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帝国の薔薇はインクに濡れて

帝国の薔薇はインクに濡れて


**序章:鋼鉄の言霊**


私の名は、アデルハイト・フォン・クラウゼヴィッツ。二十六歳にして、ヴァルキア神聖帝国で最も影響力のある日刊紙、『帝国新報』の発行人兼社長を務めている。煌びやかなシャンデリアが下がる社長室の、黒檀のデスクに座る私を、人々は囁きあう。曰く、その金髪は溶かした金貨のようであり、その青い瞳は凍てついた湖のようだ、と。曰く、彼女の美貌は女神の如く、そのペン先は将軍の剣よりも鋭い、と。


彼らは私の外面しか見ていない。この若さで、一介の下級貴族の娘が、いかにして帝国の世論を動かすほどの地位に上り詰めたのか。その理由を、彼らは知りもしない。私の原動力、それは、帝国への揺るぎない愛国心と、そして、パンドーラ魔法王国への骨の髄まで染み込んだ、消えることのない憎悪である。


私が十歳の頃、父は帝国の地方官吏として、パンドーラとの国境地帯に赴任していた。穏やかで、書物を何よりも愛した父。そんな父が、ある日、王国の魔道士が越境して行った「実験」と称する魔法の暴発事故に巻き込まれ、無残な姿で発見された。帝国政府は、事を荒立てるのを恐れ、これを「不慮の事故」として処理した。王国の謝罪も、賠償も、何一つなかった。母は心労から病に倒れ、その数年後に父の後を追うように亡くなった。


あの時、私は誓ったのだ。この非情な現実を、力で覆してやると。父を殺し、母を奪った、あの忌ましき魔法文明を、この地上から根絶やしにしてやると。そして、弱腰な外交で帝国の誇りを汚す、腐敗した国内の勢力をも、一掃してやると。


私は、亡き父が遺したわずかな資産と、クラウゼヴィッツの家名、そして神が与えたもうたこの容姿と文才の全てを武器にした。小さな出版社を買い取り、『帝国新報』と名付けた。私のペンは、国民の心に眠る帝国への誇りと、魔法への潜在的な恐怖を、巧みに掘り起こしていった。


「見よ、東の蛮族の所業を! 彼らの魔法は神の摂理に反する邪悪な術であり、我々人類の文明を脅かす疫病である!」

「帝国の獅子は眠っているのではない! 寛大なる皇帝陛下は、彼らに反省の機会を与えておられるのだ。だが、その慈悲を仇で返すならば、我らは鉄槌を下すのみ!」


私の社説は、炎のように国民の間に広まった。私の言葉は、人々の心を掴み、一つの方向へと導いていった。私は、言葉が持つ力を信じていた。正しく、強く、美しい言葉は、どんな軍隊よりも雄弁に、国家を動かすことができるのだ、と。


帝国暦853年、春。帝都ヴァルハラの空気は、私の望んだ通りに、熱く、好戦的なものへと変わっていた。人々は私の新聞を手に、パンドーラへの強硬策を叫んでいた。開戦は、もはや時間の問題だった。


私は、社長室の窓から、夕日に染まる帝都を見下ろした。これから始まるのは、ただの戦争ではない。これは、私の、そして帝国の、正義を証明するための聖戦なのだ。私のペン先から放たれる鋼鉄の言霊が、この国を勝利へと導くだろう。私は、その輝かしい未来を信じて、疑わなかった。


---


**第一章:英雄の創造主**


開戦の報は、私にとって祝砲の響きにも似ていた。『帝国新報』は、その日の朝刊の一面トップに、私が自ら書き上げた扇情的な見出しを掲げた。


「神聖帝国の鉄槌、下る! 邪悪なる魔法王国に、正義の裁きを!」


帝都ヴァルハラは、熱狂の渦に包まれた。人々は私の新聞を掲げて行進し、酒場では私の社説が朗読された。私は、自らが帝国の世論を完全に掌握したことを実感し、言いようのない高揚感に満たされた。


緒戦における帝国軍の快進撃を、私は最大限に利用した。兵士たちの勇姿を、勝利に沸く占領地の様子を、詩的なまでに美しい言葉で飾り立てて報じた。真実かどうかなど、些細な問題だった。重要なのは、国民の士気を高め、戦争への支持を盤石にすること。それが、報道機関が果たすべき、国家への最大の貢献だと信じていた。


