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国盗りのアリア ~或る政治家の見た大戦~

序章:盤上の野望


私の名は、ギデオン・ヴァロワ。中規模国家ながら、大陸の要衝に位置するリーム王国の下院議長を務めている。今年で四十八歳。政界に身を投じて二十余年、私はただ一つの信念に従って行動してきた。それは、「力なき正義は無力であり、国益こそが唯一絶対の正義である」という、冷徹なまでの現実主義だ。


帝国暦853年。大陸の二大巨頭、ヴァルキア神聖帝国とパンドーラ魔法王国が、ついに全面戦争へと突入した。多くの者は、この大国同士の衝突に恐怖し、自国への飛び火を恐れて息を潜めている。だが、私にとって、この戦争は恐怖の対象ではなかった。むしろ、千載一遇の好機――神が、我がリーム王国に与えたもうた、偉大なる飛躍の機会に他ならなかった。


我が執務室の壁には、巨大な大陸地図が掲げられている。私は毎晩、その地図を眺めながら、二つの駒――ヴァルキアの「獅子」とパンドーラの「賢龍」――を動かし、来るべき未来をシミュレートするのが日課だった。


ヴァルキアは、広大な領土と無限とも思える人口を誇る、旧弊な軍事大国。その力は圧倒的だが、その巨体ゆえに動きは鈍重で、思考は硬直している。

一方のパンドーラは、革新的な魔法技術を持つ、鋭敏な国家。その個々の力は凄まじいが、国力という点ではヴァルキアに遠く及ばない。


両者は、何世紀にもわたって互いを睨み合い、大陸の覇権を巡って不毛な対立を続けてきた。その結果、大陸全体の発展は停滞し、我々のような中規模国家は、常に二大国の顔色を窺いながら、細々と生き長らえることを強いられてきたのだ。


「馬鹿げている」


私は、地図上の二つの駒を指で弾きながら、独りごちた。獅子と龍が争う間に、狡兎が漁夫の利を得る。古い寓話だが、これこそが国際政治の真理だ。この戦争で両者が疲弊しきった時こそ、我がリーム王国が「第三の極」として大陸の新たな覇者となる絶好の機会なのだ。


この野望には、私の個人的な情念も深く関わっていた。私の父は、かつて外交官としてヴァルキア帝国に赴任していた。しかし、ある交渉の席で、帝国貴族の傲慢な態度に激高し、国益を損なったとして更迭されたのだ。幼い私の目に焼き付いた、失意に沈む父の背中。あの時から、私は誓ったのだ。いつか必ず、あの傲慢な帝国に、力で物事を推し量ることの愚かさを思い知らせてやると。


私は、水面下で周到に準備を進めていた。議会内の同志を増やし、軍備拡張法案を次々と可決させる。新聞社や有力な商人たちを抱き込み、世論を巧みに誘導する。「帝国の脅威」を煽り、「失われたる古の領土回復」という甘美な言葉で、国民の愛国心を刺激した。


戦争の火の手が上がった時、我が国の議会は「厳正中立」を宣言した。だが、それは表向きの顔に過ぎない。私は、熟した果実が木から落ちるのを待つ狩人のように、ただ静かに、そして冷徹に、その時が来るのを待っていた。大陸の歴史が、私の手によって塗り替えられる、その瞬間を。


第一章:第三の旗


帝国暦855年、春。私の待ち望んだ時は、ついに訪れた。


ヴァルキアとパンドーラの戦争は、二年という歳月を経て、泥沼の消耗戦へと突入していた。両国とも、国境線で一進一退の攻防を続け、その国力は確実に疲弊しつつあった。特にヴァルキアは、パンドーラが誇る「国家戦略級魔道士」の投入により、東部戦線で甚大な被害を受けているという。まさに、我がリーム王国がこの「大陸のゲーム」に参戦する、絶好のタイミングだった。


私は、王宮で緊急の議会を招集するよう国王陛下に進言した。議場は、参戦を主張する主戦派と、中立維持を訴える慎重派とで、激しい議論が交わされた。


「今、帝国に戦いを挑むなど、狂気の沙汰だ!我々まで、この無益な戦争に巻き込まれるおつもりか!」

慎重派の老議員が、顔を真っ赤にして叫ぶ。私は、静かにその言葉を受け止め、ゆっくりと演壇に立った。議場が、水を打ったように静まり返る。


「諸君。私は、今こそ好機だと申し上げる。ヴァルキア帝国は、東のパンドーラとの戦いで、その獅子の牙をすり減らし、疲弊しきっている。彼らに、西を顧みる余力など、もはや残されてはおりますまい」


