私は、両国に派遣した情報員から送られてくる報告を、注意深く分析した。帝国の新聞『帝国新報』も、毎日取り寄せている。社長であるアデルハイト・フォン・クラウゼヴィッツという若い女の、扇情的で、毒に満ちた文章は、私にとって極上のエンターテイメントだった。彼女のような狂信的な愛国者が、国民の憎悪を煽ってくれるおかげで、私のビジネスは、安泰なのだ。彼女は、自らが帝国の世論を導いていると信じているだろうが、私から見れば、私の利益のために、最も効率よく働いてくれる、無償のセールスレディに過ぎなかった。
もちろん、このビジネスには、常に危険が伴う。私の船団は、中立国の旗を掲げているが、時には、臨検を試みる巡視艇や、海賊の襲撃に遭うこともあった。だが、それも計算のうちだ。船長たちには、十分な賄賂を持たせ、船には、最新式の自衛用魔道具を搭載させてある。多少の損失は、必要経費だ。重要なのは、全体の利益を最大化すること。それだけである。
私は、ロロスの執務室で、大陸の混乱を、まるで神の視点から眺めるように、楽しんでいた。ヴァルキアの将軍の焦り、パンドーラの研究者の絶望、そして、アデルハイトの狂信。それら全てが、私の黄金の天秤を、心地よく揺らす、美しい音楽のように聞こえていた。
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**第二章:第三の顧客**
帝国暦855年、春。私の大陸地図に、新たな変化が現れた。西のリーム王国が、赤く点滅を始めたのだ。彼らは、ヴァルキア帝国に、宣戦を布告した。
「素晴らしい…」
私は、思わず声に出して、その見事なタイミングを賞賛した。リームの下院議長、ギデオン・ヴァロワ。彼の噂は、かねてから耳にしていた。冷徹な現実主義者で、国益のためなら、いかなる手段も厭わない男。私と、よく似た種類の人間だ。
私は、彼の動きを、完璧に予測していた。そして、彼が、必ずや、私の元へ接触してくることも。
案の定、数日後、ヴァロワの密使と名乗る男が、私の商会を訪れた。私は、彼を、人払いをさせた執務室へと通した。
「ヴェーン会頭。我が主、ギデオン・ヴァロワは、あなたとの取引を望んでおられる」
密使は、単刀直入に切り出した。
「ほう。私から、何をお望みかな?」
「ヴァルキア軍を、迅速に駆逐するための、最新の兵器を。例えば、帝国の分厚い鎧を容易に貫通する、特殊な弩や、城壁を破壊するための、新型の魔法爆弾など…」
私は、笑みを浮かべた。ヴァロワは、短期決戦で、帝国の西側を切り取り、最小限のコストで、最大限の利益を得ようとしている。その思考は、実に合理的で、好感が持てた。
「よろしいでしょう。ただし、お支払いいただく代金は、金のみ。そして、現在、私がヴァルキアやパンドーラと取引している価格の、三割増しで、お引き受けいたしましょう」
「なっ…! それは、あまりに法外な…!」
「お気に召しませんかな? でしたら、この話はなかったことに。もっとも、あなた方が、その旧式の装備で、帝国の『白銀の英雄』殿と渡り合えるのであれば、の話ですがね」
私は、わざと、ジークフリートの名を口にした。彼の存在は、すでに、リームの侵攻を遅滞させる、最大の要因となっている。ヴァロワは、喉から手が出るほど、彼の突破力を無効化する手段を欲しているはずだ。
密使は、唇を噛み締め、しばらく沈黙した後、深々と頭を下げた。
「…承知、いたしました。その条件で、契約を」
こうして、私は、第三の、そして、最も「話の分かる」顧客を手に入れた。私のビジネスは、さらに複雑化し、そして、さらに利益を生む、新たなステージへと突入した。
私は、三つの国に、それぞれ異なる兵器を売り渡した。ヴァルキアには、リームの騎兵に対抗するための、長大な槍を。パンドーラには、帝国の攻城兵器を遠距離から破壊するための、改良型魔法を。そして、リームには、約束通り、帝国の重装歩兵に対抗するための、特殊兵器を。
私は、三つの国の軍事バランスを、巧みにコントロールした。どの国も、決定的な優位に立てないように。戦争という名の泥沼が、より深く、より長くなるように。それは、まるで、三頭の猛獣を、同時に手なずけるような、スリリングなゲームだった。私の金庫は、もはや、溢れかえる金貨で、扉が閉まらなくなるほどだった。私は、この大陸の、影の支配者となったのだ。そう、信じていた。
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**第三章:神々のゲーム盤**