そんな中、私は、最高の「素材」を発見した。東部戦線から届いた一枚の報告書に記されていた、ジークフリート・フォン・リヒトホーフェンという名の、若き近衛兵。その戦果は、にわかには信じがたいほどに、突出していた。


「これだ…」


私は、直感した。国民は、物語を求めている。共感し、熱狂できる、生身の英雄の物語を。私は、この無名の近衛兵を、帝国の象徴へと仕立て上げることを決意した。


私は、社内のエース記者と、最高の画家を、彼のいる部隊へと派遣した。彼らには、厳命した。「ジークフリート卿の全てを、神話として記録しなさい。彼の剣技を、その気高さを、帝国臣民の心に焼き付けるのです。事実が足りなければ、想像力で補いなさい。我々が創るのは、報道ではなく、伝説なのですから」


かくして、「白銀の英雄」の物語は始まった。


『帝国新報』の紙面は、連日、ジークフリート卿の活躍で彩られた。画家が描いた、陽光を浴びて白銀の鎧を輝かせる彼の勇姿は、帝国の全ての少女たちの憧れの的となった。私が紡いだ、彼の言葉とされる「我が剣は、陛下と帝国臣民のためにある」というキャッチフレーズは、流行語のように人々の口にのぼった。


ジークフリート卿は、私のペンによって、一人の騎士から、帝国の守護神へと昇華された。そして、それに伴い、『帝国新報』の発行部数は、帝国史上類を見ないほどの数字を記録した。私の名は、政財界にも轟き、多くの有力者が私のサロンを訪れるようになった。私は、帝都の社交界の女王であり、同時に、帝国の世論を支配する影の権力者となったのだ。


私は、社長室の壁に飾られた、勇ましいジークフリート卿の肖像画を眺めながら、グラスの中の高級葡萄酒を味わった。彼が、実際にどんな人間なのか、私は興味もなかった。彼は、私の創り出した、最も成功した作品。それ以上でも、それ以下でもない。


この戦争は、私に全てを与えてくれた。富、名声、そして、権力。私は、この甘美な勝利の酒に、完全に酔いしれていた。この先に、どれほど深い闇が待ち受けているのかも知らずに。


---


**第二章:インクに滲む血**


帝国暦854年から855年にかけて、戦争は、私の描いたシナリオ通りには進まなくなった。パンドーラの「国家戦略級魔道士」なる存在が、帝国の進撃を阻み、戦線は膠着。さらに、西からは卑劣なリーム王国が、漁夫の利を狙って参戦してきた。帝都ヴァルハラにも、パンドーラの魔法による空襲が始まり、市民の間に、初めて動揺と恐怖が広がった。


だが、私は、この危機を、むしろ好機と捉えた。


「見よ、同胞よ! これが、追い詰められた魔法使いどもの、卑劣極まりなき正体だ! 彼らは、非武装の市民を狙う、ただのテロリストに過ぎない! この暴挙に、我らは怒りの鉄槌で応えなければならない!」


「西の裏切り者、リームに、帝国の恐ろしさを教えよ! ヴァルハラの双璧、リヒトホーフェン卿とヴァイスマン翁が、必ずや彼らに神罰を下されるであろう!」


私のペンは、ますます過激に、そして扇動的になっていった。恐怖は、正しく導けば、憎悪と団結に転化させることができる。私は、空襲の被害を克明に報じる一方で、それを「尊い犠牲」と位置づけ、市民の抵抗を「英雄的行為」として美化した。私の新聞を読んだ人々は、悲しみを怒りに変え、さらなる戦争の継続を支持した。


私は、自分の言葉が持つ力を、改めて確信していた。私が、この国を一つにしている。私が、国民の士気を支えているのだ、と。


しかし、私の築き上げた虚構の世界に、現実の血が、インクのように滲み始める出来事が起きた。


私の部下に、トーマスという若い記者がいた。彼は、地方の貧しい農家の出身だったが、文才に恵まれ、何よりも、私を心から崇拝していた。彼は、私の社説を暗記するほど読み込み、目を輝かせながら「いつか、あなたのような愛国者になりたいです!」と語っていた。私は、そんな彼を、出来の良い弟のように、少しだけ可愛がっていた。