私は、聴衆の顔を一人一人見渡しながら、言葉を続けた。


「考えてもみたまえ。我々が西から帝国領へ進軍すれば、どうなるか。帝国は、忌まわしき二正面作戦を強いられることになる。そうなれば、彼らの敗北は決定的だ。我々は、最小限の犠牲で、長年の悲願であった旧領土、アルメリア地方を奪還できる。それだけではない。戦勝国として、大陸の新たな秩序を構築する主導権を握ることができるのだ!」


私の声は、熱を帯びていく。


「ヴァルキアの圧政に苦しむアルメリアの同胞を解放し、大陸に真の安定をもたらす。これこそが、神が我々リーム王国に与えたもうた、歴史的使命ではないのか!今、この機を逃せば、我々は永遠に、大国の顔色を窺うだけの三流国家のままだ!それでもよいと、諸君は仰るか!」


最後の言葉は、雷鳴のように議場に響き渡った。私の演説は、議員たちの心を、そして国民の心を、完全に捉えた。愛国心と、領土拡大という欲望に火をつけられた彼らは、もはや慎重論に耳を貸そうとはしなかった。


その日の夕刻、国王陛下は、ヴァルキア神聖帝国に対する宣戦布告の勅令に署名された。


我がリーム王国の三日月をあしらった「第三の旗」が、ついに大陸の戦乱に翻ったのだ。私は、執務室の窓から、出征していく兵士たちの整然とした列を眺めていた。彼らは、私の野望を実現するための、貴重な、そして代替可能な「駒」だ。一人一人の顔など、私にはどうでもよかった。重要なのは、彼らが私の描いた戦略通りに動き、勝利という結果をもたらすことだけだ。


私の頭の中では、すでに戦後の大陸地図が完成していた。弱体化したヴァルキアとパンドーラを両脇に従え、中央に君臨する強大なリーム王国。その玉座に座るのは、国王陛下ではない。この私、ギデオン・ヴァロワなのだ。私は、勝利の美酒に酔いしれながら、ほくそ笑んでいた。


第二章:計算外の駒


開戦後、西部戦線から届く報告は、私の描いた筋書き通りに進んでいた。


我がリーム王国軍は、帝国の国境守備隊をやすやすと突破し、アルメリア地方の主要都市を次々と陥落させていった。ヴァルキア軍の抵抗は散発的で、明らかに東部戦線に主力を割かれ、西側は手薄になっている。全ては、私の計算通りだった。


首都では、連日戦勝祝賀会が開かれ、私は「稀代の戦略家」「救国の英雄」として、国民から熱狂的な賛辞を浴びた。私の政治的地位は、盤石なものとなった。国王陛下でさえ、私の意見なくしては、何一つ決定できないほどだった。私は、権力の頂点に立つことの快感に、酔いしれていた。


「ヴァロワ卿、あなたの慧眼には感服するばかりです。この勢いならば、帝国の首都ヴァルハラ陥落も、時間の問題ですな」

追従者の議員たちが、私に媚びへつらう。私は、余裕の笑みを浮かべて、それに答えた。

「ヴァルハラまで攻め込む必要はない。我々の目的は、あくまでアルメリア地方の奪還と、大陸における発言権の確保だ。深入りは、無用な損害を招くだけだよ」


私は、自らの冷静な判断力に、我ながら惚れ惚れとしていた。感情に流されず、常に国益を計算し、最適な解を導き出す。それこそが、真の政治家の姿だと信じていた。


しかし、その完璧な計算に、僅かな、しかし無視できないノイズが混じり始めたのは、開戦から数ヶ月が過ぎた頃だった。


前線からの報告書に、奇妙な記述が散見されるようになったのだ。それは、「白銀の騎士」に関するものだった。たった一人の騎士が、一個大隊の進軍を食い止めただの、神がかり的な剣技でこちらの指揮官を討ち取っただの、にわかには信じがたい内容ばかりだった。