私の富と影響力は、もはや、私自身でさえ、その全容を把握できないほどに、膨れ上がっていた。私は、自由都市ロロスで、王宮と見紛うほどの豪邸を建て、毎夜のように、贅を尽くした宴を開いた。大陸中から、美しい女たちと、才能ある芸術家たちが、私の歓心を得ようと集まってきた。
私は、象牙の椅子に座り、彼らの繰り広げる退廃的な饗宴を、冷めた目で見つめていた。彼らが私に向ける賞賛も、媚びも、私にとっては、何の意味も持たなかった。彼らは、私の黄金に群がっているだけだ。そのことを、私は、誰よりもよく知っていた。
私が、唯一、興味を惹かれたのは、戦場から届く、生の報告書だけだった。そこには、人間の欲望、恐怖、愚かさ、そして、稀に、私の理解を超えた行動が、生々しく記録されていたからだ。
特に、ヴァルキアのジークフリート卿の動向は、私にとって、最高の娯楽となった。私は、彼を、英雄だなどとは、微塵も思っていなかった。私から見れば、彼は、極めて効率の悪い、しかし、非常に興味深い、戦闘マシーンに過ぎなかった。彼は、名誉や忠誠心といった、非合理的な感情に突き動かされ、自らの命を危険に晒し続けている。その姿は、滑稽でさえあった。
だが、彼の存在が、戦争の行方を、大きく左右していることも、また事実だった。彼は、私のビジネスにとって、予測不可能な、厄介な変数となりつつあった。私は、彼という「駒」を、どう扱うべきか、思案した。彼を排除することも可能だったかもしれない。だが、それでは、ゲームがつまらなくなる。私は、彼を、生かしておくことにした。彼の存在が、戦争を、より面白く、そして、より長引かせてくれるだろうからだ。
私の傲慢さが、頂点に達していた、その頃だった。私の完璧なゲーム盤に、初めて、私自身の血が、滴り落ちる事件が起きた。
パンドーラ魔法王国の秘密諜報部が、私の暗殺を企てたのだ。彼らは、私がヴァルキアに兵器を供給していることを突き止め、私を排除することで、帝国の継戦能力を奪おうと考えたらしい。実に、短絡的で、感情的な発想だった。
ある夜、私が、愛人の一人と、寝室で過ごしていると、窓の外から、音もなく、数人の暗殺者が侵入してきた。彼らは、魔法で姿を消し、気配を殺していた。常人であれば、気づくことさえできずに、命を落としていただろう。
だが、私は、常に、最悪の事態を想定している。私の屋敷には、莫大な金を投じて、最新の対魔法結界と、自動迎撃システムが、張り巡らされていた。暗殺者たちが、私に刃を向けるよりも早く、壁から放たれた無数の光の矢が、彼らの体を貫いた。
私は、返り血を浴びながら、床に転がる死体を見下ろした。愛人は、隣で、悲鳴を上げて気絶している。私は、初めて、死を、すぐ間近に感じた。そして、それは、私に、言いようのない屈辱感を与えた。
これまでは、私は、常に、神の視点から、ゲーム盤を眺めるプレイヤーだった。だが、この瞬間、私は、自らが、ゲーム盤の上の、狙われる駒の一つに過ぎないことを、思い知らされたのだ。私の築き上げた、完璧な安全と、絶対的な支配の感覚が、音を立てて崩れ始めた。私の心に、これまで感じたことのない、微かな、しかし、確かな「恐怖」という感情が、芽生えていた。
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**第四章:計算外の変数**
あの暗殺未遂事件以来、私の心には、ある変化が生じていた。それは、自らが眺めている「ゲーム」の、生々しい現実に対する、病的なまでの好奇心だった。私は、もはや、遠いロロスから、報告書を眺めているだけでは、満足できなくなっていた。私は、この目で、確かめたくなったのだ。人間たちが、私の供給した兵器で、どのように殺し合い、そして、どのような顔で死んでいくのかを。
帝国暦857年、夏。私は、狂気としか思えない、人生最大の賭けに出ることを決意した。パンドーラ軍が、ヴァルキアの首都ヴァルハラに、最後の総攻撃をかける、という情報を掴んだのだ。私は、その直前に、ヴァルハラに潜入することにした。表向きの目的は、帝国の高官と、戦後の復興事業に関する、極秘の契約を結ぶため。だが、真の目的は、この戦争のクライマックスを、特等席で観戦することだった。
偽の身分を使い、多額の賄賂をばらまいて、私は、包囲される寸前のヴァルハラへと、滑り込んだ。
私が足を踏み入れた帝都は、まさに、地獄の様相を呈していた。空は、絶えず、敵の魔法攻撃で不気味に明滅し、建物の多くは、無残な瓦礫と化している。道行く人々の顔は、飢えと疲労で、土気色だった。私がロロスで読んでいた、『帝国新報』の勇ましい記事とは、あまりにもかけ離れた光景。アデルハイトが描き出した、あの美しく、誇り高い帝都は、どこにも存在しなかった。