リームとの開戦後、トーマスは、私のところにやってきて、こう言った。

「社長。僕も、ペンだけでなく、剣で帝国に尽くしたいと思います。あなたの記事を読んで、僕もリヒトホーフェン卿のように、この身を帝国に捧げたいと、強く思うようになりました」


私は、彼の純粋な瞳を見て、一瞬、ためらった。だが、すぐにこう答えた。

「そうか。立派な心がけだ、トーマス。君のような若者がいる限り、帝国の未来は安泰だ。武運を祈っている」

彼の背中を押すことが、私の「正義」に合致する行為だと信じていたからだ。


半年後、私の元に、一枚の紙が届いた。トーマスの、戦死公報だった。彼は、西部戦線の激戦地で、命を落としたという。


私は、一人、社長室で、その紙を握りしめていた。胸に、これまで感じたことのない、冷たい何かが突き刺さるような感覚があった。だが、私は、その感傷を振り払った。彼は、帝国のために死んだのだ。それは、名誉なことではないか。


数日後、トーマスの母親が、私の会社を訪ねてきた。痩せこけ、黒い服に身を包んだ老婆だった。彼女は、私の前に崩れ落ち、嗚咽しながら、こう言った。


「あなたが…! あなたが、あの子を殺したんだ…! あの子は、毎日、あなたの新聞を読んでいた…。あなたの言葉を、神様みたいに信じていた…。あなたが、あの子を戦場にやったんだ…! 人殺し!」


受付の者が、彼女を無理やり引きずり出していく。私は、ただ、凍りついたように、その場に立ち尽くしていた。


人殺し。


その言葉が、私の頭の中で、何度も何度も反響した。違う。私は、帝国のために、正義のために、ペンを振るっているだけだ。私は、誰も殺してなどいない。


その夜、私は、トーマスの死を、一面記事で、大々的に報じた。


「悲しみを乗り越えよ! 英雄トーマス君の死を無駄にするな! 彼の愛した帝国のために、我らは勝利の日まで戦い抜くのだ!」


私は、自らの動揺を、内面の亀裂を、さらに過激な言葉で塗り固め、覆い隠そうとした。インクの匂いが、その夜は、なぜか、生臭い血の匂いのように感じられた。


---


**第三章:虚構の城壁**


戦争は、四年、五年と、終わりの見えない泥沼の様相を呈していた。帝都ヴァルハラの街は、度重なる空襲で半ば廃墟と化し、市民の生活は困窮を極めていた。当然、人々の間からは、戦争への不満や、和平を望む声も、聞こえ始めるようになった。


私にとって、それは、断じて許すことのできない「裏切り」だった。


「今、和平を口にする者は、国賊である! 敵のプロパガンダに惑わされ、帝国の団結を乱す、利敵的な敗北主義者だ!」


『帝国新報』は、その矛先を、国内の「非国民」へと向け始めた。私は、紙面に「国賊通報窓口」を設け、国民同士の相互監視と密告を、大々的に奨励した。友人や隣人が、次々と思想警察に連行されていく。街からは自由な会話が消え、人々は互いに疑心暗鬼の目を向けるようになった。私の新聞社は、もはや報道機関ではなく、私の思想を実現するための、私兵と化した思想警察そのものだった。


私は、自らが作り上げた、この息苦しい世界を、正しいものだと信じようと努めた。これは、戦争に勝利するために必要な、「聖なる規律」なのだ、と。


私自身もまた、私が作り上げた虚構の城壁の中に、閉じこもるようになっていった。私は、会社の外に、ほとんど出なくなった。市民の惨状など、見たくもなかったからだ。私の現実は、この豪奢な社長室と、部下たちが取捨選択して持ってくる戦果報告、そして、壁一面に貼られた、帝国軍の進撃路を示す地図だけだった。私は、現実から目を背け、自らが創造した「美しく、力強い帝国の物語」の中に、安住していた。


しかし、どんなに高い城壁を築いても、現実の汚泥は、その隙間から染み出してくるものだ。


ある夜、私は、どうしても必要な書類に署名をもらうため、政府高官が視察に訪れている、市内の臨時施療院へと、お忍びで出向かねばならなくなった。運転手だけを連れ、顔をショールで隠して、私は、初めて、戦争の最前線の「裏側」を目の当たりにした。