「馬鹿な。兵士たちの士気を上げるための、帝国のプロパガンダだろう。あるいは、敗北した将軍たちの、見苦しい言い訳に過ぎん」

私は当初、その報告を一笑に付した。個人の武勇など、近代的な集団戦術の前では、何の意味も持たない。それが、私の持論だったからだ。


だが、その「白銀の騎士」――ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン卿に関する報告は、日を追うごとにその信憑性を増していった。我が軍の精鋭部隊が、彼たった一人によって壊滅させられた。彼が現れた戦線は、必ずと言っていいほど、我が軍が敗退を喫している、と。


私は、苛立ちを覚え始めた。私の完璧な戦略の中に、一個人の力という、あまりにも不合理で、計算不可能な要素が紛れ込んできた。それは、美しい数式の中に、一つだけ場違いな記号が混じっているような、不快な感覚だった。


「奴は、何者なのだ…。徹底的に調べろ!」


私は、諜報部に厳命した。やがて、もたらされた報告書を読み、私は絶句した。ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン。皇帝直属の近衛兵であり、帝国最高の剣士。だが、それだけではない。彼の戦い方は、常軌を逸していた。三日三晩、不眠不休で戦い続け、数万の軍勢を相手に一歩も引かなかった、というのだ。


「化け物か…」


私は、思わず呟いていた。それは、戦略や戦術で語れる領域を超えていた。私の理解を超えた、計算外の「駒」。その存在が、私の描いた完璧な盤面を、少しずつ、だが確実に狂わせ始めていた。私の額に、初めて冷たい汗が浮かんだ。


第三章:泥沼の天秤


「白銀の騎士」の出現により、西部戦線は完全に膠着状態に陥った。我が軍は、アルメリア地方の奥深くへと進軍することを阻まれ、一進一退の泥沼の戦いを強いられることになった。


当初、数ヶ月で終わると豪語していた戦争は、一年が過ぎても終わりの兆しが見えない。戦費は、雪だるま式に膨れ上がり、国の財政を圧迫し始めた。戦死者の数も、私の想定をはるかに超えていた。


首都の空気も、一変した。開戦当初の熱狂は消え失せ、人々の間には厭戦気分が蔓延し始めていた。私の「稀代の戦略家」という評判も、地に落ちつつあった。かつて私に媚びへつらっていた議員たちは、今や手のひらを返したように、私を非難し始めた。


「ヴァロワ卿!あなたの見通しは、甘すぎたのではないか!これ以上の戦争継続は、国を滅ぼすだけだ!」

議会で、私は矢面に立たされた。だが、私はここで引き下がるわけにはいかなかった。この戦争は、私の政治生命そのものなのだ。失敗を認めれば、全てを失うことになる。


「諸君、今が正念場なのだ!帝国もまた、限界に近いはずだ。東ではパンドーラが、西では我々が、同時にその喉元に刃を突きつけている。先に音を上げるのは、必ずや帝国の方だ!ここで手を緩めては、これまでの全ての犠牲が無駄になる!」


私は、再び巧みな弁舌で、かろうじて議会を抑え込んだ。そして、さらなる増税と、徴兵対象年齢の引き下げを断行した。国民の生活がどれほど苦しくなろうと、知ったことではなかった。私の頭の中にあるのは、ただ一つ。この「ゲーム」に、いかにして勝利するか、ということだけだった。


私は、執務室に籠もり、西部戦線の地図に何時間も向き合った。憎むべき「白銀の騎士」の動向を示す赤いピンが、私の神経を苛んだ。

「なぜだ…。なぜ、たった一人の人間に、我が大軍はかくも翻弄されるのだ…」

それは、合理主義者である私にとって、最大の謎であり、最大の屈辱だった。私は、ジークフリートという個人への、病的なまでの憎悪を募らせていった。


私は、彼を抹殺するために、ありとあらゆる手を尽くした。暗殺者を送り込み、多額の懸賞金をかけた。だが、その全てが失敗に終わった。彼は、まるで戦場の亡霊のように、こちらの策をことごとくすり抜けていく。


天秤は、どちらに傾くか分からない、きわどい均衡を保っていた。我がリーム王国と、ヴァルキア帝国。どちらが先に、その重みに耐えきれず、崩れ落ちるか。それは、国家の、そして私の未来を賭けた、危険なチキンレースだった。私は、焦燥感に駆られながら、ただ、帝国の崩壊という報せだけを、待ち続けていた。