私は、潜伏先として確保していた、廃墟ビルの最上階から、街の様子を観察した。そこで、私は、私の合理的な思考では、到底、理解できない光景を、いくつも目の当たりにすることになる。
私は見た。老人や、まだ少年としか思えない若者たちが、錆びついた銃や、農具を手に、バリケードに籠って、敵を待ち構えている姿を。彼らの顔には、恐怖の色はあったが、それ以上に、何かを守ろうとする、頑なな決意が宿っていた。彼らは、イデオロギーや、国家のために戦っているのではなかった。ただ、自らの家を、家族を、隣人を守るためだけに、そこに立っているのだ。それは、あまりにも非効率で、無謀な行為だった。
私は見た。街角の、半壊した小さなパン屋が、空襲の合間を縫って、懸命にパンを焼き、人々に分け与えている姿を。その店の主人は、疲れきった顔で、しかし、穏やかな笑みを浮かべていた。こんな極限状況で、利益にもならないパンを焼くことに、一体、何の意味があるというのだ。
そして、私は見た。最後の首都防衛戦で、城壁の上に立つ、ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン卿の姿を。遠眼鏡で捉えた彼の顔は、英雄のそれではなかった。それは、自らが、これから奪うであろう多くの命と、そして、自らが、守りきれなかった多くの命の重みに、深く、深く、苦悩する、一人の青年の顔だった。
これらは、何だ?
私の世界観を、根底から揺さぶる、理解不能なデータが、次々と私の脳に流れ込んでくる。自己犠牲、博愛、共同体への帰属意識、名誉。これらは、全て、私が、弱者が作り出した幻想だと、切り捨ててきたものたちだ。だが、今、私の目の前で、それらの「幻想」が、帝国という巨大な国家を、崩壊の淵から支えている。
私の、黄金の天秤では、決して、計ることのできない、重さ。
私の、冷徹な計算では、決して、導き出すことのできない、変数。
私の、完璧だと思っていた世界観に、大きな、大きな、穴が開いた。その穴から、これまで感じたことのない、途方もない混乱と、そして、ある種の畏怖の念が、吹き込んできた。私は、ただ、呆然と、その光景を、見つめ続けることしかできなかった。
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**第五章:勝利と空虚**
戦争は、帝国の、信じがたい逆転勝利で、幕を閉じた。
私が、ヴァルハラ潜入という、命がけの賭けで結んだ、戦後復興事業の契約は、帝国が戦勝国となったことで、莫大な利益を生むことが、確定した。私は、この戦争で、最大の勝利者となったのだ。私の富は、もはや、私の子孫が、何代にもわたって、贅沢の限りを尽くしても、使い果たせないほどの額に、達していた。
私は、混乱が収まった帝都を抜け出し、自由都市ロロスへと、凱旋した。私の商会の者たちは、会頭の無事の帰還と、空前絶後の利益を、熱狂的に祝福した。
私は、豪邸の、あの象牙の椅子に、再び腰を下ろした。机の上には、天文学的な数字が並んだ、利益計算書が置かれている。私は、このゲームに、完璧に、勝利したのだ。
しかし。
私の心に、あの、ヴァルハラで感じた、途方もない混乱の余韻が、奇妙な静寂となって、広がっていた。以前のように、数字を眺めて、悦に入ることは、もはやできなかった。あの、ブランデーの味も、葉巻の香りも、どこか、色褪せて感じられた。
私は、勝った。しかし、その先に、何があるというのだ?
これまでは、ゲームそのものが、私の人生の目的だった。より多くの金を稼ぎ、より大きな影響力を持ち、より巧みに、人々を、国家を、操る。その、スリリングな過程こそが、私の全てだった。
だが、ゲームは、終わってしまった。そして、私は、そのゲームの盤上で、私の理解を超えた、「何か」を見てしまった。
パン屋の老人の、穏やかな笑顔。
故郷を守ろうとした、名もなき市民たちの、決意に満ちた瞳。
英雄の仮面の下で、深く苦悩していた、青年の横顔。
それらの光景が、私の脳裏に、焼き付いて離れない。彼らを動かしていた、あの、非合理的で、非効率な、しかし、燃えるように強烈な力の正体は、一体、何だったのだろうか。
私は、初めて、自らの人生の、完全な空虚さに、直面していた。黄金の山の上に、一人、ぽつんと座っている。その黄金で、何が買えるというのだ? あのパン屋の主人が感じていたであろう、ささやかな満足感を、買うことができるのか? あの青年が、守ろうとしたものの、ひとかけらでも、手に入れることができるのか?