そこは、地獄だった。


消毒薬と、血と、死の匂いが、鼻をついた。廊下の両脇には、担架に乗せられた負傷兵たちが、隙間なく並べられている。呻き声、助けを求める叫び声、そして、家族の名を呼びながら絶命していく若い兵士の声。私が、紙面で「帝国の誉れ」と讃えてきた兵士たちの、これが、ありのままの姿だった。


私は、壁際にうずくまり、吐き気をこらえた。その時、近くの負傷兵たちの会話が、耳に入ってきた。


「…また、『帝国新報』に、でかでかと載るんだろうな。『英雄の帰還』だなんてな。笑わせるぜ」

「ああ。『白銀の英雄』様が、また敵を何百人斬ったとか、書いてあったな。俺たちが、泥水すすって、仲間の肉片を拾い集めてる間によ」

「俺の弟も、あの新聞を読んで、志願しちまったんだ。今じゃ、どこで死んでるかも分からねえ。…あの新聞社の女社長、アデルハイトとか言ったか。一度でいいから、会ってみたいもんだ。そして、言ってやるんだ。『あんたが書いた英雄譚のせいで、俺の弟は死んだんだ』ってな…」


私は、その場から、逃げるように走り去った。馬車に乗り込むと、運転手に「早く、会社に戻って!」と、ヒステリックに叫んだ。


会社に戻り、社長室に駆け込むと、私は、壁に貼られたジークフリート卿の肖像画を、睨みつけた。違う。私は、間違っていない。彼らは、何も分かっていないだけだ。国家という、もっと大きな視点から物事を見ていないだけだ。私は、帝国を守るために、これをやっているのだ。


私は、震える手で、ブランデーの瓶を掴み、中身を一気に呷った。だが、アルコールも、私の内側で鳴り響く、彼らの呪いの言葉を、かき消してはくれなかった。私が築き上げた虚構の城壁に、修復不可能な、大きな亀裂が入った瞬間だった。


---


**第四章:勝利の日の敗北感**


帝国暦857年、夏。帝都ヴァルハラは、パンドーラ軍による最後の総攻撃を受けた。そして、帝国は、奇跡的な逆転勝利を収めた。


その報がもたらされた時、私は、最後の力を振り絞って、ペンを執った。これは、私の勝利でもあるのだ。私のペンが、国民を鼓舞し、団結させ、この勝利をもたらしたのだ。そう信じなければ、私は、もう立っていることさえできなかった。


『帝国新報』は、創刊以来、最大級の文字で、見出しを組んだ。


「帝国、勝利! 神は、我らを選びたもうた!」


帝都は、熱狂のるつぼと化した。人々は、廃墟の中で、涙を流して抱き合い、互いの無事を喜び、そして、『帝国新報』を掲げて、私の名を讃えた。

「アデルハイト様、万歳!」

「あなたが、我らを勝利に導いてくださった!」


私は、社長室のバルコニーに立ち、その光景を見下ろしていた。万歳の声援。振られる無数の旗。これこそ、私が望んだ光景のはずだった。なのに、私の心は、奇妙なほどに、冷え切っていた。


数日後、戦勝を記念する、盛大な軍事パレードが催された。私は、来賓として、特別観覧席に招かれた。パレードの主役は、もちろん、「白銀の英雄」ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン卿だった。


彼が、白馬に乗って現れると、群衆の熱狂は、最高潮に達した。私も、周りに合わせて、拍手を送った。そして、彼の顔を見た瞬間、私は、息を呑んだ。


私が、紙面の上で創り上げた、あの勇ましく、自信に満ちた英雄の姿は、そこにはなかった。そこにいたのは、ただ、深い悲しみと、言いようのないほどの疲労を、その瞳に湛えた、一人の苦悩する青年だった。彼は、人々の歓声から逃れるように、わずかに俯き、その唇を、固く引き結んでいた。


その時、私は、全てを悟った。


ああ、私は、何という過ちを犯してしまったのだろう。私は、この青年から、何を奪ってしまったのだろう。私は、彼を、一人の人間としてではなく、私の物語を彩るための、都合のいい「記号」としてしか、見ていなかった。彼の苦悩も、悲しみも、何一つ、考えようともしなかった。


群衆の中に、私は、あの、戦死した記者トーマスの母親の姿を見たような気がした。老婆は、じっと、私を、その虚ろな目で見つめていた。


国民の万歳の声が、私には、地獄の底から響いてくる、断罪の叫びのように聞こえた。それは、トーマスの声であり、施療院で呻いていた兵士たちの声であり、そして、私が、その存在を無視し、踏みにじってきた、名もなき全ての人々の声だった。