第四章:盤面の崩壊


帝国暦857年、夏。私が待ち望んでいた報せは、最悪の形で届けられた。


それは、帝国の崩壊を告げるものではなかった。逆に、パンドーラ魔法王国が、首都ヴァルハラへの総攻撃に失敗。時を同じくして、帝国の奇襲部隊がパンドーラの首都アヴァロンを陥落させた、というのだ。


「馬鹿な…!ありえん!」


私は、報告書を握りつぶし、絶叫した。東部戦線が、終わった。それも、帝国の完全勝利という、私にとって最悪のシナリオで。


これは、何を意味するのか。ヴァルキア帝国は、もはや東を顧みる必要がなくなった。彼らは、その強大な軍事力の全てを、西、すなわち我がリーム王国へと、差し向けることができるのだ。


私の頭の中で、完璧に構築されていたはずの盤面が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。天秤は、一気に傾いた。我々は、もはや健康で力に満ち溢れた獅子と、単独で対峙しなければならなくなったのだ。勝てるはずがなかった。


王宮は、パニックに陥った。昨日まで私を非難していた議員たちが、今度は泣きそうな顔で私の執務室に殺到した。

「ヴァロワ卿!ど、どうすればいいのだ!このままでは、我々は帝国に滅ぼされてしまう!」

「助けてくれ!ヴァロワ卿!」


私は、血の気が引いていくのを感じながら、彼らを怒鳴りつけた。

「今さら私に泣きつくな!貴様らが、もっと早く私の進言通りに動いていれば、こうはならなかったのだ!」

それは、完全な責任転嫁だった。だが、そうでもしなければ、私は正気を保てなかった。


数日後、帝国の全権大使が、我が国の首都にやってきた。彼は、国王陛下の前で、一枚の紙を読み上げた。それは、事実上の降伏勧告だった。即時停戦、全軍の撤退、そして、戦争責任の追及と、莫大な賠償金の支払い。


私は、その場で、帝国への徹底抗戦を叫んだ。

「陛下!このような屈辱的な要求、断じて受け入れてはなりませぬ!国民の誇りを守るため、最後まで戦うべきです!」

だが、もはや誰も、私の言葉に耳を貸す者はいなかった。国王陛下は、力なく首を振り、帝国の要求を受け入れることを決断された。


私の戦争は、終わった。それも、完全な、そして惨めな敗北という形で。


私は、執務室の椅子に、崩れるように座り込んだ。壁に貼られた大陸地図が、嘲笑うかのように私を見下ろしている。私の野望、私のプライド、私の人生そのものが、この瞬間、音を立てて砕け散った。盤上の王を気取っていた私は、結局のところ、歴史という大きな流れの前では、無力な道化師に過ぎなかったのだ。


第五章:敗者の代償


敗戦国となったリーム王国に待ち受けていたのは、過酷な現実だった。


帝国との間に結ばれた講和条約は、我々にとって屈辱以外の何物でもなかった。莫大な賠償金は、国家財政を破綻寸前にまで追い込み、占領したアルメリア地方は、もちろんのこと、国境地帯の領土まで割譲させられた。国民の生活は、塗炭の苦しみを極めた。


そして、戦争を引き起こした責任者として、全ての非難の矛先は、私、ギデオン・ヴァロワに向けられた。


私は、議会で弾劾され、全ての公職を剥奪された。国王陛下からは、永久追放の処分を受けた。「稀代の戦略家」は、今や「国を滅ぼした国賊」として、国民中の憎悪の的となっていた。


私の広大な屋敷は、没収され、財産も全て差し押さえられた。私に媚びへつらっていた者たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていき、残ったのは、私への軽蔑と憎悪の視線だけだった。


私は、たった一人、薄汚れた安宿の一室で、自らの敗北を噛みしめていた。なぜ、こうなったのか。私の計算は、完璧だったはずだ。どこで、何を間違えたのか。


答えは、分かっていた。あの男だ。ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン。あの「計算外の駒」が、私の全てを狂わせたのだ。私は、壁に向かって、何度も彼の名を叫び、呪った。個人の英雄主義などという、非合理的で、時代遅れの幻想が、私の築き上げた緻密な戦略を破壊した。それが、許せなかった。


私は、自らの過ちを認めることができなかった。悪いのは、私ではない。私を理解できなかった愚かな国民と、そして、あの忌まわしき「白銀の騎士」なのだ。そう思い込むことでしか、私は、壊れそうな自尊心を保つことができなかった。