答えは、否だ。
私は、全てを手に入れた。そして、その結果、自分が、最も重要な、何もかもを、持っていなかったことを、思い知らされたのだ。
勝利の美酒は、砂のように、ざらついて、何の味もしなかった。私の心は、まるで、砂漠のように、乾ききっていた。
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**後日談:一斤のパンの重み**
終戦から、七年の歳月が流れた。
私は、ヴェーン商会の実務を、後継者に譲り、半ば、隠居したような生活を送っていた。もちろん、私が、この大陸で、最も裕福な男であることに、変わりはない。だが、私は、もはや、武器を扱うことは、一切やめてしまった。あの、黄金の天秤は、今は、屋敷の倉庫で、静かに埃をかぶっている。
私は、この七年間、ずっと、答えを探し続けていた。あの、ヴァルハラの城壁の中で、私を打ちのめした、あの「何か」の正体を探して。私は、学者を雇い、歴史や、哲学や、宗教に関する、あらゆる書物を、読ませた。だが、そこに、答えはなかった。
私は、旅に出ることにした。身分を隠し、一人の、裕福な初老の旅人として、かつて、私が、間接的に、あるいは直接的に、破壊し、そして、富の源とした、土地を巡る旅に。
私は、没落したリーム王国を訪れた。そこでは、ギデオン・ヴァロワという政治家の愚かさが、今も、人々の暮らしに、重い影を落としていた。
私は、復興しつつある、パンドーラにも足を運んだ。そこでは、「復興の聖女」と呼ばれるエリアーヌという女性が、魔法を、人々の生活のために役立て、多くの尊敬を集めていた。
私は、帝国の新聞を、今も、時折読んでいる。かつて、あれほど扇情的だった『帝国新報』が、今では、大陸の和解を訴える、真摯な記事を、掲載していることに、密かな驚きを感じていた。その紙面からは、アデルハイトという女社長の、苦しい、贖罪の決意が、透けて見えるようだった。
そして、私の旅は、最終的に、あの場所へと、たどり着いた。
帝都ヴァルハラ。
街は、見違えるように、復興していた。だが、私の記憶の中にある、あの、極限状況下の光景は、昨日のことのように、鮮やかだ。私は、あの日、潜伏していたビルから見た、あのパン屋を探した。
店は、あった。以前よりも、少し立派になって、だが、確かに、そこにあった。店の名は、『シュルツのパン屋』。
私は、意を決して、その店の扉を開けた。カラン、と、心地よい鈴の音が鳴る。店内は、焼きたてのパンの、温かく、香ばしい匂いで、満ち溢れていた。それは、私が、これまでの人生で、一度も、嗅いだことのない、生命力に満ちた匂いだった。
カウンターの中には、一人の老人が、穏やかな笑みを浮かべて、立っていた。エーリヒ・シュルツ。彼の顔を、私は、覚えていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなものを」
私は、言葉に詰まりながら、棚に並んだ、何の変哲もない、一斤のライ麦パンを、指差した。
「…これを、一つ」
「はい、毎度ありがとうございます」
老人は、手際よく、パンを紙袋に入れると、私に手渡した。その時、彼の、節くれだった、力強い手が、私の目に映った。その手は、長年、パン生地をこね、多くの人々の腹を満たしてきた、正直な手だった。
私は、パンを受け取り、代金を支払った。そして、店を出た。
私は、近くの広場のベンチに座り、まだ、温かい、そのパンを、袋から取り出した。ずっしりとした重みが、手に伝わる。
私は、この手で、何千、何万という人間を、死に追いやるための、兵器を取引してきた。私の手は、見えない血と、涙に、まみれている。
だが、目の前にある、この一斤のパンは、ただ、人を、生かすためだけに、作られたものだ。
私は、そのパンを、一口、ちぎって、口に含んだ。素朴で、力強い、小麦の味が、口の中に広がった。それは、私が、これまで味わってきた、どんな高級料理よりも、深く、そして、滋味深い味がした。
涙が、あふれてきた。
私は、このパンの、本当の価値を、理解するために、これほどの、遠回りをしてきたのだ。
このパンの、この、ずっしりとした重み。それは、一つの、誠実な人生の、重みそのものだった。
私は、私が、生涯をかけて積み上げてきた、あの、空虚な黄金の山よりも、この、たった一斤のパンの方が、はるかに、重く、そして、尊いことを、ようやく、悟ったのだ。
私の旅は、まだ、終わらないだろう。私の魂が、完全に、救われる日が来るのかも、分からない。
だが、私は、今、確かに、一つの答えを、手にしている。
この、一斤のパンの重みを、忘れない限り、私は、もう、道に迷うことはないだろう。
私は、残りのパンを、一口、また一口と、ゆっくりと、噛みしめた。まるで、失われた、自らの人生を、取り戻すかのように。
ヴァルハラの空は、どこまでも、青く、澄み渡っていた。