私は、帝国の勝利の日に、誰よりも、そして決定的に、敗北したのだ。


めまいがして、私は、その場に崩れ落ちそうになった。側近が、慌てて私を支える。

「社長、どうかなさいましたか! 顔色が、まるで死人のように…」


その言葉は、もう、私の耳には届いていなかった。


---


**後日談:ペン先の贖い**


終戦から、五年が過ぎた。


私は、今も、『帝国新報』の社長の椅子に座っている。多くの者が、戦争責任を問われ、失脚していく中、私は、国民からの絶大な人気を背景に、その地位を保つことができた。人々は、今も私を「勝利の女神」と信じている。


だが、私自身と、そして、『帝国新-報』は、あの日を境に、完全に変わってしまった。


戦後、私が最初に行ったのは、自社の過去の記事を、徹底的に検証し、その欺瞞と扇動を、自らの手で暴き出す特集を組むことだった。


「我々は、国民の目を曇らせ、憎悪を煽り、多くの若者を、無意味な死へと追いやった。その罪は、万死に値する」


私の署名が入ったその記事は、帝国中に、大きな衝撃と混乱をもたらした。私を信じていた人々は、私を「裏切り者」と罵った。社の幹部や多くの記者は、私に反発し、会社を去っていった。発行部数は、見る影もなく落ち込み、経営は、極度に悪化した。


だが、私の心は、不思議なほどに、晴れやかだった。ようやく、私は、真実と向き合う、第一歩を踏み出せたのだ。


それから、私は、アデルハイト・フォン・クラウゼヴィッツという名を、一時的に捨てた。一人の無名の記者として、身分を隠し、大陸中を旅して回った。私が、これまで目を背け続けてきた、「現実」を取材するためだ。


私は、戦争で心に深い傷を負った、帰還兵たちの話を聞いた。戦災孤児たちの、親を求める涙を見た。そして、旧敵国である、パンドーラやリームにも足を運んだ。


パンドーラでは、「復興の聖女」と呼ばれるようになった、エリアーヌ・メイフィールドという女性に出会った。彼女は、かつて私が「邪悪な術」と断じた魔法を使って、汚染された大地を浄化し、人々の病を癒していた。彼女の姿を見て、私は、自分が憎悪してきたものの、ほんの一面しか見ていなかったことを、痛感させられた。


帝都ヴァルハラに戻った私は、街角で、小さなパン屋を営む、一人の老人を見かけた。エーリヒ・シュルツという名のその老人は、戦争中、息子を失いながらも、ただ、黙々と、毎日パンを焼き続けていたという。その、飾り気のない、しかし、何よりも尊い日常の営みの前で、私が振りかざしてきた「国家」や「正義」といった言葉が、いかに空虚で、薄っぺらいものであったかを、思い知らされた。


私は、今、自分のペンを、「贖罪の道具」として使っている。


私の新聞は、もう、華々しい英雄譚や、扇情的な社説を載せることはない。ただ、大陸の片隅で、懸命に生きる、名もなき人々の声を、拾い集めるだけだ。国家間の和解を促し、二度と、あのような悲劇を繰り返さないために、真実を、伝え続けるだけだ。


それは、かつてのような栄光も、富も、権力も、何一つもたらさない。むしろ、多くの人々から忘れ去られ、時には、石を投げられることもある、孤独で、苦しい道だ。だが、これが、私が、自らに課した、唯一の道なのだ。


今、私の机の上には、一枚の白紙の原稿が置かれている。

私は、これから、一人の男の、真実の物語を書こうと思っている。


私が創り上げた「白銀の英雄」という虚像の鎧の下で、彼が、どれほど苦しみ、何を思い、そして、本当に何を守ろうとしたのか。ジークフリート・フォン・リヒトホーフェンという、一人の心優しき青年の、真実の物語を。


それは、決して、多くの読者に読まれることはないかもしれない。

だが、たとえ、たった一人でもいい。私の言葉が、誰かの心に届き、憎しみの連鎖を断ち切る、小さなきっかけになるのなら。


私は、インク壺に、静かにペンを浸した。

帝国の薔薇と呼ばれた女の、これは、生涯をかけた、贖いのための、最初の、そして、最後の一行である。

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