ある日、私は、街で偶然、西部戦線から帰還した傷痍軍人たちの姿を見かけた。腕を失った者、足を失った者、そして、心の光を失ってしまった者。彼らは、私が「駒」として戦場に送り出した若者たちの、成れの果ての姿だった。


一人の若い兵士が、私に気づき、憎悪に満ちた目で、足元に唾を吐きかけた。

「国賊め…。お前のせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ…」


私は、何も言い返すことができなかった。初めて、私の胸に、鋭い痛みが走った。それは、私の戦略が生み出した、生身の人間の苦しみだった。私が、地図の上で動かしていた駒には、一人一人に、人生があり、家族があり、未来があったのだ。その当たり前の事実が、敗北の淵に立たされた今、重い現実となって、私にのしかかってきた。


だが、私は、その痛みから目を背けた。感傷に浸っている場合ではない。私は、まだ終わっていない。いつか必ず、再起し、私を貶めた者たち全てに、復讐してみせる。そう、心に誓うことで、私はかろうじて立っていた。敗者の代償は、私の想像を、はるかに超えて重かった。


後日談:空っぽの玉座


あれから、十年以上の歳月が流れた。


私は、ギデオン・ヴァロワという名を捨て、辺境の小さな村で、一人の老人として、ひっそりと暮らしている。かつての権勢も、富も、野望も、全ては遠い過去の夢物語だ。私を知る者は、もうこの国にはほとんどいないだろう。


リーム王国は、あの敗戦の後、長い停滞の時代を迎えた。賠償金の支払いに追われ、国民は貧困にあえぎ、かつての活気は失われた。私が夢見た「第三の極」としての栄光は、まさに砂上の楼閣だった。


私は、日課として、村の広場にあるベンチに座り、行き交う人々を眺めるのが常だった。人々は、貧しいながらも、懸命に生きている。子供たちの笑い声が響き、若い恋人たちが、未来を語り合っている。パン屋の店主が、客と世間話に興じている。


かつての私ならば、そんな光景を、取るに足らない「凡俗の営み」として、軽蔑していたことだろう。私の頭の中にあったのは、国家や、歴史や、権力といった、大きな物語だけだった。


だが、全てを失った今、私には、その何気ない日常の風景が、不思議なほどに輝いて見えた。


ある晴れた日の午後。私は、広場で、一人の旅人を見かけた。その男は、質素な服を身にまとっていたが、その立ち姿には、隠しようのない気品と、尋常ならざる覇気があった。私は、一目で彼が何者であるかを悟った。


ヴァルキアの「白銀の英雄」、ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン。


彼は、私の人生を破壊した、宿敵だった。憎悪が、胸の奥で蘇るかと思った。だが、不思議と、私の心は穏やかだった。


彼は、広場の隅で、一人の迷子の子供に、優しく話しかけていた。そして、その子の手を引き、母親を探して歩き始めた。その姿は、私が噂で聞いていた「戦場の悪魔」の姿とは、あまりにもかけ離れていた。彼は、ただの、心優しい一人の青年にしか見えなかった。


その時、私は、ようやく理解したのだ。


私が敗れたのは、彼の剣技や、帝国の軍事力ではなかった。私が敗れたのは、彼が守ろうとしたもの――そして、私が、その価値を全く理解しようとしなかったもの――にだったのだ。それは、国家の威信でも、領土でもない。あの子供の笑顔のような、ささやかで、しかし何よりも尊い、人間の営みそのものだったのだ。


私は、ただの駒としてしか見ていなかった兵士たちの顔を、一人一人思い出そうとした。だが、もう、誰の顔も思い出せなかった。


私は、空っぽの玉座に座る王を夢見て、国を動かし、多くの人間を死に追いやった。しかし、結局のところ、私自身が、誰よりも空っぽな人間だったのだ。


ジークフリートは、やがて子供の母親を見つけ、人々の感謝の言葉に少し照れたように笑うと、静かに村を去っていった。


私は、彼の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっとそれを見送っていた。涙が、乾ききった私の頬を、久しぶりに濡らした。それは、後悔の涙か、それとも、長すぎた呪縛から、ようやく解放された安堵の涙だったのか。


私には、もう分からなかった。ただ、西の空が、燃えるような茜色に染まっていた。それは、私の野望が沈んでいく、最後の光のように見えた。

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